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企業という文脈における人間の発達について

発達心理学(具体的には、Harvard Graduate School of EducationのRobert KeganKurt Fischerが提唱するconstructive developmental psychology)について企業関係者と議論をするときにしばしば話題となるのは、「企業という環境に生きる者が、後・慣習的段階(post-conventional stages)に到達することは、却って逆効果をもたらすのではないか……」という問いである。
後・慣習的段階の特徴は、社会で信奉される価値観や世界観を対象化してそれを批判的に検証できることにあるが(「脱構築」)、そうした能力を獲得することは、個人に所与の条件としてあたえられている目的や目標や物語そのものを根本的に問い直すことを可能とするために、結果として、企業人として求められる思考や行動をすることを難しくしてしまうことになるのではないか?
実際、In Over Our Headという著作の中でRobert Keganも述べているように、発達段階が後・慣習的段階に近づくと、多くの人が企業人としての立場を離れて、たとえばフリーランスとしての立場を選択するようなことがあるようである。
特定の組織に所属することを生活の基盤とするのではなく、人生という大きな文脈の中で働くということをとらえなおすようになるなかで、半ば持続的に組織にコミットして、その制度の中で自己を実現していくことの妥当性そのものが疑問視されるようになるのである。
たとえば、その組織において繰りひろげられる昇進競争そのものがひとつの虚構であることが認識されてしまうために、それとの関連において人生を意味づけてしていくことに醒めてしまうのである。
その意味では、確かに後・慣習的段階の認知構造は、企業組織に生きることを難しくする可能性を内包しているといえるだろう。
また、Abraham Maslowが指摘するように、そうした認知構造を確立しながらも、企業組織に生きることを決断している人の場合には、そうした自己の異端性をあからさまにすることなく、慣習的な物語の中に巧みに適応していることだろう。

過去においては、後・慣習的段階というのは、いわゆる「引退」をしたあとに、そうした世俗的な物語を離れて、残された短い時間の中で自己の実存的条件(死)と向き合いながら涵養される意識であった。
しかし、社会的・時代的な理由により、そうした発達段階が人生の晩年を迎えるまえの段階において発現するようになった結果として、そうした状況におかれた人々が、少数者として精神的な苦悩を背負わされるようになっているのである。

このように考えると、成人期の発達の問題とは、発達がもたらす特殊な精神的な苦悩をいかにケアするかという視点をとおしてアプローチされるべきものであるといえるだろう。
残念ながら、国内・国外でも、「認知構造を後・慣習的段階に向けて発達させることにより、職業人としてのパフォーマンスを高めることができる」という物語が独り歩きしているが、実はそれは倒錯したもので、むしろ、われわれが関心を向けるべきは、発達の結果としてもたらされる精神的な苦悩や危機にたいする対策を講じていくことなのではないか……。
 

ジョージ・オーウェルの『1984』

今ジョージ・オーウェル (George Orwell)(1903〜1950)の『1984』が国内外でとても売れているという。
わたしも以前より読んでみたいと思っていたところだったので、その朗読版をMP3で聴いてみた。
小説という体裁は採っているが、実質的には研究書というべき作品のように思われるが、いずれにしても、半世紀以上もまえにこれほど鋭く人類社会の行く末を予言的に描いた作品が存在したということに素直に感嘆した。
随所にすばらしい洞察が散りばめられている。
今回はそれらを書き留めておくことができなかったので、あらためて書籍をとりよせて精読してみたいと思う。

この半世紀もまえの作品が突然に注目を集めている背景には、いうまでもなく、合衆国の大統領にドナルド・トランプが就任したことがある。
ただ、個人的に不思議なのは、このような現象が、バラク・オバマが就任したときには起きなかったことである。
両大統領は共に――微妙に性質が異なるとはいえ――いわゆる“Big Money”(“deep state”)の後押しを受けて、そうした勢力の指示のもとに政策を展開している(c.f., Donald J. Trump and The Deep State by Prof Peter Dale Scott)。
表面的には異なる衣装を纏っているとはいえ、実質はそれほど変わらないのである。
とりわけ、オバマの場合には、公の場におけるその発言が進歩派受けするものに仕立てられていたために、大きな誤解を生んだが、その本質は徹頭徹尾徹その「主人」に尽くすもので、その目的は一貫して世界の富を極少数の寡頭勢力(oligarchy)のてに極度に集中させることであった(c.f., Obama: A Legacy of Ashes)。
大衆はそうした印象操作に実に見事に騙され、これほどまでに政権の悪質性を指摘する分析がWEB上に掲載されても、いまだに状況を把握できずにいる。
「1984」のような著作を読むというのは、まさにこうした表面的な印象操作に呑み込まれることのないように、鍛錬するということである。
自己の意識そのものが操作の対象として位置づけられ、そのための制度や方法が体系的に張り巡らされていることを意識して、その具体的な実情を理解・洞察し、また、そうした状況の中で自己の尊厳を守るための術を見出そうとすることである。
ただ、今回のような流行を眺めていると、結局のところ、この作品も、他の無数の商品のように、単に消費され忘却されていくのだろう……。

