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優秀な人材が飛躍するために必要となるもの

4月19日に奏楽堂で開催された東京藝術大学新卒業生紹介演奏会を聴いてきた。
毎年、非常にたのしみにしている演奏会なのだが、今年は総じて低調な印象を受けた。
もちろん、ソリストの演奏は惚れ惚れとする美音に彩られた見事なものなのだが、普段、国内のコンクールの本選等で同世代の優秀な演奏者の壮絶な演奏に触れていると、「美しい」だけに留まらないものを求めたくなる(あるいは、少なくともそうしたものを志向する気迫を求めたくなる)。
そうした意味では、今年の演奏会は残念ながら優等生的な演奏で占めていたように思う。
もちろん、そうはいっても、聴くべきものがあったのも間違いないところで、たとえば、マルティヌーのオーボエ協奏曲を吹いた山田 涼子さんの演奏には、深く熱い追及があり、大きな感動をあたえられた。
また、プロコフィエフのピアノ協奏曲を弾いた京増 修史さんの美音にも非常に耳を奪われた。ただし、この作品の場合には、どれほどの美音を奏でたとしても、それだけでは御しきれない奇怪性(グロテスクさ)があり、演奏が作品のそうした側面に光をあてようとしないために、徐々に飽きを生じさせてしまう。
チャイコフスキーの協奏曲を演奏した栗原 壱成さんは、積極的に個性的な表現を希求していたようにみえたが、どういうわけか心(存在)の深いところで制限を掛かっているように感じられ、それがそうした意図を阻害しているように思われた。
そのために、たとえば、本来であれは居ても立ってもいられないほどの興奮をもたらすはずの第3楽章が、全くのりきれないものに終わってしまう。
端的に言えば、自己の中の根源的(それは「動物的」と言ってもいいと思う)なものにつながり、それを素直に表現してもいいのではないかと思うのだ。
指揮者として登場した神成 大輝さんは、シベリウスの交響曲第7番という難曲をとりあげたが、正直、この選曲には無理があったように思う。
しばらくまえにハンヌ・リントゥ & 新日本フィルハーモニーの超絶的な名演奏を聴いており、そのときの記憶が生々しく残っているので、酷なのではあるが、藝大フィルハーモニアの非常に献身的な演奏を得ても、この作品に籠められた深い叡智や洞察は全く届いてこなかった。
自作を発表した小野田 健太さんの作品に関しては、美しい旋律を奏でるピアノとそれと対比するように実験的な響きを生み出す管弦楽の対話が興味深く、比較的に好感を抱いたが、それよりも、この作品をとおしていわゆる「現代音楽」の混迷ぶりが透けて観えてしまい、こういう作品を優秀な若者に創るように指導をする今日の作曲科の価値観・世界観そのものに白けてしまった。
そもそもどういう人達を聴衆として設定して創作活動にとりくんでいるのだろう……?

というわけで、この日は、苦労して日程調整をしてまでして聴きに来たのだが、少々期待外れに終わった。
ここで云わんとしているのは、出演者の個性が乏しいということではない。
そもそも個人的には「個性」という概念を信じていないし、もしそういうものがあるとしても、それは意図的に発揮しようとして発揮されるものではなく、その演奏者の自然な演奏姿の中に他者が見出すものに過ぎない。
むしろ、ここで云わんとしているのは、本質的に自己の存在に付与されている「資産」に繋がれていないがゆえに、どれほど強靭な意志と優秀な能力を発揮して自己陶冶しても、表現が十全なものになりきれないのではないかということだ。
とりわけ、理知の対極にあるもの――それは「根源的」・「動物的」・「感覚的」等の言葉で示されるが、決して浅薄なものではなく、深い叡智を息づかせているものである――に繋がれることは、とりわけ重要になるはずなのだが、果たしてそうした観点での教育が行われているのだろうか……? という疑念が沸いてくるのだ。
思想家ケン・ウィルバー(Ken Wilber)の言葉を借りれば、それは「心と身を統合する」(body-mind integration)を実現するということになるのだろうが、そうしたプロセスを進めることができれば、これまでに蓄積してきたものが豊饒であるがゆえに、類稀な成果をもたらすはずである。
しかし、そのためには、これまでに追求してきた探求の方向性の中には――換言すれば、これまでの探求を規定した枠組の中には――真に求める「解」が無いことを認識する必要がある。
優秀な人材と出逢うときにしばしば思うのは、それまでにとりくんできた精進が正しいものであるがゆえに――今、享受している優秀さはそのことを証明している――次の次元に飛躍するために必要となる「幻滅」を経験するための「機会」と「能力」が非常に重要となるということである。
外野からの勝手な意見に過ぎないが、彼等の輝くような才能をみると、そうした幸運にひとりでも多くが見舞われることを願ってやまない。

組織開発と倫理

先日、組織開発を専門として大学機関で研究活動に従事されているある研究者の方を勉強会に御招きして、話しを窺った。
現在、巷でも「組織開発」という言葉に関する認知が高まり、また、数多くの組織で実践が為されるようになる中、この研究者の方も多忙な活動を展開されているという。
講義と質疑を合わせて2時間程の短いやりとりではあったが、いくつかの興味深い示唆をもらうことができた。
 
