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成人教育の最前線

今日、成人を対象にして一般的に行われているトレイニングのほとんどは、なんらかの「システム」(例:手法・方法・枠組)を紹介し、その習得を支援するためのものである。
たいていの場合は、そうしたトレイニングで参加者の要望に応えることができるのだが――正にそれゆえに、そうした類のトレイニングがひろく受容されている――まだ比率的には少ないが、それよりもひとつ次元の高いトレイニングが求められはじめていることを実感する。
具体的には、あるひとつのシステムを紹介するのではなく、複数のシステムを組み合わせて統合的に用いることで、参加者の課題や問題を解決するための助けをしようとするものである。
実際のところ、たとえば企業組織の選抜者を対象にしたトレイニング等の優秀な人間を対象とする場合、単にシステムを紹介するだけでは参加者の拒絶を招いてしまうことになる(それは、そこで紹介されるシステムがたとえ複数であろうと同じことで、システムが統合されることによって新たな価値が生みだされないといけないのである)。
結局、彼等は既に自律的に勉強するための高い学習能力をそなえており――また、そのために、日常生活の中で様々な工夫を重ねており――わざわざ集合型のトレイニングに来なくてもいいのである。
端的に言えば、そうした類のトレイニングは非効率的なのである。
発達心理学者ロバート・キーガン(Robert Kegan)の用語を用いて説明するならば、自律的思考力を発揮する第4段階の人間にとって、システムを習得することは独力で可能なことなのである。
それよりも、彼等が求めているのは、ひとつのシステムをあてはめるだけでは把握・解決できない課題や問題に対処するためのスキルを高めることである。
そして、それは、とりもなおさず、複数のシステムを統合的に活用するためのスキルなのである。
そうした能力を有するインストラクターがつくる空間の中で探求をすることで、そうした統合的な思考をするとはどういうことなのかを束の間のあいだ体験することが、そのまま彼等の成長衝動を刺激することになる。
そこで彼等は日常の思考の枠組を超えて質的により高い視野をとおして思考することがどういうことなのかを垣間見るのである。
ただ、今日においては、そうした統合的な意識というものは、生きた指導者の支えを借りなければなかなかあじわえないものであるようだ。
巷に流通する大多数の書籍が合理性段階の執筆者により合理性段階の発想や思考を紹介するために書かれたものであるために、それよりも質的に高いレベルの思考に触れようとすると、どうしてもそれ以外の媒体の刺激に触れることが必要となるのである(また、文章という媒体そのものが直線的に展開するものであるために、合理性段階を超えた発想や思考を示すには少々適さないところがある)。
その意味では、今日において成人を対象にした――とりわけ、優秀な層を対象にした――成長支援施策に必要となるのは、参加者が合理性段階のもうひとつ高い段階の意識を体感できるための仕掛を企画者・運営者がいかに用意することができるかといことになるだろう。
もちろん、そうした空間を構築するのは容易なことではない。
また、一対一のセッションにではそれができても、多人数を相手にしたときにそれができるとも限らない。
実際、日本国内の人材育成業界を見渡したとき、果たして何人のトレイナーがその域に達しているかといえば、極少数ということになるだろう。
しかし、今日の社会情勢を眺めると、非常に烈しい速度で既存の世界観が崩れはじめていることは明らかであり、そうした文脈の中では、合理性段階の思考だけでは全く時代に適応できなくなりはじめていることは議論の余地の無いところであろう。
たとえば、今話題を集めている『東芝 原子力敗戦』(大西 康之著・文藝春秋社)という書籍があるが、そこで示されているのは、日本の優秀な政財官の関係者が悉く破綻した虚構の中に埋没し、皮肉にも、卓越した合理的思考力を発揮して着実に、そして、主体的に破滅に向けて突き進んでいる悲劇である。
あまりにも典型的な事例ではあるが、合理性段階の知性は、「利権」と「保身」と「同調圧力」の下では、自己の思考が立脚する「現実」が実は虚構であるかもしれないことに意識を向けることができなくなってしまうのである。
ここに描かれている「敗戦」は、ひとえに日本のエリート層の精神の貧困に起因するものである。そして、こうした敗戦は社会のあらゆるところで発生している。
それは、合理性段階を超える知性を社会の中に全く生み出しえていないことに大きく関わっている。
いわば、「進化」することに失敗していることの直接的な結果なのである。
統合的思考をする能力(ロバート・キーガンの発達理論における第5段階にあたる)を社会の重要な意思決定にたずさわる人々の中に涵養するという点においては、今日、日本は世界でも悲劇的なまでに立ち遅れている。
そして、そうした状況を打開する兆しは全くみえない状況である。
少なくともしばらくのあいだは日本の地盤沈下は止まることなく着実に深刻化していくことだろう。
巷では、「教育改革」の必要性が叫ばれているが、実はそうした声をあげている大人達が、時代の要請を受けて成長・変化していくことができないという、いわば「発達障害」的な状態に集合規模で陥っていることは、ほとんど指摘されない。
われわれが今真に為すべきは、破綻と破滅を次世代に継承しようとしている大人達にたいする教育的支援を強化することなのではないだろうか……。

