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JATP・JTA合同大会 - 未来をつなぐ トランスパーソナル 原点・課題・展望

JATP・JTA合同大会

未来をつなぐ トランスパーソナル 原点・課題・展望

 

日本トランスパーソナル心理学 / 精神医学会

日本トランスパーソナル学会 合同大会

未来をつなぐ トランスパーソナル 原点・課題・展望

 

夢の共催、ついに、実現!

それぞれの道を歩んできた

日本トランスパーソナル学会と日本トランスパーソナル心理学/精神医学会の 共催による学術大会が

いよいよ開催されます!

http://transpersonal.jp/jatp_jta_taikai/

 

今年11月26〜27日に相模女子大学で開催される日本トランスパーソナル心理学・精神医学会と日本トランスパーソナル学会の合同大会のシンポジウムに登壇することになった。

4人のシンポジストがそれぞれに話題を持ちより、まずそれについて20分ほどの発表をしたあと、それに関して議論をする形態をとるとのことだ。

どのような話題をとりあげようかと思案した結果、欧米におけるインテグラル・ムーブメントの現状に関する批判的な考察を呈示することにした。

欧米では、1995年に『進化の構造』(Sex, Ecology, Spirituality)が発表されると、各界から非常に大きな反響を集めることになった。

その後、間もなくして、そこで呈示されたインテグラル思想を基盤として、研究と実践を推進するための機関であるIntegral Instituteを設立するための準備作業が開始されることになる。

当時、わたしもサン・フランシスコ・ベイ・エリアのインテグラル・コミュニティに参加していたこともあり、そのときの熱気を鮮明に記憶している。

ただ、その後、どういうわけか、コロラド州のボウルダーに設立されたIntegral Instituteを中心にして展開された活動は、徐々に「勢い」を失うことになる。

わたしも2000年代中盤までは、ひんぱんに合衆国に足を運び諸々のイベントに参加をするようにしていたのだが、コミュニティの空気に漠然とした違和感を覚えはじめ、しだいに距離をとるようになっていった。

周知のように、ケン・ウィルバー(Ken Wilber)を中心として形成されたインテグラル・コミュニティの在り方にたいしては、これまでにもFrank Visserが主催するIntegral Worldで活発な批判的な議論がおこなわれてきているが、ただ、その考察の内容はあくまでも学術的なものであり、インテグラル・コミュニティが今日の時代状況の中で思想運動として存在意義を失いはじめていることの本質的な理由を明らかにしえていないように思われる。

端的に言えば、批判する側も批判される側も同質の盲点に絡めとられているように思うのである。

今回のシンポジウムでは、このあたりのことを少し掘り下げて発表してみたいと思う。

 

発表要旨

トランスパーソナル思想の課題:インテグラル理論の視点から

鈴木 規夫

インテグラル・ジャパン

 

1995年のSex, Ecology, Spirituality(邦訳『進化の構造』)を契機として、それまでトランスパーソナル運動の中心的存在のひとりと活躍したケン・ウィルバー(Ken Wilber・1949〜)は、本格的に「トランスパーソナル批判」をはじめ、それを超克する新たな思想的・理論的な枠組としてインテグラル理論といわれる独自の思想・理論を提唱しはじめた。以降、これまで20年にわたり、Integral Instituteを中心にして多数の関係者を巻き込んで活動を展開しているが(例:書籍や研究誌の出版・イベントの開催・企業組織や自治体にたいするコンサルティング)、ここにきてインテグラル・コミュニティは思想運動として深刻な行きづまりを経験しているように診うけられる。そこには、これまでにもたびたび指摘されてきたように、共同体そのものが圧倒的な存在感をもつカリスマ型のリーダーにより牽引されてきたことにくわえて、インテグラル理論にたいして批判的な意見を持つ関係者との対話に消極的であったことの弊害が少なからぬ影響をあたえているように思われる。ただし、それ以上に重要なのは、同時代の集合的な課題や問題にたいして積極的に関与していこうとする当初の意図が、実際には、同時代の重要な利害関係者と友好的な関係性を構築・維持することを必須の条件であると解釈された結果、社会にたいする真に批判的な分析やアプローチをすることを関係者に困難にしていることにあるように思われる。そのために、同時代の状況がどれほど病理化しようとも、その根本的な問題を指摘することに躊躇せざるをえないという状況に陥ってしまっているように思われるのだ。本発表では、発足20年を迎えたインテグラル・コミュニティが現在直面しているこうした課題について、これまでにその内部関係者として関わってきた者の視点から省察したい。

 

On the Status of Integral Politics

On the Status of Integral Politics

 

https://integrallife.com/daily-evolver/democrats%E2%80%99-integral-convention-plus-glimmers-hope-right

 

A very typical view that comes out of the Integral Community nowadays which unashamedly proclaims to be asserting so-called “integrally-informed” view—a view which essentially accomplishes nothing more than making sense of the speeches, written by the speech-writers hired by the candidates, with integral jargon to create the impression that those speeches are somehow commendable because the contents resonate with some of the principles of integral philosophy. This kind of approach, which is so rampant in the community, completely misses the essence of who these candidates are as they exclusively pay attention to the contents of their speeches while paying little attention to the power structure that have been puppeteering them from behind the scene. However masterfully you analyze the speeches of the candidates, you are simply fooling yourselves by believing that you are understanding what they stand for when in actuality you are just analyzing the lines spoken by actors in a fictional play which are basically designed to entertain and enthrall audience.

While reasonably educated people would not experience much difficulty distinguishing the difference between the stage personas of an actor from his or her personality offstage, it would appear, they suddenly allow themselves to be easily deceived by such trickery when it comes to politics. What is most amazing is that in the age where more and more people are beginning to cultivate healthy spirit of skepticism toward politics, the overall majority of the Integral Community, who proud themselves to be insightful to deep or hidden dimensions of reality, appear to be extremely complacent to be enthralled by the show that is contemporary politics of all people. Indeed, this kind of naiveté seems to be so rampant in the Integral Community that I know virtually nobody who voices the perspective that is not confined in such naiveté. In that sense, the unashamedly docile and contented attitude of Jeff Salzman is essentially a particularly noticeable example that represents that pervasive naiveté of those in the Integral Community (many of the writers who are featured in Integral World, http://www.integralworld.net/, the website that attempts to offer a space for constructive criticism of Ken Wilber’s Integral Philosophy seem to share similar attitude to Salzman).

 

Given the reasonably high level of intelligence of people who are associated with Integral Community, as shown in various essays written on the subjects other than politics, it is quite perplexing why they are so open to suggestion—and are so unwilling to exercise skepticism—in addressing the topics on politics. I seriously wonder if this symptom derives from the nature of Integral Philosophy—namely, does the philosophy contain some kind of mechanism that facilitate the suppression of critical thinking capacity when approaching contemporary political affairs? Or does the symptom derive from the particular type of personalities that are attracted to the movement?—in that they are so infatuated with the abstract concepts which provide neat illusion—the illusion that the world is constantly evolving and that those in charge of their governments are making conscientious effort to facilitate that collective process—that they are willing to close their eyes to the reality that contradict what they hope to see?

 

Over the past years, as far as I can see from Japan, the Integral Community seems to have been continually narrowing the scope of its applicable usefulness to the area of personal transformation (as represented by Integral Life Practice) while at the same time, continually and steadily promoting the stance to the contemporary politics that can only be described as complacent supported with excessive willingness to believe in—or concern themselves in dissecting according to so-called Integral Framework—the speeches of the public figureheads prepared for mass consumption. As a result, the Integral Community seems to have essentially fallen into the same stance as Transpersonal Community, which it so eagerly criticized in the early phases to claim its superiority, by rendering itself virtually useless in providing truly incisive insights for generating transformation in the collective spheres (As a matter of fact, to make the matters worse, because of the false sense of superiority that they have at least transcended transpersonal movement, the Integral Community seems to be caught in a state where they do not have to feel any need to critically examine their own state).

 

In any case, the above podcast by Jeff Salzman seems to symbolize the serious compromised state in which the Integral Community is caught…

 

勇気ある思考

 今から15年ほどまえのことである。

 サン・フランシスコにある大学院在籍中に、アメリカの思想家ケン・ウィルバー(Ken Wilber)のインテグラル思想に関心を寄せる内外の関係者が定期的に集まって研究会を実施していた。

 この研究会を開催していた時期というのは、ウィルバーの執筆活動が最も盛んなころで、毎月のようにあたらしい論文等がWEB上で発表されていたころで、そこでは、それまでに発表されていた著書を精読するだけでなく、そうした新作をリアル・タイムでとりあげた。

 また、インテグラル・コミュニティ―の関係者のあいだで注目を集めていた他の研究者による作品をとりあげて、ウィルバーの理論と比較をしたりしながら、活発な議論をしていた。

 そのころにとりあげた作品のひとつが、発達心理学者ロバート・キーガン(Robert Kegan)が同僚と共にまとめたA Guide to Subject-Object Interviewである(当時は、これはWEB上で販売されていなかったので、ハーバードに連絡をして取り寄せたことを今でも覚えている)。

 キーガンの学術書は、文章が難解であることで知られているが、ただ、同時に、この研究者は非常に示唆に溢れる言葉遣いをする人でもある。

 個人的にとりわけ印象深いのは、合理性段階の精神を説明するときに用いられる“self-authoring”という言葉である。

 一般的には「自己著述」と翻訳されることが多いようだが、もう少し解りやすくいうと、「知識を自己の力で創造・表現することができる」ということになるだろう。

 また、上記のA Guide to Subject-Object Interviewの中では、合理性段階の精神というものが、単に「知識の消費者」(“consumer of knowledge”)であるだけでなく、「知識の生産者」(“producer of knowledge”)であろうとする精神であると述べられている。

 わたしは、その後の15年ほどのあいだ、この時期に得た知見を礎としながら、実務領域で活動をしているが、日々痛感するのは、成人期において「自己著述」する力を鍛錬・発揮することがいかに重要であり、また、いかに難しいかということである。

 知識というものは、それがいかに高度の知性によって創出されたものでも、いったん普及可能な知識に整理・包装されると、基本的にはそれほど高い認知構造がなくても理解できるものとなる。

