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日本音楽コンクール バイオリン部門本選を聴いて

昨日は東京オペラ・シティで日本音楽コンクールのバイオリン部門本選を聴いてきた。
個人的には、東京音楽コンクールの覇者の荒井 里桜さんと関 朋岳さんの激突となると予想して、楽しみにしていたのだが、結果は、4人の参加者の中で荒井 里桜さんがあらゆる意味で別次元の名演を展開し優勝した。
東京文化会館で聴いた荒井さんのチャイコフスキー、そして、関さんのシベリウスは共に途轍もない名演で、この二人の演奏家の存在を強烈に心に焼きつけられたものだが、いまあらためて振り返ると、あのときの演奏は彼等の演奏家としての素のままの姿を表現したものだといえると思う。
生まれながらにあたえられた彼等の存在そのものに息づく魅力が表現された演奏とでもいえるだろうか……。
また、あのときにとりあげられた作品は彼等の音楽性を直截的に表現するには打ってつけの作品でもあった。
しかし、今回とりあげられたブラームスのVn協奏曲は一筋縄ではいかない作品である。
演奏者が自己の精神を極度に高めて臨まないと作品の高い品格に届かない――そんな作品である。
実際、関さんは、作品を自己にひきよせて演奏したが、結局、作品とのあいだに齟齬を起こしてしまい、あきらかな失敗に終わってしまった。
逆に、荒井さんは、この作品の高みを仰ぎ見て、そこに自己の表現を高めていこうとする内熱する意志と情熱を漲らせて、この作品の魅力を十全にひきだすことに成功した。
また、荒井さんは、東京音楽コンクールの時とは比較にならないほどに深化を遂げていて、表現の幅を格段にひろげていた。
もともとこの演奏家には、会場の空気を一瞬にして清澄なものに変えてしまうような高音域の清冽な美音がそなわっているが、今回の演奏会では、それにくわえて、この作品に必須となる渋みのある中音域の表現力が深まり、結果として、総合的な表現力が劇的に高まっていた。
ここぞというときに繰り出される高音域の美音は、それまでの中音域の充実した音楽があるからこそ、唖然とするような喜びをあたえてくれるのである。
また、第1楽章のカデンツァ等を聴いていると、この演奏家の中に単に清潔な美しさを志向するだけではなく、逸脱を厭わずに音楽の本質を表現しようとする熾烈な意志が息づいていることが痛感された。
舞台姿も実に堂々としており、舞台人としての風格を漂わせている。
昨日の演奏を聴いている限りでは、まだまだいろいろと思考錯誤の中にあるという印象も抱かされたが、そうした精進が進み熟してくると、いっそう優れた演奏家に変貌することだろう。
いずれにしても、荒井さんが、自己の「才能」の豊かさに溺れることなく、強靭な意志をもって探求にとりくんでいける演奏者であることが確認でき、これから必ず大成していくだろうという安心感と信頼感を得られたことは、昨日の演奏会の大きな収穫であった。
逆に、関さんに関しては、自己の「音楽性」に拘泥してしまっているのだろう、作品との相性が悪いと、昨日のようにどこか齟齬を覚えさせる演奏をしてしまうところがあるようで、先行きが少々心配である。
あのシベリウスの名演で魅せた「ラプソディック」な音楽性は、全ての作品に適用できるものではないはずである(少なくとも、ブラームスはそれだけではどうにもならない)。
稀有の個性をそなえている演奏家なので、あらためて古典を演奏するということの意味を熟考するべきなのではないだろうか……素人ながら、そんな心配を覚えてしまった。

福田 麻子さん(バルトーク)と佐々木 つくしさん(チャイコフスキー)も優れた演奏をくりひろげたが(技巧的には完璧といえる)、結局、この段階ではまだ表現が一本調子のところがあり、30分をこえる大曲において聴衆を魅了するまでには至らなかった。
たとえば、バルトークは、作品の構成が独特であり、優れたプロが演奏しても散漫な印象をあたえてしまう難曲である。
福田さんは抜群の技巧と美音をそなえているので、しばらくのあいだはその魅力で聴衆を感心させるのだが、この大曲はそれだけではのりきれない。
確かに、高関 健の指揮する東京シティ・フィルハーモ二―の伴奏が驚異的に充実しているので、それを聴いているだけでじゅうぶんに愉しいのだが、聴衆としては、それに拮抗するくらいの充実をソリストに求めたくなってしまう。
また、チャイコフスキーを演奏した佐々木さんは、技術的には完全無比な演奏をくりひろげたが――また、聴衆はそれに大きな喝采を送ったが――少々厳しい言い方をすれば、それだけの演奏で終わってしまったように思う(個人的には、こういう類の「完璧な演奏」を聴いていると、寂しくなる)。
高校3年生にしてこれだけの技術を獲得していることは驚異的ではあるが、そろそろ異なる方向に探求のベクトルを向けていくべきなのではないだろうか……と思う。
技巧的な優秀さが辿りつくところは、窮極的には曲芸的な刺激でしかない。
そのようなものに才能を捧げるのは何とももったいないことで、そんなものは早いところで卒業してしまえばいい。

ところで、高関 健指揮の東京シティ・フィルの伴奏が驚異的なまでに充実していたことを記しておかなければならない。
いわゆる「コンクール」向けの無難なものではなく、芸術表現として深く突きつめようとする指揮者とオケの意志と気迫がこちらにも明確に伝わってきた。
実際、第1演奏者のブラームス作品の導入部の心の籠った「溜め」を聴いたときには思わず涙ぐんでしまうほどだった。
これほどまでに真摯な想いに支えられて演奏できたソリストの方々は何と幸せなことだろう!!
いつものことながら、次世代の演奏者にたいする在京のオーケストラの方々の溢れるような愛情にはただただ感謝の気持ちしかない。

音の公案:新日本フィルハーモニーの演奏会を聴いて

墨田トリフォニーの新日本フィルハーモニーの演奏会を聴いた。
はじめのシベリウスのVn協奏曲があまりにも酷く愕然としたのだが、二曲目のリンドベルイの新作からオーケストラの調子が上がり、最後のシベリウスの交響曲第7番では圧倒的な名演奏をくりひろげた。
今日は少し早めに会場に到着して着席したのだが、開演のベルが鳴っても、1階席がガラガラであることに驚いた。
指揮者のハンヌ・リントゥはこのところ続々とCDが発売されて注目を集めている存在なので、それなりに知名度も高いと思うのだが、これほどまでに空いているとは!!
どれほど演奏が優れていても、ここまで閑散としていると、会場にどこか寂しさが漂うものだ。
いうまでもなく、生演奏というのは、会場の空気(熱気)に刺激されてその質を高めるところがあるので、こうした状況の中では演奏の冷めたものとなる。
その意味では、今日は実に残念な演奏会だった。

今日の演奏会では、まず第1曲のシベリウスのVn協奏曲の演奏の訴求力があまりにも低いことに愕然とした。
古今東西のVn協奏曲の中でも最高傑作のひとつであるこの作品が、思わず欠伸が出るほどに退屈な音楽に聞こえるのだ。
この作品を生で聴いて、これほどまでにつまらない思いをしたのは初めてのことだ。
何よりもソリストのヴァレリー・ソコロフの演奏には、音そのものの美しさも無ければ、聴衆に訴えてくる力も欠けている。
その演奏を評するのに「凡庸」という形容詞しか思い浮かばないのだ。
ところどころギドン・クレーメルの演奏を想起させるような癖のある響きが聞こえてくるが、それらが曲の魅力を全く伝えるものではないために、興醒めさせる。
くわえて、リントゥの指揮するオーケストラも異常なまでに体温が低く、ミスも散見され、くわえてソリストとの呼吸が合わない。
ところどころ指揮者の指示で伴奏に工夫がくわえられるが(たとえば第3楽章の冒頭のティンパニ)、それらがどうにも不自然であるために、単なる夾雑物にしか聞こえてこない。
ここ数年のあいだこのオーケストラを聴いてきて、これほどまでに調子の悪い演奏に出遭ったのは初めてのことである。
この名曲をこれほどまでにつまらない演奏をするソリストにも呆れたし、また、この優れたオーケストラの魅力をこれほどまでに毀した指揮者にたいして怒りを抱いたほどである。