『1984』を執筆した当時オーウェルが想像していなかったであろうことは、支配というものは、作品の中にあるような強圧的なものである必要はなく、むしろ、支配されている者達に、みずからが支配されていることを意識させないような巧妙なものとして設計することが可能であるということだろう。
たとえば、現代においては、先進国に住むほとんどの人達は、みずからが半ば完全な自由を謳歌していると思い込んでいる。
しかし、同時に、われわれは、わずか数人の個人が地球の富を占有する窮極的な階層社会に生きている(Just 8 men own same wealth as half the world)(また、こうした調査は、あくまでも調査の対象となりえる人物のみを対象としたものでしかない)。
当然のことながら、そうした少数の人物、及び、関連組織が社会にたいして不当に巨大な影響を及ぼすことになる。
そして、そうした影響のもとに策定される諸々の政策・施策は、あたかも民主的な合意形成のプロセスを経て形成されたものであるかのように思い込まされ、推進されていく。
そうした現実と直視することなく、自由という虚構に浸りつづけることを可能とするのが、今日の支配の本質なのである。
その意味では、この作品にあるような露骨な統制や暴力がないぶん、その事実はより意識化しにくいものといえるだろう。
『1984』は、そうした同時代の意識の統制にたいして意識を向けるための契機をあたえてはくれるが、その洗練された性質を十分に照明してくれるものではないのである。

 

ケン・ウィルバーの新論考について

いよいよドナルド・トランプの新政権が発足したが、ケン・ウィルバー(Ken Wilber)が、政権発足と合わせるように、Integral Lifeに論考を発表した(無料でダウンロードができる)。

 

Trump and a Post-Truth World: An Evolutionary Self-Correction
https://integrallife.com/trump-post-truth-world/

 

ざっと目をとおしたが、これは、政治そのものに関する論考ではなく、同時代の政治に関して人々がどのような意識をいだいているかを整理した社会学的な論考である。
端的に言えば、合衆国の大統領選挙という「興行」(show)を大衆がいかに意味づけしているかについて大雑把に整理したものである。
政治そのものについて深く議論するには、必要な事項が全く押えられていないので、そうしたものを期待すると完全に落胆させられることだろう。
内容は、いつものごとく、社会に存在する主要な価値体系を色づけして、それらがそれぞれどのように同時代の動向――より正確には、主流マスコミをとおして流布された「情報」や「物語」――をどのように意味づけているかを俯瞰的に整理するものである。
ただ、分析のために用いられている方法そのものは、全く修正されていないので、半ば機械的にまとめられただけのものに過ぎないという印象をぬぐいきれない。
端的に言えば、ウィルバーが立脚する方法そのものが完全に進化を止めてしまっており、しかも、それを同時代の現象の表層的な側面にあてはめて、それを統合的な分析として示しているので、基本的に何のあたらしさもない文章になってしまっているのである。
たとえば、今日、少しでも政治について勉強をしている人間であれば、政治には、いわゆるメインストリームの報道機関が提供する表層的な側面に関する情報にくわえて、それよりも圧倒的に大きな重要性をもつ深層的側面が存在することをある程度は認識しているものだが、この文章の中にはそうした認識が完全に欠落している。
それはあたかも無意識を無視した心理学のようなものである。
その意味では、どう好意的にみても、これは真に統合的な分析とは到底いえないのである。
残念ながら、こうした文章を診ると、著作家としてウィルバーが完全に枯渇していることを痛感せずにはおれない。
いうまでもなく、単にインテグラル・フレイムワークを適用して対象を分析すれば、それを統合的に理解したことにはならない。
そうしたフレイムワークがそもそも暫定的なものであるし、また、たとえそれが十分なものであるとしても、思考の素材となる情報を収集するにあたり、あまりにも排除している領域が大き過ぎる場合には、結局、まともな思考をしたことにはならないのである。
少なくても政治の領域に関しては、ウィルバーの創出する作品は完全にそうしたものになってしまっているように思う。

 