 われわれのところには優れた知性により創造された膨大な知識が届けられ、われわれはそれらを咀嚼して生活しているわけだが、ただ、ややもすると、われわれはそうした知識を吸収・収集することが学びであると勘違いしてしまう。

 結局のところ、消費可能な知識として包装され届けられた知識は、われわれの意識のなかに蓄えられる内容物(contents)に過ぎない。

 本来であれば、われわれはそうした知識を創造した意識や思考そのものに思いを馳せて、それを体得しようと努力する必要があるのだが、いつの間にかそうした知識を意識に「容れる」ことが「知る」ことだと錯覚してしまう。

 もちろん、自己著述ができるようになるためには、たくさんの知識を蓄積することが必要となるのは疑いのないところである。

 それが基盤となり、そうした多様な素材を統合・融合して、あらたな知識を創造する高次の知的作業が可能となるのである。

 しかし、同時に重要となるのは、自己を知識の創造者として自覚すること、即ち、知識の創造者としてのアイデンティティを確立することである。

 つまり、比較的に早い時期に、優れた知識の消費者となることを目標とするのではなく、優れた知識の創造者となることを目標とする意識を確立する必要があるのだ。

 わたしの場合、日本の高校を卒業して、数箇月後には合衆国の大学で現地の学生に混じり授業に出席しはじめたのだが、いきなりはじめから――その領域の基礎知識を習得するまえの段階にいるにもかかわらず――教授たちから毎日のように「君はどう思うのだ?」「君はどう考えるのだ?」と問われて、大いに苦しめられたものである。

 ただ、今となっては、実はそれが非常に貴重な訓練の場所となっていることを痛感している。

 いうまでもなく、教授たちは初心者がまともな意見を言えないことを百も承知である。

 彼等の狙いは、想像するに、たとえ基礎知識がなくても、ひとりの人間としての素朴な感覚にもとづいて既存の知識体系に批判的に対峙して、それと対話をしようとする意志を鍛えることの重要性を伝えることにあったのだと思うのである。

 そして、それは、知識の吸収という作業をあくまでも最終的に独自の意見や洞察を創造するための準備的な作業として位置づける発想を生徒の中に注入することをとおして、早い段階から、自身を知識の生産者とみなす自覚を促すことになるのである。

 教授陣は、まだ海のものとも山のものとも知れない若い生徒たちにたいして、みずからを知識の創造者となるべく訓練を積むことを当然の義務として課したのである。

 つまり、自己著述型の知性を獲得するために――合理性段階の精神を獲得するために――必要となるのは、知識を豊富に吸収することだけでなく、それを素材として、独自の知識や洞察を創造しようとする意志なのである。

 実際、大学院では、たとえどれほど資料を丁寧に参照していたとしても、それらの資料の要約や翻訳の閾を出ない論文を提出しようものなら、あからさまな侮蔑や批判の目にさらされることになる。

 執筆作業を通じてあたらしい価値を創造して世界に貢献しようとする意志を持つことは、すべての学生に課された義務であると訓えられるのである。

 こうした経験もあり、個人的には、とりわけ人格形成の過程においては、いかなる目標を設定して日々の学びにとりくむのかを確認することは決定的に重要であると考えている。

 そこで下した判断が――たとえそれが無意識の内に下したものであれ――その後の人生の思考の質に少なからぬ影響をあたえることになると思うからである。

 優れた知識の消費者となることを目標にして学びにとりくんできたのか、あるいは、優れた知識の創造者となることを目標として学びにとりくんできたのかということが、30代以降のその人の精神活動の質に大きな影響をあたえるように思うのである。

 当然、成人期を迎えても、われわれは実務者としての活動に従事しながら学習を継続するわけだが、その時期の学びは実務領域の論理に否応なしに絡めとられることになる。

 それゆえ、この時期の精神活動を、実務領域の論理に呪縛されることのない自由なものに維持していくためには、人格形成期においてとりくんだ鍛錬の質が大きくものを言うことになる。

 そこで培った教養の深さが、実務者としての生活をはじめたときに、実務の論理に呑みこまれることなく、むしろ、それを批判的に眺めるための視座を保障してくれるのである。

 

夢を視る知性

 ケン・ウィルバーは、合理性段階の知性を「夢を視ることができる知性」――即ち、自己の知性を発揮して、世界に働きかけることをとおして、世界をみずからの希望や構想や理想のもとに再構築できると確信する知性――と説明する。

 表現を変えれば、それは、現実に異を唱えて、それに対抗・抵抗できる知性であるともいえるだろう。

 いうまでもなく、それはときには既存の権威にたいして敢然と闘いを挑むことができる知性でもある。

 実際、大学院在学中にわたしも優秀な同僚が大家といわれる研究者にたいして果敢に論争を挑んでいくのをたびたび目にしたが――もちろん、ときには「それは少々的外れな批判ではないか」と疑問を抱くこともあったが――確かに、自己著述型知性というのは、そうした「勇気」や「闘志」といわれるものと不可分に成立しているのだ。

 たとえば、ウィルバーは、集合規模で合理性段階の意識が共有されたとき、過去にはしばしば革命が発生したと述べているが(例:フランス革命)、自己著述型の知性には――少なくとも潜在的には――そうした破壊力と創造力が息づいているのである。

 こうしたこともあり、個人的には、成熟した思考というものは情熱に支えられた営みであるべきであり、また、われわれはみずからの思考をそのようなものにするために努力をする必要があると考えている。

 もちろん、ひとくちに情熱と言っても、その質感は人それぞれであろう(世界には熱い情熱も冷たい情熱もある)。

 ただ、われわれは、自己著述型知性を獲得するうえで、それを情熱を伴うものとして完成させていけるように心懸ける必要があるように思うのだ。

 しかし、まさにこの点において、今日、われわれは社会的に大きな障害に直面しているように思われるのである。

 

フラットランド

 『進化の構造』(Sex, Ecology, Spirituality)(1995)の中で指摘されているように、今日において、合理性段階の精神は、「フラットランド」(質の喪失と量の絶対化)の病理に冒され、数値的・感覚的な目標の追求に半ば完全に呪縛されている。

 真に追求に価する目標とは、数値的に測定可能、あるいは、感覚的に捕捉可能なものであるべきだという価値観に呪縛されてしまっているのである。

 そのため、合理性段階の精神は、その目標を量的な成果を獲得することに置くことしかできず(例:売上)、際限のない拡張と膨張の衝動に囚われた状態に絡めとられている(c.f., instrumental rationality)。

 結果として、大多数の人々が「夢」というものをそうした量的な成長の物語の延長線上にしか語れなくなってしまっている(例:経済成長を無条件に礼賛する発想)。

 学生時代を終えて、いったん実務者としての生活がはじまると、どうしても実務的な課題や問題に対処することに忙殺されてしまうことになる。

 そこで突きつけられる課題や問題がどれほど複雑なものであろうと、空間そのものがフラットランド的な価値観に覆い尽くされているなかでは、単にそれらに対応するための能力を鍛錬するだけでは(例:MBA)、真に本質的な問題に関する思索や洞察を深めることができないままに終わることになるだろう。

 結局のところ、すべては営利活動の論理のなかに収束していき、そこから逸脱する価値や論点は排除(無意識化)されることになるのである。

 端的に言えば、実務領域のなかで求められる能力を開発することに集中しているだけでは、自己著述型の知性は量化の精神に呪縛されたものになってしまうのである。

 合理性段階の知性の萌芽は、早い場合には、思春期に芽生えはじめるが、実際にそれが堅牢なものになるのは、大多数の場合には、成人期を迎えてからのことだろう。

 しかし、そうした重要な時期においてあたえられる支援と挑戦の大半がフラットランド的な価値観に支配されているために、自己著述型の知性はしばしば歪な形態で完成されてしまうことになる。

 また、社会のなかで自己著述型の知性の体現者として指導者的な立場にある人々の大多数がフラットランド的な価値観の熱烈な信奉者であるために、人格形成期の只中にある若者は否応なしにその影響下で知性を鍛錬することを強いられることになる。

 このために、いつの間にかわれわれは儲ける夢しか思い描けなくなってしまうのである。

 

支援者に突きつけられているもの

 今日、成人の発達支援に携わる関係者が直面する課題のひとつは、自己著述型の知性を涵養するための適切な支援と挑戦を提供することにあるが、上記のように社会空間そのものが病理化しているために、よほど注意をしないと、知らず知らずのうちに歪な形態の自己著述型知性の乱造に加担してしまうことになる。

 聞くところによると、日本の教育も、「知識の消費者」の大量生産に邁進してきたこれまでの方針を転換して、今後は「知識の創造者」を育成しようと検討を進めているという。

 しかし、そこで問題となるのは、そうした施策の背景には、人間の教育と成長を経済成長の道具として位置づけるフラットランドのイデオロギーが強力に息づいているということである。

 そうした文脈においては、自己著述型知性を鍛錬するための行為そのものが、フラットランド・イデオロギーの強い影響下に置かれてしまい、そうしたイデオロギーを受容・実践することが、自己著述型知性を習得することと不可分のものとされてしまう可能性があるのである。

 その意味では、健全な自己著述型の知性を集合規模で涵養するための方法を真剣に模索することは――そうした活動が財界の影響の下に動きはじめているがゆえに――非常に重要な課題である。

 ただ、残念ながら、状況はまったく楽観を許さないところまで進んでいるようで、フラットランドのイデオロギーに心酔する自己著述型の知性はひろく蔓延して、現代における合理精神の在り方を強烈に規定しているようである。

 たとえば、経営思想書を宗教書・哲学書のように崇めて熱心に読む老若男女の姿はそのことを示唆して余りあるといえる。

 こうした状況においては、自己著述型の知性を特徴づける情熱は、往々にして、金儲けに傾注されることになってしまう。

 このようなことでは、たとえこれから大量の知識の生産者が生みだされることになるとしても、結局のところ、彼等は、みずからの知性が潜在させている批判精神を育んで、同時代の人々が興じる「ゲーム」の妥当性そのものを批判的に問おうとする勇気や闘志を涵養することはないままに終わってしまうことだろう。

