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Orangeの真の可能性に気づくこと

先日は、長年にわたりIntegral Japanで活動を共にしている後藤 友洋さんのインテグラル・エジュケーション講座に出席してきた。
後藤さんは国内でも最も優れたインテグラル理論の理解者のひとりだが、彼の場合、長年にわたり教育の現場に身を置いて実践を重ねているために、事例も豊富で、その説明に非常に説得力がある。
話もじょうずで全く飽きさせない。
この連続講座も、会を重ねるごとに参加者の理解が確実に深まっていくのが感じとれる。

 

ところで、今日の話題のひとつとなったのは、「現在、“Green”や“Teal”として分類されている諸々の現象は果たしてほんとうにGreenやTealなのか? むしろ、それはOrange段階の現象として理解されるべきなのではないか?」というものであった。
こうした疑問が沸いてくる背景には、現在の社会に於いてOrange段階そのものが「フラットランド」(flatland)の影響下で非常に病理化しているということがある。
そうした病理があまりにも深刻であるために、Orangeの可能性が悉く歪曲され破壊的なものに結実してしまっているために、Orangeの価値や利点が酷く覆い隠されてしまっているのである。
こうした時代的な状況のなかで、その限界をのりこえようと、さまざまな画期的な施策や発想がこころみられているわけだが、それらを子細に眺めていくと、ほとんどの場合において、そこで活用されている思考や発想の型はOrange(Advanced Linear Thinking)であるように思われるのである。
呈示されている具体的な施策はなかなか斬新ではあるが、そこで用いられている思考の「形態」(form)そのものはOrangeなのである。
それらの施策が非常に斬新なものにみえるのは、それらが真に健全なOrangeの思考を発揮しているからである。

実際のところ、われわれは健全なOrangeが発揮される場面に出会うことはほとんどない。
健全なOrangeと出会うとき、それがあまりにも馴染みのないものであるために、われわれの目にはあたかもそれが全く別次元のものであるかのようにみえることになる。
それほどに現代のOrangeは極度に病理化しているのである。
社会そのものが「フラットランド」に徹底的に冒されている状況に於いて、それに感染せずに健全なかたちで発揮されているOrangeとはどのようなものか? と問われると、われわれには想像もできないのである。

結局のところ、真に重要なのは、高次の思考や発想を発揮することではない。
真に重要なのは、真の治癒や成長を実現するためにこの時代が必要とするものを実践することである。
そして、実際のところ、いまわれわれが必要としているのは、高い次元の思考や発想ではなく、今日の社会を支配する思考や発想の形態を健全なものに治癒することなのである。
ある程度の健全性を回復しないままに高い次元をめざしても、それは失敗に終わるだけである。
そして、そうした治癒的なとりくみに、GreenやTealといった名称があたえられているということなのだろう。

しかし、裏返して言えば、これは、いわゆる「Orange」(Advanced Linear Thinking)の潜在性をわれわれはまだまだフルに利用しきれていないということでもある。
「フラットランド」の拘束のもと、非常に限定的にしか用いていなかつた能力を健全な方向で運用すると、そこには非常に異なるが生み出しえるのである。

 

思想家のケン・ウィルバーも指摘していることだが、目の前であたらしいことが起こると、人はそれが歴史的に画期的なイベントであると思いがちになる。
人は自分が特別な時代に生まれあわせていると思いたいものなのである。
それは人の性のようなものなのかもしれない。
こういう事情もあり、われわれは目の前にあるあたらしいものにGreenやTealといった名称をあたえたくなるのだろう。

成人発達理論を巡る「都市伝説」


先日、Human Potential Labの御招きで、懇意にしている編集者の方と一緒に、インテグラル理論の導入的な講義をした。
特に現在注目を集めている成人発達理論に関しては、いろいろな「都市伝説」が蔓延しているので、そうしたものに惑わされないように特に重要な留意点について紹介したのだが、参加者の方々が思いの外に心を開いてそうした指摘を開いてくれたことは嬉しい驚きだった。
想像するに、これまでに無数の「経営書」や「成功哲学」を通してそこで紹介されている「夢物語」に触れ繰り返し幻滅をあじわうことで、人間や社会というものがそうそう簡単に変わるものではないことをある程度認識している人が増えているのだろう。
端的に言えば、社会の価値観や世界観が大きく変わるためには数世紀の時間が掛るのであり、その枠組の中で生きざるをえない個人は、たとえどれほど進歩的な価値観や世界観をそなえていようとも、そうした社会的・時代的な文脈と交渉をして生きていかないといけない。
その交渉の在り方はいろいろとあるとしても、過去の発達心理学者達が注意をしているように、そうしたスキルなしに発達理論にいれこむのは危険だということだ。
また、「……段階に到達すると……ができるようになり、社会的な成功を収めることができるようになるはずだ」という「物語」を安易に奉じるのも危険なことで、実は発達が成功や幸福を保証するものではないことは既に指摘されているところである。
これまで長年にわたりインテグラル理論等を勉強してきた友人と話をすると、そもそも「組織」(自己の所属する組織)を主語にして「ティール」(Teal・Advanced Systems Thinking)について云々することそのものに違和感を覚えるという意見をよく聞くのだが、実際正にそのとおりで、この段階の思考の特徴は、個人や組織や社会を呪縛するマクロ的な構造そのものを対象化して、それについて批判的に検討するところにあるので、単純にその構造の中で成功を収めようとする発想とは縁遠いものなのである。
こうしたポイントについて噛み砕いて説明をしたのだが、それほど違和感なく話を聞いていただけたことには、正直なところ少なからぬ驚きを覚えた。

 

「享楽」という叡智――不思議な演奏会


シャブリエ:狂詩曲「スペイン」 Chabrier: España, Rhapsody for Orchestra
ピアソラ:バンドネオン協奏曲* Piazzolla : Bandoneon Concerto*
ベルリオーズ:幻想交響曲 op. 14 Berlioz : Symphonie fantastique: épisode de la vie d’un artiste, op. 14