個人的に特に共感を覚えたのは、先ずは「組織開発を実践するときには何よりも倫理性が重要となる」という指摘である。
即ち、「自己啓発」と同じように、組織開発も企業組織の従業員を搾取するための方法として悪用される可能性を秘めていることを認識しする必要があるということである。
組織開発の活動の中で個人と個人の間の関係性の密度を高めることは、組織の凝集性を高め、同調圧力を強めてしまうことになる可能性がある。
たとえば、「これだけ皆が意欲に燃えて頑張って働いているのに君はもう帰宅するのか!!」というような発言が何の疑問もなく発せられてしまう状況を想像してもらえば、云わんとすることを理解していただけるだろう。
特に日本の場合には、文化的にそうした同調圧力が個人を呪縛する土壌が根深くあるので、こうした問題にたいしてわれわれは特に注意すべきであろう。
しばらくまえに「やりがい搾取」という言葉が言われたが、正に同じような搾取が「組織開発」の名のもとに行われないように警戒をする必要があるのである。
また、これに付随して指摘されていたのは、組織の全員を組織開発に巻き込むことの不可能性である。
結局のところ、企業組織の従業員は、多種多様な価値観や人生観にもとづいてその組織に所属して業務に従事しているのであり、その全てが組織開発という概念(及び、そこに息づく価値観)に共感するというわけにはいかないということだ。
むしろ、真に多様性を尊重するとは、そうしたことにいっさい関心を寄せない感性や態度も許容するということでもある。
組織活動に興味を持ち、その関連活動に積極的に参加しようとする態度を奨励して、そうしたものにたいして醒めた態度を示す関係者を冷遇したり、批判したりするのは本末転倒なのである。
ある意味では、組織開発とは、そうしたことに興味を持つ者達が同様の感性や発想を持つ同志を集めて――いい意味で――「勝手」にすればいいことなのである。
 
もうひとつ共感したのは、組織開発を組織の生産性向上のための万能薬と錯覚することは危険である」という指摘である。
たとえば、「組織開発を実施すれば、会社の業績が上がります」「組織開発をすれば、会社の創造性が高まります」……等の宣伝や主張を耳にすることがある、「それは本当にそうなのか?」と問う必要があるのである。
その研究者の方は「たとえば、会社のビジネス・モデルそのものを変える必要がある状況においては、組織開発はあまり意味を持ち得ない」と述べていたが、全くその通りであろう。
沈みゆく船の中でどれほど乗客が相互の関係性を高めても意味はないのである(もちろん、関係性を高めることで、「今この船は沈もうとしている」という事実を認識することができ、それにたいする対処法を知恵を集めて検討することができるようになるということはありえるが……)。
むしろ、その場合には、有限の資源を組織開発に投じるよりは、ビジネス・モデルの再設計をするための活動に振り向けるべきであろう。
少なくとも、その研究者の方が言われていたように、「組織開発を半ば万能の方法として主張する者には注意をしたほうがいい」ということだ。
 
また、もうひとつ記しておきたいのは、組織開発とは、何もいわゆる「組織開発」という言葉を聞いて想起される活動を展開することを指すのではないということである。
端的に言えば、その意図次第では、どのような活動でも組織開発としての意味を持ちえるということだ。
その意味では、「実践者」や「企画者」は特定の方法に拘泥することなく、あらゆる機会をみつけてとりくめるのである。
 
いずれにしても、組織開発に関する関心というのは、本質的には、自己の所属する共同体にたいする関心を抱き、問題意識を共にする同士と共に何等かの積極的な活動を展開していこうとする自然な意志の中にその基盤を持つものだと思う。
そうした関心は必ずしも自己の所属組織の文脈の中で発揮されるものであるとは限らず、たとえば地域共同体・国家共同体の政治にたいする関心として発露するということもあるだろう。
重要なのは、自らが生きる共同体に関心を持ち、それに倫理的な観点から主体的に関わろうとする意志を育み、具体的な行動として発揮するということなのである。
但し、個人的には、組織開発に非常に関心があるにもかかわらず、共同体の政治に関心が向かないというのはどこか矛盾を来しているように思わなくもない。
即ち、自らが生きる共同体にたいして関心を抱くという普遍的な能力――そして、それは義務であるともいえる――が、組織という文脈の中に押し籠められてしまい、よりひろく、そして、よりたいせつな文脈の中で表現されていないのである。
端的に言えば、経済的利益という実利に直結する文脈の中でしか表現されず、それを超えたところにある価値にたいしては、ほとんど場合、無感覚であり無関心であるのだ。
経済的な尺度で測定できるものにしか関心を払えないというのは、正に思想家のケン・ウィルバー(Ken Wilber)が「フラットランド」(flatland)という概念で痛烈に批判をした病理であるが、こんなところにもそれが確実に露呈しているのである。

 

稀有の『復活』


#602 ジェイド<サントリーホール・シリーズ>
https://www.njp.or.jp/concerts/4064

 

 