 知識は利己的な利益を追求するための資材として私物化され、「知る」ことに伴う社会的な責任は疎かにされることになるのである。

 こうしたことを考慮すると、まさに現代においてこそ、自己著述型知性の基礎を構築するための空間となる高等教育機関は、フラットランドのイデオロギーから可能な限り解放されたものとなる必要があるといえないだろうか……。

 そうした条件が保障されていればこそ、自己著述型の知性は、真の意味で夢を視るための能力を獲得して、現実に果敢に対峙するための勇気と闘志を個人に授けることができるようになると思うのである。

統合の方法について:研究会メモ

いわゆる統合的な思考や発想を可能とするVision Logicといわれる意識(認知構造)に関しては、一般的には、単純に対立する視点や立場を融合できるものであるとする理解がみうけられるが、実は、ここでいう「統合」の要となるのは、単に異なる視点や立場を融合するということではなく、それらの視点や立場がそもそもいかなる構造や文脈にもとづいて成立しているのかということに関する洞察であることは、総じて看過されているようである。
つまり、重要なことは、単に対立しているようにみえる立場や視点を調停・統合できることではなく、それらの個々の立場や視点が対立するものとして存立しているそもそもの条件に目を向けて、その枠組そのものを批判的に眺めることができるにようになるということなのである。
実際には、世界には調停・統合できない立場や視点も存在するし、また、たとえそれらを調停・統合できたとしても、それらのいずれもが看過している重要な課題や問題が網羅されていないために、結局、完成された統合的な理解そのものが深刻な欠陥を内蔵したものに終わるということがある。
Vision Logicとは、こうした単純な足し算的な発想を超克するものである。
そして、そのために、それぞれの立場や視点が成立させている文脈そのものに意識を向けるのである。
先日、天野 統康さんを御迎えして開催したIntegral Japan研究会では、こんな問題意識を深めるうえでの、貴重な洞察がいくつも得られたので、ここで簡単にそのときのメモを共有しておきたいと思う。

 

対立構造について
社会の中で対立構造が存在するときには、そのいずれかに安易に与するのではなく、それが真に意識化されるべき対立構造を隠蔽するものとして機能していないかを問うこと。
たとえば、マルクス主義は、資本家と労働者の間の階級闘争に焦点をあてたが、結果として、それは真に人々が問題視すべき問題にたいする目眩ましとして働いた可能性はないのか?
共同体の中に対立構造があり、そこで烈しい緊張や衝突が生じているときには、そうした構造そのものが「分割統治」(divide and conquer)の発想にもとづいて作為的に演出されたものであるかもしれないことに思いを馳せること。

 

弁証法的なダイナミクスについて
世界とは本質的に弁証法的なダイナミクスにもとづいて展開していくところであるという。
もしそうであるならば、智慧ある者達は、そうしたダイナミクスに抗おうとするのではなく、それを誘導することが肝となることを心得ているはずである。
そのためには、弁証法的なダイナミクスの両極(thesisとantithesis)を担う「役者」を用意して、それぞれの活動を支援すればいいということになる。
また、それぞれの立場の発想が洗練されて、それなりに説得力をもつものになれば、両極の間に発生する論争は、熾烈なものとなり、また、容易に解決されえないものとなる。
くわえて、こうした論争が派手なものとなり、ひとつの高級な「娯楽」として成立すれば(例:娯楽としての討論番組)、それが煙幕となり、大衆の目は真に意識化されて探求されるべき本質的な問題からは逸らされることになる。
その意味では、「情報リテラシー」を涵養するためには、巷で言われるように、単純に対立する立場の両方を理解しようとするだけではなく、両方の立場が無意識化している真実がある可能性に留意する必要がある。
両極間の弁証法的な統合が真の解決をもたらしえない場合には、それらの極(立場)そのものが偽りのものである可能性を考慮しなければならないのである。
表面的には緊張状態にある両極の関係者は、しばしば、ことのほかみずからの置かれている対立構造を維持することに熱心である。
彼等が真に対立構造そのものを超克して、真の弁証法的な解決の実現を意図しているか否かは、既存の対立構造にたいする執着のありようを診れば理解されるだろう。

 

顕教と密教
他の領域においてそうであるように、社会の統治においても、顕教(exoteric)と密教(esoteric)が存在する。
たとえば、宗教学においては、Ken Wilberが指摘するように、意識の垂直的変容に関する訓えとしての密教と主に意識の水平的な変化を援助する顕教が存在するが、それらは本質的に異なる志向性を有するものである。
同じように、社会の統治においても、支配層の中で「密教」が伝承され、それが改良をくわえられながら実践されていると想定すべきである(実際、Richard Wernerは、日本銀行の関係者からそうしたことを聞いているという)。
ただし、重要なことは、密教といわれるものが必ずしも難解なものであるとは限らないということである。
実は顕教以上にシンプルなものである可能性さえある。
しかし、真実は難解であると思い込まされている者には、それはしばしば見過ごされることになる。
密教の目的が、顕教の信奉者が密教の存在に気づかないようにすることにあるのだとすれば――そして、顕教の枠組の中でしか発想しないようにすることにあるのだとすれば――その場合には、情報を隠すのではなく、それらをどれほど総合しても全体像(構造や仕組や機関)に関する正しい理解に辿りつかないような偽りの理論をあたえることが必要となる。
情報は隠していないのだから、それは隠避にはあたらない。
人々には自由な情報へのアクセスを許容しつつ、それが真実の認識に至らないように、権威とされる理論を操作すればいいのである。
また、そうして流布される理論は、完全に誤りのものではなく、それなりに正しいものである必要がある。
その理論にもとづいて状況を理解しようとすれば、それなりに謎を解明できるようには思われるが、ただし、どこか釈然としないところが残るくらいでいいのである。
とりあえず、ある程度は状況を理解できているという感覚をあたえることができればいいのである(あるいは、「現実とはそう簡単に理解できるものではなく、さらなる調査や研究が必要とされるのだ」と「謙虚」にひとりごちれるくらいの納得感をあたえることができればいいのである)。
必然的に、教育においては、真の納得感を得ることの重要性を伝えるのではなく、理解できなくても、とりあえず理解できたふりをする「器用」さを涵養することが奨励されることになる。
「納得できない」「腑に落ちない」「釈然としない」等の内なる声を尊重するのではなく、てきぱきと情報を吸収・処理できるようになることを教育の目的とすることが肝要となる(いわゆる「東大話法」の蔓延は、こうした教育の必然的な結果である)。
逆に言えば、こうした状況を克服するためには、抜本的な変革が必要とされるのではなく、真に納得できるまではみずからの頭で思考と探求を執念深くつづけるという能力だけが必要とされるといえる。

 

世論の分断と無関心の醸成
民主主義体制においては、社会にたいして選択肢を示してそれを自由に選ばせる必要があるが、そのときに極端な二つの選択肢を示すと、人々はそのどちらも選ぶことができなくなり、結果として、投票を放棄したり、無関心になったりする(disenfranchisement)。
また、このときに、それぞれの選択肢の内容を理解するためにある程度の専門的な知識を有していることを必須条件とすると、大多数の人々は諸々の議題についてどう考えればいいのか判らなくなり、結果として、無関心な状態に陥ることになる。
民主主義が機能するための要は、すべてを平易にすることにあるはずだが、現在はそれとは反対の方向に状況が進んでおり、結果として、多数のひとびとが恒常的に混乱させられている。
実際、今日、社会には膨大な情報が流通しているが、それらに関して少しふみこんだ理解を得ようとすると、高学歴のひとでさえ、たいへんな苦労をすることになる。
こうした状況はまさに世論の分断と無関心の醸成を深刻化するための絶好の状況ということができるだろう。
まさに『危険社会』の中でウルリヒ・ベックが指摘しているように……。

「夢」を実現すること:映画『バクマン』を観て

先日 DVDで『バクマン』という映画を鑑た。
2015年度の邦画の中でも比較的に高評価を得た作品のひとつと聞いていたので、少したのしみにしていたのだが、率直に言えば、どうにか鑑賞に堪える程度の出来というところだろう。
実は、数年前に原作を読んでいたのだが、あまりのつまらなさにスグに投げだしていた(少年誌に掲載されている漫画を大の大人が真面目に読むことそのものに難があるといえば、それまでの話なのだが……)。
とはいえ、映像化された作品と原作は別物である。もしかしたら、原作を大きく凌駕する作品になっているかもしれない。
そんな淡い期待を抱きつつ、作品を観てみたのだが、結果は、思春期の児童を対象とした娯楽作品としては、それなりにたのしめる作品に仕上がっているが、特にそれ以外に特筆するものがあるわけでもないというところである。
戯画化された登場人物たちが誇張された演技で画面を埋め尽くす近年の邦画に蔓延する演出に辟易とさせられはするが、ただ、柱となる物語が古典的な主人公達の成長譚の形式を採っているために、どこか安心して作品を鑑賞できるのである。
ただ、作品の出来云々にかかわらず、この作品の中で主人公達が構想する「夢」が既存の社会の中に敷かれている道を――たとえそれがどれほど険しい道であるとしても――従順に歩もうとするだけのものであることに個人的に非常に違和感を覚えた。
少し意地悪な診方をするならば、この『バクマン』という作品は、「夢」を餌にして、次世代の人間が自己の命を磨り減らして、従順に出版社に貢ぐのを暗に奨励しているだけの作品のようにも思えるのである。
もちろん、既存の社会の構造を所与の条件として、そこに存在する諸々の役割や専門を選び、その枠組の中で自己の能力を発揮していこうとするこうした発想というのは、構造主義的発達心理学でいう前期合理性段階を重心として構成されている今日の社会状況においては、「あたりまえ」のものなのかもしれない。
それにしても、作品の中に、夢というものが容易に収奪の道具に転化しえることにたいする視点があまりにも希薄であることに薄ら寒い感覚を抱くのである。
とりわけ「恐い」のは、作品の後半、過酷な作業日程に追われて主人公のひとりが健康を毀して病院に担ぎ込まれたとき、そうした状況の中でも、意志を振り絞って、必死に作品を完成させようとすることを美談として描写しているところで、こうしたシーンなどは、今 巷に溢れている経営思想書の支持者などは狂喜しそうなところである。
たしかに、そこには、普段は競合でもある同業者たちが窮地に陥った同胞に支援の手をさしのべるという美談も挿入されるが、しかし、このように「意志」や「友情」をはじめとする精神主義的な価値観を持ちだしてきて状況を解決することにより、結果として、作品の視点が、芸術家をとりまく業界の過酷な構造や状況に向かわずに終わることもまぎれもない事実である。
むしろ、最終的には、そうした過酷な状況の中でも、「夢」を実現させるためには、自己の肉体と精神のすべてを捧げて、ひたすらに頑張りつづけることこそが美しいのだ――というような結論に作品を落ち着いてしまっているように思う。