しかし、二曲目のリンドベルイの新作から徐々にオーケストラの調子がもどり、曲の途中からは、作品の音響的な面白さもあり、オーケストラは元気をとりもどした。
数多くのCDが発売されていることもあり、リンドベルイは比較的にひろくしられた作曲家であるが、その作品をこうして集中して聴くのは初めてのことだ。
この新作は、もしかしたら映画音楽の分野で活躍しているJerry GoldsmithやJohn WilliamsやThomas Newman等の作曲家の演奏会用の作品として紹介されたら、思わずだまされてしまうくらいに耳に馴染みやすいものだ。
作曲者は青空に向けてファンタジーを飛翔させていき、そこにひろがる極色彩の世界を華麗な音響で描いていく。
特に途中以降の美しさは秀逸である。
ファンが多いのも納得できるというものである。ただし、曲の結尾は物足りない。何とも勿体無いと思う。

休憩をはさんで、後半はシベリウスの交響曲第7番である(後半はこれだけ)。
20分そこそこの短い作品だが、あらためてこの作曲家の才能に圧倒された。
シベリウスの交響曲では、第4番と第7番が最も晦渋・難解だといわれ、また、個人的にもそれほど積極的に聴きたいと思う作品ではないのだが、こうして優れた演奏で聴いてみると、これらの作品が普通の意味の「理解」を必要とする作品ではないことに思いしらされる。
少し極端な言い方をすると、それはもはや音楽でさえないのかもしれない。
これらの作品を集中して聴いているときのこちらの精神状態は、たとえば公案を意識しながら瞑想をしているときの状態に似ているといえるかもしれない。
正に音の公案である。
その意味では、これらの作品は、表面的には音楽という姿を装っているが、その本質は音楽を超えたものなのかもしれない……。
いずれにしても、今日の新日本フィルハーモニーの演奏は圧倒的な名演奏だと思った。
ここで発揮されている力こそが、リントゥという指揮者の真の実力なのだと思いたい(あるいは、作品により非常に斑のある指揮者なのか……)。

明日はさらに優れた演奏になるはずなので、是非会場に足を運んでいただければと思う。

備忘録:第18回東京国際音楽コンクール(指揮)第二次予選第1日目


東京オペラ・シティで第18回東京国際音楽コンクール(指揮)の第二次予選第1日目を聴いた。指揮部門のコンクールを聴くのは初めてだが、「本番」に向けて音楽を完成させていく「厨房」の中を覗き見る経験は非常に勉強になる。実際、指揮者の指示を受けて、オーケストラが曲をあらためて演奏をすると、曲の意味があらたに立ちあらわれてくる瞬間を目のあたりにするのは実に興奮するものである。
今日の課題曲は下記の3曲:

  • 武満 徹:弦楽のためのレクイエム
  • バルトーク:管弦楽のための協奏曲(抜粋)
  • ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第3番(抜粋)

指揮者達はこれらの曲を合計45分の中で仕上げていくことになる。
今日の4人の指揮者はいずれも優秀で感心したが、とりわけアレクサンドル・フマラ(Alexander Humala)さんと沖澤 のどか(Nodoka Okisawa)さんの指揮振りは印象に残った。
先ず、沖澤さんだが、非常に意思疎通能力が高い。あいまいな言葉を用いずに、常に的確な言葉で職人集団としてのオーケストラに意図を伝えていく。あたえられた時間を踏まえて、その中でどこに焦点を絞り彫琢をするのか、また、どのように演奏者に指示をすれば、演奏者の納得感につながるのかということを俯瞰的にとらえているのである。端的に言えば、「実務者」としての能力が卓越しているのである。今日の演奏者の表情を眺めていても感じられたが、こういう練習をしてくれると、演奏者も気持ちいいことだろう。
いっぽう、フマラさんは芸術家としての独自の感性で勝負するタイプである。その指示はしばしば文学的なもので、また、それほど英語が得意でないためか、何をいわんとしているのか理解しにくいところがたくさんあったが、しかし、その少々混沌とした意思疎通から生みだされてくる音楽は実に感動的なものだった。とりわけ、武満の作品の練習中にあまりの美しさに思わず涙ぐんでしまったほどである。また、その指揮振りは、ほとんどバレエの動作を想起させるもので、記号としての音符と離れて、音楽の意味そのものを伝えようとしているように思われた。
これはあくまでも推測だが、斎藤 秀雄の指揮法の影響下にある日本の音楽教育では、こういう指揮法を「禁止」しているのではないかと思うのだが、こうした見事なものに触れると、きっちりとした日本人の指揮振りが事務的なものにみえてくるのも事実である。

「オーケストラは指揮者がいなくても演奏はできるものだ」としばしば言われるが、今日そのことをあらためて実感させられた(これだけ優秀なオーケストラだと、それはなおさらである)。
舞台上の指揮者を観察しながら、「ひとつの自律的な運動体として存在しているオーケストラにいかに寄り添えるのか」が先ず指揮者に問われているのだということをあらためて思い知らされた。オーケストラはひとつのシステムとして自己の内的なダイナミクスにもとづいて行動をしているので、それを「外」から変えようとしても、それはうまくいくわけはない。少なくともそのために、先ずはその「内」にはいり同化をする必要があるのだ(いわゆるautopoiesis的な視点が必要になるということだ)。そして、その練達度というのは、指揮者の「存在感」や「身体性」といわれるものに少なからずあらわれるのではないかと思うのである。次々と登壇してくる4人の指揮者のアプローチを観察していると、このあたりの差異が見えるものである。

そして、もうひとつ考えさせられたのは、「指揮者はオーケストラの成長にいかに寄与できるのか?」ということについてである。
あたえられた短い時間の中で課題曲を仕上げていくという状況は、こうしたコンクールだけでなく、定期演奏会でもそれほど変わらないだろう。そうした状況が慢性化している条件下では、本番に向けて演奏を無難にまとめあげることに意識が収斂してしまうものだが、しかし、その共同作業をとおして、真にオーケストラそのものの成長や成熟につながるものを残していけるのかという課題が常に指揮者に課されているのだろうと思う。それは単に実務者として有能なだけの指揮者にはできないものだろう。
たとえば、沖澤さんの指揮振りを観ると、圧倒的に優秀ではあるが、それだけでは真に大成できないのではないか……と思ってしまうのだ。
逆にフマラさんは不器用なところを多く残しているが、このひとにしか表現できない音楽性をそなえている。
確かに、プロの演奏者達は効率的な練習をありがたいとは思うだろうが、窮極的には、その音楽性に触れたことで自己の音楽性を進化させてくれるような刺激を求めているはずである。そうなるとただ実務者として優れているだけでは、勝負ができなくなるのではないだろうか……と思うのである。
実務者としての能力はある程度は訓練で高めることはできるだろうが、しかし、果たして独自の音楽性というのはそうそう簡単に高められるものではないはずである。
若い世代の指揮者は、そうしたものを深めることに力を注ぐべきなのではないか……。
今日の「演奏会」を聴きながら、そんな不安を漠然と感じた。

ところで、今日のオーケストラは東京フィルハーモニー交響楽団だが、英語を介しての意思疎通となる場合もあり(東欧の指揮者にとっても英語は外国語である)、必ずしも共同作業は簡単ではなかつたはずだが、指揮者の意図を懸命に汲みとろうとするその姿勢は実に素晴らしく、また、反応も俊敏なものだった。
この団体は近年実に演奏活動を展開していると噂に聞いていたが、実際、それほど容量の大きくない東京オペラ・シティには収まりきらないほどに豪華な音を響かせていた(16-17で聴いたのだが、この席で聴く限りでは、ロマン派以降の大編成の作品は、会場に音が飽和してしまい、そうとう聴きにくくなるという印象である)。

 