 

成長の触媒としての「越境」について


今日、児童教育の関係者達は、生徒を受験競争に勝たせることに腐心し、また、人材育成の関係者達は、クライアントである企業人の能力開発を支援することに腐心している。
対象年齢は異なるが、共にあたえられた「ゲーム」の中で生徒が成功できることに意識を閉ざしているのである。
本来、教育とは、そうした時代の「実利的」な要請の呪縛を逃れたところでとりくまれるべきものなのだが、実際のところ、大多数の関係者が「ゲーム」にのめりこんでいるのである。
企業関係者はしばしば今日の教育の問題点を辛辣に指摘するが、何のことはない、所与のゲームの枠組の中で能力を開発にとりくむことしかしないという点においては、両者はあまり変わらないのである。
その意味では、今日、真に必要とされているのは、教育というものを同時代のゲームに従属したものではなく、むしろ、それから人々の意識を解放するものに進化することである。
時代の変遷と共にゲームの内容は変化をする。そして、人々はそうした変化に適応することを求められつづけることになる。
教育が、単に刻々と変わるゲームに適応するための能力を養うためのものに堕しているとすれば、それはその元目的から非常に解離した状態にあるといえる。
そして、そうしたものでありつづける限り、それは個人の尊厳を保証するものではありえない。
結局、それは所与のゲームの中で勝つことにしか興味のない人間――即ち、それは真に思考することができない人間である――を生み出すことにしかならないのだ。

現在、企業社会の人材教育においては、しばしば、越境という言葉が重要概念としてとりあげられている。
終身雇用制を前提として、あるひとつの環境の中に収まっているのではなく、異なる環境の中に積極的に飛び込んでいくことで、自己の視野や発想をひろげ、ひいては人材としての自己の感性や発想や視野を高める・拡げるべきであると言われているのである(そうした努力を重ねれば、いわゆる「創造性」(innovation)を高めることができるはずだと考えられているのである)。
ただ、一般的には、こうしたときに意図されているのは、あくまでも最終的に労働市場における自己の価値を高めることを目的とした越境である。
多様な文脈に参画することをとおして、自己の意識を拡張することに反対する人はいないと思うが、ただ、そうしたとりくみが、結局のところ、企業社会における生産性(performance)を高めるためのものとして位置づけられることには違和感を覚える人もいるだろう。
というのも、そこでは、物理的に多様な文脈に越境していくことが称揚されながらも、精神的には常にあたえられたゲームの中に留まりつづけることが半ば無意識の内に前提とされているために、本来的に「越境」という概念が内包しているダイナミズムが矮小化されてしまっているからである。
物理的な越境は称揚されるが、精神的な越境は実は半ば無視されてしまっているのである。
しかし、とりわけ時代の変わり目においては、われわれには、自己の生きる社会の支配的な論理そのものを対象化する力が求められることになる。
たとえば「経済成長」という概念がこれほど強烈に社会を呪縛している時代というのは、未曾有のものであるが、もしわれわれが真に越境をこころみるのであれば、そうした概念を対象化して、それとは異なる論理にもとづいて社会が営まれえることを探るような経験をしてみてはどうだろうか……?
即ち、自己の存在をとりこんでいるゲームそのものを対象化して、あらためて自己の実存そのものについて意識を向けることができるような越境をしてみるべきではないだろうか……と思うのである。
平たい言葉で言えば、それは「非日常」を求めるということである。
日常生活を支配している価値観や世界観を気づかせてくれるような状況に参画してみるということである。
そうした体験を積極的に求めることができるようになることが、今日の日本人の心に蔓延しているといわれる「閉塞感」を打破することにも寄与すると思うのだが……。