 

 

今日、日本においては、経営思想書が半ば宗教書のように熱心に崇められ読まれているが、そうした書籍の中で主張されているのは、基本的には、『バクマン』の中で言われているものとそれほど変わらない。
端的に言えば、そこで読者にたいして声高に述べられているのは、自己の存在の全てを捧げてあたえられている役割や職務を全うせよということであり、また、もしそうすることに意欲や情熱を失ってしまっている場合には、あらためて自己の「構想」や「夢」や「目標」を明確化して、自己を蘇生する必要がある――というようなことである。
換言すれば、人間というものは主として価値(事業価値)の創造者であるべきであるとしたうえで、それを阻害する要因があるときには、それらを効果的に排除することで、われわれはみずからの機能を最大化できるのであるという価値観にもとづいた言説が、「富」と「成功」と「名誉」を売りにして、熱烈に訴えられるのである。
本来であれば、思想というのは、同時代を客観的に眺めて、みずからの存在を呪縛する集合的な諸条件から少しでも精神を自由にするための叡智であるべきだと思うのだが、非常に残念なことに、現代日本においては、思想は「金」(money)を儲けるための方法を授けてくれるだけのものに成り果てているのである。
そして、少し意地悪な言い方になるが、その素地は実はこんな漫画を読んで育つ中で整えられるのである。

 

「発想の転換」と「視点の取得」

昨日は、金融問題の研究家の天野 統康氏を招聘して、Integral Japanの研究会を開催した。

狙いは、あたえられた「慣習的」「常識的」(conventional)な物語や枠組をとおして世界を眺めるだけでなく、主体的に異なる物語や枠組をとおして眺めてみようとすることが、認知構造の発達を促すことになるだろうと踏んだからである。

確かに、巷でも、前提条件を問いなおして、これまでにない発想をすることを鼓舞する言説が流布しているが、少し注意深く検討してみると、実はそれらはあくまでもわれわれの生きる現代社会の政治・経済の根本的な規則や原則を疑うことを鼓舞するものではなく、むしろ、その枠組の中で「勝者」や「成功者」となるために「前提条件」を問いなおすことを奨励しているに過ぎない。

そうした「発想の転換」は、発達論的には十分に合理性段階の枠組の中で対応できるものであり、それをするために認知構造の垂直的・構造的な発達が求められるわけではない。

非常に表層的な意味での「発想の転換」に過ぎないのである。

その意味では、インテグラル理論において――また、発達論的な枠組において――前提条件を問いなおすとは、こうした一般的なものとは、質的に異なることが意味されているといえる。

今日の民主主義社会に生きる圧倒的に大多数の人々は、みずからが自由意志にもとづいて情報を取捨選択したうえで思考・判断をしていると錯覚しているが、実際のところ、われわれはそれほど自由ではない。

正に発達心理学者達が指摘するように、われわれは自己を呪縛する認知構造の檻の中に完全に閉じ込められている。

また、それだけでなく、特定の意図や思惑にもとづいて包装・編集・発信される情報を真実として吸収して、それを素材として自己の世界観を構築している。

その意味では、実際には、現代人はそれほど自由に認識・思考・判断して生きているわけではないのである。

また、生物学的な意味でも、人間という生物は徹底して習慣を踏襲して生きようとする機械的な生き物である(c.f., Charles Duhigg. The Power of Habit. http://charlesduhigg.com/books/the-power-of-habit/ )。

みずからがいかに不自由な存在であるかということを気づくための努力をすることなしには、到底、前提条件を問いなおすことなどできはしないのである。

いわゆるVision Logicを獲得するためには、そうした不断の努力が必須となるのである。

そして、そのためには、実のところ、われわれは自身に感動や発見をあたえてくれる刺激を得ようとするだけでなく、困惑や混沌や混乱をもたらしてくれる刺激を求める必要がある。

今日、活躍する識者の大多数は、残念ながら、そうした困惑や混沌や混乱をあたえることをとおして聴衆の成長に寄与しようとはしてくれない。

あまりにも優し過ぎるのである(まあ、彼等も客商売をしているので、当然といえば当然なのだが……)。

しかし、天野さんの場合、確かにしばしば主催者を冷や冷やさせるような発言もされるのだが、少なくとも聴衆を動揺させないように情報をオブラートに包んで伝えようとするところがない。

常に直球勝負である。

それがありがたいのである。

ケン・ウィルバー(Ken Wilber)は、人間の精神を眺めるときに「昼の眺め」と「夜の眺め」が必要とされると述べているが、われわれは知らず知らずのうちにどちらかひとつの「眺め」しか認識できなくなっているものである。

もうひとつの眺めは、すぐそこにあるにもかかわらず、アクセスできない。

そればかりか、われわれは往々にしてそれに抗おうとさえしてしまう。

今日、われわれが集合規模で直面している心理的な課題というのは、実はそれほど複雑なものではないのではないかと思う。

実際には、それは、すぐそこに可能性として存在している異なる眺めを獲得するための視点の柔軟性と機動性を涵養することだけなのではないか……。

昨日の研究会を終えて、あらためて「視点の取得」(perspective taking)の重要性について痛感させられている。

著書紹介:天野 統康(著)『洗脳 政治学原論』

著書紹介:天野 統康(著)『洗脳 政治学原論』

 

今日、いわゆる「統合的」「包括的」な思考をしようとするときに、われわれが注意すべきことは、単に――「左派」と「右派」や「保守」と「革新」等の――対立する立場の中に息づく真実を考慮・尊重しようとするだけでなく、それらの立場が共に排除している事実を見極めようとすることである。

それぞれの立場は、特定の価値観や世界観に立脚して発想し独自の意見を呈示することで、社会の中でひとつの言論勢力としてみずからの場所を確立しているわけだが、共同体としてのみずからの統一性を維持するために半ば不可避的にその共同体の中では言及しない話題や採用しない視点というものが生みだされ、関係者の意識を呪縛するようになる。

その意味では、それぞれの立場は、ある特定の価値観や世界観に立脚することをとおして、ある特定の真実を照らしだすものであると同時に、正にそのことをとおして、ある特定の真実を排除・隠蔽するものでもあるのだ。

思想家のケン・ウィルバー(Ken Wilber)の提唱するインテグラル理論においては、世界に存在する限定的な視点を総合することをとおして、われわれはより統合的な理解に到達することができるといわれる。

しかし、実際には、事はそれほど簡単ではなく、われわれは、みずからが統合しようとしている立場のいずれもが排除している真実が存在する可能性を留意しなければならないのである。

また、そのようにすべての立場により排除されている真実があるとすれば、その背景には、いかなる意図や構造が存在するのかということに思いを巡らせなければならない。

統合的な意識(Vision Logic)とは、単に多様な視点を考慮することができるだけでなく、それらの視点がいかなるものを背景として存在しているのかを――即ち、いかなる条件のもとに、それぞれの視点や立場が社会の中で構成され、また、存在することを許容されているのかを――探求するのである。

そして、真の統合的な理解とは、断片的な視点や立場を足し合わせることをとおして実現されるのではなく、それらの断片的な視点や立場の「背景」や「深層」に存在するダイナミクスを洞察することをとおして達成されるのである。

たとえば、TV等で放映される討論番組には、対立する多様な主張者が登場するが、しかし、視野を少しひろげてみれば、そうしたところには絶対に招待されない視点や立場の主張者が社会には存在することに気づかされる。

表面的にはひろい範囲の視点や立場が網羅的に招待されているようにみえるが、そこには確実に「タブー」が存在しているのであり、そうした視点を持ち込もうとする視点や立場は排除されるのである。

われわれに求められるのは、表面的に取繕われている公平性の幕を剥ぎとり、その向こうに存在する真実をも包含した全体像の理解を達成することなのである。

 

こうした統合的な思考をするための指南書のひとつとして、先日、経済評論家の天野 統康氏が発表した『洗脳 政治学原論』を紹介したい。

本書は、4月に発表された『詐欺 経済学原論』の続編にあたるものであるが、前著で展開した貨幣発行権に関する議論を踏まえて、今日の先進国において政治・経済・外交等の社会的な課題・問題に関して展開している議論がどのように「誘導」されているかということについて秀逸な分析をしている。

内容は、経済学だけでなく、社会学・政治学・思想哲学をはじめとして非常に多岐にわたり、著者がこれまでに吸収してきた知識を総動員してまとめあげたひとつの集大成といえるものである。

前著の主題が、「貨幣発行権」という権力の存在を照明し、それが具体的にどのような制度をとおして保護・行使されているのかを詳細に説明することにあったとすれば、今回の著書の主題は、そうした権力の行使とさらなる肥大化・巨大化を推進するために、いかなる大衆操作法が駆使されているかということについて大胆に語ることにあるといえるだろう。

換言すれば、どのような大衆意識の操作を通じて、人々の意識がこの巨大な利権の存在から逸らされ、また、この利権に関する認識が集合規模で欠如しているために、人々の現実認識がいかに倒錯したものに歪められているかということを新著は語っているのである。

 

今日の「民主主義社会」において、社会の統治をする際にとりわけ重要となるのは、たとえば中華人民共和国のようにあからさまな情報統制をするのではなく、基本的には、必要なすべての情報が統制入手できるようにされており、それらをみずからの自由意識にもとづいて解釈したうえで、意思決定しているという確信を人々にあたえることにある。

みずからの自由意思にもとづいて自己の人生を統御しているという感覚を実感したいという根源的な欲求を侵害することなく――そうした感覚を満喫させながら――同時に人々の思考や判断を誘導することが肝となるのである。