雑感 - 武蔵野音楽大学のオーケストラの演奏など

9月19日
東京芸術劇場で武蔵野音楽大学のオーケストラの演奏を聴いた。同僚の御子息が舞台に昇るということもあり、仲間を誘って聴きにきた。
前半は舞台を前にして1階の左側の席で聴いたのだが、目の前にあるバイオリンをはじめとする弦セクションが美しいことに先ず心を打たれた。
「エグモント」序曲は、ベートーヴェンという作曲家の本質を簡潔に抽出したような作品だが、その魅力がありのままにこちらに迫ってきて、思わず涙ぐんでしまった。ただ、後半の盛り上がる肝心なところで、ホルンのミスが目立ってしまい、興醒めしてしまった。音程をとるのが難しい楽器であることは承知をしているが、ここぞという重要なところであそこまえ明らかなミスを繰り返してしまうと、それまでの緊張感が一挙に消え失せてしまう。これは非常に残念だった。
2曲目のピアノ協奏曲第4番は実に安定した演奏で、演奏者のことを忘れて、曲そのものの魅力に浸ることができた。大家の演奏を聴くと滋味に溢れた深遠な作品であることが前面に押しだされてくるが、今日はあらためてこの作品が青年の筆によるものであることをおしえられた。
たとえば、作曲家は、第2楽章で深い深淵を覗き見るにもかかわらず、それにつづく第3楽章では、あたかもその経験を忘れ去ろうとするかのように、漲るエネルギーで自己を奮い立たせて飛翔していこうとする。こうしたところなど、正に青年の精神そのものなのではないかと思う。結局、老いを迎えると共に作曲家は若い頃に垣間見た深淵から逃れられなくなるわけだが、少なくともこの作品には、精神力で自己の内に潜む深淵を覆い隠せるだけの充実したエネルギーを有していた頃だからこそ書ける儚い魅力が息づいている。そんなことを今日の演奏はおしえてくれた。
ピアノ独奏をした大竹 千寛さんは、終始丁寧で気品のある演奏を展開していたが、特に第2楽章では、もっともっと背筋が寒くなるような寂寥を聴かせてほしいと思わせることもあり、その意味では、少し欲求不満が残った。ただし、少なくとも、この作品が充実度において第5番よりも優れていることに気づかせてくれる秀逸な演奏ではあったと思う。
後半は2階席の中央に移動して聴いた。前半の隣の席の客が演奏中ずっと大きなイビキを掻いていて煩いので(何のために演奏会に来ているのだろう!!)、運営者に相談したところ、快く対応してくれた。
後半の「幻想交響曲」はオーケストラも好調で、終始この異形の作品が真に傑作であることを痛感させてくれる名演奏だった。あらためてこうして聴いてみると、ベルリオーズという作曲家が――精神病を患っていたのではないかと思われるくらいに――実に特異な感性をそなえた作曲家であったことを実感させられる。第1楽章の後半では、躁状態の極致ではないかと感じられるほどの大音量の渦にわれわれを巻き込み、眩暈を覚えさせる。また、第3楽章では、幸福の只中に忍び寄る不安を音化するその見事な作曲技術にわれわれを惚れ惚れさせる。
この作品は、ベートーヴェンの没後、それほど時間を経ることなく発表されたということだが、そこには同じように青年の苦悩が表現されているものの、その表現形態があまりにも異質のものに変化していることに驚愕をすると共にこの作曲家の天才に畏怖を覚える。現代を生きるわれわれは苦悩を経験するときにベートーヴェン的な感性もベルリオーズ的な感性も自己の内に持ちながらそれらを経験するわけだが、このふたりの作曲家をこうして並べて聴くと、その質的な違いが途轍もなく大きいことにあらためて驚かされる。
ところで、今日の白眉は、第5楽章と第6楽章であった。非の打ちどころのない完璧な演奏といえる演奏で、2階中央席で聴いていて、巨大な音が色彩感と立体感を失うことなくこちらに届いてくるその体験は至福の瞬間だった。
指揮の角田 鋼亮さんの演奏には初めて接するが、その指揮ぶりを眺めていても、音楽の意味を実に的確に演奏者に伝わっていることが感じられた。特に「幻想交響曲」では、音楽が一瞬も機械的になるところがなく、常に繊細さ失うことのない迫力を生みだしていた。

 

9月23日
久しぶりのサントリー・ホール。あらためていいホールだと思った。都内の他の名ホールとくらべて音がそれほど混じ合うことなく、壮絶さを失わないままで聴こえてくる。ひとつひとつの音の粒としての美しさが味わえるのである。その意味では、今日の「わが祖国」のような外向的な作品との相性は抜群である。こういう会場で聴くと、新日本フィルハーモニーの金管群の輝かしくも力強い魅力が堪能できる。その点では、墨田トリフォニー以上のホールといえるのではないか……。
スメタナの『我が祖国』の全曲を生で聴いたのは初めてのことだ。
個人的には、第1曲と第2曲は素晴らしいと思うが、その後の曲にはそれほど惹かれない。今日の素晴らしい演奏を聴いても、その気持ちに変わりはない。
特に第3曲以降は、接続曲的に構成された物語が、大編成のオーケストラの外向的な豪奢な響きで語られていくが、内省的な要素が希薄なので。徐々に飽きを生じさせる。
しかし、こども向けの教科書で紹介されるような「モルダウ」などは、こうして優れた演奏で聴くと、あらためてその素晴らしさに圧倒される。途中の水の精霊の描写などは、その幻想的な美に陶酔させられるし、また、主題の素朴な旋律美には自然と涙腺がゆるんでくる。人間の営みというものが、常に水と隣り合わせにあることを、そして、その象徴としての河というものが、われわれの様々な感情の母胎でもあることに気づかされる。
ところで、個人的に思ったのは、特に後半の曲に描かれているように、ボヘミアの愛国心というものが、侵略や暴政にたいする抵抗という英雄的行為と密接に結びあったものであるということである。非常に素朴にそのことに新鮮な感覚を覚えた。
ところで、指揮者のペトル・アルトリヒテル(Petr Altrichter)の演奏には初めて接するが、この作品に期待される郷愁の表現に力をいれるのではなく、むしろ、この作品の交響的な特性の表現に力をいれていたと思う。実力のあるオーケストラの性能をフルに活用して、音の輪郭を際立たせた筋肉質の豪華な響きを実現していた。また、その指揮振りも実にエネルギッシュなもので、終焉後の団員の表情を眺めると、必ずしも全員が深く共感しているという雰囲気でもなかったが(終焉後にあれほどの熱狂的な聴衆の歓声を受けているにもかかわらず、冷たい顔をして舞台を降りていく奏者がいるのはどうしたことだろう……)、少なくとも演奏は実に立派なものだった。こういうところでさらに臨界を超えようとする意志と気迫が漲ると、聴衆としても嬉しいのだが……。

 

9月23日
書店で『レコード芸術』の最新号をパラパラと眺めてみたのだが、あたらしい編集者に替わり、情報誌としていっそう充実してきていると思った。批評誌なのか、情報誌なのか判然とせず、非常に中途半端な状態が続いていたが、ここにきて明確に後者であることを決意したのではないだろうか……。実際、執筆陣もその個性的な鑑識眼を売りにする人が完全に消えて、その情報収集力と勉強熱心さを売りにする解説者で構成されるようになった。雑誌の構成を観ても、これまで中心的な位置を占めていた月評の存在感が大きく減じており、また、内容も完全に批評の形態をとった宣伝文というものが大半を占めるようになった。
少なくとも、「この批評家の意見は聴いてみたい」と読者に思わせる執筆者はいなくなった。
ただ、「情報」というのは、ある程度の訓練を受けた執筆者をそろえれば、ほとんど同じような内容の常識的なものが量産・掲載されていくようになるものである。また、そうしたものがweb上にいくらでも無料で読めるような時代を迎えている中では、こうした方針の行き着くところは自己の存在意義を消すというとこになるのではないだろうか……。情報誌として充実すればするほど、存在価値が減じるという循環である。

 

