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発達がもたらしてくれるもの……(4)

思想家のケン・ウィルバー(Ken Wilber)は、「インテグラル」(統合的)であるとは「政治的」であることだと発言している。
いろいろな解釈ができる発言であるが、個人的には次のようにとらえている。
即ち、後慣習的段階――ウィルバーは、ここで個人は統合的な発想ができるようになると述べて、この段階をインテグラル段階と形容している――に到達することで、われわれは、個人の意識というものが時代や社会の価値観や世界観に深く影響されるものであることを認識して、そうした影響が具体的にどのような集合的な機構や制度をとおして行使されているのかを批判的に探求しようとするようになる。そして、そこに何等かの不正義があるときには、積極的に問題提起をしようとする。
また、後慣習的段階においては、社会には、ある特定の世界観や価値観が信奉されることをとおして、自然とその利益を享受する者達とそうでない者達が生まれ、社会の機構や制度はしばしば前者の利益を保護・増幅するかたちで機能するものであるという厳然とした事実を認識するようになる。そして、そうした認識にもとづいて、同時代の中で排除・抑圧されている存在や視点に意識を向けて、そうした排除・抑圧がいかなるメカニズムやダイナミズムをとおして温存されているのかを探ろうとする。つまり、社会の主流の対話の中でとりあげられない事実や真実に目を向けて、それらを包含したものとしての全体性を把握しようとするのである。
こうした発想は、単に「右派」と「左派」や「保守」と「急進」をはじめとする対極の両方の意見に耳を傾けようとするだけでなく、そのどちらにも考慮されないこと――また、ときには、そうした対立軸があることで排除されてしまうこと――にも意識を向けようとする。
端的に言えば、慣習的段階における統合的思考が、一般的に――たとえば教科書や報道等において――対極なものとしてあたえられている立場や視点の両方を考慮・包含しようとするものであるのにたいして、後慣習的段階における統合的思考は、そもそもそうした対立構造そのものが――少なくとも潜在的には――何等かの真実や事実を排除・抑圧するものであることを察知して、そうした所与の思考・発想の枠組そのものを超克(脱構築&再構築)しようとするのである。
換言すれば、後慣習的段階の発想とは、既存の価値観や世界観――及び、それに付随する社会的な機構や制度――そのものを批判的・構造的に検証することをとおして、さらなる全体性を回復しようとするのである。
当然のことながら、それは既存の権力構造・支配構造にたいする辛辣な視点を伴うことになり、そうした意識に立脚した思考や行動は半ば不可避的に政治的な性格を帯びることになるのである。

このように、慣習的段階の発想が既存のゲームにおいて成功しようと策を練るのにたいして、後慣習的段階の発想は既存のゲームをゲームと看破して、必要であれば、それそのものに異議を唱えることになる。
真剣にゲームに興じている者には、そもそもそれがゲームであることに気づくことすらできず、全存在を賭して、そこで勝利を収めることに腐心することになる。他者がゲームの終了を告げる笛を鳴らしてくれるまでは、自力ではプレイを終えることすらできない。
後慣習的段階とは、はじめてみずからの意思でそうしたゲームから降りることができる段階であるとさえいえるのである。

今日の社会状況は、近年の諸々の論考の中でケン・ウィルバーも指摘しているように、既存の価値観や世界観――そして、それに立脚した支配構造――が徐々にその「正当性」(legitimacy)を失いはじめている時代であるといえる。
その背景には、いうまでもなく、インターネットをとおして自由に情報が流通するようになり、これまでに排除されていた情報に人々が比較的に簡単にアクセスできるようになったという事情がある。
日本においては、「記者クラブをはじめとする中央管理機関の指示を受けて、「大本営発表」を半ば機械的に発信することで成立していた報道体制にたいする信頼が喪失していることは、もはやあきらであろう(実はこうした状況は、欧米でもそれほど変わらないことは、たとえばNicholas SchouがSpooked: How the CIA Manipulates the Media and Hoodwinks Hollywoodの中で克明に論じている)。
また、たとえば、先日 OXFAMが告発したように、極少数の人間が地球の富を独占的に所有する極度の格差社会が出現していることが露わにされ、慣習的段階の人々が信奉していた価値観・世界観が根本的な問題を内蔵していたことが認識されはじめている。
当然のことながら、こうした状況の中では、既存の支配構造の中で恩恵を受けてきた階級の関係者は、さらなる価値観・世界観の動揺を回避しようと策を練ろうとする。
周知のように、2001年の「同時多発テロ」以降、合衆国内では徹底的な監視制度の整備が強力に推進されている。また、日本国内では、特定秘密法・共謀罪等の性格を同じくする法律が施行・検討されている(こうした日米間の監視社会の感性に向けた連携については、たとえば、先日、The Interceptが非常に興味深い調査報道記事を発表していた)。