上岡 敏之 & NJPによるマーラーの『復活』を先ほどサントリー・ホールで聴いてきたが、驚異の銘演だった。もう第1楽章から驚きと感動の連続で、音楽を聴ききながらこれほどワクワクさせられることはあまりない。全ての音符が指揮者の目で再検証されて音化されるので、髄所でハッとさせられるのだが、それが新奇さを追い求めるものではなく、作曲者の心に近づくためのものとして届けられてくる。上岡 敏之という芸術家の驚くべき洞察の結晶が続々と美音として聴衆に届けられてくる。こういう体験はそうそうあるものではない。
また、上岡氏の音楽には、知的な愉しみだけでなく、深い感動がある。たとえどれほどの轟音が鳴り響いていても、そこには常にマーラーの繊細な心に寄り添う眼差しがあるので、作曲者の内面に息づく感情に触れることができているという実感が維持される。
そして、また、上岡氏の指揮が素晴らしい。動作そのものが芸術的なもので、そのひとつひとつのジェスチャーに深い意味が感じとれるし、また、それが聴衆の曲にたいする理解を深めてくれる。各奏者にたいする指示は明確だが、同時に、それぞれの指示がその奏者にたいするものに終わらず、それを見ることで、その他の奏者もその奏者を活かすためにどのように音楽を奏でればいいのかが瞬時に理解できるようになっている。あれほどに自由自在な指揮振りの中に常に全体性にたいする感覚が息づいているというのは驚異的である。
今日は、80分にわたる演奏中、もう冒頭から圧倒されて、自然と涙が流れてきて止まらなかった。
それにしても、今日、何よりも驚かされたのは、弱音である。それが絶品で、耳を澄ますと、それが単に弱いだけでなく、意味が詰まっていることが判るのだ。
特にコントラバスは、普通であればある程度の音量を確保して、それのものとして自己主張するものだが、上岡氏の『復活』においては、全体の中に溶けてしまい、演奏に繊細なコクをもたらす隠し味と化してしまう。こういうのは、初めて聴くので、はじめは少し戸惑いを覚えたが、耳が慣れてくると、その意味が感得されてくる。これは録音では到底とらえきれないだろう。
弱音にたいするこだわりは、随所に活きていて、とりわけ印象的だったのは、第5楽章の合唱の扱いで、これほどまでに絶叫せずに、ひたすらに深く静かに荘厳に歌う『復活』の合唱を聴くのは生まれてはじめてのことだ。もう聴いていて、胸が一杯になってしまい、体が爆発するかと思った……。
もうひとつ斬新だったのは、ブルックナーの交響曲を想起させるような全休止が随所で挿入されていたことで、これが見事に決まっていた。こんな解釈は聴いたことがないが、上岡氏のそれは、曲の本質を明らかにするための強力な武器になっている。
たとえば、第5楽章の最後の圧倒的な轟音が鳴る前の瞬間、ほんの一瞬のあいだ管弦楽の間隙の中にオルガンの法悦とした音だけが鳴り響いたが、そこに楽園が現出したような錯覚に襲われた。
ただ、これだけテンポが自在に伸縮し、また、これだけ弱音に重要な役割があたえられると、演奏者も互いに呼吸を合わせるために細心の注意を払う必要があるので、たいへんなのではないだろうか……。そこで求められるのは、単に互いの音を聴き合うだけでなく、互いの存在そのものを聴き合うということなのではないかと思う。
もしかしたら、NJPが上岡氏の指揮で『復活』を演奏するのは初めてのことかもしれないが、これから回数を重ねていくと、今日の演奏をさらに凌駕する円熟した演奏に昇華されていくことになるだろうが、それが達成された暁には、世界的にも類例のない唯一無二のマーラーが実現されることになるのではないかと思う。今日の段階では、上岡氏の要求にNJP側がいまひとつ追いつけていない感覚を覚えたので(また、重要な聴かせどころで小さな事故が起きていた)、このあたりのギャップが埋まってくると、凄い芸術表現が実現されることになるだろう。期待に胸が弾む。

ただひとつ願うのは、NJPの演奏会を支える聴衆の質がもう少し上がることだ。今日は、これだけ弱音を重視する演奏を目の前にしているにもかかわらず、観客席の雑音が頻出していたし、また、最終楽章が終結した途端、まだ余韻が濃厚に漂っているにもかかわらず、1階席の中央あたりから傍若無人な拍手が起こってしまった。演奏会に来る資格の無い客としか言いようがないが、こういう類いの人間が混じっていることは残念である。

不思議な演奏会

新日本フィルハーモニー 第601回 定期演奏会(3月22日)
指揮:上岡 敏之
ピアノ:Claire Marie Le Guay

 

不思議な感動と発見をもたらしてくれた演奏会だった。
演奏会を聴き終えて会場の墨田トリフォニーを後にしながら、全身に感じたのは、NJPの音楽監督の上岡 敏之という指揮者がヨーロッパの精神と実に深いところで繋がっていることにたいする驚愕に近い感覚であった。
今日 世界的に活躍する日本出身の指揮者は数多くいるが、果たして上岡氏ほどにヨーロッパの精神の神髄をその存在そのものに宿している指揮者がいるかというと、それは「否」といわざるをえない。
もちろん、他にも非常に優れた日本人指揮者はいるが、上岡氏に関しては、比較を絶したものを感じるのだ。
正にヨーロッパの集合的な精神がモーツァルトを生んだように、そうした集合的・文化的なものに貫かれた芸術家の匂いがするのである。
そして、個人的に畏敬の念を抱くのは、上岡氏が自己の感性がとらえたものをこの極東の地で妥協なく表現しようとしていることである。
その成果は会場に響いた瞬間に消えてしまうものであるが、そのあまりにも儚く消えてしまう響きを耳にしていると、そこに革命が企図されていることが実感されるのである。
個人的には、その志の偉大さに胸が突かれる想いに襲われる。

この日の演奏会では、モーツァルト・ラヴェル・マニャールの作品がとりあげられたが(そして、アンコールとしてフランソワ=アドリアン・ボイエルデュー(François-Adrien Boieldieu)という作曲家の歌劇「白衣の婦人」序曲が演奏された)、真に傑作と呼べるのはラヴェルの作品だけで(ピアノ協奏曲)、他の作品は実はそれほどの内容のある作品ではない。
それらの作品は、それぞれの作曲家の個性が強烈に刻印されたものであるというよりも、むしろ、彼等が生きた時代や社会の文化的な遺産に大きく依拠してまとめあげられたものであるといえる(こうした感覚は特にマニャールとボイエルデューの作品を聴いているときにとりわけ強く感じられた)。
ただ、上岡氏の演奏の非常に面白いところは、正にそうした作品の演奏をとおして、それらの作曲が依拠したヨーロッパの精神そのものが聴衆に届いてくるということである。
その意味では、この日の演奏会の面白さというのは、とりあげられたそれぞれの作品の内容にあるのではなく、むしろ、それらの作品の背後に横たわる集合的な精神の息づきに触れることができたところにあるといえる。
逆にこうした経験は作曲者の個性があまりに強烈でありすぎると得られないものなので、その意味では、こうした作品をとりあげることの意味は確実にあるといえるだろう。