発達理論を巡る危険な誤解

先日、Lectica, Inc.のTheo Dawson博士と簡単な対話をした。
Lectica, Inc.は、Harvard Graduate School of Educationの発達心理学者達を中心にして、Constructive Developmentalism(Dynamic Skill Theory)にもとづいた個人の発達段階の測定を提供する組織である。
Dawson博士はその代表者である。
1月10日付けでLectica, IncのHPに掲載された「Leadership, vertical development & transformative change: a polemic」というタイトルの非常に興味深い記事に関して、少し質問をさせていただいたのだが、個人的にも、これまで漠然といだいていた疑問を解決していただいた気持ちである。
記事の中でDawsonが指摘しているのは、現在、欧米を中心にしてひろがりをみせている発達心理学にもとづいたLeadership開発の領域において、発達(「構造的発達」・「垂直的発達」)というものを多様な課題や問題を解決できる万能薬のようなものとして非常に短絡的にみなされているということである。
企業組織において個人がその「生産性」(capability)を高めるためには、とりわけ認知構造の発達段階を高めることが重要であるという言説は、今日、発達心理学を勉強した人材開発や組織開発の領域の関係者が主張しているところであるが、Dawsonは、それは実際とは大きく乖離したものであるという。
むしろ、認知構造の発達は、ときとして深刻な破壊的な影響をもたらすこともあるものであり、そうした類の発達を単に業務遂行能力を高めるために安易に推進するのは非常に危険なことであるというのだ。
個人的にも、これまでに発達理論に関していろいろな研究者や実践者と対話をしながら思考錯誤をしてきたのだが、constructive developmentalismにおける認知構造を高次のものに垂直的に高めることが――少なくとも直接的なかたちで――実務者としての能力の向上につながると主張するのは、非常に短絡的な発想であると結論づけるに至っていた。
認知構造とは、結局のところ、われわれが意味を構築するときに依拠する思考機能の質そのものを規定するものである。
それが変容するということは、個人の世界観や価値観そのものの根本的な変革をもたらすことになりかねず、往々にして、われわれの心理的な平衡状態を大きく動揺させることになる。
もちろん、それが実務者としての機能性を高めることに貢献するということもあるだろうが、それは、あくまでもそういうときもあるということで、認知構造の構造的な発達の必然の結果ではないのである。
そのことを無視して、短絡的に発達段階を高めれば実務者としての成長上の多様な課題や問題を克服することができると発想するのは、あまりにも単純であるし、また、端的に事実に反しているのである。
同じHarvard Graduate School of EducationのRobert Keganが著したImmunity to Change等を読むと、「発達段階が高くなることで仕事ができるようになる」という主張があり、個人的には、たとえ一般向けの書籍とはいえ、こうした説明の仕方は非常に危険だなと危惧していたのだが、こうした発言を目にすると少し安堵する。

そもそも人材育成・組織開発の領域で、発達理論が注目を浴びるようになったのは、それまでに流通していたいわゆる「昨日的能力」(competency)や「性格特性」(typology)といわれるものが、個人の深層領域に関して言及するための厳密な方法を持ち合わせていないことに起因すると思われるが、皮肉にも、今度は、発達理論が過剰に万能視される状況が生まれているのである。

いずれにしても、Dawsonが指摘しているように、認知構造の垂直的な発達というものが、個人の防衛機構を動揺させる可能性を秘めていることにわれわれは真剣に留意しなければならない。
認知と思考の質を変容させるということは、とりもなおさず、個人の意味構築活動そのものを本質的に変容させるということである。
そして、それは、また、個人がみずからの心理的なトラウマやストレスに対処するために用いている諸々の防衛機構を動揺させることになる。
というのも、それは「対象を認識して、それを意味づけし、そして、それにたいする自己の対応を構想・実行する」という認知活動が直接に関わるからである。
その意味では、認知構造の変容を支援しようとするときには、臨床心理学との密接な連携が必須となるといえるだろう。

そして、ここでもうひとつ検討すべきことは、そもそも発達理論というものが、ある特定の価値観・世界観の中で所与のものとしてある目標に到達するための「道具」として相応しいのかということである。
というのも、認知構造を変容させるということは、それまでに前提とされていた――それまでに自己を呪縛していた――価値観や世界観そのものを対象化、及び、その批判的な検討と超克ができるようになるということを意味する。
たとえすべての場合において、そうした根本的な価値観や世界観の診直しが起きるわけでないとしても、その可能性は高まるはずである。
「既存の目標は真剣にとりくむに価するものであるという前提は疑うことなく、あくまでもそれをより効果的・効率的に実現するための方法を進化させるために発達してください」というような都合のいい「発達」ができるわけではないのである。
むしろ、既存の目標そのものが過去の幼稚な価値観・世界観の中で意味を持ち得ていたものに過ぎないということに気づけることこそが、認知構造の発達がもたらしてくれる価値の本質にあるものであるとすれば、今日 流行している能力開発のための道具として発達心理学をみなすことは、大きな欺瞞を内包しているのではないかとさえ思えるのである。

 

岐路に立つインテグラル・コミュニティ

インテグラル・コミュニティにおいては、社会現象を分析するときにしばしばSpiral Dynamics(SD)の枠組を用いるが、これまでにコミュニティが配信してきた数々の分析を俯瞰的に眺めると、正にそうしたアプローチが現実の深刻な誤解や歪曲を生んでいることが明らかになりつつある。
端的に言えば、SDにおいては、「意識の構造」(the structure of consciousness)と「意識の内容」(the contents of consciousness)の違いを峻別しようとする発想が非常に希薄なために、往々にして、表明されている意見や立場の種類のみに着目するようになる。
結果として、それが個人であれ組織であれ、対象の行動論理を大きく見誤ることになるのである。
そもそも、SDは、Integral Institute(I-I)の立ち上げ期に、インテグラル理論を一般向けに簡略化して紹介するために便宜的に活用されたのだが、I-Iの関心が諸概念を「商品化」して包装・普及することに収斂していくなかで、いつの間にかその発想そのものが「便宜的」なものでしかなかったSDの水準にまで引き下げられることになる。
こうして関係者は、そうした過剰なまでに簡略化された発想に安住して、仮の納得感に呪縛されていくことになる。
悪いことに、SDの理論がシンプルなものであればあるほどに、それがもたらしてくれる「理解」は単純明晰なものとなり、関係者に知的な優越感に浸らせてくれることになる。
みずからが依拠する枠組に呪縛されてしまい、それそのものを対象化して超克していくことができないという合理性段階の行動論理に半ば完全に呪縛されているのである。
少なくとも、政治・経済等の集合領域(これらの領域はSDの主な関心領域でもある)に関するインテグラル・コミュニティの発言がこれほどまでに劣化しているのは、過去10年程のあいだに継承されてきた知的怠惰が大きく影響しているのである。