こうした状況を眺めると、われわれは今まさに慣習的段階の認知構造の行動論理が限界をむかえる時代に生きているといえるのかもしれない。
ただし、こうした状況は、インテグラル・コミュニティの関係者が主張するように、必ずしも集合意識の進化により牽引されているわけではない。
むしろ、それは純粋にICT技術の進化により牽引されているものである。
実際、インテグラル・コミュニティの関係者の主な関心は、あくまでも発達理論を同時代の中で展開されているゲームの中で成功を収めていていくためにどのように活用できるのかというところにあるのであり、そもそもそうしたゲームの背景にある価値観・世界観そのものに批判的な問題意識をいだき、その超克にいかに寄与できるかという発想はほとんどできていない。当然、今日 価値観・世界観の正当性をめぐり惑星規模で展開されている「抗争」についても半ば無関心を決め込んでいる。
その意味では、発達理論に関心を寄せていても、実はその真意をとらえそこねてしまっているのである。
しばらくまえに、ある発達心理学者が「インテグラル・個コミュニティの重心は合理性段階にある」と語っていたが、それは正に的確な指摘である。発達理論に興味をいだくことは、その本人の認知能力が高いことを保証するものではないのである。

先述のように、ケン・ウィルバーが、「インテグラル」であるとは「政治的」であることだと言うとき、そこで意味されているのは、単純にいわゆる「政治的」であるということではない(もちろん、それを排除するものではない)。
むしろ、社会において集合意識を呪縛する価値観や世界観の正当性をめぐる抗争が恒常的に展開されていることを認識して――それは必然的に既存の価値観や世界観に埋没することを拒絶することである――その問題にたいして主体的に責任をとろうとすることである。
後慣習的段階とは、そうした責任感に支えられたものであろう。

発達がもたらしてくれるもの……(3)

巷では、批判的思考力を鍛錬するための方法として「前提条件を疑え」と訓えられる。
しかし、これは往々にして所与の目標や目的を温存したまま、あくまでもそれを実現するための方法上の制約にたいして疑問を抱くようにという訓えとして理解されるようである。
いうまでもなく、それは慣習的段階の枠組の中の理解である。
後慣習的段階の意識をとおして批判的思考をするときには、みずからの思考を動機づけている心理的な動機や物語や欲求そのものにたいして内省しようとする。
即ち、われわれの価値観や世界観そのものを意識化して、それが自己の思考に大きな影響をあたえていることに気づこうとする内向的な探求にとりくもうとするのである(たとえば、環境経済学の大家であるHerman Dailyは、われわれが分析的な思考をはじめるうえで基盤としている価値観や世界観のことを“pre-analytic vision”と形容しているが、後慣習的な発想とは、正にそれを意識化しようとするものなのである)。
こうしたことを踏まえると、「後慣習的段階に到達することで、仕事ができるようになる」という発想そのものがいかに的外れなものであるかが理解できるだろう。
むしろ、後慣習的段階の人間は、そもそも人間の成長というものを半ば自動的に営利活動に従事するための優位性を高めるための「方法」として道具化してしまう自己の嗜好そのものを意識化・対象化して、それについて批判的に検討するはずである。
また、その過程の中で、自律的であるはずのみずからの精神活動が実は時代や社会の圧倒的な影響下で営まれていることに気づくことになるだろう。
端的に言えば、Max HorkheimerとTheodor W. AdornoがDialectic of Enlightenmentの中で分析したように、人間の存在そのものが経済的な活動に効率的・効果的に従事するための「資源」や「道具」として位置づけようとする現代社会の支配的なイデオロギーの枠内で「自律的」に思考していたということに気づくはずである。
また、そうした気づきにもとづいて、真の自律性を確立するための探求にとりくもうとするだろう。
もちろん、ときには、そうした気づきを得たうえで、それでもなお同時代のイデオロギーの枠の中に安住することを選択する場合もあるだろう。
しかし、それは、迷信を迷信と認識しながらも、周囲との協調を図るために、表面上はそれを信奉して生きるふりをするようなもので、そこには必ずそうした生き方をすることを意識的に選択するという高次の要素が加わることになる。
つまり、自身が参加しているものが、「虚構」(game)であることを認識しているのか、あるいは、それを現実と錯覚しているのかという決定的な差が生まれるのである。