いっぽう、モーツァルトの場合には、交響曲第31番という作品そのものには全く魅力を覚えないのだが、その作品の空虚さの中にモーツァルトの精神の脈動が実に活き活きと感じられる。
また、上岡氏の場合、とりわけモーツァルトとの相性がいいのか、少しでも乱暴に触ると毀れてしまいそうな繊細な響きの中に作曲家の精神が自由自在に飛翔する。
常に音量を六割ほどに抑えて、その中に豊かなニュアンスを封じ込めるその表現は正に大人の芸術表現であり、そして、ある意味では西洋の古典音楽のひとつの極致があるように思う。
上岡氏のモーツァルトに触れるとき、耳の肥えた聴衆の方々は今目の前で至高のモーツァルトが鳴り響いていることを確信するだろう。

ところで、この日の注目の的はマニャールの交響曲だが、聴いていて、随分と朴訥な作曲家だと思った。
また、朴訥であるにもかかわらず、「工夫」をこらして訴求力のある音楽を奏でようとするのだが、作曲者が自己の深いところにあるものを汲み上げることができていないために、そこには空虚さがつきまとい、作品の魅力に繋がらない。
結局、「借り物」の言葉でまとめられた作品を聴かされている感覚を覚えるのである。
随分前にアーノルド・バックスの交響曲の録音が続々と売り出さたときにGramophone誌等で随分と褒めあげられたが、そのときにCDを聴いた折に受けた印象と似たものを感じた。
端的に言えば「とりとめのない」作品という印象である。
正直なところを言わせてもらえば、忘れられるべくして忘れられた作品なのだと思う。

この日のハイライトは間違いなくラヴェルのピアノ協奏曲である。
何よりもNJPの伴奏が絶品である。
われわれの世代はシャルル・デュトワの録音でラヴェルの作品に馴染んできたのだが、このコンビの演奏には、それとは異なる魅力が横溢している。
それはまるで魔法が生まれる瞬間に居合わせているような感覚をあたえられる響きといえるだろうか。
特に第2楽章は絶品で、それはまるで静かな愛の告白そのものであるかのような気がした。
このコンビでラヴェルの管弦楽集が録音されることになれば、最高に素晴らしいものになるであろうことは間違いない。

 

グロテスクであるからこそ……

図書館で蓮實 重彦の『映画はいかにして死ぬか』という本を借りてパラパラと眺めているのだが、その独善振りが何とも刺激的だ。
「評論家とは結局のところ作品を語りながら自己そのものを語っているのだ」とはしばしば言われるところであるが、正にそのとおりで、評論家の価値とは、作品を語ることの中に浮かび上がるその人そのものが興味を掻き立てるか否かに依存しているのである。
特に蓮實 重彦の場合、途轍もなく自我肥大していて、その様は正に「化け物」と形容できるほどのものであるが、そのグロテスクさが商品価値になっているように思う。
こういう批評家の文章は酷い腐臭が漂うので読むのに苦労をするし、また、全く参考にならないことも多いのだが、時として、そのあまりの独善的な眼差しをとおして対象の真実が浮き彫りにされることがあるのも事実である。
巷には多数の「批評家」が存在するが、実際には解説者に成り果てていることが多い。
また、批評家の衣装を纏いながら、実のところ、商品の宣伝をすることをその主たる役割とした宣伝者になっていることも多い。
個人的には、こうしたグロテスクな批評家がもっともっと存在していてほしいと思う。
そうであるからこそすくいあげることのできる真実というものがあるのである。

新日本フィルハーモニー:第600回定期演奏会@サントリー・ホール

 

新日本フィルハーモニーのオール・コープランド・プログラム@サントリー・ホール。
素晴らしい演奏会だった。
客の入りは50%程度だが、たぶんこれらの曲を聴きたくて来ているのだろう、演奏中の集中力も高く、演奏後には熱烈な拍手を送っていた。
斯く言う自分もそうで、今期の定期会員権を買おうかどうか逡巡したときに、このオール・コープランド・プログラムが含まれているのは大きな要素だった。
舞台近くで聴いたのだが、それにしても、凄い音量だ。
そして、それが少しも粗くならずに、常に気品を湛えているのは新日本フィルならではである。「市民のためのファンファーレ」(Fanfare for the Common Man)の冒頭の打楽器の一撃に目の覚めるような衝撃を受けたが、それに続く金管の合奏にも――確かに、所々に小さな綻びがあり、それが勿体無かったとはいえ――この作品に息づく純朴に高貴な精神を力靭く表現しており、素直に感動した。
このあとに演奏されたクラリネット協奏曲(Clarinet Concerto)も素敵な作品で、重松 希巳江氏のソロも絶品だった。
この作品は、コンクールの木管部門の本選では定番の作品で、これまでに何度も耳にしているが、流石にこの日の演奏は芸術表現としてそれらの演奏を完全に凌駕していた。
特に第1楽章は、あのモーツァルトの傑作を少し想起させるほどに美しい音楽で、聴きながら、何気ない日常の中にある静かな至福感に包まれる思いがする。
また、そこには、われわれが想起するところの「古き善きアメリカ」にある、あの豊かな自然を背景にして営まれる人々の暮らしが感得され、そして、そこに息づく長閑な幸福感が迫ってくる。
指揮のヒュー・ウルフは(Hugh Wolff)、日本では主にCDで知られているが、強い個性は感じさせないものの、少なくとも今日とりあげられた作品に関しては、十二分の仕事をしていたと思う。
それは、決して陰鬱に内向することのないコープランドの音楽の「楽天性」をありのままに聴き手に届けてくれるものだった。
たとえば、後半の交響曲第3番の中間楽章では、作曲家はときに深く内省をしようとするのだが、しばしばらくすると、それに耐えきれず、微笑を浮かべて踊りだしてしまう。
自分とは全く異質の感性ではあるが、その異質性が何とも面白く、また、ウルフの演出はそんな音楽の特性を、捻くれた聴衆にたいしても、不思議な説得力をもって届けてくれた。
オーケストラも徐々に調子を上げてきて、交響曲の終結部では巨大な音響を生み出し贅沢な耳の御馳走を提供してくれた。
先日のマルク・アルブレヒトの小粒なブルックナーを聴いたときには、あまりにも音量が小さいので愕然としたのだが――小型の家庭用機器程の音量も出ていないとさえ思われた――そのときの不満を一気に吹き飛ばしてくれた。