指揮:ミシェル・プラッソン(Michel Plasson)
バンドネオン:小松亮太*

https://www.njp.or.jp/concerts/8667

 

ミシェル・プラッソン(Michel Plasson)&新日本フィルハーモニー(NJP)の演奏会を墨田トリフォニーで聴いてきた。
周知のようにプラッソンには膨大な数の録音があるが、生で聴くのは初めてである。
その音楽の特徴を一言でいえば、徹底して垂直性の希薄な音楽といえるだろうか……。
総じて深刻さとは無縁の音楽で、意味を追及しようという姿勢が全く感じられないことに、個人的には、演奏中に戸惑いと退屈を覚えた。
いわゆる高い精神性のようなものを求めると肩透かしにあうことになるが、それでは、それに替わる魅力があるのかというと、実はそうでもない。
確かに、いわゆる老匠の枯れたあじわいのようなものはあるのだが、果たしてそれがこの指揮者の円熟の徴なのかというと、それほどの深いものでもないような気がする。
たとえば、後半の「幻想交響曲」の冒頭では、実に落ち着いたテンポで音楽をはじめていくが、それが単に遅いだけで、この作品のあらたな魅力を開示してくれるというところには至らない。
また、そこには作曲者の狂気に迫ろうとする姿勢があるわけでもなく、85歳の老指揮者があえてこの作品をとりあげた意図は果たしてどこにあるのだろう……と聴衆を困惑させる。
もちろん、NJPの非常に献身的な演奏に支えられて、
演奏そのものは大きな違和感を感じさせることなく壮麗に展開していくのだが、結局のところ、指揮者の中にこの作品を演奏することの必然性が無いためなのだろう、どうしても細部の詰めが甘くなり、それが演奏に雑な印象をあたえてしまう。
個人的には、3月に川崎で聴いた東京音楽大学フェスティバル・オーケストラ(指揮は小林 研一郎)の演奏の方が数段優れていたと思う。
彼等の演奏には「幻想交響曲」という作品の本質に迫ろうとする姿勢が息づいていたし、また、その作品を演奏することの必然性(意味づけ)が十全にできていたと思う。
前半のシャブリエの「スペイン」とピアソラの「バンドネオン協奏曲」に関しては、作品そのものが純粋な娯楽性で聴衆を魅了するものであるために、プラッソンの音楽性に合致していたように思う。
ただ、協奏曲のソリストを務めた小松 亮太のバンドネオンには、この作品に必要とされる哀愁や倦怠感や焦燥のようなものが希薄で、少し厳しい言い方をすれば、無菌室で純粋培養された優等生の音楽という印象が拭えなかった。
第2楽章のバンドネオンの内省や楽章の末尾にハープが奏でる祈りなどは実に素晴らしく、それなりにたのしませてはくれるのだが、作品そのものの弱さを忘れさせてくれるまでには至らなかったように思う。

今日の演奏会で最も感動したのは、アンコールとして演奏された「カルメン」の前奏曲であった。
「幻想交響曲」を演奏したあとの会場の喝采を浴びる最中、突如演奏がはじめられたこの底抜けにあかるい音楽を聴きながら、不思議なことに、思わず泪が流れてきてしまったのだが、そこでこちらの心に届いてきたのは、「そんな生真面目なことはどうでもいいのだよ……」とでも言うように全てを笑いと喜びの中に包摂していく叡智であった。
こいい意味で享楽的な音楽性こそがミシェル・プラッソンという指揮者の個性であり、そして、それがひとつの境地として表現されたのが、あのカルメンの演奏だったのだろう。

 

紹介:「対局性の管理」のオンライン講座

前回の記事で紹介したように、成人発達理論において「Green」と「Teal」と呼ばれている段階は、共にシステム思考を効果的に活用する段階である。
とりわけいわゆる「弁証法」といわれている思考法は、この段階の思考を特徴的に示すものだが(特に基礎となるGreen段階の思考を体得するためには必須のスキルといえるだろう)、実際の課題や問題に対処するときにそれを活用するのは思いのほか難しい。
そこで「弁証法」を実務領域で活用するための方法として紹介したいのが、Barry Johnsonの「対局性の管理」(Polarity Management)である。
これについては『インテグラル・シンキング』の中でも簡単に紹介したが、今回、Integral Lifeでは、この方法をインテグラル理論の枠組にもとづいて発展させたBeena Sharmaを講師に迎えてオンライン講座を開催するという。
Beenaとは、昔Susanne Cook-Greuter博士のトレイニングを受けていたときに数年にわたり時間を共にしたが、非常に優れた実践家であるので、日本の関係者の方々にも是非紹介したいと思う。

 

INTEGRATING  POLARITIES
https://integrallife.com/polarity-wisdom-mechanics-of-integral-thinking/

 

「Green」と「Teal」の違いについて


現在、ひろく注目を集めている成人発達理論であるが、そうした文脈の中で高次の発達段階(post-conventional stages)として位置づけられる「Green」、及び、「Teal」といわれる段階の違いは非常に理解しにくいものである。
関連論文を紐解くと、共にシステム思考をその特徴とする段階であると説明されているが(前者はEarly Systems Thinking、そして、後者がAdvanced Systems Thinking)、同じ範疇にはいるものであるために、それらがどのように質的に異なるのかを問われたときに明確な回答が示されることは非常に稀である。
また、過去40年程にわたり、成人発達理論を参照して一般向けに紹介をしてきたケン・ウィルバー(Ken Wilber)の著書を見ても、両者の微妙な差異は――特に1990年代後半以降の著作に顕著であるが――過度に戯画化(単純化)されて紹介をしているために、大きな誤解を生んでいるように思われる。
共にVision Logic段階の範疇に含まれる非常に高度な認知能力を有する段階と紹介しつつも、同時にGreenの本質を歪めてその価値をあからさまに蔑む説明を繰り返すために、結果として読者にこれらの段階の本質を見失わせることになってしまっている。
ここではあらためてこれらの段階の差異を理解するためのヒントを示したいと思う。