つまり、あからさまな情報の遮断をとおして人々の認識を制限するのではなく、人々が主体的に特定の真実を無意識化するように動機づけすることが重要となるのである。

著者によれば、こうした操作を実現するために採用されているのが、本来は統合されたものとして存在しているべき価値(この著書においては「自由・liberty」「平等・equality」「友愛・fraternity」)を分断・分裂させ、それぞれを肥大化させることにあるという。

そして、人々にそれらの価値のいずれかに傾倒させることをとおして――その限定的な真実に排他的に従属させることをとおして――他の価値と恒常的な衝突状態に置くのである。

こうして価値の統合化された状態から疎外された人々はみずからの奉じる断片的な真実に呪縛されたまま、そのときどきの治世層の思惑にもとづいて流布される「物語」に機械的に反応するだけの状態に陥れられることになるのである(そうした物語に賛成するか反対するかは、みずからが傾倒している価値にもとづいて半ば自動的に決定されることになる)。

たしかに、ひとりひとりは、社会の中で争点とされている案件について主体的に思考をするのだが、それはあくまでも自己の傾倒している価値と結びついた結論を正当化・合理化するために行われることになるのである。

また、そのために意識を向ける情報や知識は、そうした結論を導きだすのに都合のいいものだけが恣意的に取捨選択されることになる。

端的に言えば、人間の思考を操作するためには、必ずしも情報を統制する必要はないのである。必要となるのは、人間の認知活動の方向性を根源的に規定する「価値」の操作をすることなのである(それが可能となれば、治世者は、「みずからは自由意志にもとづいて思考している」という個人の感覚を損なうことなく、強力に操作することができるのである)。

実際、人類学者のアーネスト・ベッカー(Ernest Becker)が『死の拒絶』(The Denial of Death)の中で洞察したように、人間とは価値を希求する生物である。

それは、死にたいする根源的な恐怖を克服しようとする根源的な生存欲求と結びついた欲求として――肉体的に死という宿命を背負わされた存在であることを認識する生物である人間は、価値という抽象概念の実現に自己の存在を投じることをとおして、自己の存在の永続性を獲得しようとする――人間の精神的な活動を強烈に呪縛しているのである。

実際、人間は、ときとして、自己の奉じる価値を実現しようとして、完全なる善意のもとに破壊的な行為をおこなうこともできる(たとえば、ロバート・ジェイ・リフトン(Robert Jay Lifton)が述べるように、ナチス・ドイツやオウム真理教等の宗教団体は、崇高な価値を実現しようとして、完全なる善意のもとに大量殺戮を実施した)。

価値を実現しようとする人間の衝動を支配することができれば、実に効果的にその行動を誘導することが可能となるのである。

また、そうした誘導をとおして、人間は実に容易に極端な行動に走ってしまうものなのである。

天野氏が指摘するように、「自由・liberty」「平等・equality」「友愛・fraternity」という価値は、本来は相互に牽制しあうことで、社会に価値を提供しえるものであるが、それらがそうした相互の牽制関係から切り離され絶対化されて信奉されるとき、人間は、往々にして、それに呪縛され、みずからの行動を暴走させてしまう。

その意味では、真に重要なことは、単に価値の実現に邁進することでなく――ある意味では、それは本能的な欲求にもとづいた行為であり、誰にでも容易にできることである――拮抗する価値の間で自己を揺り動かしながら、ひとりよがりではない形態で価値を実現しようとすることである(そのためには、発達心理学において「自己中心性の克服」といわれる人格の発達や成熟が必要となる)。

 

現代においては、価値にたいする欲求そのものは抑圧されてはいない。

しかし、それを高い公共性をもって実現するために必要とされる「成熟」や「発達」や「叡智」を涵養することの重要性が強調されることはほとんどない。

結果として、それぞれの価値が非常に幼稚(自己中心的)な思惑や解釈や枠組をとおして「実現」されることになっている。

また、そうした自己中心的な発想を正当化するための「物語」がひろく流布されているために、圧倒的に大多数の人々がそれに呪縛されて価値の実現に邁進することになっている。

たとえば、社会の中でおこなわれている政治・経済・外交等に関する様々な議論において、それぞれの論者は、相補的な関係にある複数の価値観を統合的に考慮して発想するのではなく、その中の特定のものに立脚して発想する傾向にある。

そのために、他の価値に立脚して思考する論者と「解決できない」不毛な議論に巻き込まれることになる(「解決」は複数の価値を統合的に考慮したときにのみ生まれる)。

本来であれば、「識者」は相補的な価値の全てを踏まえた統合的な思考を実践して範を示すべきなのだが、あくまでも限定的な価値に立脚した単純化された議論を展開する者の発言の方が単純明快であるために、世論誘導のための道具としての価値が高くなる。

結局、そうした偽物だけが珍重され、社会に統合的な議論が生まれる素地が育まれないのである。

 

人間は、価値を信奉することをとおして、みずからの可能性を実現することができる。

しかし、相補的な関係にある価値を統合するということを忘れて、ある特定の価値を盲信するとき、われわれはいとも簡単に盲目的・暴力的・破壊的になりえてしまうのである。

 

本書の慧眼は、民主主義を支える重要な価値である「自由・liberty」「平等・equality」「友愛・fraternity」が、今日、いかに相互に分断され、そうした状況がいかに人々の思考を視野狭窄したものに病理化しているかということを指摘しているところにあるといえるだろう。

 

相補的な関係にある価値の分断をとおして世論を操作するうえで、効果的な方法の代表的なものとしては次のものがあげられるだろう。

 

*重大な社会的な案件に関して、ある特定の価値に立脚した「物語」だけを流布させて、他の価値にもとづいた「物語」を排除する。

例:TPP(Trans-Pacific Strategic Economic Partnership Agreement)に関する社会的な議論を誘導するうえでは、主に「自由・liberty」という価値に立脚した物語が流布され、「平等・equality」や「友愛・fraternity」に立脚する物語は排除される。たとえば、「平等・equality」の価値に立脚した物語が排除されることにより、国際的な経済活動においては、それに有利に参加できる条件を有している関係者とそうでない関係者が存在しているという事実が過小評価されることになり、結果として、TPPが「勝者」と「敗者」の格差をさらにひろげる危険性を内包することが無視されることになる。あるいは、「友愛・fraternity」に立脚した物語が排除されることにより、ISD条項が実質的に参加国の国としての意思決定権を剥奪するものであることを指摘して、それが食料安全保障をはじめとする国家の存立基盤を根本的に損なう危険性が無意識化されることになる。「自由・liberty」という価値に排他的に立脚して、(規制と関税の撤廃をとおして実現される)無制限の経済競争の中で成長・成功することを称揚する物語は、他の価値が証明する真実を無意識化するというものであり、その意味では、正に視野狭窄した意識を社会に醸成することになるといえるのである。

 

また、こうした価値の分断にくわえて、人々の視野狭窄を推進するもうひとつの有効な方法としては、次のものが挙げられる:

 

*価値を実現しようとする人々の希求を比較的に重要ではない課題や問題を解決することに向けさせることをとおして、真に重要な課題や問題を意識させない。

例:「平等・equality」という価値にたいする人々の情熱を、男女間の性的な平等を実現するための施策を推進するために誘導して、そこに意識を収斂させる。それにより、現代社会を蝕むより深刻な不平等である貧富の差の問題にたいしては、人々の意識が向かないようにする。たとえば、合衆国の大統領選挙において、黒人や女性が候補者になると、それだけで、社会に「平等・equality」の価値が実現されていると錯覚してしまい、そこでその価値を実現するための衝動が充足されてしまう。結果として、そのようにして登場してくる候補者達が既存の支配構造に用意されてきていることが無視されてしまう。あるいは、政治家の金銭問題や失言問題を摘発する報道に触発されて、その人物を辞職に追い込むことに情熱を傾ければ、たしかに、「たとえ政治的権力者であろうと常識的な倫理にもとづいて批判・非難されるべきである」という「平等・equality」の価値の実現を求める情熱は満たされはするだろう。しかし、それにより一時の陶酔状態を満喫することはできても、そうした情報操作をとおして、巧みに大衆操作をする治世者が特権的に有する権利・権限に人々の問題意識が向くことはない。ほんのしばらくまえに報道機関を動員して祭り上げられた政治家が、いかなる思惑によって、あるとき突然に些細な過失を問われて極悪人に仕立てあげられるのか、また、そうした大衆心理の操作を可能とする権力が社会の少数の治世者により掌握されているということに問題意識をいだくことがないままに終わるのである。

つまり、高邁な価値を実現しようとするのが、人間の基本的な欲求であるとすれば、それを社会の支配構造にそれほどの影響をあたえない「とるにたらない」問題に投影させて、そこで陶酔感を味あわせることをとおして、それが真に重大な問題に向くことがないようにするのである。

 

尚、インテグラル理論においては、ドン・ベック(Don Beck)とクリストファー・港湾(Christopher Cowan)のスパイラル・ダイナミクス(Spiral Dynamics)を援用して、社会における価値の衝突はそれぞれの発達段階においては異なる価値が信奉されるからであると説明するが、それは大きな誤解にもとづいたものだといえるだろう。

少なくとも、この著書の中で挙げられている「自由・liberty」「平等・equality」「友愛・fraternity」という価値は複数の段階において信奉しえるものである。

むしろ、実態は、それらの価値が、各発達段階の認知構造にもとづいて御都合主義的に解釈・理解され、個人や集団の正義感(heroism)に火を点け、その行動を盲目的に駆り立てているというものであろう。

また、治世者は、人間というものが正義感に陶酔することを希求する生物であることを承知して、報道等をとおして特定の価値に立脚した特定の物語を流布させることで、大衆を熱狂的状態に陥れる術に習熟している(尚、こうした大衆の性質に関しては、適菜 収氏が『日本をダメにしたB層の研究』という著書の中で興味深い分析を呈示している)。

 

当然のことながら、こうした状況を超克していくためには、人間(個人として、また、集団として)の能力を高めていくことが必須となる。

社会を変革していくためには、単に情報の消費者であるだけでなく、みずからが当事者として貢献ができるようになるための能力を開発して、それを発揮していくことが重要となるのである。