いずれにしても、後慣習的段階の認知構造をそなえた人間はどのような行動をするものなのかという問いに答えようとするとき、われわれは、その独特の「醒め」がもたらす洞察に留意する必要がある。
それは、単純に所与の価値観や世界観の中で「活躍」「成功」しようとするのではなく、そうしたものそのものを豊かな批判精神を発揮して脱構築して超克しようとする。
あえて言えば、それは、発達することで業績を上げようとするような発想とは正反対のものであるといえるだろう。
むしろ、後慣習的段階の認知構造は、人間の成長衝動を悉く経済的な論理に絡めとってしまう 惑星規模で人類を集合的に呪縛するシステムを脱却するための道を模索しようとする。
思想家のケン・ウィルバー(Ken Wilber)は『進化の構造』(Sex, Ecology, Spirituality)の中で「フラットランド」(flatland)という概念を呈示して、現代という時代が――貨幣に代表される――量の論理にもとづいて世界を矮小化する深刻な病に冒された時代であることを示したが、結局のところ、後慣習的段階の認知構造に立脚して発想するとは、フラットランドを超克するための闘いを展開することになるのである。

(つづく)

発達がもたらしてくれるもの……(2)

「後慣習的」(post-conventional)という言葉を理解するときに、先ずはそもそもそれにどのような意味が籠められているのかを再確認する必要があるだろう。
“conventional”という言葉は、普通 「慣習的」「常識的」と翻訳されている。即ち、ある社会や時代の中で常識として確立されているされている価値観や世界観に立脚して思考・行動する在り方――というような意味が含意されているのである。
もちろん、時代により、社会で共有される常識の内容は変わるものである。
たとえば、昔は社会の中で共有されていた価値観や世界観を純朴に信じることが「常識的」であったとしても、今はそうしたものをある程度の批判精神をもって検討・検証できることが常識的であるとされる。
その意味では、時代に変遷にしたがい「常識」として個人に求められる能力は変化するのである。
学問としての発達理論が本格的に成熟したのは、20〜21世紀であるが、この時代において、「慣習的」「常識的」という言葉で意味されるのは、ロバート・キーガン(Robert Kegan)が第3段階(third order)〜第4段階(fourth order)と呼んでいる発達段階のことである。
簡単に言えば、第3段階は、所属する共同体で共有されている価値観・世界観を無批判に受容して、そこであたえられる規則や役割を奉じて自己を確立する在り方である。そして、第4段階は、第3段階と同じように、所属する共同体の中で共有されている価値観・世界観を暫定的なものとしてとらえ、自律的・批判的な思考を発揮して、それを修正・刷新できる在り方である。
著書In Over Our Headsの中でキーガンが述べているように、確かに、先進国においても、第4段階に到達する人々の数はまだ少数であるが、実際には、企業組織等においてはそうした意識が要求されはじめていることは明らかである。
また、そうした状況を背景として、高等教育や成人教育のカリキュラムは、基本的には、この段階の意識を確立するために設計されている。
ただし、第4段階において獲得される自律的・批判的な思考というのは、思考という行動をはじめるにあたり、自己を呪縛している――半ば無意識的な――諸々の前提条件を意識化することはできないといわれる。即ち、自身が発揮している自律的な精神活動というものが、実際にはそうした無意識の領域の要因に強力に縛られていることには、総じて無自覚なのである。
自己の無意識の領域にたいする旺盛な興味というのは、往々にして、第4段階を超えていくときに先鋭的に出現するものだといわれるが、そこには自身の精神が真に自律的に機能しているという常識的な信念が幻想であることを察知する洞察が息づいているのである。
それゆえに、自己をそうした幻想の中に呪縛する意識されていない諸要因を積極的に探求しようとする衝動がめばえるのである。