人生の達人の筆による作品

今日は墨田トリフォニーで新日本フィルハーモニーの新シーズン幕開けの演奏会を聴いてきた。
客席は満席に近い状態。
曲目は全てリヒャルト・シュトラウスの作品だが、個人的には、相性の悪い作曲である。
これまで長く音楽を聴いてきて、ごくごく一部を除いて、ほとんど共感を覚えることがなかった。
しかし、今日の演奏会を聴いて、この作曲家に少し近づくことができたのではないかと感じている。
正直なところ、『ドン・ファン』や『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』等の交響詩は途轍もなくつまらない作品だと思っている。
西洋音楽の管弦楽法の最高の会得者がその能力をフルに動員して造りだした凡作――というのが率直な見解である。
しかし、いっぽうで、「オーボエ協奏曲」のように、正に人生の達人の筆によるものとしか形容しようのない窮極的な作品も生みだしている。
実際、今日の演奏を聴いて、「これはこの世の果実をあじわいつくした人間の真に充足した心の中に生まれた幸福な悟りに裏付けられた作品なのだ」という確信をあらたにした。
モーツァルトの作品とくらべると、無暗に音の数が多く、また、ときに凡庸さが顔を出すと共に漠然とした気怠さと退屈さを感じさせるのだが、それさえもが作曲家の深い悟りの中に大らかに抱擁されてしまう。
作品には一面に白い花々が咲き乱れているような純白な至福の世界が息づいている。
この作曲家が到達したこうした境地を踏まえて、あらためて「凡庸」「退屈」な交響詩の諸作品を聴いてみると、これまでとは異なる聴き方ができるような気がする。
これほどまでに卓越した作曲家が、その稀有の才能を投じて、そうした作品を書いたということの中に西洋音楽の不思議な奥深さを感じることができると思うのだ。
そして、今日、最後に演奏された『死と変容』は、西洋音楽の極致を体験させてくれるような窮極的な演奏といえるものだった。
演奏会前半は、オーケストラも少々のりきらない印象だったが、後半はエンジンが掛ってきて、この『死と変容』では正に最高の音楽芸術を奏でていた。
特に作品の結末の「魂の救済と浄化」の箇所においては、あまりの美しさにただただ圧倒され聴き惚れるしかなく、そうした稀有の瞬間を体験できることに胸の奥深くから熱く静かなよろこびが沸き上がってきた。
それにしても、あらためて上岡 敏之という指揮者の芸術性の素晴らしさに驚嘆する。
また、その指揮姿そのものが芸術表現になっていて、その舞台上の動作を眺めているだけで、そこで表現されている音楽の意味がビシビシと伝わってくる。
新日本フィルハーモニーの状態も良く、もちろんそれなりに小さな事故はあったが、演奏会をとおして一貫して決して絶叫することのない上品・上質な音楽を奏でていた。
こうした作品の場合、たとえばカラヤンの演奏に典型的に診られるように、オーケストラを極限まで喚かせて、騒音とさえいえるような大音量を響かせることに終始してしまう演奏があるが、上岡率いる新日本フィルハーモニーは、常に余力を残した音響を武器にして、そこに生まれる「余白の美」とでもいえるもので聴衆を陶然とさせていた。
明日はさらに優れた演奏をするはずなので、迷っている方がおられたら、錦糸町まで出かけられるといいだろう(券が残っているかは不明だが……)。

第16回東京音楽コンクールを聴いて

 

8月27日
東京文化会館で東京音楽コンクール声楽部門の本選を聴いてきた。普段は、宗教音楽を少し聴くだけで、ほとんど声楽を聴かないので、実のところ詳しいことはわからないのだが、今宵も実に贅沢なひとときを過ごすことができた。
最後に登場したZarina Altynbayevaさんが歌いだすと会場の雰囲気が一変し、一曲目が終わると聴衆は凄い声援を送った。いったん舞台裏に帰った歌手が二曲目を歌うために舞台にもどるときの雰囲気は完全にスターを迎えるときのよう。その瞬間、そこがコンクールであることを忘れさせるような空気が会場を覆った。昨年の弦楽部門で最後に演奏した荒井 里桜さんが演奏したときの雰囲気を思い出させた。
4人の日本人歌手も健闘していたし、また、技術的には優れていたが、Altynbayevaさんの演奏を聴かされると、そもそも「舞台に昇り聴衆を前にして歌うということ」そのものにたいする姿勢や発想が質的に違っているのではないか……? という感想を抱かされた。端的に言えば、あるマスター・クラスでマリオ・ブルネロが述べていたように、「教室で先生に百点をもらうための演奏をするのか、あるいは、舞台上で聴衆の魂を震わせるために演奏をするのか」という「選択」をしないままに演奏をしているのではないか……という疑問を覚えたのである。
これは「上手・下手」の問題ではなく、演奏をするということにたいするコンセプトの問題である。そして、実のところ、そうしたことは、最も難しい問題であるようで、実は「素人」である聴衆に最も率直に伝わることなのである。
今日の演奏会は、そんなことをあらためて考えさせられる演奏会だった。
ところで、いつものことだが、伴奏を務める在京のオーケストラの献身的な演奏には感服する。こういう仕事をあれほど見事なプロ精神でとりくむ姿そのものがひとつの貴重なメッセージだと思う。それは、音楽にたいする非常に誠実さのあらわれであり、また、自己の才能を惜しげもなく投じて、次世代の成長と活躍を応援しようという純粋な愛の表現である。今日の東京交響楽団と現田 茂夫氏の実に丁寧な演奏には心底感服した。

 

8月29日
東京文化会館で東京音楽コンクール弦楽部門の本選を聴いてきた。4人のソリストが登場したが、軒並レベルが高い。いわゆる「学生の演奏」ではなく、既に数々の舞台を経験してきた立派な表現者の演奏で、日本フィルハーモニー(指揮は大井 剛史氏)の厚みのある立派な伴奏に助けられて、実に贅沢な演奏会となった。
前半はチャイコフスキーのVn協奏曲が続いた。北田 千尋さんの演奏は、冒頭からコクのある素晴らし響きで思わず身を乗り出したが、ただ、曲の全ての要素を想いをこめて弾いてしまうために、しばらくすると一本調子に聴こえてしまう。また、曲が前に前進しない感覚がつきまとい、聴衆としては集中力が持続しない。
それにくらべると高木 凜々子さんは、曲の全体を視野に収めており、今日の演奏では、どこに光をあて、どこを捨てるのかという取捨選択の判断ができている。そのために、ここぞというときの美しさが聴衆の心を打つのである。また、舞台上の身体的な動作も曲の本質を実に的確に体現したもので、「流石!!」と感心してしまった。
後半の第1演奏者としてバルトークを弾いた有冨 那々子さんの演奏も見事だと思ったが、正直なところ、個人的にあまりこの曲に魅力を覚えないために、最後まで五里霧中の感覚が残った。また、もう少しヴィオラならではの苦味のようなものが聴きたいとも思った。
そして、最終奏者として登場した関 朋岳さんのシベリウスのVn協奏曲には非常に感動した。常に啜り泣くような独特の音色を武器にして、一瞬にして聴衆の心を鷲掴みにした。ところどころ事故が生じたし、また、オーケストラとの呼吸がズレたように思われたが、そういうことを全くものともせずに、シベリウスの本質に肉迫しながら、正にこれまでに聴いたことがないような関さんならではの表現をした。
個人的にとりわけ共感したのは、今日登場した他の演奏者が基本的に常識の枠組の中で表現をしていたのにたいして、関さんはその枠組をこえて、批判や嘲笑を浴びることも厭わずに、自己を曝けだすことを決意していることだ。聴く人によっては、その演奏は大道芸人的な下品な演奏と揶揄するかもしれないが、そうしたことを承知のうえで、表現者としての自己の特性(個性)にたいして徹底して素直であろうとしているように思われるのである。その志が演奏をとおしてこちらに伝わってきた。
くわえて、弱音がひどく魅惑的でどれほど小さな音でもあの東京文化会館の大ホールの隅々にまで明瞭に届いてくるのは驚異的である。
未完成の才能だが、素晴らしい潜在性を秘めた逸材だと思う。
ちなみに、大井 剛史氏の指揮する日本フィルハーモニーの伴奏が非常に充実していたことを付記しておきたい。ソリストの力もあるのだろうが、特にシベリウスの伴奏は、これまでに生で聴くことができた同曲の演奏の中でも最高の演奏のひとつだと思った。いずれにしても、こうしたコンクールでみる日本のプロのオーケストラの誠実な仕事にはいつものことながら心底感動させられる。

 

8月31日
東京文化会館で東京音楽コンクール金管部門の本選を聴いてきた。声楽部門・弦楽部門とくらべると聴衆の数が少なく、何とも残念な気がしたが、内容そのものは充実しており、個人的にも勉強をさせてもらった。
先ず感じたのは、金管部門の場合、異なる楽器を演奏する奏者を比較することの難しさだ。そもそも楽器そのものがもつ「操作性」や「訴求力」が大きく異なるし、また、課題曲そのものの魅力も大きく異なる。
少なくとも、今回、第1奏者として登場した北畠 真司さん(テューバ)の演奏(Koetsier: Tuba Concertino)を聴いときと第2奏者の鶴田 麻記さん(トランペット)の演奏(Desenclos: Incantation, threne et danse)を聴いたときでは、楽器と作品の訴求力があまりにも異なるので、両者を比較することそのものが不可能なのではという感想を抱いた。端的に言うと、こうして比較されてしまうと、テューバ奏者に勝ち目は無いのではないかと思われたのである。
ただ、第3奏者として登場した高瀬 新太郎さん(トロンボーン)の演奏(Tomasi: Trombone Concerto)を聴いたところでは、少なくともトロンボーンに関してはじゅうぶんにトランペット奏者と競えるだけの条件が整えられていたと思った。
ともあれ、この演奏会では、東京藝術大学の3人の演奏が非常に高い水準で突出していた。
個人的には、鶴田さんと高瀬さんを同列首位にしたいところだったが、結果としては、第3奏者の三村 梨紗さん(トランペット)が優秀した。
北畠さんは課題曲のつまらなさに脚をひっぱられたと思う。また、GlierのHorn Concertoを演奏した阿部 華苗さんは、まだまだこれからで、技術的な意味で課題が多い印象をあたえられた(オーケストラの伴奏でソロを吹くには、音色・音量の両面で必要なレベルに達していないと思った)。作品が魅力的であるがゆえに、それをもっと味あわせてほしいという欲求を聴衆に感じさせてしまったのである。

