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「ティール」という言葉の意味するもの

今『ティール組織』という組織がひろく読まれているが、ここでいう「ティール」とは、アメリカの思想家のケン・ウィルバーが提唱するインテグラル理論の中でこれまで「Vision Logic」段階と名付けられている人間の意識の発達段階のことを指している。

もちろん、Harvard Graduate School of Educationの研究者の調査では、この段階の認知能力をある程度恒常的に発揮できる人間の割合は総サンプルの中でも数%にも満たないので、実際には、上記の書籍の中で紹介されている「ティール組織」において、その構成員がそうした段階の認知構造を持続的に発揮しているということではない。

むしろ、何らかの制度的・文化的な仕掛を活用することで、個々人の発達段階にかかわらず、いわゆる「ティール」という言葉で想起される行動様式が組織の中で成立しているという事例を紹介しているのである。

個々人の意識が成長させるための方法を呈示するのではなく、その共同体に参加することで、おのずと行動が自己の個人的な能力をこえたレベルで発揮されるような仕組を呈示するというのが、書籍の趣旨だと思う(そして、それは非常に賢明な発想だと思う)。

ただし、21世紀の先進国においても、営利・非営利を問わず、実質的には大多数の組織の関係者が、強烈な同調圧力のもと、組織という「部族」に殉じるために半ば全ての能力を発揮することを求められている状況を鑑みると(先日の「証人喚問」における「証人」の行動論理は正にそうした時代の状況を端的に示したものだといえる)、その先の先にある行動論理が組織の関係者により常態的に発揮される時代が到来すると想像するのは非常に難しい。

もしそのようなことを無防備に想像している人がいたとするならば、正直なところ、そうした夢物語に夢中になるまえに、先ずは目の前の現実を直視するべきではないかと言いたくなってしまう。

しかし、同時に、もしその人が、そうした現実を見据えながらも、尚そうした高次の可能性について真剣に検討しているとすれば、それは真に素晴らしいことだと思う。

ただ、そのときにひとつ確認すべきは、いわゆる「ティール組織」といわれる組織を安定的に成立させるために、そこに生きる個々人に求められる認知構造がどのようなものであるのかということである。

Kurt FischerのConstructive Developmentalismでは、「advanced systems thinking」といわれる認知能力がそれにあたるのだと思うが、これは非常に透徹した世界の洞察を可能とする段階であり、それゆえに、それを発揮することには、大きなリスクが伴うことになる。

端的に言えば、それは、あたえられている課題や問題に最も効果的・効率的に対処しようとするのではなく、そもそもそれが「課題」や「問題」として存在している構造そのものに着目する段階である。

社会は、実際のところ、それらの課題や問題として存在していて、それにたいして異なる立場の関係者が延々と議論や軋轢を生みだしてくれていることで安定もするし、また、特定の階層の関係者は、そうした状態が維持されることで利益を守ることもできる。

しかし、advanced systems thinkingは、そうした構図そのものを意識化して、それを批判的に超克しようとする。

日本の受験勉強を例にとりあげると、「そもそもこのような『勉強』にとりくむことを国民に強いる『教育制度』とは、果たしていかなる思惑や目的のもとで維持されているのか? また、それを温存することに拘泥する社会構造とはいかなる構造なのか?」等の問いを発することから思索をはじめる意識である。

「受験」という「ゲーム」にいかに勝つのかという思索ではなくーーまた、「それには問題もあるが、とりくみ方次第では意味のある勉強もできる」という発想に陥ることもなくーーそれが「虚構」であることを看破して、それを「現実」であると錯覚させている構造を解き明かそうとするのである。

その意味では、単にあたえられた競争の中で勝利を収めるための知識や洞察を得るためにこうした発達理論にもとづいた書籍に接するのであれば、そこには根本的なところで誤解をしているといえるだろう。

一般的には、ビジネス書というものは、どれほど話題になっても、しばらくすると忘れられてしまうものだが、そうした状況を回避するためにも、そこで扱われている中心概念に関してもう少し慎重に吟味をする必要があるのではないだろうか……?

告知 : 2018 Integral Japan Practitioners’ Circle インテグラル理論を実践する

2018 Integral Japan Practitioners’ Circle

インテグラル理論を実践する

 

<背景>

Integral JapanIJ)では、2005年の「研究会」の発足以降、定期的にケン・ウィルバーのインテグラル理論に関して議論をするための空間を設けてきました。その間、日本国内でも関連図書の出版等により(ロバート・キーガンの『なぜ人と組織は変われないのか』やフレデリック・ラルーの『ティール組織』等)基礎知識が浸透し、組織論や人材論を中心とする実務的な領域においても活用が徐々にはじまるようになりました。

 

こうした状況をふまえて、この研究会も、インテグラル理論そのものにたいする基礎的な勉強をする空間ではなく、それを活用して多様な領域で活動や探求にとりくむ方々を対象としたPractitionersCirclePC)として再出発することになりました。これまでと同じように、PCもひろく門戸を開いて開催をしていきますが、今後は、これまでよりも実践者の集いとしての性格を強く押しだし、参加者間の意見交換や共同作業を主軸にして進行していくことになります。