このように考えると、発達理論というものをどのようにとらえているかを観察すると、その人の思考の質をある程度推測することができるのかもしれない。
こうした理論を前にして、それに自身が投影している期待や希望にほとんど無自覚である場合、現代においては、「発達することにより社会的な成功を獲得することができるはずだ」という物語を安易に信じ込んでしまうことになる。
逆に、自身のそうした投影に自覚的であれば、そうした投影をすることが対象に関する理解を歪めてしまうことに気づけるし、さらには、そもそもそうした投影をしているじしんの内面に刷り込まれている価値観や世界観について積極的に思いを馳せることができる。
第4段階においては、自律的・批判的な思考を発揮して所属する共同体の中で共有されている価値観・世界観を修正・刷新できるようになると述べたが、
第4段階をこえると、それまでに自身が発揮していた「自律的・批判的な思考」といわれるものが果たして真に自律的・批判的なものであったのかということを問うことができるようになるのである。
そして、また、そうした思考を駆使して、実現しようとしていた変化や変革といわれるものが、そもそも妥当なものであったのかということを根源的に問うことができるようになるのである。
換言すれば、それまでに善かれと思い懸命に追求していた理想や目標や目的が、実は時代・社会の中でひろく共有されている価値観や世界観にもとづいていたことに――実質的に、自身がそうした時代・社会の価値観や世界観に操られていたことに――気づき、そうした状況と対峙・格闘できるようになるのである。
思想家のケン・ウィルバー(Ken Wilber)が指摘するように、こうした内的な葛藤をとおして、われわれはいわゆる実存的な課題と直面することができるようになるわけであるが、実は第5段階というのは、そうした深い精神的な探求ができるようになる段階なのである。
そうした段階に到達することで、業務上の能力が高めることができるという主張は、あまりにも短絡的であるだけでなく、発達をするということの本質を完全に見落とした発想といえるだろう。
(もちろん、高次の発達段階を確立することで、業務上の能力が向上した事例があることは否定しないが、そこには単純に第5段階を確立したことだけでなく、それ例外の多様な人格的な要素を調整・鍛錬・統合した結果としての独自の性格があることに着目する必要があるだろう)。

 

(つづく)

発達がもたらしてくれるもの……(1)

先日 様々な業界の企業組織で人材育成や組織開発に携わる関係者が集まり食事をした。
近年 にわかに注目を集めているロバート・キーガン(Robert Kegan)の発達理論の話題を中心に会話が進んだのだが、そのなかで、いわゆる「後慣習的段階」(post-conventional stage)に意識の重心が移行していくことで、個人の世界観や価値観にいかなる変化が生まれるのだろうか……という議論になった。
数年前にキーガンの『なぜ人と組織は変われないのか』(Immunity to Change)が日本語に翻訳されたあと、発達理論に興味をもつ人が急激に増えてくれたのは嬉しいのだが、読者の方々と話をしていると、「発達」というものにたいして実にいろいろな勝手な期待や夢や希望を投影していることに気づかされる。
たとえば、発達段階が高くなると、業務遂行能力が非常に高くなるとか、人徳者になるとか、あるいは、「幸福」になれるとか……
もちろん、発達段階の高まりがそうした効果をもたらす場合もあるのだろうが、少なくとも、「発達段階が高くなれば、そうした効果がもたらされる」というような因果論的な主張をするのは、大きな間違いである。
しかし、実際には、例のKeganの書籍を読んで大きな感銘を受けている人達の中には、そうした解釈をしている方々が結構存在するようなのである。
Suzanne R. Kirschner(1996)のThe Religious and Romantic Origins of Psychoanalysis: Individuation and Integration in Post-Freudian Theoryには、心理分析というものが、人間がみずからの「堕落」(the Fall)した存在としての実存的状況を克服しようとする宗教的な衝動を成就するための装置として機能していることが指摘されているが――これは心理学全般にあてはまるのではないだろうか……――発達心理学のモデルを目にすると、われわれは無意識の内にそこに救済に至る道が示されているように思い込んでしまうのである。
しかし、実際に発達心理学の調査・研究に携わる関係者の話に耳を傾けると、このようにわれわれの意識の奥深くに息づいている救済への期待や衝動を発達という概念の上に投影するのは、少々無理があるようである。
とりわけ、今日においては、救済というものが、個人としての「能力」や「財産」を豊かにすること(例:「業務能力が高まること」「生産性が上がること」「稼ぐ能力高まること」)といった現世利益的な価値体系と密接に結びついて解釈されてしまう傾向があるので、結局のところ、発達という概念が企業人としての“performance”が上がることであると理解されてしまう。
しかし、実際には、発達することが、そうした実利的な利益をもたらすことになると結論するのは、あまりにも短絡的であるし、それ以上に、人間の内的な領域の変化・変容を、ある特定の時代・社会(現代の資本主義社会)を支配している特殊な価値観にもとづいて説明してしまおうとするのは、あまりにも傲慢であろう。
厳しい言い方をすれば、そうした発想そのものが、自己の生きる時代や社会を相対化できない認知上の幼稚さを示しているのではないかとさえ言えるだろう。
ただ、こうした誤解が広範囲で起きている背景には、それなりの事情があるのも事実である。
たとえば、上記のRobert Kegan自身も、著書の中で「発達をすれば仕事ができるようになるのです」と断言してしまう等、発達理論にたいする興味を喚起することに躍起になるあまり、読者にたいして安易に甘い夢を売ろうとしてしまっているのである。
結局のところ、こうした状況というのは、本質的には、思想家ケン・ウィルバー(Ken Wilber)が「フラットランド」(flatland)という概念を呈示して指摘したように、数的に計測できるものだけしか価値として認識しようとしない現代という時代の病理そのものを浮き彫りにする端的な事例である。
端的に言えば、「それはわれわれの金を稼ぐ能力の向上に寄与するのか?」という問いにもとづいて、あらゆる概念や洞察の価値が決めてしまう現代の倒錯性が――本来であれば、そうした時代の病理と対峙する精神を涵養するための示唆をもたらしてくれるはずの――皮肉にも、発達という概念にも持ち込まれてしまっているのである。
それでは、いわゆる「後慣習的段階」(post-conventional stage)に意識の重心が移行していくことで、個人の世界観や価値観にはいかなる変化が生まれるのだろうか?