「シン・ゴジラ」 ‐ 二つの合理性

先日、「シン・ゴジラ」をDVDで再観賞したのだが、あらためて傑出した作品だと思った。
ただ、ひとつどうしても気になるのは、日本人俳優の英語が酷いことで、もちろん、ある程度は練習はしているのだろうが、総じて恥ずかしいレベルである(外国人俳優の英語は、日本人にも聞きとれるように意識しているのだろうか、とても聞きやすい)。特に石原 さとみは酷く、彼女が登場すると一気に画面の現実感と緊迫感が失われ、そこだけ別のコメディ映画のような雰囲気になる。
まあ、それはともあれ、「シン・ゴジラ」の面白さというのは、ひとえに「官僚」の行動論理を的確に描いていることにある。彼等は非常に優秀であるが、その優秀さは常に他者にあたえられた目的を達成するためにしか活用されないという特性を備えている――あるいは、自己の立場に付随する目的を達成することにしか用いられない。全ての会議はそうした所与の目的を「確認」「承認」するためのものであり、 それよりも踏み込んだ議論は行われない。
こうした文化を維持するための重要な約束が、「想定外」のことについては考慮しないという暗黙の合意を全ての関係者がしておくことである。そうした議論を許してしまうと、ほんとうに議論をしなければならなくなるし、目的そのものについても問い直さなければならなくなる。
作品の中では、ただひとり主人公だけがそうした「約束」を破る勇気を持ち合わせた人物として描かれるが、正にそれがこの人物を主人公たらしめているのである。また、それは単に周りの空気に抗うという勇気を持ち合わせているだけでなく、そうした状況においても、「前提を疑う」というより高い認知能力を駆使することができるという真に高い認知能力を発揮できるという認知的な特徴に支えられてもいる。発達心理学のロバート・キーガン(Robert Kegan)が述べるように、個人の認知構造の成熟度とは、結局のところ、周囲の支援が無い過酷な状況においても発揮されるものをみて測定されるべきものなのである。
その意味では、「シン・ゴジラ」という作品は、二つの異なる認知構造間の衝突を描く作品としてもみれるだろう。即ち、同じ合理性段階の認知構造でも、所与の目的の実現にたいして盲目的に従属する合理性と所与の目的に呪縛されることなくそうした前提条件を脇に置いて、現実と対峙できる合理性のあいだの衝突なのである。
ちなみに、前者に関しては、Max HorkheimerとTheodor W. Adornoが“Dialectic of Enlightenment”の中で詳述している。そうした精神は、第二次世界大戦中には全体主義の温床となり、そして、現代においては「想定外」にたいしては意識を閉ざし、ひたすらにあたえられた目的に自己の精神を従属させる思考麻痺を蔓延させている。
日本の集合意識は半世紀前とくらべて、少しも進化はしていないのである。

 