 

「希望的観測という害毒に抗うために……」

希望的観測という害毒に抗うために……
鈴木 規夫
Integral Japan代表

 

過去15年程のあいだ、ケン・ウィルバーの思想を紹介する傍ら、企業組織のリーダーを支援する仕事に携わっている。
その間、様々なプロフェッショナルと仕事をする機会に恵まれたが、この数年懇意にしているコンサルタントが、ある中堅リーダー向けのトレイニング・プログラムの中でこんな内容の講義をしてくれる。

“リーダーは、「常にいそがしく仕事をしていないと仕事をしていないと思われるのではないか?」と心配して、しばしば確かな計画無しに組織の資源を動かしてしまうことがありますが、それはときとして大きな失敗につながり、結果として、組織に悪影響をあたえることになります。たとえば、戦場では、まともな戦略なしに兵士を動かせば、彼等を死なせてしまうことになります。何の確証もなく、「とりあえず兵隊を投入してみよう」というような発想は許されないのです。しかし、企業組織では、人が死ぬことがないためか、こうした無計画の行動がしばしば行われてしまい、また、それにたいして厳しい批判がくわえられることもありません。”

端的に言えば、自身の着想したアイデア(企画・計画)が果たして真に期待する効果を生みだすのか? ということを厳密に検討するスキルを習得することがいかに重要であるのかを訴えているのである。
実際、今日の社会を見渡してみれば、こうした能力が集合規模で脆弱化していることは明らかで、たとえば政治の領域においては、耳触りのいい「標語」や「構想」や「大義」のもとに為政者により呈示される施策が悉く失敗に終わっていることに示されている。
また、一般大衆も、そうしたものが果たして真に価値や効果をもたらすのかということについて批判的に検討することができないまま、社会に醸成される雰囲気に流され、結果としてそれらを消極的に承認してしまっている。
そうした検討をするために必要とされるスキルを習得していないために、「空気」に呑み込まれているのである。
人々は、希望的観測を真実や事実として信じ込まされて、誘導されているのである。

しかし、真に批判能力を発揮することは必ずしも容易なことではない。
実際、企業組織の優秀なリーダーでさえ、自身がとりまとめた企画や計画が確実に価値や効果をもたらすものとなりえているのかということに確信を持てることは稀である。
ほとんどの場合には、自身の主張を裏付ける根拠が弱いことを認識しながら、地道に仮設の検証作業にとりくむことになるのである。
いうまでもなく、これは精神的に非常に辛いとりくみである。
しかし、また、こうした活動に長期間にわたりとりくんだリーダーだけが習得できる貴重な能力が存在するのも紛れもない事実である。
即ち、そこでは価値を創造するための型が習得されると共にそれがいかに難しいことであるかということにたいする認識に支えられた健全な懐疑心が涵養されるのである。

トランスパーソナル運動は、その発足当初より、「内面世界」と「外面世界」の探求の両方に関わることの重要性を訴えてきた。
しかし、後者に関しては、その洞察力に関しても変革力に関しても、真に社会的規模のインパクトを為し得ないままに今日に至っているように思う(たとえば、「インテグラル(統合的)であるとは政治的であること」と宣言して過去20年ほどにわたり活動を展開してきたケン・ウィルバーを中心とするインテグラル・コミュニティの関係者も、こと政治の領域に関しては、こちらが赤面するほどに無防備な言論を発信することに終始している)。
内面探求がそのための過酷な訓練を必要とするように、外面世界に効果的に働きかけることができるようになるためには、そのためのスキルの習得が必須となる。
思索者としてコスモスにたいする深い洞察を得ることができたとしても、目の前に存在する特定の社会を洞察し、そして、それに働きかけることができるためには、全く異なるスキルが必要となるのである(もちろん、前者の鍛錬をとおして獲得したスキルには、後者の実践的な領域に効果的に応用できるものも多数あるだろうが……)。
とりわけ、社会の中に価値を創造するためのスキルは、そうした内的探求をとおして獲得したものを世界と共有するためには、最も重要なスキルのひとつといえるだろう。
また、そうしたスキルを獲得することにより、巷に蔓延する麗しい言葉に飾り立てられた詐欺的な構想や政策や施策の嘘を見抜くことができるようにもなるだろう。
価値を創造するための企画を練ることがいかに精緻な思考を必要とするものであるかを経験的に認識していれば、自ずと希望的観測に着飾られただけのアイデアの虚偽性を看破することもできるようになるはずである。
希望的観測という害毒に隅々まで汚染された今日の空気の中で正気をとりもどすためには、空気に敢然と対峙できるだけの強靭な思考力が必要となる。
その意味では、今日において、「内面世界」と「外面世界」の両方に関わるというトランスパーソナルの原点に立ち戻り、霊的(spiritual)であるためには、思考力を鍛錬する姿勢を貫くことが必須の条件となるといえるのだろう。

 