(つづく)

 

芸術と意識の変容

先日 ロンドンに一週間ほど滞在したのだが、そのときにあらためて街が宗教的なシンボルに埋め尽くされていることに静かな衝撃を受けた。

そこがまさしく宗教国であることを実感した。

宿泊したのがSt Paul's Cathedralの脇にあるホテルだったこともあるのだろうが――一日をとおして頻繁に大音量で鐘が鳴らされる――それにしても、これほどまでに隅々に宗教的な視覚的シンボルが配置されていることには驚きを受ける。

今回は、滞在中に時間を見つけてTate ModernとTate Britainという二つの美術館に脚を運んだのだが、とりわけ現代美術作品を眺めていると、それらの作品が、こうした文化的な文脈のなかで、それと対峙するなかで生みだされたものではないかという感覚が自然に沸いてきた。

旅行者として眺めるだけであれば、諸々の宗教的なシンボルは単なる物珍しいものでしかないかもしれないが、そこに暮らす人々にとっては、それらは圧迫感を帯びてその精神に迫ってくることだろう。

たとえそれがどれほど深い意味や価値を顕すものであろうと、これほど高い密度で生活空間を満たしていると、自然とそれは自己を呪縛するものと感じられ、いずれは対峙と抵抗の対象としてみなされることになるだろうと思う。

また、それらのシンボルが、正にそれらが豊饒なものであるがゆえに、人間の意識に堅固な秩序をあたえてくれる結果、その反作用として、人々はそれに窒息感を覚えるようになるのだろう。

現代美術に息づく破壊衝動は、そうした意味では、共感できるものである。

人々は、自己をとらえる世界観そのものを揺さぶり、自己の感覚を解放したいと希求するのである。

しばしば言われるように、優れた芸術作品は鑑賞者の意識の変容を促すが、現代美術館に並べられた作品を眺めていると、確かに自己の意識が作品を注視している自己そのものにも自然と向かうことを自覚する。

そして、そうした瞬間には、周囲の空間そのものが――そこに集うた他の鑑賞者もふくめて――異なる質感をもって意識に映じはじめる。

そんなとき、われわれは自己の意識を変容させることができるなら、この世界そのものを芸術的に視ることができるのではないか……と束の間のあいだ信じることができるのである。

Wigmore Hallでの演奏会

先日、ロンドンに出張した折、Wigmore Hallで開催された現代音楽の演奏会を訪れた。

UKの同僚が過去に演奏家として活動していたということもあり(また、夫君は現代音楽の作曲家である)、食事をしながら、いろいろと音楽談義をしたのだが、そのときに「Wigmore Hallの演奏会は基本的には音楽関係者に向けた玄人好みのものであり、おもしろいものが多いので、ぜひ行くといいよ」というアドバイスをもらい、ちょうど滞在中に開催されたこの演奏会に参加してきた。

 

Birmingham Contemporary Music Group; Timothy Redmond; Calder Quartet; Thomas Adès; Nicolas Hodges

 

この日は、イギリスの現代作曲家であるThomas Adesの特集が組まれており(演奏会では本人がピアノを演奏していた)、昼の部と夜の部の二部構成で演奏会が企画されていたのだが、わたしは昼はTate Brittenを訪れ、その脚で夜の部に行った。

当日の聴衆は幅広い年齢層で構成されていたが、同僚が述べていたとおり、総じて音楽を聴き慣れている人達であることが感じられた(ちなみに、隣に座っていた老婦人は、その長年にわたる現代音楽にたいする貢献を評価され、演奏会の途中でRoyal Philharmonic Societyに表彰されていた)。