精神の檻

発達心理学者のZachary SteinがBLOGの中で、今日の社会的な危機の中心にあるのは、社会の意思決定の中心にいる高学歴者の能力的な限界であるという指摘をしている(http://www.zakstein.org/mediations-during-an-educational-crisis/)。端的に言えば、彼等が高等教育の中で授けられる訓練そのものが、社会を舵取りしていくうえで、決定的に不十分なものに成り果てているのである。
日本でも、いわゆる「エリート」といわれる人間達が、その精神に深刻な倒錯されて抱え込まされていることが、安冨 歩氏が指摘している。
教育は一歩間違うと「調教」に堕することになるが、今日、世界規模で露呈しているのは、人類の教育が――とりわけ、上層部において――その語源に息づく「解放」(liberate)するものではなく、むしろ、その間逆を推し進めるものに変質しているのである。
実際、優秀といわれる人間であるほど、それまでに蓄積してきた知識や枠組の檻の中に閉じ込められてしまってしまい、それを揺さぶりかねない知識や思想に耳を閉ざしてしまう(あるいは、非常に攻撃的・批判的になる)。
少し戯画化していえば、彼等は非常に熱心な日本経済新聞の愛読者ではあるが、そこに掲載されない情報は「虚偽情報」(“fake news”)としてしか認識されないのである。
自己の認識や思考を支えている前提や基盤そのものを防衛しようとするのではなく、それが往々にして自己の精神を幽閉する檻になることを自覚して、常にそこから自己を解放しようとこころみようとする態度こそが教育がわれわれに授けるべきものなのだろうが、皮肉にも、長年にわたり「高い」レベルの教育を受けてきた人間ほど、それができなくなる傾向があるようである。
人材育成の世界では、こうした批判的な能力を“Double Loop Learning”と形容して、主として企業研修の世界でひろく紹介されているが、ただ、真にDouble Loop Learningを実践するということは、われわれの日々の経済活動を下支えしている諸々の前提や基盤にある価値観等にたいしても批判的になるということである。
その意味では、Double Loop Learningが実践されているとは間違ってもいえないのである(Double Loop Learningについてトレイニングを提供しているインストラクター自身がそれをできていない)。
上記の記事の中でSteinが主張するように、21世紀において求められているのは、これまでとは異なる優秀さであり、また、それを把握するための測りである。
自己の精神の檻から自己を解放するという点においては、人類は概ね劣等性であり、また、とりわけ「エリート」は圧倒的な能力不足である。

第15回東京音楽コンクール 本選 ピアノ部門

東京文化会館で開催された15回東京音楽コンクール 本選 ピアノ部門を鑑賞してきた。

いわゆるコンクールを聴きにいくのは初めてのことだが、なかなか興味深い体験であった。

今日、われわれはCD等をとおしてあたりまえのように優れた演奏家の演奏に触れることができるが、こうした演奏を聴くと、そうした演奏家達の凄さにあらためて気づかされる。

1演奏者はラフマニノフのピアノ協奏曲第2番を異常に遅いテンポで弾いたが、そのテンポを必然的なものとするものが演奏者の内に感じられないために、総じてもたれる演奏に思われた。

逆に、同じ曲を弾いた第4演奏者は、強靭な打鍵を駆使して早めのいいテンポで弾いたが、あくまでも運動神経だの善さだけが魅力の演奏で、あまり芸術性は感じられなかった。

個人的には、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番を弾いた第2演奏者とラフマニノフの狂詩曲を惹いた第3演奏者に才能を感じた。共に東京藝術大学の在学生だが、彼等の演奏を聴いていつも思うのは、実に舞台慣れしているということである。そして、また、彼等がこれまでに受けて教育の質の高さが自然と伝わってくることである。二人の演奏には、作品をとおして自己を表現しようとする意志を感じることができた。

 

協奏曲の場合には、作品のレベルにまで演奏者が自己を高めていないと、それが瞬く間に露呈してしまうところがある。そこには、こうした有名曲を何度も演奏して作品を知り尽くしているオーケストラの存在があるのだろう。独奏者が彼等のレベルに到達していないと、そのことが露わにされてしまうのである。その意味では、協奏曲というものは、独奏者にとっては、恐いものなのだなあと痛感させられた。

 