2016年度は、世界的に大きな政変がおきた激動の一年であった。
そうした文脈の中でわれわれはこれまでにみずからが立脚していた価値や前提が大きく誤っていたことに気づかされるような経験をひんぱんに経験している。
特筆すべきは、これまでに展開してきた「グローバル化」といわれるものが、実は必ずしも人類の進化を体現するものではないということにたいするきづきが正に地球規模で生まれているということだろう。
むしろ、それが、実はいかなる土地にも責任をもたない無国籍の資本の論理が、その略奪的(predatory)な獣性を無軌道に発揮して、あらゆるものを捕食していくための制度の急速な拡充のプロセスであったことが認識されたのである。
もちろん、グローバリズムというものが、波のようによせてはかえす現象に過ぎないことは指摘されていたし、また、今回のグローバル化が地球の富を極少数の超富裕層のてもとに集中させることで、地球規模の格差社会を構築するものであることについても、警鐘が鳴らされてきた。
2016年は、そうした声が大衆規模の行動にまとめあげられ、それまでに無防備に礼讃されてきたグローバリズムというものにたいする明確な拒絶として結晶化した年であったのである。
もともと日本の場合には、知識人も大衆も「流行」(buzz words)に流されやすい根深い体質があるために(http://www.mitsuhashitakaaki.net/2016/12/21/sato-106/)、いまだにグローバリズム幻想に憑かれている状態にあるが、欧米では、人々がいちはやくそうした夢から醒めはじめているので、いずれはそうした状態から揺さぶり起こされることになるだろう(ただし、日本の場合には、無国籍性のイデオロギーに対抗するための拠所となるべき健全な郷土愛や愛国心が涵養されていないために、内発的な力でこうした幻想状態を脱却するのに苦労する可能性はある)。

こうした状況において、
本来であれば、インテグラル・コミュニティは、たとえばその重要な理論的な柱であるホロン理論にもとづいて、早い段階で、今日のグローバル化が、人類社会の進化ではなく、むしろ、個々の共同体の健全性を溶解することで、最終的には人類社会の全体的な破壊をもたらすことを洞察すべきであった。
しかし、実際には、今日のグローバル化を「世界中心主義」(world-centrism)の発現と錯覚して――また、それに反発する動きを退行的な「排外主義」や「保護主義」と錯覚して――それを無批判に追認してしまった。
その意味では、I-Iを中心としたインテグラル・コミュニティの関係者は完全に時代に取り残されているだけでなく、むしろ、さらに深刻な問題として、みずからの認識の前提そのものを批判的に検証するという統合的であること基本を見失ってしまっている。
いうまでもなく、こうした体質の共同体が辿りつく先は、閉ざされたイデオロギー集団でしかない。

ただし、一方では、Sean HargensやZachary Steinをはじめとする若い世代の研究者や実践者が、I-Iの直接的な影響を離れて、独自の優れた活動を展開しているのも事実である。
将来に向けて、インテグラル・コミュニティが持続的に発展していけるかどうかは、こうした良質な人材をどれだけ育てていけるかに懸かっているように思う。

 

Integral Community in Transition

 

2016 turned out to be a rather interesting year for the Integral Community. In the eyes of many, what unfolded in the political spheres of society—in particular in the United States—brutally exposed that the narrative, which the self-appointed pundits of the community have been confidently propounding, was proven utterly off the mark. This “evolutionary” narrative, which is based on various schools of social changes such as Spiral Dynamics, asserts, quite simplistically, that the collective evolution of humanity can be described as a process of transcendence of provincialism or nationalism so that people and society will be liberated to embrace the spirit of world-centrism more fully.

 

While the idea may sound nice on paper, as the past decade has shown, this narrative became “reinterpreted” by the pundits and followers essentially as an ideology that serves as an apologetic for the “globalization” taking place under the laws of free market capitalism. In spite of all the qualifications in the writings of Ken Wilber—or of other pundits—the Integral Community seems to have “officially” settled on the position that what is taking place in the world over under the banner of “globalization” is indeed a clear manifestation of the spirit of evolution and that various policies implemented by the leadership of the United States government such as Clintons or Barak Obama, are all “integrally informed” one as they strongly aim to dismantle the national boundaries in favor of transnationalism (see America goes green meme: thoughts on a thunderous week). In other words, the Integral Community became so blindly enamored by the ideology of world-centrism that it came to automatically sanction any stance as long as it denies nationhood in favor of trans-nationalism.