至福と落胆

1月31日
東京佼成ウインド・オーケストラ@サントリー・ホール
「ジョン・ウィリアムズ」ウインドオーケストラコンサート
http://www.tkwo.jp/concert/others/JW-20190131.html

 

渡邊 一正指揮によるジョン・ウィリアムズ(JW)の有名作品を並べた演奏会である。
JWはわたしがオーケストラ音楽を熱心に聴きはじめるきっかけをあたえてくれた作曲家である。
今から30年数年前、TVで放映されていた『スター・ウォーズ』を観たときに劇中に流れている音楽を耳にして正に雷に打たれたような経験をして以来、新作が発表されるたびにLPやCDを買い求め夢中で聴いてきた。
このところ世界中のプロのオーケストラがJWの作品をとりあげた演奏会を企画しているが、こうして実際に脚を運ぶのは初めてのことである。
これまで何度も何度も聴いた作品ばかりであるが。それをあらためて生で聴くことができたことは至福の経験だった。
東京佼成ウインド・オーケストラ(TKWO)の演奏も第一級のもので、確かに弦楽セクションが無いことの不満を所々感じさせるとはいえ、そのあまりに光輝に溢れた大音量を全身に浴びることができたこと幸せは言葉にしがたい。
冒頭に演奏されたのは、1984年のロス・アンゼルス・オリンピックのために作曲されたFanfare and Themeであるが、これはオリンピックのために作曲された作品の中で最も魅力的な作品であろう。
指揮の渡邊氏のテンポ設定は、少し遅過ぎるのではないか……と思わせるほどにゆったりとしたものだ。
JWの作品なので一気呵成に音楽をドライヴしていくのだろうと想定していたのだが、渡邊氏は、あえて遅めのテンポを維持することで、演奏者が深い呼吸で音楽を奏でることを可能とすると共にセクションとセクションの間に程好い空間を作ることで、それぞれのセクションが輪郭感をもって客席に届くように意図していたように思う。
そのためにテンポの早さがもたらす興奮は減じることになるが、逆に作品に内在する格調の高さが際立つことになる。
また、高い合奏能力を持つTKWOの各セクションの技量が、団子状に混じ合うことなく、適度な独立性をもって聞こえてくる。
実際、TKWOの能力は相当のもので、常に輝かしい格調を保ちながらド迫力の壮麗な音響を生みだしていく。
流石に国内最高峰の団体といわれるだけのことはある。
今回、過去30年以上に及び熱心に聴きつづけてきたJWの作品を聴いて思うのは、ハリウッドの娯楽作品向けにこれだけの質の作品が書かれたことの奇跡である。
飽きるほどに聴き込んできた者にさえこれほどの感激をあたえるのだから、これらの作品がスタジオではじめて演奏されたときにその場に居合わせた関係者は途轍もない驚愕と感動に襲われたことだろう。
今日、若い世代の作曲家が映像音楽の世界で多数活躍しているがーーたとえ映像作品における音楽の役割そのものが変化しているとはいえーーこれだけの訴求力をもつ作品を創造している作曲家はひとりもいないと思う。
正に史上最高の映像音楽作曲である。
ただ、個人的には、この日とりあげられたE.T.のAdventures on Earthに顕著なように、作曲家により演奏会用に編曲されたものは、その大多数は原曲の魅力を著しく損なうものになっており、随分と苛立ちを覚えさせられるのも事実である(その意味では、たとえばAdventures on Earth は、JWがBoston Pops Orchestraで録音したものよりも、Erich KunzelがCincinnati Pops Orchestraを率いて録音したものの方が格段に優れている)。
この日の演奏会では、上記の作品にくわえて、JFKとJurassic Parkの抜粋が編曲の劣悪さに足をすくわれた。
これらの作品はオリジナル・スコアそのものが非常に良く書けているので、願わくはその版で聴いてみたいものだ……。

Hans Zimmerの登場以降、映像音楽の質そのものが大きく変容してしまった。
音楽はもはや生楽器で演奏されるものではなく、シンセサイザーを駆使してスタジオ内で合成される素材のひとつに貶められてしまった。
もちろん、そうしたプロセスをとおして作成された作品の中にも非常に優れたものは存在するが、こうして楽譜をありのままに舞台で演奏すれば、そのまま管弦楽作品として成立するということはありえない。
James Hornerが早逝してしまい、今後、JWの後継者として芸術性と大衆性の両方を兼ね備えた才能が輩出されるとは期待しにくい今日の状況を鑑みると、このようにプロのオーケストラがJW以外の映像音楽作曲家の個展を企画することは期待できないのではないだろうか……(もしかしたら、Jerry GoldsmithとJames Hornerの個展が企画される可能性はあるかもしれない)。
いっぽう、JWの作品は、今回の演奏会にとりあげられた有名曲だけでなく、むしろ、A.I.・Born on the Fourth of July・JFK・Seven Years in Tibet等の比較的に「地味」な作品――あるいは、有名作品でも、いわゆる「メイン・テーマ」ではなく、それ以外の曲――に光を当てた演奏会が企画されることになるのではないだろうかと思う。
あるいは、クラシックの演奏会の曲目のひとつとしてJWの作品が自然にとりあげられる日が来るのではないだろうか……。
この演奏会を聴いて、JWの映像音楽がそうした地位を確立しえるだけの質を有していることをあらためて実感した。

 

2月1日
新日本フィルハーモニー定期公演@墨田トリフォニー・ホール。
https://www.njp.or.jp/concerts/3915

 