 
ところで、DesenclosのIncantation, threne et danseとTomasi: Trombone ConcertoとGlierのHorn Concertoはなかなか魅力的な作品だと思った。あまり演奏会の演目としてとりあげられることはないが、こういう作品を聴けるのも、こうした演奏会の魅力である。
新日本フィルハーモニー(指揮:梅田 俊明)の伴奏も実に丁寧であり、また、この団体の魅力である繊細さが横溢していた。個人的には、在京オーケストラの中では最も状態がいいと思っている。

尚、1週間のあいだに、3つの異なるオーケストラの伴奏演奏を聴いて、あらためて各団体の個性に気づかされた。東京交響楽団は、外向的な性格が強く、大らかな音響をつくる。日本フィルハーモニーは、少し粗さを感じさせるところがあったが、いい意味で重心が低く、シベリウスの演奏をしているときにも、音が大地と結びついている印象。そして、新日本フィルハーモニーは、最も肌理の細かい繊細な音を奏でるオーケストラ。乱暴に触れると毀れてしまうのではないか……と心配させるような微妙なバランスの上に成立している音のように思われるが、これは今の上岡体制の特筆すべき偉業といえるだろう。

雑感

4月27日
先日、奏楽堂で開催された東京藝術大学の新卒業生紹介演奏会を聴いてきた。昨年の演奏会を聴いて、あまりのレベルの高さに驚愕・感動して、今年の演奏会を楽しみにしていたのだが、期待通り素晴らしい演奏が展開された。
残念ながら、会場は6〜7割程度の客の入りで少々空席が目立った。これだけ充実した演奏会があまり注目されないというのは何とも残念である。
はじめに演奏された作曲科の成績優秀者の作品に関しては、正直なところ特に言うべきことはない。いわゆる「現代音楽」という言葉を聞くときに想起される“ありきたり”の音楽が奏でられたという印象である。その領域の関係者の耳には素晴らしい音楽として響くのかもしれないが、個人的には、アカデミアにおける「現代音楽」が完全に袋小路に嵌っているという感想を抱かされるだけだった。
しかし、その後登場した4人のソリストによる演奏はどれも秀逸なものだった。それぞれの演奏家はそれぞれに独自の音をそなえていて、それを高い芸術性をもって表現していた。
実は、最後の「皇帝」を除いて、この日に演奏された作品をこうして集中して聴いたのは初めてだったのだが、演奏が秀逸であるために、作品そのものにも魅惑されてしまった。ベルリオーズの歌がこれほどまでに美しいものだったことを、シマノフスキーのヴァイオリン協奏曲がこれほどまえに幻惑的で陶酔的であることを、そして、トマジのサクソフォン協奏曲がこれほどまでに仄暗い瀟洒と興奮を湛えた作品であることを発見させてもらった。また、もはやベテランとしての風格をそなえている桑原 志織の美音と堂々とした存在感にも深く感服させられた。くわえて、高関 健指揮の藝大フィルハーモニアの演奏が実に素晴らしいもので、奏楽堂の豊かな残響の中で大きな編成を駆使して雄大な伴奏をしていた。
個人的に何よりも嬉しいのは、高関氏とオーケストラが、ソリストと共に協奏曲としての表現を妥協なく追求しようとしていることだ。上久保 沙耶(メゾソプラノ)・堀内 星良(ヴァイオリン)・住谷 美帆(サクソフォン)・桑原 志織(ピアノ)という4人の卒業生の単なる披露目会ではなく、芸術表現としての可能性をソリストと共に追及していたことだ。

 

4月28日
東京ユヴェントス・フィルハーモニーの演奏会を聴いてきた。先日、川崎で聴いたブルックナーの交響曲第9番が非常に素晴らしく、たのしみにしていたのだが、前回ほどの圧倒的な感動までには至らないものの、素晴らしい感動を味わうことができた。
ただし、パルテノン多摩の音響はひどく素気ないもので、演奏家を助けてくれない「恐い」ホールだ。川崎とくらべると、音楽を聴くことの喜びを体験しにくいし、また、演奏者も少々苦戦しているように思われた。また、非常に残念なことに、客の入りが寂しく、これだけ魅力的な演奏会がほとんど注目されないというのは悔しい。まあ、さすがに多摩は遠過ぎるのだろう。
ワーグナーの「ニュールンベルグのマイスタージンガー」の前奏曲に関しては、まず坂入氏の指揮が非常に忙しいもので、正直なところ、少々戸惑いを覚えたことを告白しておく。この作品の演奏としてはあまりにもキビキビと運び過ぎているように感じられたのだ。ただ、そうした演出は完全に確信犯的に為されていたものであることは明確で、それが演奏に独自の筋肉質な響きをあたえていたのも事実である。それはそれで既成概念を打ち破ろうとする問題意識に支えられたもので、面白いと思う。
次のドヴォルジャークのチェロ協奏曲は、どうしてもしばらくまえに聴いたロンドンのRoyal College of Musicの演奏会の非常に感動的な演奏とくらべてしまうのだが、この作品を知り尽くしたソリストの味のある演奏が非常に見事でひたひたと聴き手の心に沁みわたる感動をあたえてくれた。ただ、肝心のところでホルンが外してしまうために、安心して聴くことができない感覚が常につきまとったのは惜しいところ。逆にフルートが非常に素晴らしく、とりわけ第3楽章のソリストとの対話は実に見事で今日のハイライトを形成していたし、また、同楽章でのバイオリン・ソロとの掛け合いも涙なしには聴けない演奏をくりひろげていた。聴いていると、作曲者の想いが死をこえて亡き人と交感していることを実感できる、そんな至上の演奏が展開された。それにしても素晴らしい作品だと思う。
アンコールのバッハの無伴奏ソナタも名演で、そのシンプルな響きに途轍もない叡智が籠められていることを聴衆に実感させてくれた。
休憩後の「英雄」は後半の第3・第4楽章が素晴らしく、坂入氏の本領が存分に発揮されていた。オーケストラも好調で、ひきつづき部分的にホルンの弱さが気にはなるが、総じて生命力に溢れた演奏を展開していた。ベートーヴェンの何という雄々しさと大らかさ!!
もちろん、前半の二楽章も充実していたが、正直なところ、作品にたいして直球勝負を挑み過ぎているように思われ、演奏が作品に押し返されてしまっているように感じられた。正攻法で攻めるだけではなく、もう少し冒険をしてもいいのではないか……。
たとえば、ティンパニの強打も中途半端で、全体のバランスを崩すことも厭わないくらいに暴れてもいいのではないか……。どんな剛速球でも、直球しか投げないと、いずれは打たれてしまうものだが、前半の二つの楽章に関しては、そんな印象を抱かされた。あらためて、この作品が難曲といわれる所以を思い知らされた気がする。
いずれにしても、無数の演奏会が開催される東京でも、これだけの「英雄」というのはなかなか聴けない。今後も坂入氏は試行錯誤を重ねていかれることだろうが、既にこの水準に到達していることが恐ろしいことだし、ここからさらにどう進化していくのかを想像するとワクワクしてくる。

 

5月1日
ある領域で非常に優れた知性をそなえているが、他の領域に関しては、その知識を同じレベルで適用しようとしない「知識人」が無数に存在する。一般論としては、人間の能力は領域により異なるレベルで発揮されるとされているが、そうした説明に納得するのではなく、「ほんの少し意識をすれば、得意領域で発揮されている透徹した能力を他の領域でも発揮できるはずなのに……」とこちらに思われる場合には、その違和感を大切にすべきである。
端的に言えば、自己の専門領域で確立した権威を背景にして、他の領域に関して言及することで、その発言までも権威あるものであるかのように錯覚させてしまうのである。