Although the lack of sophistication in such thinking is hardly rare even among intellectuals, it was especially ironic that those in the Integral Community, who are so proud of their capacity for self-reflexivity which is supposed to endow them with an uncommon ability to critically examine the assumptions and frameworks they rely on, were so easily and utterly trapped by the simplistic thinking. As a result, virtually all the analyses on contemporary affairs that have come out of the Integral Community have proven to have little value to help people see things with critical perspective. Worse, because it so eagerly rationalized almost everything that was happening under the guise of globalization with their evolutionary narrative, it ended up discouraging people to critically examine the assumption that any move toward globalization would constitute a move toward a higher stage of collective evolution.


In the meantime, while the Integral Community was busy cheerleading globalism, society as a whole has been making steady progress in cultivating its ability to question the validity of the conventional narrative that globalization actually symbolizes our collective progress. And in the wake of the strong emergence of alternative media on the internet, more and more people are now willing to pose questions to the narrative.


Yet, for some reasons, the great majority of the Integral Community continuously clings onto such narrative. As a matter of fact, even at this point, they seem to make sense of the current situation, which are characterized by the open opposition to trans-nationalism as represented by the Britain’s exit from European Union or election of Donald Trump, as a form of regression—that is, they seem to naively believe that these incidents are indicating that humanity is failing to live up to the call of the evolutionary impulse to globalize (see The Great Divide: Trump, Populism and the Rise of a Post-Scarcity World).


Sadly, as far as I can see, they do not appear to be capable of imagining that the globalization as we are currently experiencing it does not possibly constitute any genuine progress. That is, they are consistently failing to demonstrate the capability that they describe as the core of healthy rational mind—namely, the capacity to objectify and examine the very assumptions of one’s own thinking. As a result, at far as the issues of contemporary politics are concerned, the Integral Community seems to have become essentially an ideologically driven community comprised of people who are only capable of mechanically applying the orthodox frameworks to given reality.


In the age where politics are impacting the lives of so many individuals so powerfully and so tragically, the consistent lack of quality in the opinions that emanate from the Integral Community will seriously damage its credibility in the eyes of many and eventually condemn it to the status of irrelevance where the majority of the members blindly follow various myths that are called “integral” somehow. Under the current leadership, I would presume, the community seems to be steadily heading toward such a sorry destination.


To make matters more difficult, the Integral Community seems to be caught by a strong fear, probably because of its origin in transpersonalism, that it be perceived by society as one of those alternative or fringe communities based on some nonconventional philosophies. In order to overcome such fear, the community appears to be desperately trying to present itself as “non-alternative” or “non-fringe”, something worthy to be part of mainstream discourse. Quite ironically, though, such a desire drives the community to shy away from views that seem too dangerous to the mainstream sensibility. Consequently, the community has come to betray its core value which is to embrace as many perspectives as possible (though always with critical spirit).


Moreover, when the very distinction between the conventional and the nonconventional is being increasingly blurred (for example, the current attempt to shut out alternative media by labeling them “fake news” actually indicates that the legitimacy of the mainstream narratives have been so seriously damaged that the power structures are now forced resort to such unilateral action to stunt the critical discourse in society), such stance can further dissolve the legitimacy of Integral Philosophy as it will be increasingly perceived as a philosophy characterized by timidity.


At this moment, despite the honorable efforts of small number of individuals who are trying to rehabilitate Integral Philosophy by evolving it to something that can be called post-Wilber—or simply by liberating it from the constraints of Integral Life as a business endeavor—the community as a whole seems to be still deeply caught in the constraints which are simply increasingly condemning it to the status of irrelevance.


Today, society as a whole is transmuting so as to encourage more and more people to question the very assumptions that have been constraining their thinking in the past. Undoubtedly, some of the core orthodoxies of contemporary life will be exposed, revised, or rejected in the coming years and the values and worldviews of many will be shaken and reconstructed on continuous basis. In such an age, I would believe, the very survival of the Integral Community depends on its ability to encourage genuine free thinking which can challenge even its own orthodoxies.


Since its conception, the Integral Community in general has consistently refused resisted to the perspective of deep politics. Instead, it has virtually exclusively confined perspective to shallow politics by skillfully categorizing various views in the mainstream media to produce supposedly “integral” or “holistic” picture of contemporary politics. Just like a psychologist who refuses to acknowledge the existence of the unconscious, it has adamantly focused its attention to what is allowed to the sphere of public discourse by various censoring mechanisms. As far as the issues of contemporary politics are concerned, the Integral Movement as a whole has become utterly shallow and surpassed by many alternative journalism which the Integral Community has proudly look down as “Green” or “deconstructive” in terms the depth of insight into reality. Despite the claim that they are operating from some high altitude of consciousness called “post-conventional” or “post-post-conventional” stages, in reality, the community has been thoroughly confined in the bounds of conventional view of reality.