その意味では、こうした著書においては、なんらかの実践(praxis)に関する議論が必須となる。

本書には、そうした実践論は掲載されていないが、その替わりに、天野氏は、プラトン(Plato)の「魂の三分説」を引用して、それらを統合的に涵養することが重要であると説明されている。

魂の三分説においては、人間は「欲望」(the appetites)・「気概」(the spirited parts)・「理性」(the mind)から構成される存在としているとされる。

「欲望」は、人間の中に存在する生理的な諸欲求のことであるが、それらはときとして互いに衝突しながらも、人間の自己保存を可能としている(ただし、それに過剰に囚われるとき、われわれは感覚的な刺激に耽溺する依存状態や退行状態に陥ることになる)。インテグラル理論の枠組では、自己を維持・保護・充足させようとするAgapeの働きと結びついたものとみなすことができるだろう(それが病理化した場合にはThanatosとなる)。

「気概」は、人間の中に存在する自己超越の衝動のことであるが、とりわけそれは自己の限界を克服したり、自己の課題や問題を解決したりするために修練を積もうとする克己の衝動として顕在化する。また、自己の尊厳を冒涜する社会的な条件等を変革しようとする情熱や意志としても顕在化する。インテグラル理論の枠組では、自己を否定・超越・変革しようとするErosの働きと結びついたものといえるだろう(それが病理化した場合にはPhobiaとなる)。

そして、「理性」は、世界を観察・洞察し、諸情報を咀嚼・分析し、そして、それらを素材として計画や戦略を構想ながら、上記のふたつの衝動を統御・統合していく要素である。いうまでもなく、インテグラル理論の枠組においては、これは「心の統合中枢」としての自我に相当するものといえるだろう。

本書において主張されているのは、「これらの三要素を統合的に動員することをとおして、現代において、人間を脅かしている上記の価値の操作をとおした無意識化の罠を超克することが可能となる」と要約することができるだろう。

いうまでもなく、これは統合的な人間観に立脚したものであり、個人的にも大いに賛同できるものである。

ただ、なぜあらためてあえてプラトンを採りあげる必要があるのかということに関する説明がないために、個人的には、この部分の記述が少々必然性を欠いているように思われたのも事実である。

しかし、同時に、あらためてプラトンの思想にもどることで、今日忘却されがちな「気概」の概念――とりわけ、それが本質的に社会悪と対峙・対決する能力と密接に関連があるということ――をあらためて人間の成熟の核概念として回復できるという主張は非常に新鮮である。

今日、個人の能力開発や成熟を支援するための教育的な施策は多方面で検討されているが、得てして、そこでは社会的な圧政や操作により自己の尊厳が侵害されるときに、それにたいして憤ることを能力としてとらえる発想が排除されてしまう。

往々にして、人間の成長とは企業等の営利活動に参加できるための機能的な能力が向上することであると矮小化されてしまい、そうした文脈をこえた視野から人間の成長をとらえようとする発想が等閑にされてしまうのである。

また、たとえそうした視点に立脚して発想していたとしても、ニュー・エイジ的な思想の悪影響であろうか、「憤り」という感情を否定的なものとしてとらえる昨今の風潮に影響されて、結局、社会的な改革や変革を志向する問題意識を統合できないで終わることになる。

端的に言えば、今日においては、利益の追求に憑かれた粗暴な成長と集合的な課題や問題にたいする当事者意識を欠いた去勢された成長が支配的になってしまっているのである。

こうした状況を打開するうえで、気概の概念を復権することは非常に重要な価値を持つことは間違いない。

 

批判

 

最後に、この著作において、疑問を抱いたところについて簡単に述べておきたいと思う。

 

ひとつめは本書の主旨と関わるところである。

本書では、天野氏は、現代において真の民主主義の成立を阻害する要因を明らかにし、それを克服するための方途を呈示するわけだが、そうしたとりくみをとおして実現されるべき最終目標を「誰もが支配されない状態」を実現として定義している(p. 71)。

この言葉を聞いて、それに抵抗を覚える人はいないだろう。

ただ、同時に、これこそがわれわれが共通してめざすべきヴィジョンであり、すべての努力はその実現のために注がれる向けられるべきであると言われると、漠然とした違和感を覚えるのではないだろうか……。

少なくても、読者はこの定義こそが最も優れたものであるとする主張の根拠を示してほしいと思うことだろう。

この言葉はいわば本書の主張の基盤となるものであり、それに合意できるかどうかということが、否応なしに読者の本書にたいする態度と評価を決定づけることになる。

その意味では、作品中におけるその登場の仕方が唐突であり、また、それと競合する他有力なヴィジョンに関する議論が為されないことは、この著書の説得力に大きな少なくない影響をもたらしているように思う。

端的に言えば、この著者の主張にどれほどの妥当性があるのかどうかということを判断するための材料が提供されないために、読者は、「確かにそのように言えるかもしれないが……」という漠然とした当惑を感じながら、その後の記述を読み進めることになってしまうのだ。

非常に重要なところであるだけに、ここに関してはもう少し丁寧に議論を進めるべきであったのではないかと思うのだが、どうだろう……。

 

もうひとつは、方法論に関するものである。

複数の思想や理論を統合する際には、読者にたいして「統合の方法」を説明して、そこで紹介されているものが、単に著者が個人的な嗜好で選んでいるわけではないことを示す必要がある。

無数に存在する思想家や理論家の中から、著者がなぜ特定の思想家や理論家を採用しているのかを説明する必要があるのである。

どのような評価基準にもとづいて評価をして、その思想家や理論家を採用・排除しているのか、また、他にも同じような主張を展開している思想家や理論家が存在する場合には、それらの関係者の存在を認識していることを述べたうえで、ある特定の思想家や理論家で代表させていることを明記する必要があるのだ。

やや学問の点に関する指摘に思えるかもしれないが、ある程度の知的訓練を受けてきた読者にたいして語りかけようとすると――そして、天野氏が対象としているは、安易に「陰謀論」に飛びつく人達ではなく、正にそうした人達であろう――こうした手続き上のことを考慮して論を進めることが必要となる。

本書の場合には、こうした方法論に関する説明が無いために、総じて記述が雑多な思想や理論の継ぎ接ぎにより構成されている印象をあたえてしまうところがあるのである。

 

このあたりは、改訂版等を出版する際に著者にあらためて検討してほしいところである。

 

 

今日、われわれは多くの知識や技術が、人間の全存在(body・mind・heart・soul・spirit)を恣意的に操作するための道具として急速に「武器化」(“weaponization”)されている時代に生きている。

そして、社会学者のウルリヒ・ベック(Ulrich Beck)が指摘したように、そうした知識や技術の進化の意味づけをする権利は、それが人類の集合的な運命に直接的に影響をあたえられる真に強大なものであるにもかかわらず、少数の専門家に占有されている。

こうした状況を解決していくために求められるのは、人類の集合的な運命にたいして当事者感覚を持つことができる意識であり、また、そうした責務を果たしていくために必要となる能力を統合的に鍛錬することである。

今回 紹介した天野 統康氏の著者は、「貨幣発行権」という現代社会の構造を正確に理解するために必須の要素に関する貴重な示唆をもたらしてくれる価値ある作品である。

書籍紹介 : 『詐欺 経済学原論』 天野 統康(著)
発達の本質
 
現代思想家のケン・ウィルバー(Ken Wilber)が提唱するインテグラル理論においては、人間の成長とは、これまでに意識されていなかったものを意識化することで実現されるといわれる。
気づかないかたちで自己に影響をあたえていたものを意識化して、それを探求することで、その呪縛や束縛から自由になるための方途を見出せると考えるのである。
このプロセスを、ウィルバーは、「ひとつの発達段階の主体が、次の発達段階の主体が観察することのできる客体(対象物)となる」(“the subject of one stage becomes the object of the subject of the next stage”)プロセスと説明する。
普段 われわれは世界(内的世界・外的世界)をありのままに認識していると思い込んでいるが、実際には様々なバイアスをとおしてとらえている。
発達とは、自己を呪縛しているそうしたバイアスの存在に気づき、また、それについて批判的に検討をすることをとおして、その影響から少しでも自由になろうとする格闘の中で実現されるものだといえるのである。
また、カール・G・ユング(Carl Gustav Jung)がModern Man in Search of a Soulの中で指摘するように、現代という時代は、意識化をするということに個人が積極的に責任を負うことが、とりわけ重要になっている時代でもある。
産業革命以降、人類の活動が地球の生態系に大きな影響を及ぼすようになるなかで(“anthropocene”)、われわれには、みずからの認識や思考や行動に影響をあたえている無意識の領域に意識の光を当て、それを深く理解・洞察する責任が課されるようになっているのである。
そうした責任を果たすことができなければ、われわれ人類は、みずからの無意識に呪縛されたまま無軌道な行動をしてしまうことになり、結果として、この惑星の生命維持機構そのものを大きく損なうことになる可能性さえある。
その意味では、「意識化」という課題は、現代を生きるひとりひとりが真に懸命にとりくむべき課題のひとつなのである。
 