Green:
Green段階の思考の特性を理解するためには、「弁証法」(dialectic)を思い浮かべるといいだろう。
Aという視点とBという視点が対極的なものとして存在している。そして、それぞれが独自のレンズをとおしてものごとを眺めている。それらは共に独自の角度から真実をとらえているが、同時に独自の盲点を内包している――こういう状況である。
Greenの段階においては、それぞれのレンズに意識を重ね合わせて、それが開示する真実を共感的に理解をしようとする。くわえて、それらの視点間の対話や交流を促すための仕組をデザインして、また、実際にその対話や交流を支援することで、複数の異なる真実がひとつ高いところで融合されるようにプロセスを牽引する。
Green段階においては、視点というものが「構築」されたものであることを認識できているので――しかし、そうは言っても、それぞれの関係者には自身の視点に固執せざるをえない事情があることを認識できているので――諸々の視点の中でどれが正しいのかと問うのではなく、それらの視点がどのように相補的に共存することができるのかと問うことができるのである。
Green段階においては、このような統合に向けた対話を牽引するために、関係者が対話の起点として合意することのできる構想や戦略を明示して、その文脈の中でそれぞれの視点の正当性を明確化する。そして、その上で関係者が納得性をもって他者の視点を理解して、相互理解と視点の融合に向けて主体的に前進できるように支援をしていくのである。

Teal:
Tealの段階においては、上記の弁証法的な対話を支援するだけでなく、そもそもAとBという視点が対極的なものとして設定されている状況そのものを問題視する。
たとえば、政治の領域においては、保守と革新という対立軸が設定されていて、それらの陣営が議論をする中で最終的に何等かの解決策が創出されるということになっているが、Teal段階においては、それらの立場を調停することの根本的な限界を認識することができるようになる。即ち、それらを対極的な立場として生み出している構造そのものを問題視するようになるのである(例:たとえ大変な調停作業をとおして発生している問題を解決できたとしても、そうした対極的な立場を生みだしている構造そのものが維持されている限り、同じような問題が次々と再生産されることになる)。換言すれば、Teal段階においては、問題を弁証法的な対話をとおして問題を解決しようとするのではなく、そこで対立軸そのものを生み出している「構造」や「条件」や「意図」そのものに問題意識を向けるのである。
こうした思考とは、それらの対極的な立場の関係者がどれほど対話を重ねても、いつまでも言及されずに放置される課題や問題にたいする意識を向けたり、あるいは、その対立軸を支えている構造に意識を向けたりする思考である。
実際、われわれの身近なところを見渡しても、対立軸が生じるときというのは、その共同体(組織)に何等かのストレスが掛かったときである(例:あたらしい戦略や施策を採用して、組織内で制度や方針の変更が求められる状況)。
そうしたとき、そこには関係者間の対立が生じるわけだが、Teal段階の思考を体得している者が発揮するのは、そうした状況を所与の条件として状況を解決する思考ではなく、そもそもそうした状況を生み出している原因そのものに批判的な眼差しを向けるのである。
たとえば、その原因とは、あたらしい戦略や施策が採用されたことであり、また、それが採用されるまでプロセスの在り方をあげることができるだろう。
そこで採用されている戦略や施策が真に理に適ったものでなければ、結局、そこで関係者がどれほど誠実に対話をして解決策を導きだそうとしても、それは究極的には無駄な努力となるだろう。
また、たとえそこで採用されている戦略や施策が真に理に適ったものであるとしても、それを構築する一連のプロセスが共同体(組織)の関係者の納得を得られるものでなければ、それにつづく関係者間の対話は常に不全感を内包したものとなるだろう。
往々にして、共同体(組織)の関係者は、自身がとりくんでいる対話の前提となる条件を疑うことなく、対話の中に生じる葛藤や衝突を解決しようとするが、それは実は必ずしも得策ではないのである。
もしあたられた条件そのものが非常に理不尽なもので、そこでどう足掻こうとも最終的に真に満足のいく解決策に辿り着こうないという場合には、その条件そのものを批判の対象とする必要があるのである。
それは、たとえば業界や組織の構造であり、また、少し視野を拡大して眺めてみれば、社会を支配する諸々の構造であろう(例:資本主義という構造・貨幣発行権の構造に関する洞察)。
Teal段階の意識は、同時代の中で「常識」としてひろく受容・信奉されている世界観や価値観(“pre-analytic vision”)そのものを対象化して、それがいかに人々の意識と行動を呪縛しているかということについて透徹した分析をするのである。
もし「そうしたものは、巨大な権力構造や利権構造に支えられているものであり、いかなる批判をしても変えようのないものだ……」と諦めて、そうした思索をすることを辞めているとすれば、それはTealとはいえないのである。
そうした精神的な営みを諦めた途端、人間はあたえられた価値観・世界観の檻の中で思考することしかできなくなるのである。
但し、そうした構造にたいする問題意識を抱くことができるためには、目の前に「あたりまえ」に存在する現実を相対化する――その妥当性に批判的な眼差しを向けることができる――「感覚」「思想」「構想」を有している必要があるといえる。
たとえば、発達心理学者のZachary Steinは、正にTeal段階の支視点から、著書の中で現在の教育システムにたいする批判を展開している。
具体的には、今日の教育システムを支える価値観を「human capital theory」として洞察して(人間を経済システムの中で機能を果たす資源としてとらえ、その資源の機能的能力を高めるための制度として教育を位置づける発想)、その支配の下に全ての教育的な施策が構想・実施されていることを批判的に分析しているのである。
端的に言えば、Steinは、こうした価値観が意識化され超克されなければ、その支配下でいかなる多様な施策が検討されようとも――また、それらが融合されようとも――結局のところ、それらはそうした価値観の実現に寄与するだけで終わってしまう――と指摘しているのである。
いうまでもなく、目の前の現実を支配する価値観を対象化するためには、それとは異なる価値観に支えられた社会が存在しえることを想像できる必要がある。
そして、そのためには、人間というものが同時代を支配する価値観や世界観に支配されて生きざるをえないことを認識して、そして、異なる価値観や世界観を創造的に構想する訓練を積む必要がある。
必然的にそうしたオルタナティヴな価値観や世界観を提唱する思想家の著作に触れて、それらを咀嚼して、自身の思索活動の武器とする必要があるのである。
実際のところ、Teal段階の思考ができるためには、その領域において博士課程を修了するに必要とされる水準の訓練を積んでいる必要があるといわれるのは、そうした施策をするためにどうしてもそれくらいの知的訓練が必要とされるということなのである。
くわえて、同時に重要となるのは、あたえられた価値観・世界観の中で生きる中で自己の内に芽生えた素朴な感覚をとらえ尊重することであろう。
それがいかに合理的なものとして正当化されているとしても、もし違和感が生じたとすれば、そこには何等かの形態で人間性を冒涜したり、抑圧をしたりする構造が内包されている可能性がある。
ケン・ウィルバーは、Teal段階の意識を体と心が統合される意識として説明しているが(“Centaur”)が、これは即ち思考に惑わされずに体の率直な声に耳を澄ませることができる感性の必要性を強調しているのである。