I sincerely hope that we will start seeing genuinely post-conventional thinking emerge in the community…

 

“Fake News”

偽ニュース攻撃で自滅する米マスコミ
2016年12月1日 田中 宇

 

田中 宇氏の記事には抵抗を覚えることが多いのだが、今回の記事は非常に的を射たものだと思う。
日本では、いまだに国民の大多数が主流マスコミの報道を鵜呑みにする状況が続いているが、英語圏では、非主流派マスコミ(alternative media)が大きな影響力を持ちはじめており、支配層がもはやそれを放置できない状況が出現している。
高等教育機関等における訓練が比較的に充実しているということもあり、英語圏では体制の外で活動するジャーナリストの能力が高いために、そうした立場から、たしかな情報が提供され、着実に世論に影響をあたえはじめているのである。
今回の動きというのは、体制側が「Fake News」というラベルを張り付けて、そうした報道機関の権威を攻撃しようとするものである。
端的に言えば、そうした情報を信用しないように――あるいは、そもそも頭から排除するように――という心理的な圧力を大衆に掛けるものといえるだろう。
日本に暮らしていると、こうした情報をめぐる戦争が社会規模で展開していることのリアリティというのは実感しにくいが、真実をめぐる争いはここまで熾烈化しているのである。
田中氏は次のように述べる。
「日本では非主流のニュースサイトがない。日本語のネットの有名評論サイトのほとんどが、マスコミと変わらぬプロパガンダ垂れ流しだ。だから日本人はマスコミを軽信するしかなく悲惨に低能だが、米国(など英語圏)にはマスコミを凌駕しうる非主流サイトがけっこうあり、これらを読み続ける人々は、ある程度きちんとした世界観を保持しうる。」
まったくそのとおりである。
実際、これほどまでに日本語の報道が劣悪化している状況下においては、英語圏の報道に直接に触れることができないと、同時代において展開している世界の動向を理解することはまず不可能である。
そう断言できるくらいに日本の状況というのは「悲惨」なのである。
ただ、ここで重要なのは、われわれ日本人が重要な情報に接触できずに視野狭窄しているというのは、必ずしも言語能力の欠如だけに起因しているものではないということである。
むしろ、それ以上に重要なのは、あたえられた情報――及び、それにもとづいて形成された社会間・世界観――にたいして、ある程度の懐疑心をもって接しようとする基本的な態度が圧倒的に脆弱であるということである。
そして、それは、換言すれば、異なる立場の視点に立ち発想することに怠惰であるということにも深く関係している。

いうまでもなく、「情報」というものは人間により造られるものであり、そこには必ず作成者の意図が入り込む。
そして、そうした意図というものは、情報を受容する人間の意識を特定の方向に導こうとする意図と形容できるものといえる(それが善意にもとづいたものであれ、悪意にもとづいたものであれ)。
端的に言えば、われわれはみずからの意識が、この社会で生活しているかぎりは、特定の意図による操作や誘導の対象とされていることを自覚する必要があるのである。
社会には、情報の創造に携わる人間がいて、彼等が特定の意図に立脚してそれを届けてきているという想像力が必要なのである。

戦略というものは、基本的に、消費者という「獲物」を捕獲するために、いかに網を張り巡らせるかという発想で描かれるものである。
そのことは、普段 企業において戦略構築作業に従事している人であれば、熟知しているところだろう。
そして、実はそれとまったく同じ類の思惑が情報の創造と発信において働いているのである。
不思議なことに、今日、これほど多数の人々が企業人・商業人として、そうした「狩り」に従事していながら、実は同時に己が狩りの対象(獲物)として位置づけられていることを見過ごしている。
その意味では、今日、われわれに求められているのは、そうした脅威から自己の意識を防衛する護身術であり、防衛術なのである。
そして、それは自己の意識をどの対象に向けるかという実に根本的な行為に責任をもつことにはじまるのである。

 

感想・第55回 東京藝大シンフォニー オーケストラ定期演奏会

第55回 東京藝大シンフォニー オーケストラ定期演奏会

 

数週間前に「この演奏会に行かないと」という虫の知らせがあり、曇り空の中を出かけてきた。
非常に感動した。
これまで長いあいだいろいろなプロのオーケストラの演奏会に脚を運んできたが、これほどまでに感動をしたのは、たぶんはじめてのことではないだろうか(先日、ロンドンで聴いたサイモン・ラトル指揮のロンドン交響楽団の演奏よりも百倍感動した)。
はじめにモーツァルトの協奏曲の導入部の弦合奏が鳴った瞬間、そのあまりの美しさに胸がじんとして涙が流れてきた。
いいオーケストラだなあと素直に思った。
いうまでもなく、舞台に上の演奏家は若い学生の方々だが、普段こうしたところで接するプロの演奏家の存在感とは異なり――陳腐な言葉かもしれないが――実に瑞々しい。