 

たくさんの方々の御参加を御待ちしています。

 

<目的>

インテグラル理論を活用して多様な領域で活動や探求にとりくむ実践者・研究者に、定期的に集まり情報・経験・洞察を共有する空間を提供することにより、参加者間の相互学習や共同作業を促し、また、日本におけるインテグラル理論の展開を推進する。

 

<目標>

・インテグラル理論の実践者・研究者間の緊密な関係が構築されている

・各参加者が自らの活動や探求の幅を拡げる or 質を高めるために、異なる領域に専門性を有する関係者との共同作業を模索している・開始している

 

<方法>

・インテグラル理論(及び、その関連領域)の最新動向に関する情報の共有

・参加者の実践や研究の報告、及び、それに関する議論

・参加者間の共同作業の可能性の探求

 

<課題資料>

Wilber, Ken. The integral vision. Boston: Shambhala Publications, 2007.

・ケン・ウィルバー・他(2010)『【実践】インテグラル・ライフ:自己成長の設計図』鈴木規夫訳,春秋社

 

<参加資格>

・インテグラル理論の基礎を理解していること(インテグラル理論の概要については、課題図書の他には、『万物の歴史』『万物の理論』『進化の構造』『インテグラル理論入門』(I & II)等の書籍を御参照ください)

・自身の活動領域・専門領域においてインテグラル理論を活用していること、あるいは、活用の可能性を模索していること

・自身とは異なる領域に専門性を有する関係者との共同作業にたいする意欲・興味を持っていること

 

<第1回概要>

開催日時:201834日(日曜日)

開催時間:13:3016:30

開催場所:株式会社トモノカイ セミナールーム(岡崎ビル3階)

( http://www.tomonokai-corp.com/company/access/ )

発表者:Steve Hardacre http://www.criticalgameconsulting.com/whoweare/

ファシリティター:鈴木 規夫

参加費:4,000

お申込み方法

以下のフォームよりお申込みください。

https://goo.gl/forms/rYZDQleTNtnck7Kc2

 

<内容>

1201712月にコロラド州で開催されたIntegral Life主催のイベント・What Nowの概要報告( What Now URL: https://integrallife.com/events/what-now/

2.インテグラル理論の枠組を用いて2018年度の自身の活動を展望・計画する

告知:VUCAの時代を生き抜くための統合的実践 インテグラル・ライフ・プラクティス基礎講座

VUCAの時代を生き抜くための統合的実践

インテグラル・ライフ・プラクティス基礎講座

 

http://transpersonal.jp/5513/

 

2018年の学会主催セミナー第一弾は本学会理事の鈴木規夫さんによるインテグラル・ライフ・プラクティス基礎講座です。

 

複雑さを極める現代において、自己を探求するだけでは生きづらさは増すばかりです。もっと大きな枠組み、たとえば「内面・外面」、「個人・集合」といった対極的な側面をいかに生きていくかを考えていく必要があるのかもしれません。本セミナーでは、トランスパーソナルの理論家と呼ばれたケン・ウィルバーの「統合的な実践生活」を元に、トランスパーソナルの枠組みも視座にお話を伺いたいと思います。

 

【日時】201848日(日曜日) 13:3016:3013時開場)

【場所】阿佐ヶ谷駅近くの会場(予定)

         *会場が決まり次第更新いたします。

【講師】鈴木 規夫(インテグラル・ジャパン代表)

講師略歴:2004年にCalifornia Institute of Integral StudiesCIIS)で博士課程を修了。専門は、東洋と西洋の心理学(East-West psychology)。日本に帰国後アメリカの現代思想家ケン・ウィルバーのインテグラル思想の普及のための活動を展開している。主な著書・訳書に『実践 インテグラル・ライフ』(春秋社)『インテグラル理論入門』(I & II)(春秋社)『インテグラル・シンキング』(コスモス・ライブラリー)等がある。URLhttp://integraljapan.net/

 

【講師より】

 

VUCAの時代を生き抜くための統合的実践

インテグラル・ライフ・プラクティス基礎講座

 

今日の時代の特質を説明する言葉として、「VUCA」という言葉を耳にするようになりました。これは、volatility(流動性)・uncertainty(不確実性)・complexity(複雑性)・ambiguity(曖昧性)という4つの単語の頭文字を組み合わせて造られた造語ですが、確かにわれわれの生きる時代の特徴をうまくとらえたものであるように思われます。

端的に言えば、これは、課題や問題に対処するときに、既存の方法や回答を適用すれば事足りていた時代が終わり、茫漠として性質のつかみにくい課題や問題にたいして、オリジナルの対応策を考案しつづけていく能力が求められる時代が到来しているということだといえます。必然的に、そこでは、信頼にたる「訓え」や「答え」の拠り所としての伝統や体系は権威や魅力を失い、われわれは――必要に応じて、それらを尊重・継承しながらも――みずからの責任において、あらたな答えを見出すことが求められるようになります。そして、それはとりもなおさず継続的に「迷い」の只中に留まる能力を鍛錬することが求められるようになるということなのです。