 

発達の危険性に関する覚え書き

現在、インテグラル・コミュニティでは、ケン・ウィルバー(Ken Wilber・KW)に続く世代(40代)が台頭して目覚ましい活躍を展開している。
彼等に共通しているのは、KWのインテグラル理論を非常に深く理解していると同時にその課題や問題を批判的に指摘していることで、これまでにインテグラル・コミュニティの中で支持されてきた「常識」を根本的に覆す視点を非常に説得力あるかたちで呈示してくれている。
そうした研究者・実践者の代表格がSean HargensとZachary Steinである(彼等の著書や論文は膨大に存在するが、残念ながら日本語には翻訳されていない)。
今、日本では徐々にインテグラル理論にたいする注目が集まりつつあるが、注意をしないと、あきらかに誤りであることが判明していることがそのままに紹介されてしまうので、そのあたりに関しては、こうした新世代の指摘を勘案してKWの文章を読む必要があるだろう。
ともあれ、個人的にもこうした新世代の興味・関心の方向性を直接に確認したく、現在4箇月に及ぶSean Hargensの講座を受講しているところである。

そんな中で、先日、関係者と興味深い話題について意見交換をしたので、簡単にまとめておきたい(また、偶然にも、同じような話題について、先日、インテグラル理論に造詣が深い若い友人と話をした)。
その話題というのは、いわゆる「後慣習的」(post-conventional)といわれる視点や発想や話題に人々が興味や関心を向ける理由は何であるのか? というものである。
端的に言えば、同時代の常識の枠を外れた話題に興味を抱けるようになる条件とはどのようなものなのか? ということだ。

KWの発達理論の枠組では、Green以降の段階が後慣習的段階となるが、実際にそうした段階に関する論文を紐解いていくと、実際にはそれが独自の苦悩や困難をもたらすことが読み取れる。
一般向けに書かれた書籍では、「発達すると仕事における生産性が高まるのです」と能天気に紹介されていることもあり、誤解をあたえるのだが、実際には必ずしもそうではなく、ときには「生産性」の低下をもたらすこともある。
結局のところ、Green段階に至るときに人間が獲得するのは、その時代や社会に生まれ生きることをとおして、自身が不可避的に囚われることになる価値観や世界観(“pre-analytic vision”)を対象化して、それを批判的に検証したり、あるいは、それと格闘したりすることができるようになるということである。
そこには実利的な意味で得になることは何ひとつないのである。
また、KWは過去の著書の中で後慣習的段階に立脚して思考・行動することは大きな危険を冒すことであり、実際、歴史的にはそうした人物達は厳しく排斥されたり、抹殺されたりしてきたと述べている(ちなみに、他にもCarl JungやAbraham Maslowも「個性化」や「自己実現」が非常に危険なものであることに注意を喚起している)。
そうした状況は21世紀においても本質的に変わらない。
変わったことは、その「排斥」や「抹殺」の方法が多様化したことくらいであろう。
端的に言えば、後慣習的段階に向けた心理的な成長とは、「実利的な利益をもたらしてくれそうだから……」というような動機で起きるものではなく、ある意味では已むに已まれずに起きてしまうものなのである。
それは意図的に起こすものではなく、そうした意図とは関係なしに、大いなる意志の影響下で強制的に起きてしまうものとしてとらえられるべきなのだ。
実際、Maslowが“the Johnna Complex”という概念で説明しようとしたように、そうしたプロセスに巻き込まれた者は往々にしてそうした「召喚」に抗おうとするものである。
そして、そうした自己の意図を超えたものとの格闘をとおして、自己の人格的な成熟を遂げていくのである。
端的に言えば、そこにあるのは、自己の内に息づく高次の「声」との対話と格闘であり、そうしたプロセスを歩むことが利益をもたらしてくれるかどうかを問う損得勘定が入り込む余地は無いのである。
KWは後慣習的段階をVision Logic段階と形容するが、即ちそれは、そうした段階の思考や行動を規定するものが、時代や社会に流通する価値観や世界観ではなく、高次の自己との対話の中で「開示」される構想(vision)や霊感(inspiration)であることを示唆しているのである。