それにしても、東京藝術大学奏楽堂の残響の豊かなこと!!
この豊饒な響きに包まれているだけで幸せになる。
これは間違いなく東京都の名ホールのひとつといえるだろう。

休憩後は、ショスタコーヴィチの交響曲第8番。
古今東西のありとあらゆる交響曲作品の中でも真に突出した傑作のひとつだが、この作品を東京藝大シンフォニー・オーケストラは実にみごとに演奏した。
指揮の高関 健氏も、オーケストラを無理に締めつけることなく、彼等に伸び伸びと演奏をさせ、楽団の可能性を最高度にひきだしていたと思う。
随所で活躍する木管楽器の独奏も素晴らしかったし、また、第1楽章や第3楽章の魅せ場の全協奏は美観を維持したまま圧倒的な音量で鳴り渡り聴衆を圧倒した。
この作品には多数の名演奏の録音があり、これまでにもそれらを随分と聴いてきたが、先日の演奏会では、それらのことを完全に忘れて、ただただ凄い曲が目の前の空間に立ちあらわれるのに圧倒された。
この演奏は、この作曲家の作品の中に息づく真実をあますところなく音化することに成功していたと思う。
個人的には、この作品の最終楽章をどのように理解すればいいのか、これまでほとんどわからず、いつもは半ば聴き流していたのだが、今回の演奏に触れて、この楽章に籠められた作曲家の意図を少し洞察できたような気がする。
それにしても、なんと意地悪な真意を隠した楽章であろう……。
たとえどれほどの悲劇を経験しても、人間という生き物は、しばらく経てば、日常の平穏の中で意識を鈍磨させていき、そうした平穏の中に確実に――しかし姿を変えて――息づいている破壊と抑圧の力にたいしては、幽かな違和感を覚えつつも、無視を決め込んで眠りに落ちていくのである。

今日の演奏会に参加した演奏者の方々は、その全員がプロの演奏家になるわけではないので、このようにしてこの作品を演奏するのは、最初で最後という方々もいるのではないかと思う(この交響曲はまだそれほどひんぱんにとりあげられる作品ではない)。
その意味では、今日の演奏会はまさに彼等にとってこの作品との一期一会の出会いということもできるのだと思うが、そうした文脈が演奏にあたえた影響も少なからずあるのではないかと思う。
演奏というのは、実に不思議なもので、これからもくりかえしてその作品を演奏することを前提としたものと、そうでないものとは、そこに大きなちがいが生まれるように思う。

ところで、日本の芸術大学の学生の方々のオーケストラの演奏会を聴くのは初めてのことなのだが、正直なところ、その技量の高さに驚いた。
これ以上技術が高い必要はないのではないか……
そんな風に思わせるくらいに、みごとなものだった。
このように素晴らしい演奏を聴くと、技術的・技巧的なうまさというものが、ある一定の水準をこえると、ほとんど問題とならないことを実感する。
たとえこれよりもさらに技術的な水準が上がったとしても、それが演奏の芸術性にもたらす効果というのは、それほどないのではないだろうかとさえ思うのである。

 

プロレスと政治

先日、夜中過ぎにTVを点けたら、ちょうどプロレスが放送されていたので、しばらくのあいだ眺めていた。
わたしが小学生のころはプロレスの全盛期で同年代の男子のほとんどが夢中になっていたものだ。
そのころとくらべると最近のものはずいぶんと舞台演出が派手になったが、本質は変わらず、「選手」たちは互いの安全に気を配りながら「技」をかけているし、また、いろいろと大袈裟な表情や仕草をしながら、あたえられた脚本を懸命に演じている。
TVを眺めながらふと思ったのは、「これは政治の世界そのものだな……」ということだ。
総合格闘技が市民権を得て、プロレスは瞬く間にそれが「演劇」であることが誰の目にも明らかになったが、実は、政治の世界を眺めると、ほとんど同じような構造のものが存在していることに気づくことができるだろう。
先日、TPP法案が衆議院で可決されたが、報道を眺めていると、法案が強行採決されたことに民進党の関係者が異議を唱えているということだ。
しかし、そもそも思い起こせば、もともとはTPPは民主党が政権を握っていたときに「平成の開国」などという訳のわからない標語を唱えて言いだされたものである。
変わっていることは、単に立場が反対派になったくらいのことである。
端的に言えば、画面上で展開されるのは、「同じ穴の狢」たちが、そのときにあたえられた役割をその演技力を駆使して演じている「演劇」でしかないのである。
単純に、今 民主党・民進党の関係者にあたえられているのが、しばらくまえとは異なる役割というだけのことなのだろう(プロレスでもそういうことはしばしばあるものだ)。
脚本そのものは、いわゆる「ジャパン・ハンドラー」といわれる合衆国の関係者がとりまとめたものであろうし、また、それを日本の官僚たちが細心の注意をはらいながら関係者に展開したということなのだろう。
そのようにして籠絡された御用学者や報道等が動員されて、世論が醸成され、その文脈の中で大衆は漠然とあたかも真剣な政党間の衝突がおきているかのような印象をあたえられているのだろう。
日本の政治家達も日頃から演技力を鍛えているのだろう、プロレスラーに少しも負けないくらいに、報道陣をまえにして、いろいろな表情で感情表現をして、聴衆を愉しませてくれる。