当然のことながら、こうした生存環境の変化に伴い、われわれの自己との向き合い方も変容していくことになります。たとえば、しばらくまえまでは、巷では「心の時代」という言葉が流行し、自己の内面を内省・探求することの重要性が強調されましたが、今になって思えば、それは比較的に安定していた社会情勢を背景に成立していた発想であったのかもしれません。

しかし、東日本大震災における福島原子力発電所の過酷事故や近隣地域における軍事的緊張の高まり、あるいは、国内における貧富の格差の急速な拡大がもたらす同胞感覚の溶解等、社会の存立そのものを危うくする巨大な出来事が頻発する中では、われわれは半ば恒常的に自己の存在(生命)そのものが脅かされている感覚につきまとわれることになります。そうした条件下においては、これまでのように自己の内面に閉塞して探究活動に浸るのではなく、時代と社会を視野に収めながら、統合的な発想にもとづいて自己の存在の諸領域(BodyMindHeartSpirit)の深化にとりくんでいくことがますます重要になるのです。

その意味では、VUCAの時代においては、内面と外面、そして、個人と集合という対極的な領域を意識して探求することが求められるようになるといえます。アメリカの思想家ケン・ウィルバーは、こうした発想を「統合的」(integral)と形容していますが、VUCAの時代を生きていくためには、われわれは正にそうした発想にもとづいた実践生活を設計し展開していく必要があるのです。得意とするある特定の領域に閉じるのではなく、それ以外の領域にも意識や関心を向けて、とりくんでいく必要があるのである。

今回の講座では、こうした問題意識にもとづいて、ケン・ウィルバーの提唱する「統合的な実践生活」(Integral Life PracticeILP)の設計と実践の仕方の概要を御紹介したいと思います。

みなさんは既に様々な実践を組み合わせて御自身の成長や成熟にとりくんできておられると思います。しかし、ときにはそうした日々の活動を見詰めなおして、その限界や盲点について検証してみる機会を持つことで、実践生活そのものを進化させるための有益な洞察を得ることができるのではないかと思います。また、とりわけVUCAの時代においては、そうした俯瞰的な視座から自己の日常を見詰める能力そのものが求められることになります。

そうした意味では、この講座を利用して、是非ILPの知見をつかんでいただければと思います。

A Thought on the Speech by Robb Smith

A friend of mine recently participated in an event hosted by Integral Life called What NOW conference (https://integrallife.com/events/what-now/). Soon after the event, the key note speech by the CEO Robb Smith was made available online, and I was recommended to take a look at it.

 

Never Been Better, Never Felt Worse: Inside the Rise of an Integral Global Operating System for the 21st Century

By Robb Smith

January 4, 2018

 

Over the past decade, I have been following the presentation by those associated with Integral Institute (Integral Life) on the topic of politics, and I have been consistently disappointed by the poor quality of those presentations. One of the key problems that characterize them is the adamant refusal of those presenters to pay attention to the shadow aspect of politicsnamely what is commonly called deep politics. Instead, they consistently confine their thinking with the realms of the conventional thinking. When even the main stream media is forced to address the reality of deep politics, partially because they have lost credibility so profoundly under the threat of the alternative media, this state of discourse in the Integral Community characterized by serious ineptitude made me conclude that the community basically degenerated into a mere ideology movement rather than a community of open inquiry.

However, of those pundits associated with Integral Institute, I find some of the presentations by Robb Smith rather interestingso much so that I find them to be worth criticizing as Elliot Aronson would say.

 

So here is my thought on the presentation:

 

Probably the most serious problem is that Robb tends to reify the stage or color too much. I hear phrases such as Stage X thinks this way or Stage Y behaves that way or Stage Z values that... However, in reality, it is extremely difficult to simplistically claim that individuals at a certain stage act in certain ways this definitively.

Furthermore, any value or ideology can be held from multiple stages (for example, both conservative and liberal stance can be held by individuals at stage 3 or 4 or 5 or higher; or even integral ideology can be believed from a wide range of stages), so describing a certain ideological stance as well developed or not well developed is deeply troublesome way of utilizing developmental theory. My impression is that Robb does not really distinguishing between the structure of consciousness and the content of consciousness.

To be honest, it is simply not possible to take anything the person with this level of understanding says seriously.

 

Also, it would appear that there is an underlying conviction that more developed individuals are in terms of cognitive development, more successful they become by necessity. However, the researches do not seem to support that it is actually the case. In reality, highly developed cognitive capacity can lead to greater success only when certain conditions are metfor example, the nature of the position or role he or she occupies and the tasks at hand need to be complex enough to require that level of cognitive functioning. Furthermore, other conditions such as domain specific skills and cultural and system support for that complex cognitive functioning is necessary. Also, when individuals apply complex cognitive functioning to situations that do not call for it can end up doing disservice to the situation (or the person will be simply considered incapable). So, simplistic celebration of complexity is the last thing we want to do.