神秘思想家が言うように、結局のところ、人間は自動反応的な機械に過ぎない。
そして、いうまでもなく、現代社会において、そうした機械を誘導する最大の刺激は「金」(money)である。
それをあたえれば、機械は如何様にも操れるのである。
後習慣的な段階において発揮される高い内省能力は、そうした刺激に半ば自動反応する機械的な存在としての自己の在り様を自覚させる。
そして、そうした認識を得ると、骨の髄まで条件付けされてしまった自己の存在そのものを「解決されるべき問題」として再認識することができるようになるのである(実存主義心理学者のRollo Mayの著書の中で指摘されるように、この自己の存在そのものを解決されるべき問題としてとらえる視点こそ、Green〜Teal段階の意識の特徴といえる)。
そうした問題意識を起点として展開する探求の過程において、それはいかなる利益をもたらすのか? という問いは本質的な問題になりようがない(Mayが著書の中で読者に自著に実利的な価値を持つ回答を期待してはいけないと警告していたのは、こういうことである)。

正に、若い友人が言っていたように、後慣習的段階を志向する「理由」(incentive)は基本的にこの実利的世界には存在しない。
むしろ、正にその友人が指摘するように、現代社会において世俗的な成功を遂げようとするのであれば、同時代の中で信奉されている「物語」を寸分も疑うことなく、その物語の中で「成功」とされているものを目指して邁進できる精神――即ち、慣習的段階の精神――を強化することである。
その意味では、後慣習的段階の発想は、「危険」であるだけで、得になることは何もないのである。

しかし、常識的に考えてみればすぐに解ることだが、真の豊かさとは――また、真の正気(sanity)とは――生まれた社会や時代の中で信奉されている物語(価値観・世界観)に囚われない感性を涵養するところに確保されるものである。
そして、現在、生活のあらゆる要素が経済的な成功を収めるための要素として見做されてしまっているが、そうした同時代の狂気に違和感を覚え、それを批判できる大人が絶滅危惧種化していることは真に危険なことだといえる。
そうした意味では、インテグラル理論をはじめとして、いわゆるGreen〜Teal的な思想に関心が寄せられている背景には、そうした危険性に薄々と気づきはじめている人々がひろい範囲に存在しているということなのだろう。
但し、そうした領域の探求をはじめるときに留意すべきは、それが本質的に危険を内包したとりくみであるということである。
もちろん、そうした探求を真にはじめた者には、それを止めるという選択肢は実質的に残されていないわけで、彼等にできることは、そうした危険を考慮しながら、前に進みつづけることだけである。
ただ、彼等には、人間社会というものが、その構造上後慣習的段階に向けた発達を阻害せざるをえないことを理解することが求められる。
こうしたことについては、先述のMayだけでなく、古くからCarl JungやAbraham Maslowも指摘をしているところでもあるので、いわゆる「自己啓発系書」をとおして発達理論と出遭った方々は、そうした心理学者の著書を丹念に読み進めるといいだろう。

 

感想:新日本フィルハーモニー第609回定期演奏会@サントリー・ホール

第609回定期演奏会@サントリー・ホール

上岡 敏之&新日本フィルハーモニー


シューベルト:交響曲第4番
ブルックナー:交響曲第7番

 

https://www.njp.or.jp/concerts/8655

 

録音を含めて、これまでに聴いたブルックナーの交響曲第7番の演奏の中でも指折りの名演。
超越的なものとの邂逅と対話というこの作品の本質を完璧にとらえた演奏で、意識にとらえられたと思うと瞬時に彼方に消えていく恩寵を探し求めるたましいの彷徨が実に鮮烈に描かれていた。
また、これは上岡 敏之の演奏の大きな特徴であるが、その長大な演奏時間をとおして、音楽が一瞬も弛緩することない。
そこには、こうした深い内的な営みに息づく寂寥と共に胸の奥に幽かに灯る希望と確信が最美の音楽として交互に奏でられていく。
上岡の演奏には、常に瑞々しい祈りがあり、また、そこには聴衆の心を優しく暖めてくれる微笑みがある。
ときには天使が舞い降りて、会場全体が清澄な光に充たされて浄化されるような感覚にとらわれさえする。
こうした演奏は、たとえば晩年のギュンター・ヴァントの演奏がそうであったように、聴衆を宇宙の深淵と向き合わせるような厳しい気迫と叡智を宿した凄演とは異なるもので、そうした峻厳な精神の格闘を必要としない、真の意味で祝福された芸術家の演奏であるように思われる。
この日の演奏会では、第1楽章の冒頭から涙腺が弛んでしまいハンカチを忘れたことを後悔したが、気がつくと周囲からも啜り泣きが聞こえてくる。
上岡 敏之の音楽性とはそういう類のものである。

指揮者の超高難易度の要求に懸命に応えようとするNJPの献身にも心を揺さぶられた。
特に第1バイオリンの美しさは唖然とするほどで、大袈裟ではなく、聴いていて気絶しそうになるほどだった。
ホルンを中心として、この作品の音響構造の要となる金管群は少々苦戦を強いられていたようだが、そもそも指揮者の要求そのものが常識を超えたレベルの微細さと繊細さを求めるものであることを鑑みれば、十分に健闘していたと思う。
端的に言えば、演奏芸術の極北を志向する上岡の解釈は、たとえばベルリン・フィルハーモニーのような世界最高峰の技術集団がなければ完璧に音化することは不可能なものであり、そうした意味では、この日のNJPの演奏に散見された些細な事故をあげつらうことに意味はないだろう。
こうした演奏に触れると、あらためて上岡 敏之の芸術性が真に世界的にも類い稀なものであることを痛感する。
真の意味で個性的であり、唯一無二のものだと思う。