 

5月11日
昨日の奏楽堂のモーニング・コンサートではまたいろいろな刺激と発見をあたえてもらった。とりわけ、プロコフィエフのピアノ協奏曲を演奏した原田 莉奈氏の演奏には――昨年の東京音楽コンクールの演奏にも関心したが――大きな感動をあたえられた。何よりも今回は演奏がはじまる前の瞬間に会場に静かな緊張感が漲るのを聴衆席で感じて、いっそう風格を増していることが感じられた。
演奏に関しては、純粋にこの作品の素晴らしさをおしえてもらった気がする。ピアニストを夢中にさせるような魅力が詰まった作品であることが実感できた。個人的には、とりわけ第1楽章のピアンのソロが続くところでグッと惹きこまれた。また、プロコフィエフという作曲家にとり「スピード」というものが非常に重要な要素であることを実感することができた。作曲家によっては、解釈上、演奏家があえてテンポを落として演奏しても魅力が出てくるということがあるのかもしれないが、プロコフィエフにおいてはそうではなく、作品の本質的なところにこの作曲家の生理に深く結びついた「スピード感」のようなものが息づいているのではないかと思われたのである。昨日の演奏は、そんな気づきをもたらしてくれる刺激と洞察に満ちた演奏だった。
優れた演奏には二種類あると思う。作品の魅力を聴衆に率直に開示してくれる演奏、そして、演奏者の唯一無二の芸術性を堪能させてくれる演奏である。昨日の演奏は前者であるが、そうしたタイプの奏者として、大きな期待ができる演奏者だと思う。
ちなみに、はじめに演奏されたレオポルド・モーツァルトのトロンボーン協奏曲も、コンパクトにまとまった魅力的な作品で、表面的には明るい曲想の中に幽かな憂いが感じ取れるところは、息子の作品に共通するなあと思った。演奏も素敵だった。

 

5月13日
たくさんの著名経営者の著書の内容を要約して紹介する書籍を読んでいるが、いつものことながら、経営者といわれる人達が「生き方」について語りたがり、また、読者がそれをありがたく読むという構図には、異様な感覚を覚えてしまう。そもそも経営書を人生論として読んでしまう文化そのものに違和感を覚えるのだ。そういうことは個人の最も重要な内面的問題として最もたいせつにすべきことだが、多くの読者は無防備に商売人のロジックに自己の人生そのものを委ねてしまう。このことに懸念を抱けないということそのものが、既にその読者の状態を示している。

 

5月18日
書店には月刊誌の6月号が並びはじめているが、いつものことながら対極的な立場の視点にたいして完全に意識を閉ざした「論考」ばかりが掲載されている。どれほどたくさんこうした記事を読んでも、読者は自己の立場の「正当性」にたいする確信を強めることはできても、視野をひろげることはできない。少し離れて眺めると、これほど退屈な「情報収集」もないと思えるのだが……。結局は、「読む」という行為が自己に問いを突きつけるためのものではなく、自己の信念は正しいのだという感覚を強化するための自慰的なものに留まっているということなのだろう。
たとえば、「世界」には「正論」の、そして、「正論」には「世界」の常連執筆者を招けばズッと面白くなるだろう。そういうことをいっさいしようとしない「知識人」が実社会をいろいろと批判して、「視野をひろげろ」とか、「発想を柔軟にせよ」とか述べているのは何とも異様な気がする。

 

5月20日
墨田トリフォニーでの新日本フィルの演奏会を聴いた。指揮はジョアン・ファレッタ(JoAnn Falletta)。Naxosの録音で認識はしていたが、生で聴くのは初めて。非常に素直な音楽性をそなえた音楽家という印象で、その指揮振りもまるで学生演奏家にたいするものであるかのように明確で丁寧なもの。そして、同時に、男性指揮者からは聴いたことのない、聴衆をホロリとさせるような穏やかな優しさを音に息づかせることができる指揮者でもある。「男性」「女性」という括りで芸術家を区別することは嫌いだが、確かに才能ある女性指揮者の活躍で音楽界にもいい影響が出てくるのではないかと思う。
今日の収穫は、何よりも冒頭のバーバーの交響曲第1番である。少しウォルトンの交響曲第1番を想起させられたが、あの魅力的な作品を少しコンパクトにした作品といえばいいだろうか……。
次の山下 洋輔をソリストに迎えたガーシュウィンのピアノ協奏曲は全くの期待外れ。しばらくまえに東京藝術大学の卒業者演奏会で同曲が演奏されたが、そのあしもとにも及ばない。端的に言えば、このピアニストはこうした舞台で勝負できる人ではないということだ。あの魅力的な作品が、ピアニストの自己陶酔に弄ばれると、これほどまでに退屈な作品に変わってしまうということを示した演奏といえるだろう。新日本フィルハーモニーが素晴しいだけに非常に残念な気持ちにさせられた。聴衆は熱狂的に称賛の声援を送っていたが、あんな演奏に本当に感動したのだろうか……?
後半はAaron Jay Kernisという作曲家の Musica Celestisという静謐な作品があり、そして、コープランドの「アパラチアの春」が続いた。普段はコープランドの作品を聴こうと思うことはほとんどないが、こうしてあらためてじっくりと耳を澄ませてみると、日常の中に息づく人間の素朴なよろこびに寄り添ういい音楽だと思う。演奏も、過剰な演出をくわえることなく、音楽の自然な魅力を浮かび上がらせるもので、深く共感した。

 

Lectica, Inc.のトレイニングを終えて

今週、過去数箇月にわたり受講してきたLectica, Inc.のトレイニングがとりあえず終了した。

今回の内容は、Lecticaが提供している二つの発達段階測報告書の内容の理解と実際にその測定を受けた被測定者にたいするフィードバック方法の訓練である。

2週間に1度、2時間のビデオ会議が合計で8回という内容だ。

開始時間が日本時間の午前1時というのが、翌日に影響するので、少々辛いところだったが、それほど大量の宿題があるわけでもなく、非常にたくさんの気づきをもたらしてくれる経験となった。

また、今回のトレイニングを受講するにあたり、数年振りにLDMALectical Decision-Making Assessment)という測定を受け、「意思決定」という領域における自身のレベルを把握できたことは、大きな内省の機会となった(また、「意思決定」という領域における自己の状態を認識することで、自己の思考の全般的な特徴について探求する貴重な機会をあたえてもらった)。

 

今、日本では徐々に発達理論が紹介されはじめているが、そこで想定されているのは、基本的には、Robert KeganWilliam TorbertSusanne Cook-Greuter等の理論にもとづいたもので、本質的には、いわゆる「重心」(the Center of Gravity)という概念を前提とするものであるといえる。

しかし、Lecticaの場合には、この概念そのものを否定している。

そうした概念は、たしかに感覚的には人間の実際を反映したものであるかのように感じられるが、それを測定することは不可能なことである。即ち、人間の能力(domain)はあまりにもたくさんあり、それらの全てを測定することなどできない――というのが、その理由である。

また、そうした概念が実際に用いられるときに、しばしばわれわれは他者をラベル付けするための安易な道具として利用してしまいがちだ。

実際、Ken Wilberをはじめとして、Integral Communityの関係者は、こうした悪しき傾向にとらわれているように思われる。

たとえば、彼等は、人間の発達段階を大きく“First Layer”“Second Layer”という二層に分けて説明するが、そもそもそうした概念そのものは必ずしも実証されているものではないし(確かに、Abraham Maslowが、ある段階で欲求の質が大きく変化すると主張しているが、それは仮説に過ぎない)、また、人間の能力というものが非常に激しく上下動をしていることを考慮すると、これほど単純に人間を価値付けすることは、知的な怠慢といわざるをえない。

こうした問題にたいするLecticaの関係者の徹底した慎重さには非常に関心させられた。

実際、人間の能力というものについてあらためて思いを巡らせてみると、特定の領域で優れたパフォーマンスを発揮できるかどうかということは、その人物の本質的な価値と全く関係ないことが判る。

たとえば、英語能力はその個人の本質的な価値に何の影響もあたえない。あるいは、料理をしたり、掃除をしたり、運転をしたりするための諸能力の高低はその個人の本質な価値と何の関係もない(もちろん、その高低により、その個人が担える責任や役割に影響が生じることにはなるために、その個人の機能的な価値には大きな影響をあたえることにはなるが……)。