By the way, developing the cognitive capability at the post-conventional stages such as Turquoise (Construct Aware) and Indigo (Ego Aware) means that individuals begin to deconstruct the fundamental beliefs and values that they have held throughout their lives. That is, at this point, they begin to see the concepts such as development or evolution or maturity as a kind of fiction that we utilize to make sense of reality. Or more fundamentally, they come to realize that those conceptual products is construct or manufactured outcome of human psychological processthus potentially lack reality in the fundamental sense. Clearly, this kind of awareness can be highly disruptive and can easily lead to deep existential crisis. Higher development does not mean greater psychological ease or equilibrium or happiness.

So, to me, what appears to be the lack of attention to the intrinsic risks that lie in the process of development in the presentation is too disturbing. In other words, it would appear that developmental theory is here used as some kind of an ideology based on pseudo-science.

 

With regards to Robbs overall view of the collective world affairs, I think that it is essentially a narrative typically held by those who lives enveloped in the conventional world in the US. From a perspective that is a little removed from the US domestic politics, for example, people are generally aware that it does not really matter who the president is (Bush, Clinton, Obama, Trump...) as the deep structures of the national security community and policies remain pretty much the same. Whatever the contents of speech a president reads out loud on front of the public, more and more people now realize that it does not really matter much in the context of the big picture. A while ago, Jeff Saltzman and others at Integral Institute proclaimed Barak Obama as integrally informed president, and it shocked many of us as such a proclamation only attested their naiveté.

Basically, we need to pay attention not to what words (e.g., speeches and presentations) are being spoken by the famous political figures but the overarching context and system within which such words are spoken and consumed (and what kind of status is preserved by means of that cycle) in the political discourse.

Frankly, in this sense, despite all the remarks on the radical changes that are taking place in the world, I do not think that I have heard anything that is truly insightful in Robbs speech.

 

Overall, despite the assertion by those who are associated with Integral Institute that they are thinking from high developmental stages, my sense is that the community is struggling to produce anything that can qualify as integral or turquoise or indigo or whatever color that is in vogue today in reality. And in my opinion, this is one of the reasons why the community is failing to be provocatively relevant in society at this point.

告知 インテグラル理論研究会特別編:スポーツ/コーチング領域から能力(スキル)開発を考える 2017年12月23日(土)

告知
インテグラル理論研究会特別編:スポーツ/コーチング領域から能力(スキル)開発を考える
2017年12月23日(土)

 

2017年12月の研究会・特別編(不定期開催)では、日本体育大学においてスポーツ・コーチング研究に従事されている関口 遵さんを迎えて、主にスポーツ・コーチングの領域における最新の研究と実践に関して紹介・報告をしていただきます。
これまでの研究会では、ロバート・キーガン(Robert Kegan)やカート・フィッシャー(Kurt Fischer)(共にHarvard Graduate School of Education)の発達理論にもとづいて主に成人期の発達について探求をしてきましたが、そこでの関心の中心は基本的に組織(主に企業組織)においてわれわれが能力を開発・発揮していくうえで発達科学の知見がどのように活用できるのかということに絞られていました。その点では、これまでの議論は、抽象概念操作の領域における能力の開発と発揮に絞られていたといえます。
しかし、人間の存在は身体を包含したものであり、また、われわれは常にこの身体を駆使して能力の開発と発揮をしています。その意味では、スポーツ・コーチングの領域における研究と実践の実際に関して勉強することは、人間の能力を統合的に探求するうえで非常に重要だといえます。

貴重な機会ですので、御誘いあわせのうえ、御参加ください。

発表概要:
今回は、スポーツの文脈からプレーヤーとコーチの学びについて、今年IJの研究会において取り上げられてきた発達理論に基づいた能力開発に関連させながら話題提供をしたい。まずは、プレーヤーの学びとして、運動学習・スキル獲得理論とトレーニング理論における基礎的な概念や原理・原則を概観する。その後、プレーヤーの学びを支える立場であるスポーツコーチの学びと育成に関して、近年の研究や実践について紹介していく。

 

講師プロフィール:
関口 遵(せきぐち・じゅん) 修士(学術)
日本体育大学体育学部 助教(コーチ学)
日本体育大学大学院博士後期課程単位取得満期退学
関心領域:スポーツコーチの学びと育成

 

日時:2017年12月23日(土曜日) 13:30〜16:30
開催場所:株式会社トモノカイ 岡崎ビル3階
https://goo.gl/QeXZiw
定員:30名
参加資格:なし(定員に達し次第、締め切ります)
参加費用:3,000円
御申込は、下記のフォームよりお願いします。
https://goo.gl/forms/c9oIoJ7IeuMbKna52

天才は存在するのか?