個々の楽章について感想を書きはじめると際限がなくなるし、また、この日の演奏には、具体的な箇所について云々することを無意味に感じさせるものだった。
前日に同じ会場で大野 和士&東京都交響楽団のブルックナーの交響曲を聴いたが、それとくらべると、完全に別次元の演奏で、技術的な優位性を誇る都響を駆使して大音響で奏でられた大野の解釈が足下にも及ばないものだった。
結局のところ、これは大野 和士という指揮者がブルックナーの本質をとらえそこねているということなのだろう。
但し、今後、大野が勉強を重ねれば上岡 敏之の水準に到達するかといえばそうではなく、上岡にはそうした比較を絶した突然変異的なものが紛れもなく息づいているように思うのである。

尚、確か日曜日に横浜での公演があると思うので、今日会場に来れなかった方は是非とも足を運んでいただきたい。
一生の宝になると思う。

 

感想:大野 和士&東京都交響楽団 第885回定期演奏会@サントリーホール

感想:大野 和士&東京都交響楽団 第885回定期演奏会@サントリーホール

 

https://www.tmso.or.jp/j/concert/detail/detail.php?id=3237&my=2019&mm=9

 

残念ながら、大野 和士はブルックナー指揮者としての資質を著しく欠いているように思う。
世界最高水準の技量を有する東京都交響楽団を豪然と鳴り響かせて見事な音響を構築をするのだが、その音に全く深みがなく、また、間の取り方があまりにも悪いために、常に器の小ささを感じさせてしまう。
そのテンポ設定はひどくセカセカとしたもので、その必然性を全く感じさせてくれない。
われわれがこの作曲者の交響曲に期待する造言が全く聞こえてこないのである。
少々スタイルは異なるが、あのカラヤンのブルックナーを思いだした。
周知のように、その演奏は正に絢爛豪華で陳腐なハリウッド映画の特殊効果を想起させるもので、正にブルックナーのパロディと形容できるものだった。
もちろん、当時のベルリン・フィルハーモニーと比べれば、今の都響には圧倒的に優れたしなやかさがあるので、あれほど暴力的には聞こえないが、それにしても大野の解釈はあまりにも外向的である。
都響の演奏者達はこのような指揮者の解釈にほんとうに共感して演奏しているのだろうか……?――と素朴な疑問を抱いてしまう。
先日、アラン・ギルバートの指揮で圧倒的なブルックナーの名演を聴いたばかりだが、同じ優秀なオーケストラでも、指揮者が変わるとこれほどまでの感動の質が落ちてしまうものなのである。
いずれにしても、大野 和士という指揮者は、その肉体的な年齢とは関係なく、いっさいの老いや衰えとは無縁の活力溢れる壮年期の精神を魅力とする芸術家だと思う。
そうした資質はーーその卓抜した指揮技術と相俟って――たとえば先日のラフマニノフの「交響的舞曲」のような作品では見事に発揮されるが、こうした作品を指揮するときにはその限界が露骨に露呈してしまう。
個人的にも非常に大きな期待を寄せている指揮者なのだが――この指揮者の演奏を聴きたくて、東京都交響楽団の定期会員になっている――こういう演奏を聴かされると、そんな気持ちが雲散霧消してしまいそうになる。

 

ある発達神学者との対話

先日、カート・フィッシャー(Kurt Fischer)の発達理論(dynamic skill theory)にもとづいて発達測定を提供しているLectica, Inc.の創設者シオ・ドウソン(Theo Dawson)博士と1時間程話しをすることができた。
Dynamic Skill Theoryに触れたのは10年程前のことであるが、修士・博士課程在学中はRobert KeganやSusanne Cook-Greuterの理論を中心に勉強していたこともあり、Dynamic Skill Theoryの革新性には深い感動を覚えたものである。
その後、仕事の関連でLectica, Incの提供する講座や測定を受けることができ、その中で多くの刺激や洞察をあたえてもらってきたのだが、実はface-to-faceでDawson博士と話しをするのは初めてのことである。
短い会話ではあったが、話題は多岐にわたり、今日の発達理論の研究をとりまく状況、発達理論を実務領域にどうように紹介・導入していくのか、また、発達理論を重要な要素として位置づけているインテグル・コミュニティの状況に関しても興味深い会話をすることができた。
個人的に特に新鮮だったのは、博士が発達という概念を非常に慎重に取り扱っていることである。
周知のように、『進化の構造』(Sex, Ecology, Spirituality)の発刊後に刊行された「入門書」の中で(Ken Wilber)は発達理論を簡略化して紹介しはじめたが、その結果として、本来であれば慎重に扱われるべきこの理論が過剰なまでに短絡的に活用されるようになったのは紛れもない事実である。
また、それと並行して、これらの理論が実用書の中で紹介されるようになる中で――たとえば、Spiral Dynamicsの発想に象徴されるように――インテグラル・コミュニティの関係者の間では安易に人間を「色」で識別することが流行してしまい、発達を巡る対話の質が劇的に落ちてしまった。
特に心理学の基礎的な訓練を受けていない者にたいして、こうした概念が不用意に紹介されることで、発達理論が「暴力的」に用いられるようになったことは非常に深刻な問題である。
くわえて、人間の「発達段階」がその行動を観察すれば――あるいは、多肢選択式の質問票に回答することで――特定できるというような発想が幅を効かせ、そうした発想にもとづいた測定がひろく販売されるようになる中で「発達段階」というものがあたかもそうした「方法」をとおして把握できるものであるかのような誤解が蔓延してしまい、また、その結果として、理論そのものにたいする信頼が著しく貶められることになった。
Dawson博士の最大の問題意識はまずはこうした状況にたいするものであるといえる。
即ち、本来であれば非常に慎重にアプローチされるべきものが、測定としての条件を満たしていない方法が流通することにより、「発達」という言葉で意味されている「現象」にたいする理解そのものが歪められてしまったのである。