ここで演奏された作品は、ヤナチェックの作品を除いては、基本的に理知的にたのしむべき作品ばかりで、必ずしも心地よく陶酔させてくれるものはなかったのだが、非常に熱心に聴きいっていた。

 

簡単に感想を書き留めておきたいと思う:

・この演奏会の演目は数分の短い断章(fragments)で構成される作品ばかりであったが、このようにあらためて意識的に聴いてみると、断章というものが内包する力を実感をすることができる。断章というのは人間が生きているなかで束の間に経験する感覚や想念を素朴に作品として結晶化するために実に適した形態であることが実感されるのである。そうしたものを古典的な作品にあるような論理的な構造の中で表現しようとしても、そこには無理が生じることになる。実際、人間の日常は泡沫のように生まれては消えていく刹那的な感覚の連続ともいえるわけで、それを論理的に展開させるのではなく、あえてありのままに作品として結晶化させておこうという態度は自然なものだと思う。また、それらを大きな論理的な構造をもつ作品の素材として用いようとすれば、それらはもはや異なるものに変質してしまう。

特にクータッグの作品は断章というものの魅力を見事に伝えていたと思う。

・Gramophone等の雑誌を眺めている、英国では現代音楽が比較的に熱心に支持されているという印象を抱かされるのだが、しかし、実際にそこで紹介される作品を聴いて、大きな感銘を受けることはあまりない。この演奏会で特集されていたThomas Adesの作品にも、個人的には、まったく感銘を受けなかった。周りの聴衆は熱い拍手を送っていたが、「果たしてこんな作品のどこがいいのだろう……?」とひとり醒めていた。現代音楽にありがちではあるが、作品中には他の作曲家の作品が引用されるが(今回はベートーヴェンの弦楽四重奏曲)、それが終わると、作品は再び異様につまらなくなってしまう。皮肉にも、古典を引用することで、両作曲家の音楽の訴求力が圧倒的に違うことが露呈してしまうのである。

・いずれにしても、こうした演奏会を聴いていると、確かにクラッシック音楽は大きな袋小路にはいっていることを実感させられる。しばらくのあいだは、ある程度の知的なたのしみはあたえてくれるのだが、われわれが音楽というものに求める存在の深いところに響いてくる感動をあじあわせてくれることはない。端的に言えば、音楽ではなく、音響という素材を用いた実験の結果を聴かされている気持ちになるのだ。

『この世界の片隅で』を観て

先日出張した際、飛行機内で話題の『この世界の片隅で』を観た。

都内では公開劇場があまりなく、観たい観たいと思いながらも、機会をみつけることができずにいたのだが、ようやく観ることができた。

正に珠玉の作品である。

 

「われわれの心を揺り動かすのは、この作品に息づく郷愁なのではないか」というのが、まず最初に思ったことである。

即ち、主人公・すずのような人が幸福に生きることができた時代にたいする郷愁である。

現代は誰もが勉強をすることや出世することや成長することに四六時中追われているが――愚かにも、それが幸せになるための道であると思い込まされている――そうした倒錯した常識が人間の心を完全に呪縛するまえの時代にたいする望郷のようなものをこの作品はわれわれの内に喚起してくれる。

周知のように、そうした時代は急速に失われてしまい、われわれは彼女のように心穏やかに生きることを許されなくなってしまったが、まさにそれにゆえにわれわれは彼女にありのままで幸せになってほしいと応援したくなるのだと思う。

 

ただ、いっぽうで、彼女のように、世界の片隅に生き、そこだけを意識しているだけでは、自己――そして、愛する人々――に降りかかってくる理不尽な暴力にたいして無防備になってしまうのも事実である。

そして、彼女もまたそうしたみずからの無防備にたいして、みずからの体と心に深い傷を負うことをとおして贖わされることになる。

終戦の玉音放送を聞いたときの主人公の悲痛な叫びは、それまでに抑えられていた悲しみや苦しみに声があたえられた瞬間であり、それは彼女の中にはじめて時代や社会に目を向け、それらと対峙する力が芽生えたことの証でもある。

ただし、それは、成長といわれるものがしばしばそうであるように、悲しい成長であることはまぎれもない事実である。

それは、間違っても彼女が望んで得たものではないのである。

 

結局、「彼女のような人が穏やかに生きることができる平穏な世界が続いてほしかった」というわれわれの想いは叶うことはない。

残念ながら、世界はそれほどまでに寛容な場所ではないのである。

われわれにできるのは、作品の最後に再出発をする彼女の幸福を願うことくらいである。

そして、それは彼女の存在が象徴するものが、失われることなく、この世界に在りつづけてほしいというわれわれの願いそのものでもある。

 