先日、主催する研究会の参考図書のひとつとして、今井 むつみ氏の『学びとは何か:“探究人”になるために』(岩波新書)をとりあげた。
今井しは、現在の日本の発達心理学において注目にあたいする研究者のひとりで、その旺盛な著述活動をとおして、ひろい範囲でその存在を認知されてはじめている。
個人的にも、人格形成期に英語圏で15年程暮らして、言語習得の問題に関しては当事者として実に様々な経験や試練に直面したこともあり、人間の言語習得に関する今井氏の研究には常に大きな感銘をあたえられている。
また、そればかりではなく、仕事の関係上、周りには家族と共に長期の海外滞在をする同僚や知人の多くが、子供達の言語学習に関して大きな悩みを抱えていることもあり、いわゆる「国際化」が急速に展開する今日において、言葉をめぐる問題が真に切実なものとして浮上していることを日々実感させられている。
言葉というものが、単なる道具ではなく、人間の認知・認識を根源的なところで規定するものであり、また、さらにはアイデンティティを支配するものであることに関しては、今日の英語礼賛の空気下では、人々は無関心を決め込んでいるが、そうした真に本質的に問題にたいして正面から発言しているという点においても、今井氏の活動は非常に重要なものだと思う(ちなみに、子供の言語教育に関して悩みを抱いている同僚には、必ず今井氏の『ことばと思考』を紹介することにしている)。
ただ、岩波新書の第二冊目として出版された『学びとは何か』においては、今井氏は、専門の範囲をこえて、人間の能力開発の極限にある「熟達」(mastery)に関して解説をしているが、印象としては、論述が少々散漫であり、言語習得に関する書籍や論文とくらべると、随分と物足りないところがある。
しかし、個人的には、それ以上に印象的だったのは、「熟達」について扱っていながらも、いわゆる「天才」(生まれながらに特殊な能力をあたえられてきている人々)というものに関しては、ほとんど論述がされていないということである。
もしかしたら、そこには「全ての人間は平等な素質をあたえられて生まれてきているのであり、生まれながらに突出した素質や能力をそなえている者などいないのだ」というような平等主義的な価値観が存在しているのではないかと推測してしまう。
換言すれば、個人間の能力の差というのは、素質・資質の差ではなく、生まれ育つ環境条件の差に起因するものに過ぎないのであるという世界観に支えられて全ての研究が行われているのではないかと思うのである。
まあ、窮極的には、それは個人が――意識的であれ、無意識的であれ――立脚する価値観や世界観に拠るものだと思うので、それについてあれこれ言ってもあまり意味はないのだろうが、少なくても、いわゆる「天才」というものが存在しえる可能性を排除した人間観・世界観というのは、この世界を随分とつまらないものにしてしまうように思う。
確かに、現在の人類社会が人間の能力を真に最大限に育成することに成功しているかどうかといえば、それは致命的なまでに失敗しているというのが正しいだろう。
また、今日、世界を席巻する社会の「進歩」は――まさに思想家ケン・ウィルバー(Ken Wilber)が「フラットランド」(flatland)という概念で問題提起するように――人間の全人格的な成長や成熟を促進するのではなく、むしろ、真・善・美という価値観を探求・体現するのとは逆行する方向で人間に影響をあたえている。
たとえば、今日において、人間の成長や成熟という概念が重要なものとして認識されるのは、あくまでもそれを実現することが経済活動の中で実利的な利益をもたらすからであり、そうした発想そのものを――そうした発想を無批判に受容・称揚する時代や社会そのものを――対象化して批判的に検討できる成長や成熟は求められない。
ハンナ・アレントは、所与の社会制度に従順に適応することに腐心することは悪であると述べたそうだが、今日、一般的に称揚される成長や成熟は、往々にして、悪を増幅するものでしかないのではないかと思うのである。
しかし、同時に思うのは、そうした劣悪な条件下においても――あたえられた教育や支援に還元できない――突出した成長や成熟を実現する個人は存在するのではないかということである。
また、たとえそうした突出した人物を研究対象としてとりあげて、その人物がなぜそれほどまでに優れた能力を発揮しえているのか――また、それを可能とする訓練・実践とはどのようなものであるのか――を解明してみたところで、その才能の偉大さを真に理解したことにはならないはずである。
真に傑出した人物が、しばしば、人並外れた訓練を実践にとりくんでいるのは言うまでもないが、しかし、その人物の偉大さをそうした訓練の効果や効率に還元することはできない。
それはあくまでの偉大さの要素のひとつでしかないのである。

 