梅田 俊明の指揮する日本フィルハーモニー管弦楽団の良心的な仕事にも感心した。終焉の数分後、楽屋口の前を通りかかると、急ぎ足で帰宅する楽団員の姿が目にはいったが、4人のピアニストはともかく、少なくとも彼等には、今日の演奏会は無数の仕事のひとつなのだ。そんな彼等の率直な心に触れたようで、何とも微笑ましく思った。

 

東京文化会館は色気の無い演奏会場で、会場の音響が演奏を高めてくれることはないので、正直、そうした意味では、愛着を抱きにくい会場である。

 

尚、正式な審査結果は下記のとおり:

 

1位:ノ・ヒソン

2位:原田 莉奈

3位:丸山 晟民

入選:太田 糸音

聴衆賞:ノ・ヒソン

東大話法とサイコパス

今、サイコパスに関する心理学書に目を通しているのだが、そこで思い出されたのは、安冨 歩氏の「東大話法」という概念であった。

サイコパシーそのものは心理的な病理であるが、Andrew M Lobaczewskiが「Political Ponerology」の中で述べているように、サイコパス的な人格を持つ人々は、社会や組織の中で権力を握ると、自己のそうした人格に合わせて社会や組織を再構成しようとする。

結果として、いわゆる健常人といわれる人達も、そこに生きていると、自然とサイコパス的な行動をするようになるのである。

最も顕著な事例はナチス・ドイツであろう。極少数の凶悪な指導者の支配下において再構成された社会においては、健常者達も徐々に捕食的な行動論理に呑みこまれていくのである。

そこに生きる個人を否応なしに呑みこんでいくこうした共同体のダイナミクスに関しては、たとえばロバート・ジェイ・リフトン(Robert Jay Lifton)The Nazi Doctors等の書籍の中で詳細に分析をしているが、安冨氏の「東大話法」という概念は、それと同じように、有用な洞察をあたえてくれるように思われるのである。

安冨氏自身は「東大話法」の源にあるものは「立場主義」と主張しているが、個人的には、そこにはそうした言葉ではとらえきれないものがあるように思う。

端的に言えば、そこにあるのは、人間としての「良心」(conscience)を麻痺させることを意図する純粋な「破壊衝動」なのではないだろうかと思うのである。

 

『良心をもたない人たち』(The Sociopath Next Door) の著者・マーサ・スタウト(Martha Stout)が解説するように、人間には良心が実に抜きがたく息づいているが、組織や社会が、その集団的な目的を達成するうえでその存在が邪魔になるというときには、それが健全に働くのを阻害する必要がある。

たとえば、Stoutは、戦場において国家が個人(兵士)に殺人を求めるときには、良心が発動することのないように、「権威」(authority)の影響を用いて対象を心理的に操作する必要があると述べているが、同時に、そのためには、権威的存在が物理的に兵士の近くにいる必要があるという。

この条件が満たされないと、しばしば、兵士は良心を回復して敵兵を殺すことを回避しようとするという。

その意味では、権威の影響というのは比較的に限定的であり、もし組織や社会が個人を持続的に操作しようとするのであれば、個人が半ば主体的に自己の良心を恒常的に阻害・麻痺するように仕向けなければならない。

そのためには、長期にわたる「訓練=調教」が必要となるのだろうが、それが完成されたときにそこに先鋭的に発揮される思考こそが、安冨氏が「東大話法」と形容しているものなのだろう。

それこそが個人に積極的に自己の良心を封殺することを可能とするのである。

その本質は実質的にサイコパスのそれに近似したものだと思うが、ただそれが良心を持つ人々を対象に「開発」されたものであるがゆえに、高い汎用性をそなえている。

「東大話法」という概念の価値とは、今日、多数の健常者の中に密かに侵入している「狂気」を浮き彫りにするものであるところにあるのではないだろうか……

発達と「ファシズム」

先日、Harvard Graduate School of Educationのカート・フィッシャー(Kurt Fischer)が提唱するダイナミック・スキル理論(Dynamic Skill Theory)に関する本格的な解説書が日本語ではじめて出版された。