視聴者は、この作品を鑑賞しながら、主人公の生きた幸福な世界を守りたいという想いを抱くと共にそのためには自分自身はそうした幸福な世界に安住することはできないことに気づかされることになる。

言い換えれば、作品は、世界の残酷に目覚めながらも、自己の内に幸福な世界を護りつづけることの重要性を訓えてくれるのだと思う。

ほとんどの現代人のように、徹底した「現実主義」(合理主義・数値主義・上昇主義)になるのではなく、自己の内にすずを抱きつづけることのたいせつさを訓えてくれるのである。

実際には、この残酷な世界においては、すずの世界に安住できる人はいないのかもしれない。

しかし、そうした世界を自己の内に維持しつづけることはできるのだと思う。

企業という文脈における人間の発達について

発達心理学(具体的には、Harvard Graduate School of EducationのRobert KeganKurt Fischerが提唱するconstructive developmental psychology)について企業関係者と議論をするときにしばしば話題となるのは、「企業という環境に生きる者が、後・慣習的段階(post-conventional stages)に到達することは、却って逆効果をもたらすのではないか……」という問いである。
後・慣習的段階の特徴は、社会で信奉される価値観や世界観を対象化してそれを批判的に検証できることにあるが(「脱構築」)、そうした能力を獲得することは、個人に所与の条件としてあたえられている目的や目標や物語そのものを根本的に問い直すことを可能とするために、結果として、企業人として求められる思考や行動をすることを難しくしてしまうことになるのではないか?
実際、In Over Our Headという著作の中でRobert Keganも述べているように、発達段階が後・慣習的段階に近づくと、多くの人が企業人としての立場を離れて、たとえばフリーランスとしての立場を選択するようなことがあるようである。
特定の組織に所属することを生活の基盤とするのではなく、人生という大きな文脈の中で働くということをとらえなおすようになるなかで、半ば持続的に組織にコミットして、その制度の中で自己を実現していくことの妥当性そのものが疑問視されるようになるのである。
たとえば、その組織において繰りひろげられる昇進競争そのものがひとつの虚構であることが認識されてしまうために、それとの関連において人生を意味づけてしていくことに醒めてしまうのである。
その意味では、確かに後・慣習的段階の認知構造は、企業組織に生きることを難しくする可能性を内包しているといえるだろう。
また、Abraham Maslowが指摘するように、そうした認知構造を確立しながらも、企業組織に生きることを決断している人の場合には、そうした自己の異端性をあからさまにすることなく、慣習的な物語の中に巧みに適応していることだろう。

過去においては、後・慣習的段階というのは、いわゆる「引退」をしたあとに、そうした世俗的な物語を離れて、残された短い時間の中で自己の実存的条件(死)と向き合いながら涵養される意識であった。
しかし、社会的・時代的な理由により、そうした発達段階が人生の晩年を迎えるまえの段階において発現するようになった結果として、そうした状況におかれた人々が、少数者として精神的な苦悩を背負わされるようになっているのである。

このように考えると、成人期の発達の問題とは、発達がもたらす特殊な精神的な苦悩をいかにケアするかという視点をとおしてアプローチされるべきものであるといえるだろう。
残念ながら、国内・国外でも、「認知構造を後・慣習的段階に向けて発達させることにより、職業人としてのパフォーマンスを高めることができる」という物語が独り歩きしているが、実はそれは倒錯したもので、むしろ、われわれが関心を向けるべきは、発達の結果としてもたらされる精神的な苦悩や危機にたいする対策を講じていくことなのではないか……。
 

ケン・ウィルバーの最新インタビュー

Trump: The Anti-Green Backlash Begins

 

ケン・ウィルバーの最新インタビューである。
先日発表した“Trump and a Post-Truth World: An Evolutionary Self-Correction”に関する解説をこころみている。
Integral Instituteの関係者が今日の社会動向をどのようにとらえているかを掴むことができるので、参考までに、インテグラル理論に興味のある方々はとりあえず聴いておいていただきたい。

 

ただし、少し辛辣な表現になるが、この対話は、一貫して(今日 インテグラル・コミュニティで受容されている)いわゆる「インテグラル・フレイムワーク」を無謬のものとして奉じる信奉者による対話であり、これまでに無数にくりかえされてきたのと同様の分析が半ば予定調和的に呈示するだけのものに終わっている。
もちろん、集合意識に関するひとつの分析としてはそれなりにおもしろくはある。
実際の政治そのものに言及することはまったくできていないので、結局のところ、素人による少々知的な床屋談義の域を出ないのである。
とりわけ、これだけWEB上で調査型ジャーナリズム(investigative journalism)が充実しているなかで、普段からそうした情報に注意を払っている方々には、ここで展開されている議論というのは、あまりにも具体的な情報に乏しく、また、そうした主流の報道番組でとりあげられる以外の情報を少しでも真剣に調整をした痕跡さえないので、馬鹿馬鹿しくてつきあいきれないと感じられるだろう。