こんなことをあらためて書き綴っているのは、今年にはいり、非常に感動的な演奏会を経験したからである。
ひとつは、東京文化会館で開催された東京音楽コンクールのヴァイオリン部門の本選会、そして、もうひとつは、東京オペラ・シティで開催された日本音楽コンクールのヴァイオリン部門の本選会である。
共に本選会なので、演奏者の方々は実に優秀なのだが、最終的に優勝したのは年齢的に若い二人の女流演奏家であった(前者で優勝した荒井 里桜さんは大学1年生、そして、後者で優勝した大関 万結さんは高校3年生)。
実際、二人とも他の参加者とくらべると全く別次元の演奏家で、彼等の奏でる音が流れはじめると会場の音が瞬時に一変してしまう。
そして、伴奏をつとめているオーケストラの音も劇的に変質してしまう(もちろん、在京のプロのオーケストラの方々は非常に誠実な仕事ぶりで、全てのソリストに真摯な伴奏を提供していたが、こうした傑出したソリストが演奏をしだすと自然と火が着いてしまうのであと思う)。
小さな弦楽器が奏でる繊細な音が巨大な会場の空気を変質させ、また、そこに集うている千人以上の人間の意識を呪縛し変容させてしまうのを間近にするのは、まさに奇跡的な瞬間に立ち会わせてもらっているような気持になる。
こうした演奏家は非常に稀有な存在ではあるが、確かに存在している。
音楽批評家がしばしば言うように、まさに生まれながらの音を持っているのである。
こんな瞬間を実際に経験すると、傑出した素質というものをあたえられて生まれてきている人間が存在するという可能性をどうしても肯定したくなってしまうのである。
また、そうした体験は、偉大なものがあたかも的確な訓練さえすれば誰にでも獲得できるものであるという物語を信奉することの傲慢さから目を覚ませてくれる。
多数の音楽愛好家が真に偉大な演奏者の生演奏に立ち会えたときのことをあたかも宗教体験のように回想するのを耳にすることがあるが、それはたぶんそうした経験が単純な訓練や実践では到達できない非日常的なものとの出逢いをもたらしてくれた経験であるからなのだと思う。

 

告知 インテグラル理論研究会特別編:ダイナミック・スキル理論 2017年10月21日 (土曜日)

告知

インテグラル理論研究会特別編:ダイナミック・スキル理論

20171021 (土曜日)

20179月と10月の研究会(不定期開催)では、先日、出版された加藤 洋平さんの『成人発達理論による能力の成長:ダイナミックスキル理論の実践的活用法』をとりあげ、今日、多方面で注目されている最新発達理論・ダイナミック・スキル理論(Dynamic Skill Theory)について考察を深めていきます。

ダイナミック・スキル理論は、Harvard Graduate School of Educationの発達心理学者カート・フィッシャー(Kurt Fischer)が提唱する発達理論ですが、同じ機関のロバート・キーガン(Robert Kegan)のそれとは大きく異なる特徴をそなえています。それらは、キーガンの理論以上に、人間の発達のダイナミズムに即したものであり、それゆえに、日常の活動をとおして発達支援に携わる実務者にとり、より利便性の高いものになっているといえます。

10月の研究会では、先日の9月の研究会では、参加者の方々に著者の加藤さんへの質問をあげていただきましたが、10月の研究会では、それらの質問にたいする加藤さんの回答をふまえて、人間の発達に関する議論をさらに深めていきます。

 

課題資料

加藤 洋平(2017 『成人発達理論による能力の成長:ダイナミックスキル理論の実践的活用法』(日本能率協会マネジメントセンター)第3章・第4章・第5

 

補足参考資料

ロバート・キーガン(2013 『なぜ人と組織は変われないのか:ハーバード流自己変革の理論と実践』 英治出版

鈴木 規夫(2017 書籍紹介:加藤 洋平著『成人発達理論による能力の成長:ダイナミックスキル理論の実践的活用法』 http://norio001.integraljapan.net/?day=20170806

加藤 洋平氏インタビュー第7回 http://integraljapan.net/articles/kato/index.htm

今井 むつみ(2010 『ことばと思考』岩波書店

今井 むつみ(2016 『学びとは何か:〈探究人〉になるために』岩波書店

日時:1021 (土曜日)  13:3016:30

開催場所:株式会社トモノカイ 岡崎ビル3

https://goo.gl/QeXZiw 

定員:30

参加資格:なし(定員に達し次第、締め切ります)