人間の発達に関する研究は日進月歩で進んでいるが、残念ながら、日本では、その豊饒な成果を紹介する書籍がほとんど出版されない。

今回 出版された加藤 洋平さんの著書は、そうした意味でも、非常に価値のあるものだと思う。

実際のところ、先日 発達心理学の関係者とやりとりをしたときに、関連書籍の売り上げがあまり期待できないために、この領域では出版活動が低調であるという話を聞いたが、実際には、内容的に優れた未翻訳の文献が多数あるので、そうしたものが少しでも日本人の目に触れるといいと思う。

 

ただし、今後、発達というものに関して研究が進展していくと、そうした知見をいかに倫理的に利用するかという視点が非常に重要になる。

そうした研究をとおして、個人の能力の開発を支援するための知見が蓄積されていくのは結構なことだが、そもそもいかなる目的のもとに能力の開発をするのかという根本的な問題についてわれわれが真剣に問おうとしなければ、それは容易に悪用されてしまうことになる。

少なくとも、単純に発達することを善としてとらえ、ひたすらに能力開発を推進しようとする発想は、非常に危険なものといえるだろう。

また、ロバート・キーガン(Robert Kegan)が提唱したConstructive Developmental Theoryが人格の発達というものを倫理性の発達と関連づけてとらえようとしたのにたいして、ダイナミック・スキル理論は、ある意味では、人格という概念そのものを解体して、人間を単純な「スキル」の集積としてとらえてしまうことを考慮すると、そうした人間観に立脚して、ひたすら「スキル」の発達を推進するための方法論だけが独り歩きするようになることにわれわれは警戒するべきであろう。

倫理的な問題が完全に蔑ろにされる危険性があるからである。

実際、フィッシャーの共同研究者達が創設したLectica, Incの中心人物として活躍したザッカリー・スタイン(Zachary Stein)の論文やブログを読むと、こうした問いが積極的に投げかけられている。

たとえば、スタインは、今日「レジリエンス」(resilience)というものが重要な能力として注目されて、さまざまな「測定法」や「育成法」が提唱されているが、そもそもそのような能力の鍛錬が必要とされる社会や時代というものが問題であることには、ほとんど批判的な意識が向いていないのではないかと述べている。

そのような能力を必死に高めないと、生きていくことが難しいという社会そのものが健全なのか?――という問い掛けをしないままに、単に求められる能力を高めることに懸命になる「研究者」や「教育者」の姿勢を問うているのである。

そこにあるのは、たとえば思想家のケン・ウィルバー(Ken Wilber)が指摘するように、外的環境に適応することを――そして、たくみに適応することで勝利者になることを――無批判に奨励する深刻な病理である。

代表作『進化の構造』(Sex, Ecology, Spirituality)の中でウィルバーは、こうした発想が人間存在が内包する尊厳(dignity)を破壊することを熾烈な口調で批判しているが(具体的には、ウィルバーは、こうした発想のことを「システムへの従属を強要するファシズム」と形容している)、非常に皮肉なことに、現代においては、そうした発想が、往々にして、人間の成長を促進するという大義のもとに正当化されることだろう。

そこに適応することは果たして人間の尊厳に守ることにつながるのか? という問いを発しないまま、あまりにも無批判に同時代の現実を受容してしまうのである。

もちろん、本来的には、そうした批判精神を発揮しえることこそが、人格的な成熟の重要な証であるべきなのだろうが、実際には、能力というものが、人間の人格そのものからますます切り離されたものとして認識されるようになるなかで、こうした危険性は高まることになるだろう。

街の書店には、「世界のエリートが実践している……」と題された自己啓発系の書籍が無数に並んでいる。

いうまでもなく、ここでいう「エリート」とは現代社会の顕在競争の中で勝利を収めた者達のことであるが、結局のところ、それらの書籍に息づいているのは、そうした勝者のようになるために能力を高めることを人間としての「成長」や「発達」することと同一視する発想なのである。