こうした状況が生み出した典型的な問題のひとつが、発達を遂げることで驚異的な人間になれるかのような幻想が流布しているということだろう。
あたらしい概念が流通するときにはしばしばあることだが、多数の人々が、このなにやらあたらしい概念が人間を救済してくれるという幻想をそこに投影してしまっているのである。
極端な場合には、こうした発想に囚われてしまうと、人間がこの世界の中で生身の存在として生活をしていかなければならないことを等閑にして、発達をするということがあたかも「神」のような存在になることであるかのような幻影の中に落ち込んでしまう。
Dawson博士とこうした会話をしながら思ったのは、結局のところ、われわれが目撃しているのは、トランスヒューマニズムに代表されるように、肉体と機械を融合することで人間の進化を実現しようとする外面的なアプローチを志向する者達と人間の心理的な深化を促進することで人間の進化を実現しようとする内面的なアプローチを志向する者達がいるに過ぎないということだ。
アングルは異なるが、その「進化」を遂げると、そこには楽園が生まれる――あるいは、急速に変化をする市場に適応し成功を収めつづけるためにはそうした進化をしていかなければならない――という物語に立脚して発想しているという点ではそれほど変わらないのである。
そこにあるのは、人間というものを資源としてとらえ、その存在に意図的に介入し操作をくわえることにより、その「性能」を高めることが「楽園」につながると信じて疑わない発想である。
また、そこには、そうした進化の過程に積極的に参加をする者達だけがこの世界の中で生きていく権利を得るのだという価値観が息づいている。
当然のことながら、そうした努力をしようとしない――あるいは、そうした努力をできない――者達は実質的に生きる権利を放棄していると見なされることになる(例えば、こうした文脈においては、心身の疾患により社会の中で「生産的」に活動ができない者は生きるに価しない者と見なされることになる)。
そこには、機能的な存在として生存環境に適応することを絶対的な価値として信奉する、インテグラル理論でいうところの、典型的な「フラットランド」の病状が顕在化しているのである(具体的には、右下象限の絶対化)。
もし真に意識の進化・深化というものがあるとすれば、そうした幻影を追いかけている同時代の人類の姿を客観視できるようになるということだと思うのだが、そういう視点は全く希薄である。
非常に皮肉なことに、インテグラル理論においては、正に人間の尊厳を尊重するための概念として位置づけられている「発達」が、実際には、それと真逆の方向で用いられているのである。
もちろん、この時代に生きている以上、われわれはこうしたフラットランドの桎梏を逃れることはできない。
そこで生きていくためには、フラットランドと折り合いをつけていくことを求められるのである。
但し、そこで問題となるのは、発達に関してある程度勉強を積んできた者達までもが、「発達をすれば仕事ができるようになるのです」等と不用意に発言してしまうことである。
実際には、それは必ずしも事実ではないし、また、過去の発達心理学者達が警鐘を鳴らしてきたように、発達をするということそのものが人間の精神に大きな負担を掛けることであるし、また、その結果として、たとえ「高度」な認知構造を獲得することができたとしても、それが同時代の社会的な文脈の中で成功をもたらすとは限らない。
発達は幸福を保証するものではないのである。

このように発達理論を巡る状況は正に憂慮すべきものだといえる。
Dawson博士は、こうした状況を鑑みて、関係者が留意すべきいくつかのポイントをあげていた。

ひとつは、こうした知識を紹介すべき対象層を的確に見極めることである。
非常にあたりまえのことのように思えるが、実は非常に重要な留意点である。
垂直的な発達を扱う発達理論は、心理的な防衛を惹起しやすく、いったんそうした防衛反応が起動してしまうと、それにつづく対話はどうあがいても不毛なものにならざるをえない。
真の目的が他者の成長を支援するということにあるのならば、垂直的な発達という概念を持ち出す必要はないのである。
必要とされるのは、むしろ、あいての中に成長欲求があるのかを確認することであり、また、もしそれが確認できたのであれば、その充足を支援することである(Lecica, Inc.のVCOLはその方法論である)。
いうまでもなく、人間とは、他者が恣意的に介入して成長・発達させるべき存在ではないのである(少し想像してみれば、全ての人間に成長や発達が強制される社会は異常な社会であることが判るだろう)。

 

第17回東京音楽コンクール本選を聴いて


8月22日
第17回東京音楽コンクール本選・木管部門を聴くことができた。
5人のコンテスタントが演奏したが、いずれも優秀で、あまり演奏会ではとりあげられない作品の魅力を見事に開示してくれた。
個人的に特に印象に残ったのは、亀居 優斗さんと八木 瑛子さんで、この二人は同列首位としていいと思った。
亀居さんは、舞台慣れしたベテランの存在感を発揮して、ウェーバーの哀愁を豊穣に表現した。
日本フィルハーモニーの伴奏も充実しており、これがコンクールであるということを完全に忘れて、純粋に作品の魅力を満喫することができた。
イベールのフルート協奏曲を演奏した八木さんは、常に情感のある美音で詩情溢れた演奏を展開した。
個人的にはあまり縁の無い作曲家の作品なのだが、彼女の演奏を聴いていて、まるでラヴェルの作品を想起させるほどに美しい音楽世界を堪能することができた。
この二人の演奏家に共通するのは、その演奏が常に心を感じさせることで、音楽を奏でるということの最も重要な要素を揺ぎなく理解していると思った。
たとえどれほど達者な演奏でも、これが欠けていると、聴衆に感動をもたらすことはできない。
もうひとり強い印象をあたえられたのが、清水 伶さんである。
機知に富んだ演奏を展開して非常に感心させられた。
また、舞台上の存在感も大きく、今後、音楽家として熟してくると、優れた演奏家に成長するのではないかと思う。
今日の演奏を聴く限り、舞台上の身振りが少々過剰に思えるのと、その攻撃的な演奏がまだ聴衆の心をじんわりと揺り動かすところに達していない印象をあたえられた。
その点では、先述の二人の演奏家に水をあけられていたように思う。
ただし、大きな潜在性を感じるので、これからもどんどん攻めていってほしいと思う。