この対話の中でも述べられているように、インテグラル理論の特徴のひとつは、事象と距離をとり望遠することで全体のパタンを把握するということにあるが、ただ、それはまた具体的なことに関して地道に調査をするということにたいして関係者を怠惰にさせてしまう危険性を内包している。
そうした情報を調べなくても、漠然とマクロな動向を把握できているという幻想を関係者にあたえてしまえるので、それらしいことを言えてしまえるからである。
この対話には、そうしたインテグラル理論が内包する危険性が露呈しているように思われる。

ジョージ・オーウェルの『1984』

今ジョージ・オーウェル (George Orwell)(1903〜1950)の『1984』が国内外でとても売れているという。
わたしも以前より読んでみたいと思っていたところだったので、その朗読版をMP3で聴いてみた。
小説という体裁は採っているが、実質的には研究書というべき作品のように思われるが、いずれにしても、半世紀以上もまえにこれほど鋭く人類社会の行く末を予言的に描いた作品が存在したということに素直に感嘆した。
随所にすばらしい洞察が散りばめられている。
今回はそれらを書き留めておくことができなかったので、あらためて書籍をとりよせて精読してみたいと思う。

この半世紀もまえの作品が突然に注目を集めている背景には、いうまでもなく、合衆国の大統領にドナルド・トランプが就任したことがある。
ただ、個人的に不思議なのは、このような現象が、バラク・オバマが就任したときには起きなかったことである。
両大統領は共に――微妙に性質が異なるとはいえ――いわゆる“Big Money”(“deep state”)の後押しを受けて、そうした勢力の指示のもとに政策を展開している(c.f., Donald J. Trump and The Deep State by Prof Peter Dale Scott)。
表面的には異なる衣装を纏っているとはいえ、実質はそれほど変わらないのである。
とりわけ、オバマの場合には、公の場におけるその発言が進歩派受けするものに仕立てられていたために、大きな誤解を生んだが、その本質は徹頭徹尾徹その「主人」に尽くすもので、その目的は一貫して世界の富を極少数の寡頭勢力(oligarchy)のてに極度に集中させることであった(c.f., Obama: A Legacy of Ashes)。
大衆はそうした印象操作に実に見事に騙され、これほどまでに政権の悪質性を指摘する分析がWEB上に掲載されても、いまだに状況を把握できずにいる。
「1984」のような著作を読むというのは、まさにこうした表面的な印象操作に呑み込まれることのないように、鍛錬するということである。
自己の意識そのものが操作の対象として位置づけられ、そのための制度や方法が体系的に張り巡らされていることを意識して、その具体的な実情を理解・洞察し、また、そうした状況の中で自己の尊厳を守るための術を見出そうとすることである。
ただ、今回のような流行を眺めていると、結局のところ、この作品も、他の無数の商品のように、単に消費され忘却されていくのだろう……。

『1984』を執筆した当時オーウェルが想像していなかったであろうことは、支配というものは、作品の中にあるような強圧的なものである必要はなく、むしろ、支配されている者達に、みずからが支配されていることを意識させないような巧妙なものとして設計することが可能であるということだろう。
たとえば、現代においては、先進国に住むほとんどの人達は、みずからが半ば完全な自由を謳歌していると思い込んでいる。
しかし、同時に、われわれは、わずか数人の個人が地球の富を占有する窮極的な階層社会に生きている(Just 8 men own same wealth as half the world)(また、こうした調査は、あくまでも調査の対象となりえる人物のみを対象としたものでしかない)。
当然のことながら、そうした少数の人物、及び、関連組織が社会にたいして不当に巨大な影響を及ぼすことになる。
そして、そうした影響のもとに策定される諸々の政策・施策は、あたかも民主的な合意形成のプロセスを経て形成されたものであるかのように思い込まされ、推進されていく。
そうした現実と直視することなく、自由という虚構に浸りつづけることを可能とするのが、今日の支配の本質なのである。
その意味では、この作品にあるような露骨な統制や暴力がないぶん、その事実はより意識化しにくいものといえるだろう。
『1984』は、そうした同時代の意識の統制にたいして意識を向けるための契機をあたえてはくれるが、その洗練された性質を十分に照明してくれるものではないのである。