参加費用:3,000

御申込は、下記のフォームよりお願いします。

https://goo.gl/forms/hO35uIUIqVykB1Zz1

成人教育の最前線

今日、成人を対象にして一般的に行われているトレイニングのほとんどは、なんらかの「システム」(例:手法・方法・枠組)を紹介し、その習得を支援するためのものである。
たいていの場合は、そうしたトレイニングで参加者の要望に応えることができるのだが――正にそれゆえに、そうした類のトレイニングがひろく受容されている――まだ比率的には少ないが、それよりもひとつ次元の高いトレイニングが求められはじめていることを実感する。
具体的には、あるひとつのシステムを紹介するのではなく、複数のシステムを組み合わせて統合的に用いることで、参加者の課題や問題を解決するための助けをしようとするものである。
実際のところ、たとえば企業組織の選抜者を対象にしたトレイニング等の優秀な人間を対象とする場合、単にシステムを紹介するだけでは参加者の拒絶を招いてしまうことになる(それは、そこで紹介されるシステムがたとえ複数であろうと同じことで、システムが統合されることによって新たな価値が生みだされないといけないのである)。
結局、彼等は既に自律的に勉強するための高い学習能力をそなえており――また、そのために、日常生活の中で様々な工夫を重ねており――わざわざ集合型のトレイニングに来なくてもいいのである。
端的に言えば、そうした類のトレイニングは非効率的なのである。
発達心理学者ロバート・キーガン(Robert Kegan)の用語を用いて説明するならば、自律的思考力を発揮する第4段階の人間にとって、システムを習得することは独力で可能なことなのである。
それよりも、彼等が求めているのは、ひとつのシステムをあてはめるだけでは把握・解決できない課題や問題に対処するためのスキルを高めることである。
そして、それは、とりもなおさず、複数のシステムを統合的に活用するためのスキルなのである。
そうした能力を有するインストラクターがつくる空間の中で探求をすることで、そうした統合的な思考をするとはどういうことなのかを束の間のあいだ体験することが、そのまま彼等の成長衝動を刺激することになる。
そこで彼等は日常の思考の枠組を超えて質的により高い視野をとおして思考することがどういうことなのかを垣間見るのである。
ただ、今日においては、そうした統合的な意識というものは、生きた指導者の支えを借りなければなかなかあじわえないものであるようだ。
巷に流通する大多数の書籍が合理性段階の執筆者により合理性段階の発想や思考を紹介するために書かれたものであるために、それよりも質的に高いレベルの思考に触れようとすると、どうしてもそれ以外の媒体の刺激に触れることが必要となるのである(また、文章という媒体そのものが直線的に展開するものであるために、合理性段階を超えた発想や思考を示すには少々適さないところがある)。
その意味では、今日において成人を対象にした――とりわけ、優秀な層を対象にした――成長支援施策に必要となるのは、参加者が合理性段階のもうひとつ高い段階の意識を体感できるための仕掛を企画者・運営者がいかに用意することができるかといことになるだろう。
もちろん、そうした空間を構築するのは容易なことではない。
また、一対一のセッションにではそれができても、多人数を相手にしたときにそれができるとも限らない。
実際、日本国内の人材育成業界を見渡したとき、果たして何人のトレイナーがその域に達しているかといえば、極少数ということになるだろう。
しかし、今日の社会情勢を眺めると、非常に烈しい速度で既存の世界観が崩れはじめていることは明らかであり、そうした文脈の中では、合理性段階の思考だけでは全く時代に適応できなくなりはじめていることは議論の余地の無いところであろう。
たとえば、今話題を集めている『東芝 原子力敗戦』(大西 康之著・文藝春秋社)という書籍があるが、そこで示されているのは、日本の優秀な政財官の関係者が悉く破綻した虚構の中に埋没し、皮肉にも、卓越した合理的思考力を発揮して着実に、そして、主体的に破滅に向けて突き進んでいる悲劇である。
あまりにも典型的な事例ではあるが、合理性段階の知性は、「利権」と「保身」と「同調圧力」の下では、自己の思考が立脚する「現実」が実は虚構であるかもしれないことに意識を向けることができなくなってしまうのである。
ここに描かれている「敗戦」は、ひとえに日本のエリート層の精神の貧困に起因するものである。そして、こうした敗戦は社会のあらゆるところで発生している。
それは、合理性段階を超える知性を社会の中に全く生み出しえていないことに大きく関わっている。
いわば、「進化」することに失敗していることの直接的な結果なのである。
統合的思考をする能力(ロバート・キーガンの発達理論における第5段階にあたる)を社会の重要な意思決定にたずさわる人々の中に涵養するという点においては、今日、日本は世界でも悲劇的なまでに立ち遅れている。
そして、そうした状況を打開する兆しは全くみえない状況である。
少なくともしばらくのあいだは日本の地盤沈下は止まることなく着実に深刻化していくことだろう。
巷では、「教育改革」の必要性が叫ばれているが、実はそうした声をあげている大人達が、時代の要請を受けて成長・変化していくことができないという、いわば「発達障害」的な状態に集合規模で陥っていることは、ほとんど指摘されない。
われわれが今真に為すべきは、破綻と破滅を次世代に継承しようとしている大人達にたいする教育的支援を強化することなのではないだろうか……。

 

成長の触媒としての「越境」について


今日、児童教育の関係者達は、生徒を受験競争に勝たせることに腐心し、また、人材育成の関係者達は、クライアントである企業人の能力開発を支援することに腐心している。
対象年齢は異なるが、共にあたえられた「ゲーム」の中で生徒が成功できることに意識を閉ざしているのである。
本来、教育とは、そうした時代の「実利的」な要請の呪縛を逃れたところでとりくまれるべきものなのだが、実際のところ、大多数の関係者が「ゲーム」にのめりこんでいるのである。
企業関係者はしばしば今日の教育の問題点を辛辣に指摘するが、何のことはない、所与のゲームの枠組の中で能力を開発にとりくむことしかしないという点においては、両者はあまり変わらないのである。
その意味では、今日、真に必要とされているのは、教育というものを同時代のゲームに従属したものではなく、むしろ、それから人々の意識を解放するものに進化することである。
時代の変遷と共にゲームの内容は変化をする。そして、人々はそうした変化に適応することを求められつづけることになる。
教育が、単に刻々と変わるゲームに適応するための能力を養うためのものに堕しているとすれば、それはその元目的から非常に解離した状態にあるといえる。
そして、そうしたものでありつづける限り、それは個人の尊厳を保証するものではありえない。
結局、それは所与のゲームの中で勝つことにしか興味のない人間――即ち、それは真に思考することができない人間である――を生み出すことにしかならないのだ。