二種類の無意識
 
さて、インテグラル理論においては、この意識化という課題にとりくんでいくうえで、われわれが留意すべきこととして、探求領域によって異なる意識化の方法が必要となることが指摘されている。
即ち、内面領域(Left Quadrants)に存在する無意識と外面領域(Right Quadrants)に存在する無意識を探求するときでは、異なる探求方法が必要となるのである。
内面領域とは、いわゆる「心の目」をとおして観察する精神的領域のことであるが、そこでは、たとえば心理的な探求や内省、あるいは、宗教的な探求や瞑想をとおして、意識の深層に存在していたものを意識化していく。
意識から排除・抑圧されていたものは意識の中に抱擁・統合され、また、無意識の中に潜在していた高次の可能性は解発・創発されるのである。
人間存在の中には、治癒と成長への衝動が息づいているといわれるが、それは内的な衝動として感得され、内面領域における探求に向けてわれわれを衝き動かしていくことになるのである。
端的に言えば、内面領域に存在する無意識を意識化するとは、こうした内的衝動に耳を傾けて、それと対話をしながら、自己の内の暗闇に意識の光を当てていく作業にとりくむことなのである。
そのために必要となるのは、たとえ非常に幽かなものであれ、みずからが感じている治癒と成長に向けた衝動を素直に肯定・受容することである。
その意味では、内面領域に存在する無意識を意識化するための契機はすぐそこに存在しているということができるだろう。
いっぽう、外面領域の無意識に関しては、こうした契機が働かないために、異なる方法を用いる必要がある。
外面領域とは、端的に言えば、肉眼(あるいは、諸々の計測器)で観察できる領域であるが、この領域における無意識とは、基本的には、知識として取得されていないすべてのことがらのことである。
たとえば、これまで物理学について勉強をしていない者にとっては、物理学をとおして明らかにされた諸々の事実は無意識である。
それらの事実は、過去に抑圧されたり、排除されたりしたので無意識化されているわけではなく、単純にそうした知識に触れる(あるいは、そうした知識に触れる機会があたえられていたものの、それを実際に習得しなかった)機会が無かったために、無意識なのである。
その意味では、外面領域の無意識とは、探究心を発揮して純粋にあらたな知識を獲得していくことで意識化されていくのである。
そして、そのためには、その探求領域(学問領域)で共有されている知見を吸収すると共にいまだ解明されていないことを見極めて
、調査や実験をとおして、あらたな知識や洞察を創出していくことが求められるのである。
必然的に、外面領域の無意識を意識化するためには、旺盛な関心をもってこれまでに蓄積されてきた知識を勉強して、また、それらを批判的に検証して、あらたに調査や実験を設計・実施する必要があるのである。
 
統合的探求の難しさ
 
このように、インテグラル理論においては、世界の無意識を統合的に意識化するためには、上記の両方の活動に従事する必要があるといわれる。
ただし、実際には、内面領域の探求に習熟した関係者が大多数を占めているインテグラル・コミュニティの性格上、外面領域の無意識を意識化することにおいては、総じて非常に立ち遅れているというのが、実際のところである。
また、ウィルバー自身の著作においても、しばしば、政治や経済をはじめとする外面領域の話題について言及されているが、そうした話題に関する記述は、基本的には、巷に流布している常識的な言説を「統合的」という名のもとに御都合主義的に組み合わせているに過ぎないように思われる。
少なくても、そこでは、既存の理論や体系が言及していない未開拓の領域を積極的に探求しようという姿勢は非常に希薄である。
とりわけ、いわゆる「深層政治」(deep politics)といわれる領域にたいしては、実質的に完全に視野を閉ざしており、社会的な動静に関しては、表層的な洞察しか持ち得ていない(その様は、あたかも、心理学において、無意識に全く言及することなく、人間の精神を理解しようとする態度に譬えることができるだろう)。
こうした傾向は、インテグラル・コミュニティのみならず、その母体となっている人間性心理学やトランスパーソナル心理学をはじめとするいわゆる心理学者が中心となって形成されているコミュニティに共通するものであるが、ただ、インテグラル・コミュニティの場合には、そうした弱点を克服することをその重要な命題として掲げていることを考慮すると、こうした問題がいまだに色濃く残存していることは非常に残念であり、また、皮肉なことでもある。
いずれにしても、重要なことは、内面領域と外面領域の両方において、無意識を意識化するための能力を積極的に鍛えるということである。
また、内面領域と外面領域の一方を深く探求できることは、もうひとつの領域を深く探求できるということではないことを認識して、みずからが不得意とする領域に関しては、その探求方法を修得するために貪欲に修練を重ねていくことが求められる。
 
貨幣に関する無意識
 
同時代に生きる圧倒的大多数のひとびとを呪縛する無意識の中でも、とりわけ強力なものが貨幣発行権に関するものである。
今日、われわれはまさに貨幣を絶対的な価値の体現として信仰・信奉して生きている。
われわれの意識は一日をとおして半ば常に貨幣に関する関心で占められており、それを追求・獲得・蓄積することにわれわれの存在は捧げられている。
日常生活の小さな判断を下すときにも、人生における大きな判断を下すときにも、金(money)は常に最も重要な関心事として存在しており、われわれの思考や発想に強烈に影響をあたえる。
たとえば、書店にいけば、貨幣獲得というゲーム(game)に参加して、そこで勝利するための方法を紹介した書籍が無数に並べられている。
メッセージの具体的な表現こそ異なれ、それらの書籍はすべて、貨幣の獲得という目的こそが意味と価値をもたらす行為であり、そのために読者がみずからの存在を捧げることを直接的・間接的に迫ってくるのである。
端的に言えば、この世界の真に意味と価値があるものとは、貨幣という単位で数値化できるものであり、また、そうした数値をみずからの財産として貯蓄することに日常の生活の目的があるのだという世界観の中でわれわれは生きているのである(“Flatland”)。
その意味では、われわれはまさに貨幣という水の中を泳ぐ魚のようなものなのである。

このように、われわれは貨幣獲得ゲームの中で勝つための方法には実に旺盛な関心をもっているが、ただ、そうしたゲームそのものを対象化することはしない。
みずからが全身全霊を捧げて追い求めている貨幣というものがそもそもどのようにこの世に生み出されているのか、また、それを絶対的な価値の体現として人類が集合規模で追求することにより、われわれの生命を維持する惑星の生態系にどのような影響をあたえることになるのかといった問いかけをすることのないままに、ただひたすら貨幣という交換券を少しでも多く手にしようと必死に生命を擦り減らせているのである。
われわれの知性はゲームで勝つためには利用されるが、ゲームから醒めるために活用されることはほとんどないのである。
また、高邁な問題意識をもつ少数の奇特なひとびとは、こうした状況を改善しようと、政治や経済について勉強して、問題解決のための方法を考案するが、大抵の場合には、現代社会を覆い尽くす貨幣を基盤とするゲームの本質と構造に関する的確な洞察を欠いているために、真に有効な策を呈示することができない。
故Michael C. Ruppertが述べたように、まさに「貨幣の持つ働きを変えることができなければ、何も変えることはできない」(“Until you change the way money works, you change nothing.”)のである。
 
こうした問題意識にもとづいて、近年 貨幣の本質的側面に迫った研究書が少数ではあるが出版されはじめている。
たとえば、すぐに思い出せるものだけでも、下記のものがある:
 
  • G. Edward Griffin (2010). The Creature from Jekyll Island: A Second Look at the Federal Reserve (5th edition).
  • F. William Engdahl (2010). Gods of Money: Wall Street and the Death of the American Century.
  • Ellen Hodgson Brown (2012). The Web of Debt: The Shocking Truth about Our Money System and How We Can Break Free.
 
これらはいずれも中央銀行の貨幣発行権(seigniorage)に関する分析をすると共にそれらの機関が世界の政治・経済・外交にいかなる影響をもたらしているかに関して鋭利な省察をしている。
また、日本においても、安部 芳裕氏が、地域貨幣の概念を紹介しながら、現代の貨幣制度に関する批判的な検証をしている。
 
天野 統康氏の新著
 
そうした流れのなかで、近年、優れた情報発信をしているのが、経済評論家の天野 統康(あまの・もとやす)氏である。
天野氏は、『円の支配者:誰が日本経済を崩壊させたのか』(草思社)の著者であるリチャード・A・ヴェルナー(Richard Werner)( https://www.sbs.ac.uk/academic-profiles/richard-werner# )の研究に注目して、Financial Plannerとして活躍する傍ら、現代の貨幣制度 (とりわけ、中央銀行制度の根本的な問題)に関する調査・研究にとりくんでいる。
これまでにも数冊の著書を出版しているが、2016年にはいり、『詐欺 経済学原論』『洗脳 政治学原論』(共にヒカルランド)という非常に挑発的なタイトルの作品を発表した。
内容的には、天野氏の過去の著書の内容を素材として、それらを整理・統合したものであるといえるが、今回の著作においては、今日ひろく受容されている経済学の諸々の前提をひとつひとつ検証しながら論を展開しており、いわゆる「常識的」な経済学の発想を相対化して、そこに潜む盲点(無意識)を浮き彫りにする。
本書のとりわけ重要なところは、ヴェルナーが呈示したモデルを援用して、銀行業が占有する通貨発行権というものが、具体的にどのような仕組をとおして貨幣を無から生み出しているのか、また、それを実体経済と金融経済に恣意的に配分することで、いかに世界の経済動向を統御しているのかということに関して簡潔に説明しているところである。
また、個人的に特に興味深く思ったのは、主流経済学においては、貨幣そのものを調査・研究の対象としないという不文律の約束があるということである。くわえて、貨幣の発行権を握る中央銀行が中立的に社会の公共的な利益を守るために活動をしているという「中央銀行性善説」とでもいえるものがひろく信奉されているという指摘も実に新鮮である。
これらは、環境経済学者のハーマン・デイリー(Herman Daly)が“pre-analytic vision”と形容しているもので、われわれが思考をするときに前提としている価値観や世界観のようなものだといえる(c.f., Herman Daly and John Cobb Jr. (1989). For The Common Good: Redirecting the Economy Toward Community, the Environment, and a Sustainable Future. Boston: Beacon Press.)。われわれは、思考活動をはじめるうえでみずからが立脚している前提条件そのものを批判的な検証の対象とすることはないので、それに囚われたまま――そして、それを半ば正当化するかたちで――思考をすることになるのである。
このように、「何が無意識化されているのか」という問いを常に掲げながら、天野氏は、今日の経済学において調査・研究の対象とされない領域を探りあて、それに光を当てようとする。
換言すれば、既存の経済学を単純に否定するのではなく、その発想の限定的な妥当性を認識・評価しながら、同時にそこで歴史的に一貫して排斥されてきた視点を――それが排斥されてきたことで、誰がどのような利益を享受してきたのかを示しながら――実質的に回復しようとするのである。つまり、本書は、これまでに経済学の関係者を集合規模で呪縛していた無意識を意識化するためのこころみといえるのである。
こうした論述法は、著者の研究をこれまでの経済学の文脈の中に位置づけることで、その主張に妥当性をあたえることに寄与している。少なくても、最終的に読者が著者に同意するか否かにかかわらず、著者の主張を傾聴に値するものにしていると思う。