少なくとも、それらの諸能力の高低に関する議論は、個人の人格の成熟度に関する議論とは切り分けてする必要がある。

しかし、Robert Kegan等の発達理論の枠組では、人間の「意味構築活動」(meaning making activity)が主な研究対象として設定されているために、どうしても人間の本質に関わることについて言及されているような印象をあたえることになる(実際、Keganは著書の中で自分は人間の意識そのものについて研究をしているということを述べている)。

しかし、このあたりについて、Lecticaの関係者は非常に懐疑的であるように思われる。

少なくとも、それを測定するために用いられているKeganCook-Greuterの方法に関しては、基本的には意識の内容物に焦点を絞るもので、意識の構造を把握するものではないと批判している(批判をするときの表現としては、そういう言葉を用いてはいないが……)。

即ち、そこでは、あくまでもその個人の意見の聞き取りがされるだけで、課題や問題を実際に解くことを求めていないために、厳密には、その個人の能力を測定していないと批判するのである。

たしかに、個人的にも、KeganSubject-Object interviewCook-GreuterMaturity Assessment ProfileMAP)を少し勉強してきて、そうした批判には一定の正当性があるように思いう。

特にMAPの場合、実質的にJane Loevingerの文章完成法(sentence completion test)をそのまま踏襲していることもあり、回答の中に登場する具体的な単語や概念が、マニュアルに照らし合わせて、どの段階に属するものであるかどうかを特定する作業に重点を置くことになってしまう。

結果として、測定されるのは、あくまでもその個人が主にどのような段階の単語・概念を内面化しているかということになるのだ。

Lecticaの関係者は、果たしてそうした方法で個人の発達段階を測定することができるのか? という根本的な問題提起をしている。

同時に、彼等も、個人の意味構築活動を把握するために果たしてそれ以外の方法があるのかといえば、適当なものはないと述べているのだが、いずれにしても、いわゆる「発達段階」というものが、少なくともIntegral Communityの関係者(発達心理学の専門家を含めて)が想定しているほど簡単に把握できるものではないのは間違いないところだと思う。

端的に言えば、いくつかの既存の理論や方法を習得したことで、人間の発達段階を把握できたと信じるのは危険であるということだ。

 

もうひとつ、今回のトレイニングをとおしてあらためて考えさせられたのは、段階と段階のあいだの“phase”をたいせつに扱うことの必要性である(Lecticaでは、段階と段階のあいだに10phaseを設けている)。

実際の現場において他者を支援するときに、次の段階についていろいろと説明をして、そこに向けて自己の行動を進化させるように指導をしても、ほとんど効果はない。

段階と段階の間に存在する「差」はあまりにも大きく、次の段階について言葉で説明をされても、実際にその段階の能力を発揮できるようになるための成長にはほとんどつながらないのである。

また、しばしば、能力が次の段階に上がるためには、数年(56年)が必要となるといわれるが、特に段階が高くなればなるほど、次の段階に移行するために必要となる資源や時間は格段に大きくなる。

この時点である程度高い段階の能力を発揮できているということは、既にそこには多様な要素を統合した複雑なシステムが存在しているということであり、それを次の次元に向けて再編成していくためには、途轍もない力が必要となる。

シンプルなシステムを進化させるためには、それほどの労力が必要となるわけではないが、複雑なシステムを進化させるためには、たとえ非常に小さな進化でも、比較にならないくらいの労力が必要となるのである。

幼い頃は短期間に段階的な成長を遂げることができるが、成人期を迎えると、段階的な成長の速度はどうしても遅くなるのである。

たとえば、はじめのころは、単語を覚えるところから、単語を並べて文章をつくれるようになれば、段階的な成長を遂げたことになったが、高い段階では、ひとつの主張を展開する章をまとめるところから、今度はそれぞれに独立した主張を展開する複数の章をひとつの大きな論旨のもとにまとめあげることができるようになると漸く段階的な成長が成し遂げられたことになるという感じだ。

後になればなるほど、段階的な成長を実現するために求められるものが劇的に増えていくのである。

このため、とりわけ成人期においては、段階を上げることではなく、段階と段階にある“phase”を上げることに焦点を絞り支援をしていくことが重要になる。

端的に言えば、「段階を上げる」というとりくみそのものがあまり意味を成さなくなるのである。

Lecticaでは、こうした観点から、発達段階の報告書の中で、その個人がどの段階のどのphaseにいるのか、そして、次のphaseに移行するためには具体的などの能力の開発に力を傾注すべきなのか、また、具体的にどのような訓練にとりくむべきなのかということに丁寧に言及してくれる(報告書の頁数はA45060頁くらいになる)。

こうした発想は実に地に足が着いたもので、心底感心してしまう。

いうまでもなく、一口に成長といっても、そこで問題にされている能力領域により、鍛錬が必要とされる能力は変わる。

組織の統括者としての意思決定能力という領域において成長しようとしているのか、あるいは、心理的・宗教的な意味の内省能力を成長させようとしているのかにより、次のphaseに向けて成長していくために習得しなければならない能力は異なってくる。

発達志向の支援をするためには、単にそれぞれの段階の特徴を認識しているだけではなく、段階間のphaseに関してある程度正確な理解を有している必要があり、しかも、そこで対象とされている能力領域に関してそれなりの土地勘をそなえていることが求められるのだ。

こうしたことを訓えられるにつけ、これまで大雑把に段階的な成長について語るばかりで、段階間の移行に関する探求を疎かにしていたことを反省してしまった。

 

そして、最後にもうひとつ重要な気づきがあった。

それは、「水平的成長よりも垂直的成長の方が難しい」というアイデアが実はそれほど信憑性のあるものではないということです。

Ken Wilberの著書では、垂直的成長を“transformation”と、そして、水平的成長を“translation”と呼んで、前者の方が後者よりも難しいと説明されているが、Lecticaの関係者によると、実はそうした主張は必ずしも立証されているものではないということだ。

そもそもLecticaの設立者のTheo Dawsonは、そもそも垂直的成長と水平的成長という二つの異なる成長が存在するという発想そのものを否定しているようだ。

即ち、それらは相互に密接に関連(interpenetrate)しているために、実際に人間の成長においては、二つの異なる成長が観察されるようなことはないというのだ。

たとえば、既存の能力を少し修正して適用するのは、水平的成長としてとらえられるが、それも小さな垂直的成長としてとらえることもできるわけで、その意味では、垂直的成長と水平的成長を分ける必要性そのものが無いといえるのだ。

また、それら質的に異なる二つの成長が存在するとしても、それらのうちのひとつがより難しいと断言する根拠はない。

あたらしい能力を習得する(垂直的成長)のと、既存の能力を異なる仕方で用いる(水平的成長)のは、どちらが難しいかといえば、実際には、それは状況により異なるということになるだろう。

 

いずれにしても、今回のトレイニングをとおして、あらためて気づかされたのは、真実として信奉されている概念をあらためて検証することの重要性だ。

とりわけ、Ken Wilberの概念は、非常に解りやすく、また、感覚的に「納得度」の高いものであるために、われわれはそれらを無批判に受け容れてしまいがちだ。

複雑な話題に関して勉強をはじめるための導入的な概念としては非常に便利なものだが、一歩踏み込んで探求しようとするときには、それらをいったん批判的な眼差にさらさないと、自覚しないあいだに思考停止状態に囚われてしまう危険性が生じる。

そうした意味でも、今回のトレイニングには、貴重な気づきをあたえられた。

 

尚、最後のセッションは、周囲の関係者(潜在的顧客)にたいして発達理論をどのように紹介していくかということについて議論をしたのだが、担当の講師によると、徐々に垂直的成長にたいする興味・関心は増してきているという。

ひとつには、この概念が、組織開発や人材開発の関係者によって「次なる流行」(“the next fad”)として認識されているということがあるだろう(もちろん、そういう空気というものは、所詮それだけのものに過ぎないので、いずれは冷めていくものだが……)。

そして、もうひとつは、純粋にこの垂直的成長に関する研究が開示してくれる洞察にたいする興味・関心がひろい範囲で醸成されはじめているということでもあるのだろう。

ただ、個人的に懸念するのは、1990年代後半にKen Wilberが主催するIntegral Communityの中で発達理論が、実際の実証研究と遊離して、半ばイデオロギー化した一連のプロセスがここでも再現されなければいいのだが……ということだ。

とりわけ、Spiral Dynamicsの「色識別」(color coding)を模倣して、各発達段階を色づけして、発達論を大衆化しようとしたことで、Integral Communityの中で発せられる言葉の質は劇的に劣化してしまった。