最も必要なことは、舞台上で格闘をしている役者達に脚本を用意して、演技指導をしているのが誰であり、その真意がどのようなものであるのかということなのだが、それを問う視点が巷にはほとんどない。
そのことが素朴に不思議である。
まあ、考えてみれば、ひと昔前までは、大のおとなが「プロレスは真剣勝負なのか?」と真面目に議論をしていたくらいなので、まだまだしばらくのあいだは、政治という演劇がほんとうのものであるという幻想は解消するようなことはないだろうと思う。

 

山田 洋次監督作品と周防 正行監督作品について

先日、山田 洋次が監督した近年の作品をまとめて鑑賞した。
1990年代後半に『息子』を観て大きな衝撃を受けて以降、その作品の大半を観てきたが、このところなかなか映画をたのしむ時間を確保することができず、少し遠ざかっていた。
『家族はつらいよ』『東京家族』『小さいおうち』『おとうと』『母と暮らせば』の順番で観たのだが、作品の質にむらがあるとはいえ、どれも山田監督の抜群の作家性と職人性を感じさせる素晴しい作品である。
個人的には、『小さいおうち』『東京家族』『家族はつらいよ』がとりわけ気にいった。
逆に、吉永 小百合が主演した『おとうと』と『母と暮らせば』は、鑑賞中にしばしば違和感を覚えさせられ、あまり素直にたのしめなかった。
特に吉永 小百合の演技に半ば生理的な抵抗感を覚えたのだが、もしかしたらこの感覚は吉永 小百合という俳優が自身に寄せられる周りのまなざしにほとんど雁字搦めに絡めとられていることに基因しているのではないかと思う。
正直なところ、この俳優を視ていると、いたたまれない気持ちになってしまい、作品に没入できないのである。
また、山田監督の場合、ときとして臆面もなくみずからの政治的な思想を作品で主張しようとするので、それがしばしば物語の自然な流れを毀してしまうことがある。
しかも、そうした主張が往々にして登場人物の台詞として声高に語られるので、どうしても押しつけがましい印象をあたえてしまうのである。
また、山田氏の信奉する価値観が、いわゆる「戦後民主主義教育」を忠実に踏襲するだけのものであるために――それを独自の視点をとおして批判的に検討した痕跡がまったくない――異なる世代の者にとっては、随分と教条主義に思われてしまうのである。
そして、それに輪を掛けるように、吉永 小百合の存在感が、画面上に思考の停滞を強要するような窒息感をもたらすことになる。
ただ、不思議なもので、こんな風に不満が言いたくなる作品であるにもかかわらず、上記の作品はまぎれもなく傑出した作家による素晴しい作品なのである。
特に『母と暮らせば』は、異様なまでに密度の高い作品で、作品をとおして画面に妖気とでもいうようなエネルギーが充満していて、息苦しいほどである。
こうした感覚は宮崎 駿監督の『崖の上のポニョ』を視たときに覚えたものと少し似ているように思う。
いわゆる商業作品・娯楽作品としては半ば崩壊しているにかかわらず、視聴者はそこに真に“すごい”ものが立ち顕われていることを認識する。
もしかしたら、そこには、宮崎監督の作品がそうであるように、この作品そのものが実質的に「この世」と「あの世」の間に産みだされた作品であることが影響をあたえているのかもしれない。
それは、また、監督の精神そのものが実際にそうした世界と世界の境界にたたずむことができるまでに円熟していることの証なのではないか……とさえ思えるのである。

 

 

周防 正行監督の『終の信託』を鑑賞した。
周防監督といえば、『ファンシイダンス』以来のファンで、近年では、『それでもボクはやってない』という傑作が非常に鮮烈に記憶されている。
しかし、今回観た『終の信託』という作品はいただけない。
小説が原作になっているということだが、いずれにしても、物語を構築するときに一番してはいけないことをしてしまっている。
登場人物の頭を過剰に悪く設定して無理に葛藤や問題を生み出しているのである。
医療従事者であれば、患者との心理的な距離のとりかたについては心得ているであろうし、また、安楽死を希望する患者の声を受けて、それを医療制度の中で適切な方法で叶えてあげるための方法を冷静に検討するのだろうが、この作品では、そうした基本的な能力をそなえていない主人公を設定することで物語を成立させようとしているために、視聴者はしらけてしまうことになる。
作品の後半、主人公を告発する検事が半ば悪役のような存在として登場するが(大沢 たかおの演技がすばらしい)、たしかに検察の強圧的なとりしらべに関する問題提起はなされているが、視聴者はそもそもこうした状況に迂闊に自身を追い込んでしまった主人公に完全に感情移入できないので、なんともいえない不全感を覚えながら、画面を眺めることになる。
また、本来であれば共感を寄せられるべき患者(役所 広司)も非常に社会常識を欠いた人物として登場してきており、結局、後に遺していく家族にみずからの希望を明瞭に説明するという基本的な責任を果たさなかったために、結局、精神的な危機のただなかにある主人公の医師の弱みにつけこむようにして、無理を依頼することになる。

観客というものは、基本的に、平静な意識状態で作品を鑑賞しているために、物語の些細な齟齬や無理を敏感に認識するものである。
それゆえに、作品は、あえて平均以上の知性を発揮して思考・行動をする登場人物を配して構築すべきなのだと思う。