もちろん、意識化の作業というものは、基本的に、様々な抵抗に出遭うプロセスとなりえる。
それは、ある真実を無意識に留めておくことで得られる「状態」を動揺させることになるために、それに脅威を覚える集団の抵抗を招くことになるのである(たとえば、心理療法においては、たとえ無意識の意識化が最終的に治癒や成長をもたらすとしても、自我はそれに必死に抗おうとするものであることが知られている)。
とりわけ、本書が貨幣という現代人にとり実質的に「絶対的=宗教的」な価値を体現するものに直截的に言及するものであることは、そうした防衛を発動させる可能性を必然的に高めることになる。
われわれがみずからの存在を賭して追い求めている貨幣というものが、実は銀行という機関が無から生み出した単なる交換券でしかないという事実を示そうとする本書の意図は現代人の精神性を冒涜するものと解される可能性さえある(今日、大多数の人間にとり、貨幣は意味や価値の拠所であり、また、自己の存在が立脚する基盤であるが、それが実は一民間機関である中央銀行が発行する交換券に過ぎない)。
その意味でも、本書の意図は非常に野心的であり、また、それゆえに、その洞察をひろく共有していくためには、経済学のみならず、他分野の関係者の協力を必要とするものであるといえると思う。
 
留意事項
 
尚、これからこの著書を読むことを検討されている方々――特に経済学の初心者の方々――にたいしてひとつ警告をしておきたいと思う。
著書は三部構成になっているが、その要となるが第3章である。分量的にも全体の約半分を占めており、著書の独自の洞察が最も明瞭に示されている章である。
第1章と第2章が一般的な読者にも理解できる平易な言葉遣いで語られているのにたいして、第3章は、それほどの数式は登場しないものの、経済学に関する専門的な議論が展開されている。そのために、論述も、それまでの章とは趣を変えて、そうした領域の文献に読者がある程度は慣れ親しんでいることを前提とした凝縮されたものになっている(いちおう、冒頭にはこの章の最重要概念となる複式簿記の基本に関する説明があるが、非常に簡潔な説明で済まされているために、初心者の読者は困惑することになるだろう。また、この章をとおして、諸々の経済学の基礎用語が、詳細な定義や解説なしに登場することがあるので、日頃からそうした言葉に触れていない読者はそこで立ち往生してしまうことになるかもしれない)。
第3章は、第1章と第2章の中で言及された問題の深層にあるものを解明する重要な役割を担っており、読者は期待に胸を高鳴らせて第3章の頁をめくるはずなのだが、そこで途端に論述の様相が変わり難易度が高まるので、少なくない読者が戸惑いを覚えるのではないかと思う。実際、筆者も、これまでに天野氏の全著作に目を通しており、基本的な知識はある程度了解していたつもりなのだが、第3章には何度読み返しても意味を解することができない箇所が頻出して、個人的に随分と苦労をした。
推察するに、こうした難解さは、ほとんどの箇所において、説明が舌足らずであるために生じているので、これに関しては編集者の責任が非常に大きいと思う。この出版社が、これまでに専門的な経済書をそれほど出版していないために、こうした内容をひろい読者層に伝わるようにするための有効な方法を蓄積してきていないのではないだろうかと推測されるのである。
たとえば、第3章には、多数の図や表が挿入されているが、ひとつひとつの情報量が多過ぎるために、文章解説を簡潔に視覚化するのではなく、むしろ、それらが意味することを理解するのに熟考しなければならなくなる。
また、構成上、第3章が120頁を超えるものに長大化していることも、この章を難解にしている原因のひとつである。本来であれば、この章は、複数の構成要素に分けて、それらを独立した章として設けるべきだったのではないだろうか。それらを順番に理解していくことで、著者の云わんとすることを読者が着実に理解できるようにすべきであったと思うのである。
現在の状態だと、第3章を構成するひとつひとつ構成要素が、どこからどこまでなのか、また、それらの構成要素がどのような関係にあり、それらが相互に組み合わさることで、全体としてどのような構造や物語を形成するのかということが、いまひとつ明瞭に理解できないもどかしさがある(第3章をとおして、著者は´↓と番号を記して情報を整理しているが、異なる文脈で異なる話題について述べているときにも、この´↓という同じ表記が用いられているために、それが混乱をもたらしているように思う)。
このあたりに関しても、編集者は、書籍作成の専門家として、著者にたいして的確な支援をすべきであったと思うのである。
非常に価値ある作品であるだけに、このあたりに関しては、編集者の猛省を促したい。
いずれにしても、今後 この著書が多数の読者の目に触れるなかで、著書のもとには同様の意見や感想が寄せられることになると思うので、このあたりの難解な個所に関しては、Blogや動画等で補足解説をしていただけることを期待している。
 
 
告知 : インテグラル理論研究会・特別編 - 2016年7月23日(土曜日)
告知
インテグラル理論研究会・特別編
2016年7月23日(土曜日)
 
インテグラル理論においては、人間の成長とは、これまでに意識されていなかったものを意識化するプロセスをとおして実現されるといわれます。また、カール・ユングがModern Man in Search of a Soulが指摘するように、現代においては、そうした意識化をすることにたいして個人が積極的に責任を負うことが、とりわけ重要になっています。現代という時代を生きるにあたり、われわれは、みずからの認識や思考や行動に影響をあたえている無意識の領域に意識の光をあて、それを深く理解・洞察する必要があるのです。
Integral Japanの研究会・特別編(不定期開催)では、こうした問題意識にもとづいて、多様な領域の識者を御招きして、内的・外的な世界の意識化という、この重要なテーマに関する洞察を深めていきます。
2016年7月の研究会では、社会経済評論家の天野 統康(あまの・もとやす)さんを御迎えして、現代社会においてひろく無意識化されている貨幣(貨幣発行権)の問題に関して探求をします。
天野さんは、日本における貨幣問題研究の第一人者として、執筆や講演等をとおして、全国的に活動を展開されています。
貨幣は、現代人の思考や行動のありかたに影響をあたえる最大の要素であるといえますが、われわれは貨幣というものについて本質的に問い直すことはしません。あたかも水の中の魚のように、われわれは貨幣という水を真に対象化することのないまま生きているのです。
今回の研究会では、天野さんの新著を参照しながら、貨幣制度という集合的無意識領域を探求していきます。
貴重な機会ですので、御誘いあわせのうえ、御参加ください。
 
課題資料
天野 統康(著) 『詐欺 経済学原論』 (ヒカルランド)
http://www.hikaruland.co.jp/books/2016/04/24153607.html
天野 統康(著) 『洗脳 政治学原論』 (ヒカルランド)
http://www.hikaruland.co.jp/books/2016/05/29152937.html
リチャード A ヴェルナー(著) 吉田 利子(翻訳)『円の支配者:誰が日本経済を崩壊させたのか』(草思社)
http://www.soshisha.com/book_search/detail/1_1057.html
http://www.amazon.co.jp/dp/4794210574
Princes of the Yen(動画)(日本語字幕付き)
http://topdocumentaryfilms.com/princes-yen/
 
付属課題図書
Ellen Hodgson Brown (2012). The Web of Debt: The Shocking Truth about Our Money System and How We Can Break Free.
http://www.webofdebt.com/
F. William Engdahl (2010). Gods of Money: Wall Street and the Death of the American Century.
https://www.createspace.com/3445716
G. Edward Griffin (2010). The Creature from Jekyll Island: A Second Look at the Federal Reserve (5th edition).
http://www.amazon.com/Creature-Jekyll-Island-Federal-Reserve/dp/091298645X
 
講師プロフィール:
天野 統康(あまの・もとやす)。1978年生まれ。一般には知られていないマネー創造の原理から、政治、経済、社会、歴史、思想の分析研究を行っている。保険業・証券業・ファイナンシャル・プランニング業を経て、2009年、天野統康FP事務所として独立。世界経済の動きを背景に、個人の家計プランをコンサルティングする。1級FP技能士。
 
日時:7月23日(土曜日) 13:00〜17:00
開催場所:株式会社トモノカイ 岡崎ビル3階
https://goo.gl/QeXZiw
定員:30名
参加資格:なし(定員に達し次第、締め切ります)
参加費用:4,000円(事前予約)
     4,500円(当日参加)
 
御申込は、下記のフォームよりお願いします。
http://goo.gl/forms/WrHVXE3qs0w0QjAi1
 
「理解」の中に内在する危険性
 
James Corbettが配信しているCorbett Report(https://www.corbettreport.com/)は、現在、国際政治に関してWEB上で得ることのできる最も信頼できる情報源のひとつだと思う。
先日、YouTubeで過去の番組を視聴していたときに、James Corbettが非常に興味深い言葉を引用していた。
簡単に要約すると、次のようになるだろう:
 
今日のように大衆紙がひろく流通して、ほとんどすべての話題に関して、情報が入手できる時代においては、正にそれゆえに人々は批判的な問い掛けをしなくなる。即ち、そうした情報をとおして、社会の重要な課題・問題に関してひとつの「解釈=理解」が成立してしまうと、実質的にそこで人々の探求心は停止してしまい、それらに関してさらなる思考や探求をしなくなってしまうのだ。その意味では、皮肉にも、均一化された情報がひろく流通することが、逆に人々の思考を停止させてしまうことになるのである。
 
昔の合衆国の大統領の言葉ということだが、これは実に示唆に溢れた言葉だといえるよう。
人間にとり、理解しようとする行為は実存的な安定を獲得するための非常に重要な行動であるが、同時に、実存的な必要性にもとづいて営まれるものであるために――理解できない状態に不可避的に付きまとう不安感を解消しようとする半ば整理的な衝動に裏付けられたものであるために――あたえられた情報がある程度信頼できそうなときには、往々にして、それらを真に真剣に吟味しないままにあたえられた情報を受容してしまう。
そして、そこ得られた安心感を維持しようと、半ば無意識の内にあたえられた情報にもとづいて構成された「理解」に固執してしまうことになるのである。
そして、往々にして、われわれの思考はそうした理解を根本的に動揺させないようにひたすらに機能しているのである。
端的に言えば、いつの時代においても、われわれはほとんどすべての重要な課題・話題に関して、半ば思考停止状態で生きているのである。
巷では、いったん習得したことを積極的に捨て去り、あらためて学び直すことの重要性が強調されているが(「unlearning」)、果たしてそうしたことを主張している教育者達もどれくらい自己の既存の理解を脱構築&再構築するための作業にとりくめているのだろうか……