 

8月24日
第17回東京音楽コンクール本選・ピアノ部門を聴いた。
開場時間に到着すると長蛇の列ができている。
こういうイベントに注目が集まるのは実に嬉しいことだ。
目の飛び出るような高い料金を払い外国の演奏家を聴きにいかなくても良質な音楽は身近にあるものなのである。
今日の演奏会の最大の貢献者は角田 鋼亮氏の指揮する東京フィルハーモニーの伴奏だと思う。
長丁場の演奏会だが、とても充実した響きで若いコンテスタントを支えていた。
特にラフマニノフとプロコフィエフでは、ピアノが休んでオーケストラだけが音楽を奏でている場面で音楽の美しさに浸らせてくれた。
ラフマニノフでは、薄明の中で悲しみに暮れる作曲者の心情をまるで葬送の音楽のように濃厚に音楽を奏でたし、また、プロコフィエフでは、鋼鉄の機会に浸食された世界の中で人間的な心を奪われた人々の存在を猛烈な迫力で描いていた。
ただし、ラヴェルのピアノ協奏曲だけは、作品そのものが
繊細な硝子細工のように書かれていることもあり、少々苦戦していたように思われた。
今日の演奏会で印象に残ったのは、ラフマニノフを弾いた伊舟城 歩生さんとプロコフィエフを弾いた秋山 紗穂さんだ。
伊舟城さんの演奏は、いい意味でとても日本人的な演奏で、大袈裟な身振りはしないが、常に心を籠めて丁寧に音楽を奏でる。
その音楽は常に等身大のもので、自己の内に真に感じているものに忠実で、恣意的な演奏効果を排しているように思えたそうした意味でとても好感を覚えたのだが、いっぽうそうしたスタンスで音楽を押し通そうとすると一本調子になってしまい、これだけの長い作品だと徐々に驚きを求めたくなる。
特に第3楽章は、もう少し「けれん」のようなものがあってもいいのではないかと思う。
換言すれば、もう少し自己の表現の限界に挑戦してもいいのではないかと思うのだ……。
いずれにしても、今後、年齢と経験を重ねると共に表現の幅がひろがると非常に優れたピアニストに成長されるのではないかと思う。
秋山さんは、あえてこの難曲をとりあげて、激しい意志と気迫をもって長大な作品を見事に弾き切ったことに驚嘆をさせられた。
個人的には、必ずしも共感を覚える作品ではないのだが、その音楽に耳を澄ましていると、プロコフィエフという作曲家が描いた、殺伐とした世界の中で喘ぐ人間の息づかいがこちらの心に届いてくる。
深い情緒に陶酔させてくれる音楽ではなく、こちらの知性に刺激して挑戦を挑んでくる作品であるが、
この機会にそうした作品を敢然と選び轟然とした響きで会場を満たしたその実力はたいしたものだと思う。
そうした意味でも、この日のベストは秋山さんだろう。
ラヴェルを弾いた大崎 由貴さんは、きっと深い思いいれのある作品を選んだのだろうが、どういうわけか最後までラヴェルの音楽を聴く愉しみを聴衆に伝えることができずに終わった。
また、シューマンを弾いた北村 明日人さんは、それなりに素晴らしい演奏を展開したが、こうした作品の場合、演奏に唯一無二の「香り」のようなものを求めたくなってしまう。
個人的にはこの作品にはルノワールの絵画に漂う香気のようなものを期待してしまうのだが、そうした要素があまり感じられないことに――贅沢な要求であることは自覚しているのだが――不満を覚えてしまった。

 

8月26日
第17回東京音楽コンクール本選・声楽部門。
他部門とくらべると、声楽部門の本選は文字通りガラ・コンサートのような雰囲気である。
また、とりあげられる作品も娯楽性の高いものであるために、コンテスタントにも、エンターテイナーとしての能力が強く求められる。
端的に言えば、「芸術家」として乙に澄まして技を披露すればいいのではなく、聴衆を娯しませることにエネルギーを投じなければいけないのである。
そうした意味では、今日の演奏会では、竹下 裕美さんと井出 壮志朗さんが突出していたと思う。
ただし、井出さんに関しては非常に高い表現力を有しているのだが、それを一貫してパワフルに表現してしまうので、陰影のようなものが欠落してしまう。
たとえば、そこに「弱さ」のようなものを垣間見せることができれば、全く印象が異なってくると思うのだが、そうした要素が無いのである。
あえていえば、全身を鍛え上げたボディ・ビルダーが舞台の上で裸になって「凄いだろう!!」とその筋骨隆々の全身を観客に見せつけているような印象をあたえられるのである。
そういう類の迫力を求める聴衆もいるのだろうが、個人的には興味を覚えない。
逆に竹下さんの歌唱は非常に芸術性に溢れたもので、表現の幅が著しくひろく、また、その舞台上の存在感は聴衆をたのしませることの重要性に通暁したベテランのそれを想起させた。
3曲目で少々集中力が途切れたように思われたが、今日の5人のコンテスタントの中では頭抜けていたと思う。
特にマスネとプッチーニではその美しさに思わず泪してしまった。
工藤 和真さんの歌唱も優れたものだったが、その達者ぶりに関心はするのだが、その歌の力がどこか舞台上に留まっていて、もっともっと聴衆に届いてきてほしいという感覚を拭うことができずに終わった。
伴奏をつとめた現田 茂夫氏率いる東京交響楽団の演奏も豪華で、何よりもコンテスタントを温かい表情で支えている団員の方々の表情を眺めているだけで、こちらまで嬉しくなる。