現在、企業社会の人材教育においては、しばしば、越境という言葉が重要概念としてとりあげられている。
終身雇用制を前提として、あるひとつの環境の中に収まっているのではなく、異なる環境の中に積極的に飛び込んでいくことで、自己の視野や発想をひろげ、ひいては人材としての自己の感性や発想や視野を高める・拡げるべきであると言われているのである(そうした努力を重ねれば、いわゆる「創造性」(innovation)を高めることができるはずだと考えられているのである)。
ただ、一般的には、こうしたときに意図されているのは、あくまでも最終的に労働市場における自己の価値を高めることを目的とした越境である。
多様な文脈に参画することをとおして、自己の意識を拡張することに反対する人はいないと思うが、ただ、そうしたとりくみが、結局のところ、企業社会における生産性(performance)を高めるためのものとして位置づけられることには違和感を覚える人もいるだろう。
というのも、そこでは、物理的に多様な文脈に越境していくことが称揚されながらも、精神的には常にあたえられたゲームの中に留まりつづけることが半ば無意識の内に前提とされているために、本来的に「越境」という概念が内包しているダイナミズムが矮小化されてしまっているからである。
物理的な越境は称揚されるが、精神的な越境は実は半ば無視されてしまっているのである。
しかし、とりわけ時代の変わり目においては、われわれには、自己の生きる社会の支配的な論理そのものを対象化する力が求められることになる。
たとえば「経済成長」という概念がこれほど強烈に社会を呪縛している時代というのは、未曾有のものであるが、もしわれわれが真に越境をこころみるのであれば、そうした概念を対象化して、それとは異なる論理にもとづいて社会が営まれえることを探るような経験をしてみてはどうだろうか……?
即ち、自己の存在をとりこんでいるゲームそのものを対象化して、あらためて自己の実存そのものについて意識を向けることができるような越境をしてみるべきではないだろうか……と思うのである。
平たい言葉で言えば、それは「非日常」を求めるということである。
日常生活を支配している価値観や世界観を気づかせてくれるような状況に参画してみるということである。
そうした体験を積極的に求めることができるようになることが、今日の日本人の心に蔓延しているといわれる「閉塞感」を打破することにも寄与すると思うのだが……。

「シン・ゴジラ」 ‐ 二つの合理性

先日、「シン・ゴジラ」をDVDで再観賞したのだが、あらためて傑出した作品だと思った。
ただ、ひとつどうしても気になるのは、日本人俳優の英語が酷いことで、もちろん、ある程度は練習はしているのだろうが、総じて恥ずかしいレベルである(外国人俳優の英語は、日本人にも聞きとれるように意識しているのだろうか、とても聞きやすい)。特に石原 さとみは酷く、彼女が登場すると一気に画面の現実感と緊迫感が失われ、そこだけ別のコメディ映画のような雰囲気になる。
まあ、それはともあれ、「シン・ゴジラ」の面白さというのは、ひとえに「官僚」の行動論理を的確に描いていることにある。彼等は非常に優秀であるが、その優秀さは常に他者にあたえられた目的を達成するためにしか活用されないという特性を備えている――あるいは、自己の立場に付随する目的を達成することにしか用いられない。全ての会議はそうした所与の目的を「確認」「承認」するためのものであり、 それよりも踏み込んだ議論は行われない。
こうした文化を維持するための重要な約束が、「想定外」のことについては考慮しないという暗黙の合意を全ての関係者がしておくことである。そうした議論を許してしまうと、ほんとうに議論をしなければならなくなるし、目的そのものについても問い直さなければならなくなる。
作品の中では、ただひとり主人公だけがそうした「約束」を破る勇気を持ち合わせた人物として描かれるが、正にそれがこの人物を主人公たらしめているのである。また、それは単に周りの空気に抗うという勇気を持ち合わせているだけでなく、そうした状況においても、「前提を疑う」というより高い認知能力を駆使することができるという真に高い認知能力を発揮できるという認知的な特徴に支えられてもいる。発達心理学のロバート・キーガン(Robert Kegan)が述べるように、個人の認知構造の成熟度とは、結局のところ、周囲の支援が無い過酷な状況においても発揮されるものをみて測定されるべきものなのである。
その意味では、「シン・ゴジラ」という作品は、二つの異なる認知構造間の衝突を描く作品としてもみれるだろう。即ち、同じ合理性段階の認知構造でも、所与の目的の実現にたいして盲目的に従属する合理性と所与の目的に呪縛されることなくそうした前提条件を脇に置いて、現実と対峙できる合理性のあいだの衝突なのである。
ちなみに、前者に関しては、Max HorkheimerとTheodor W. Adornoが“Dialectic of Enlightenment”の中で詳述している。そうした精神は、第二次世界大戦中には全体主義の温床となり、そして、現代においては「想定外」にたいしては意識を閉ざし、ひたすらにあたえられた目的に自己の精神を従属させる思考麻痺を蔓延させている。
日本の集合意識は半世紀前とくらべて、少しも進化はしていないのである。