マルク・アルブレヒト(Marc Albrecht)というオランダの指揮者を迎えてブルックナーの交響曲第5番が演奏された。
所々才能を垣間見せるとこもあるが、全くこの作品の深い叡知を感じさせてくれない「青い」ブルックナーという印象である。
また、あまりにも弱音を重視するために、これほどの銘演奏会場であっても、客席に音が生きて届いてこないために、聴衆にひどい苛立ちを覚えさせる。
同じ弱音でも、そこに内容が詰まっていれば、このようには聞こえてこないはずなのだが、アルブレヒトの場合にはそれが単に弱いだけで芯の無いものであるため、そこに意味が感じとれないのである。
くわえて、テンポ設定もイン・テンポを遵守しているようではあるが、それが単に間延びをもたらすだけのものと化してしまっているために随分と単調に聞こえる。
端的に言えば、非常に繊細な感性で彫琢されているが、結果として、それが軟弱さとして結果してしまい、音楽が半ば死んでしまったのである(昔、CDで聴いたクリストフ・フォン・ドホナーニの同曲の演奏を少し思い出した)。
名演奏で聴けば聴衆を興奮の坩堝に呑み込んでしまうあの第1楽章がこれほどまでに退屈に思えたのは初めてのことである。
いっぽう、第1楽章や第4楽章の冒頭の弦合奏に耳を傾けると、弱音志向であるがゆえに、仄かな幽玄さが漂うのも事実である。
また、全編を通じて、弦合奏の音が爽やかな光沢に包まれているかのような高貴な香りをもたらされていたが、このあたりはアルブレヒトの才能が発揮されていたところだと思う。
ただ、そうした魅力はあくまでも部分的なもので――また、作品の本質に直結しないところでのもので――全体の魅力不足を補うことはできない。
総じて、オーケストラは健闘していたが、どこかノリきれていない感覚がつきまとっていた。
ただし、今日の聴衆は立派で、演奏の終了後、余韻が完全に消えるまで静寂を保ち、また、演奏者に暖かい拍手を送っていた。
ただ、この少し冷めた拍手は、指揮者にたいするものではなく、あくまでもゲストにたいする礼節を弁えてプロとしての仕事を成し遂げたオーケストラにたいするものであったように思う。

日本でブルックナーを演奏するのは大変だと思う。
聴衆の耳が肥えているし、また、1990年代以降のブルックナー・ブームを単なる流行として消費するのでなく、そこで確実に鑑識眼を鍛えてきている。
多様なスタイルを受容する寛容性があるとはいえ、今日くらいの演奏だと、まず満足はしてくれないだろう。
実際、会場の雰囲気を眺めれば一目瞭然で、今日の聴衆がブルックナーを聴き込んでいることは明らかである。
終演後、礼儀正しい拍手を浴びながらも、その厳しい眼差しに晒されて、アルブレヒトが少々気圧されたような姿を見せていたように感じたのは私だけだろうか……

正直なところを言わせてもらえば、この程度の演奏を聴かされると、定期会員になり、苦労して日程を調整してワザワザ会場に脚を運ぶことの価値を疑ってしまう。
次世代の指揮者にチャンスをあたえたいという事務局の温情ゆえの企画だとしても、客演者が聴衆の期待に堪え得る水準に達していることを担保するのは、事務局の最低限の責任だと思う。
少なくとも、この指揮者にこのブルックナーの傑作を任せるのは無謀としか言いようがない。
聴衆にこのような感想を抱かせるのは、指揮者本人だけでなく、新日本フィルや音楽監督の上岡氏にとっても損だと思う。

いずれにしても、この大好きな作品を聴き通すのに難渋するとは予想していなかった。

 

ヤン・パスカル・トルトゥリエ指揮・新日本フィルハーモニー定期演奏会@サントリー・ホール

新日本フィルハーモニーの定期演奏会をサントリー・ホールで聴いてきた。
指揮はヤン・パスカル・トルトゥリエ(Yan Pascal Tortelier)。
Chandosに録音したCDで認識はしていたが、生で聴くのは初めてである。
曲目は、前半はショパンのピアノ協奏曲第2番、そして、後半はチャイコフスキーの交響曲第1番という実に地味なものである。
また、共に作曲者の初期の作品であるために、内容的にも随分と物足りないところがあるため、正直なところを言わせてもらえば、これを半日を割いて会場まで聴きに来るというのは、あまり気乗りのするものではない。
こうした事情を反映してか、客の入りは60%というところだろうか……。
実際、わたしも定期会員であるから来てはいるが、この曲目を見せられて、この演奏会単体に聴きに来ることはないだろう。
普段、あまり日の当たらない作品をとりあげるという姿勢はいいのだが、もうひと工夫あるといいのに……と思う。
たとえば、これに20世紀の作品を併せれば、演奏会としての印象も随分と変わってくるのではないだろうか。

ともあれ、まずあらためて新日本フィルの音の肌理の細かさに感動した。
また、客演演奏家の能力をひきだすオーケストラとしての能力が一級のものであることを確認した。
ベルリン・フィルハーモニー等のオーケストラは、客演する指揮者にたいして凄いプレッシャーを掛けて萎縮させてしまうこともしばしばあるそうだが、個人的には、オーケストラの能力のひとつには、指揮者であれ、独奏者であれ、客演演奏家を歓迎してその能力を最大限にひきだすことにあるのではないかという気がする。
結局のところ、演奏者の使命とは、その日の演奏会の聴衆に感動をあたえることであり、演奏者間の軋轢を見せつけることではないはずである(また、もしそれほど受け容れ難い演奏者であれば、そもそも招聘しなければいいのである)。
そうした意味では、そうした変なプライドに感染した団体とくらべて、新日本フィルは音楽家としての使命に忠実であるように思う。
定期演奏会で客演演奏家がなんとも嬉しそうに演奏している姿を目にすると、そのことを実感する。
個々のセクションも充実しており、ショパンの協奏曲の冒頭のニュアンスに溢れた弦合奏を聴くだけで、自然と涙が流れてきたし、また、後半の交響曲の終楽章において発揮された金管を中心にした高貴でありながら力強い合奏力には感銘を受けた。