こうした状況を眺めて、Integral Instituteの関係者の軽薄さに失望して、そこから距離をとりはじめた人は多数いることだろう。

Lecticaとしては、こうした状況に問題意識を抱いているようで、ことあるごとに、Kurt Fischerdynamic skill theoryが、今日急速に大衆化されている発達理論と大きく質を異にするものであることを強調している。

今回のトレイニングをとおして、Lecticaのそうした真当な問題意識が確認できたことだけでも嬉しかったのだが、それ以上に、現在、真実として無批判に信奉されている諸概念の内どの概念がとりわけ問題を内包しているのかということについて、Harvard Graduate School of Educationで実証研究に携わっている関係者に直接的に確認することができたことは貴重な経験だった。

いずれにしても、今後、「紹介者」に求められるのは、発達理論にたいして数多くの人達が無防備に投影している幻想を丁寧に解体して、その実像(限界と魅力)を説明することだろう。

その意味では、この段階において、紹介者にはこれまでとは異なる能力が求められるようになっているといことなのだろう。

「ティール」という言葉の意味するもの

今『ティール組織』という組織がひろく読まれているが、ここでいう「ティール」とは、アメリカの思想家のケン・ウィルバーが提唱するインテグラル理論の中でこれまで「Vision Logic」段階と名付けられている人間の意識の発達段階のことを指している。

もちろん、Harvard Graduate School of Educationの研究者の調査では、この段階の認知能力をある程度恒常的に発揮できる人間の割合は総サンプルの中でも数%にも満たないので、実際には、上記の書籍の中で紹介されている「ティール組織」において、その構成員がそうした段階の認知構造を持続的に発揮しているということではない。

むしろ、何らかの制度的・文化的な仕掛を活用することで、個々人の発達段階にかかわらず、いわゆる「ティール」という言葉で想起される行動様式が組織の中で成立しているという事例を紹介しているのである。

個々人の意識が成長させるための方法を呈示するのではなく、その共同体に参加することで、おのずと行動が自己の個人的な能力をこえたレベルで発揮されるような仕組を呈示するというのが、書籍の趣旨だと思う(そして、それは非常に賢明な発想だと思う)。

ただし、21世紀の先進国においても、営利・非営利を問わず、実質的には大多数の組織の関係者が、強烈な同調圧力のもと、組織という「部族」に殉じるために半ば全ての能力を発揮することを求められている状況を鑑みると(先日の「証人喚問」における「証人」の行動論理は正にそうした時代の状況を端的に示したものだといえる)、その先の先にある行動論理が組織の関係者により常態的に発揮される時代が到来すると想像するのは非常に難しい。

もしそのようなことを無防備に想像している人がいたとするならば、正直なところ、そうした夢物語に夢中になるまえに、先ずは目の前の現実を直視するべきではないかと言いたくなってしまう。

しかし、同時に、もしその人が、そうした現実を見据えながらも、尚そうした高次の可能性について真剣に検討しているとすれば、それは真に素晴らしいことだと思う。

ただ、そのときにひとつ確認すべきは、いわゆる「ティール組織」といわれる組織を安定的に成立させるために、そこに生きる個々人に求められる認知構造がどのようなものであるのかということである。

Kurt FischerのConstructive Developmentalismでは、「advanced systems thinking」といわれる認知能力がそれにあたるのだと思うが、これは非常に透徹した世界の洞察を可能とする段階であり、それゆえに、それを発揮することには、大きなリスクが伴うことになる。

端的に言えば、それは、あたえられている課題や問題に最も効果的・効率的に対処しようとするのではなく、そもそもそれが「課題」や「問題」として存在している構造そのものに着目する段階である。

社会は、実際のところ、それらの課題や問題として存在していて、それにたいして異なる立場の関係者が延々と議論や軋轢を生みだしてくれていることで安定もするし、また、特定の階層の関係者は、そうした状態が維持されることで利益を守ることもできる。

しかし、advanced systems thinkingは、そうした構図そのものを意識化して、それを批判的に超克しようとする。

日本の受験勉強を例にとりあげると、「そもそもこのような『勉強』にとりくむことを国民に強いる『教育制度』とは、果たしていかなる思惑や目的のもとで維持されているのか? また、それを温存することに拘泥する社会構造とはいかなる構造なのか?」等の問いを発することから思索をはじめる意識である。

「受験」という「ゲーム」にいかに勝つのかという思索ではなくーーまた、「それには問題もあるが、とりくみ方次第では意味のある勉強もできる」という発想に陥ることもなくーーそれが「虚構」であることを看破して、それを「現実」であると錯覚させている構造を解き明かそうとするのである。

その意味では、単にあたえられた競争の中で勝利を収めるための知識や洞察を得るためにこうした発達理論にもとづいた書籍に接するのであれば、そこには根本的なところで誤解をしているといえるだろう。

一般的には、ビジネス書というものは、どれほど話題になっても、しばらくすると忘れられてしまうものだが、そうした状況を回避するためにも、そこで扱われている中心概念に関してもう少し慎重に吟味をする必要があるのではないだろうか……?

告知 : 2018 Integral Japan Practitioners’ Circle インテグラル理論を実践する

2018 Integral Japan Practitioners’ Circle

インテグラル理論を実践する

 

<背景>

Integral JapanIJ)では、2005年の「研究会」の発足以降、定期的にケン・ウィルバーのインテグラル理論に関して議論をするための空間を設けてきました。その間、日本国内でも関連図書の出版等により(ロバート・キーガンの『なぜ人と組織は変われないのか』やフレデリック・ラルーの『ティール組織』等)基礎知識が浸透し、組織論や人材論を中心とする実務的な領域においても活用が徐々にはじまるようになりました。

 

こうした状況をふまえて、この研究会も、インテグラル理論そのものにたいする基礎的な勉強をする空間ではなく、それを活用して多様な領域で活動や探求にとりくむ方々を対象としたPractitionersCirclePC)として再出発することになりました。これまでと同じように、PCもひろく門戸を開いて開催をしていきますが、今後は、これまでよりも実践者の集いとしての性格を強く押しだし、参加者間の意見交換や共同作業を主軸にして進行していくことになります。

 

たくさんの方々の御参加を御待ちしています。

 

<目的>

インテグラル理論を活用して多様な領域で活動や探求にとりくむ実践者・研究者に、定期的に集まり情報・経験・洞察を共有する空間を提供することにより、参加者間の相互学習や共同作業を促し、また、日本におけるインテグラル理論の展開を推進する。

 

<目標>

・インテグラル理論の実践者・研究者間の緊密な関係が構築されている

・各参加者が自らの活動や探求の幅を拡げる or 質を高めるために、異なる領域に専門性を有する関係者との共同作業を模索している・開始している

 

<方法>

・インテグラル理論(及び、その関連領域)の最新動向に関する情報の共有

・参加者の実践や研究の報告、及び、それに関する議論

・参加者間の共同作業の可能性の探求

 

<課題資料>

Wilber, Ken. The integral vision. Boston: Shambhala Publications, 2007.

・ケン・ウィルバー・他(2010)『【実践】インテグラル・ライフ:自己成長の設計図』鈴木規夫訳,春秋社

 

<参加資格>

・インテグラル理論の基礎を理解していること(インテグラル理論の概要については、課題図書の他には、『万物の歴史』『万物の理論』『進化の構造』『インテグラル理論入門』(I & II)等の書籍を御参照ください)

・自身の活動領域・専門領域においてインテグラル理論を活用していること、あるいは、活用の可能性を模索していること

・自身とは異なる領域に専門性を有する関係者との共同作業にたいする意欲・興味を持っていること

 

<第1回概要>

開催日時:201834日(日曜日)

開催時間:13:3016:30

開催場所:株式会社トモノカイ セミナールーム(岡崎ビル3階)

( http://www.tomonokai-corp.com/company/access/ )

発表者:Steve Hardacre http://www.criticalgameconsulting.com/whoweare/

ファシリティター:鈴木 規夫

参加費:4,000

お申込み方法

以下のフォームよりお申込みください。

https://goo.gl/forms/rYZDQleTNtnck7Kc2

 

<内容>

1201712月にコロラド州で開催されたIntegral Life主催のイベント・What Nowの概要報告( What Now URL: https://integrallife.com/events/what-now/

2.インテグラル理論の枠組を用いて2018年度の自身の活動を展望・計画する