ショパンのピアノ協奏曲は好んで聴く作品ではなく、また、それほど期待をしていなかったのだが、正直これほどの感動をあたえられるとは思わなかった。
今回、非常に強く印象づけられたのは、それがまるで葬送の音楽のように聴こえてくるということであった。
作品解説を読むと、この作品は作曲家がこれから世に出ていこうとしていた時期に書かれたものだということだが――少し穿った発想かもしれないが――結局のところ、それは、作曲者が自己の才能を受け留めて生きていこうとする決意の時期に書かれた作品ということができるのではないかと思う。
しかし、才能とは祝福であると共にその個人の終焉(demise)そのものに連なる宿命を宿してもいる。
才能はその人間の存在を呪縛し「自由」を奪う「呪い」ともいえる。
そして、それは個人の存在を最期の瞬間に向けて消耗(consume)していくことになるのである。
それを受容するときに人間は自己を鎖に繋ぐことになるのだと思う。
この作品の仄暗いロマンティシズムの中には幽かな死臭が漂うのを感じながら、こんなことを考えていた。
尚、ソリストとして登場したクシシュトフ・ヤブウォンスキ(Krzysztof Jablonski)の演奏も申し分のないものだった。
今日流行している粒のそろった清澄なショパンではなく、まさにこうした作品の本質に寄り添った誠実な演奏だと思った。

後半のチャイコフスキーの交響曲第1番は、作曲家20代半ばの作品であるが、「胡桃割人形」をはじめとする後年の作品を特徴づける色彩的なファンタジーに溢れた佳作である。
ただし、全体としては訴求力が弱く、非常に豪華な管弦楽法が駆使されるが、45分という時間を集中して聴くのは骨が折れる。
演奏がいかに優れていても、作品そのもの内容的な弱さを克服することは難しい。
ただ、この少々躁鬱的ではあるが、総じて幸福感に溢れた作品に耳を傾けながら、後年、この作曲家が『悲愴』のような交響曲を書かなければならなかったことを思い、何とも可哀想に思えてきた。

ところで、後半は、同列の男性客が指揮をはじめてしまい、その少々病的な仕草が気になり、演奏に集中しきれなかった。
何とも迷惑なので、サントリー・ホールに御願いして、「近隣の客の迷惑になりますので、演奏中は指揮はしないでください。誰もあなたの指揮を観にきているわけではありません」というアナウンスをしてもらおうかと思う(笑)。

Reflection on the podcast: Beyond the Nation-State: Globalism, Plutocracy, and the Integral World Federation by Ken Wilber and Corey deVos

Reflection on the podcast: Beyond the Nation-State: Globalism, Plutocracy, and the Integral World Federation

by Ken Wilber and Corey deVos

https://integrallife.com/beyond-the-nation-state-globalism-plutocracy-and-the-integral-world-federation/

 

In many ways, this is a very typical response that we can expect from Integral Community on the current affairs—a response that is unfortunately deeply confused.

 

Summarizing Ken Wilber, Corey deVos writes: “According to Ken, it is not to toss out globalism entirely, but rather to create a bigger, better, and far more effective globalism — one that can remain uncontaminated by corporate interests, and one that supersedes the nation state, while also remaining aligned with the interests of its constituent nation-states.”

 

From my perspective, the problem is not that “the market is now global, the governments are national” as Ken observes but that we are basically living under “fascism” or “corporatism” as defined by Benito Mussolin (“Fascism should more appropriately be called Corporatism because it is a merger of state and corporate power”).

That is, the crux of the problem is, whatever the scale of government we have or will have, the entity called government seems to be destined to be taken over by corporate interests through what is called “the revolving-door polity of corporatism” where the key positions of the government are taken up by the “former” high-level officers of the major corporations which inevitably result in hijacking of the government institutions—as we have seen over the years in the US and other nations (the nations, according to Integral Theory, which are supposed to be highly developed operating based on world-centric principles).

 

Despite all the lip-services to world-centric values, we have basically been living under the systems that are powerfully controlled by private interests of corporations—tribes bound by self-interests. So the proposed solution to evolve and expand governments to a global form will not constitute an effective solution as long as we neglect the issue of “Fascism” or “Corporatism” which appear to be increasingly an intractable feature of government.

 

While there are some truths in the claim, I do not think that plutocracy of today is fundamentally resulting from “governance vacuum at the level of the transnational holon” simply because plutocracy has always been the case even before the arrival of so called “globalization”. It is basically an intrinsic part of the current form of capitalism where the takeover of the public sphere by the private sphere is so wantonly permitted. To characterize it as a new feature of society is highly misleading.

 

Therefore, without addressing this issue, the further expansion of government to more global scale will not solve the situation at all. It will probably worsen the situation. In that sense, to put it rather harshly, the argument Ken puts forth is essentially Ignoratio Elenchi, which entirely misses the core problem we are facing today.

 

It seems that the standard solution proposed by many in the Integral Community to the issues in current affairs—namely, “evolution/extension/expansion” of the entity to provincial to global would constitute effective solution—the solution to which we in the Integral Community automatically resort to in addressing any issues and problems, prove fallacious very often in actuality. This is probably because we unconsciously fantasize that the problems we face today would be somehow effectively addressed to once we establish what we believe to be a higher stage of development.

 

Instead of jumping to such “solution”, we need to clarify how we can really protect government from being corrupted by corporate interests. Whatever the scale of the government, whether it is local or global, unless we protect and immunize it from being corrupted by the influence of corporate interests, the solution will be meaningless or worse because it can now impose the will of the corporation on society globally.