ウィルバーが批判する「ファシズム」が、最も端的に具現化している事例といえるだろう。

いずれにしても、「発達」という概念は、こうした安易な実利主義と結びつきやすい側面を内包しており、その実用にたずさわる関係者はくれぐれもその誘惑に絡めとられることのないように注意をすべきであろう。

 

新文芸座の熊井啓監督作品特集

池袋の新文芸座で熊井 啓監督作品を特集していたので、日程を調整して6作品を観賞してきた。

個人的には、熊井監督の社会派としての力量が発揮された「帝銀事件」(1964)・「日本列島」(1965)・「謀殺 下山事件」(1981)に鮮烈な印象をあたえられた(今回、他に鑑賞したのは、「地の群れ」(1970年)・「深い河」(1995年)・「愛する」(1997年))。

端的に言えば、これらの作品は、日本が実質的に合衆国の支配下にあることを告発する作品といえるが、こうした視点を商業映画が持ち得た時代が存在したことが新鮮であったし、また、本質的には何も状況が変わっていないにもかかわらず、こうした視点で社会を視ることができなくなってしまった現代の作家と聴衆の鈍感と怠慢を突きつけられる想いだった。

特に「日本列島」では、CIAが謀略活動の資金源として世界規模の麻薬取引に関与していることが描かれるが、こうしたことが調査報道で本格的に暴露されるようになるのは、それから数十年後のことである(例:Gary WebbThe Dark Alliance)。

熊井監督の何という先見の明であろうか……

近年では、日本語でも比較的にメインストリームに近いところで、たとえば矢部 宏治氏等の調査報道の関係者により、隠然と維持される合衆国による日本の支配体制に関する情報を発信されるようになっているが、これらの作品が制作された時代とくらべて、そうした体制は表面的には認識しにくいものに変わっているために、大衆もこうした問題にたいする関心を失いがちで、今日においては、たぶん熊井監督のようなアプローチは商業的には成功しないだろう。

こうした社会問題をとりあつかった作品を「たのしむ」ことができるためには、それなりの基礎知識が必要だろうし、それ以上に社会の支配構造というものがどのように機能するのかということについて、日常的にある程度目にしていないと、現実感を伴って作品を理解することができないだろう。

情報革命の恩恵を受けて、今日、情報はふんだんに流通するようになっているが、それを受容する側にある一般の人々は、それを現実と地続きのものとして理解するだけの経験も感覚も喪失してしまっているのである。

今日、「社会派」が直面する困難の一端はここにあるといえる。

いずれにしても、こうした問題にたいする無関心というのは、餌付けされているエリートと呼ばれる層ほど顕著で、熊井監督の作品の中でも彼等が自己の立場や責任に「殉じる」ことで、平気で同胞を裏切る様子が描かれる。

Harvard Graduate School of Educationの発達心理学者・Zachary Steinは、「今日の教育の最大の問題は、正に高等教育を受けた人々が――即ち、エリートとして社会の中で中心的な役割を担う人々が――社会的な課題や問題にたいして悉く誤った判断や対処をしているところにある」(即ち、現代社会の中でこれらの人々が真に機能することができるように、必要な教育を提供できていないということ)と喝破しているが、こうした作品を観ても、そうした問題がそのまま当てはまることを痛感させられる( http://www.zakstein.org/mediations-during-an-educational-crisis/ )。

 

尚、「深い河」であるが、約10数年振りに観たのだが(前回はサン・フランシスコのVogue Theaterで観た)、少し時間が経つと、自分が感動するところが 随分と違うことに気づかされる。

今回は秋吉 久美子の演技にとりわけ感動した。そして、また、この登場人物と奥田 瑛二が演じる大津という登場人物の間に芽生える不思議な「愛」の姿に非常に興味を抱かされた。

大津の生き方は、世界を裏側からみつめ、あらゆる価値観を逆転させたところ成立する自由さと真摯さにもとづいたものだといえるが、そこに密かな憧れを抱く主人公の姿が実に「素直」で、とても魅かれるのだ。

同時上映の「愛する」は、この監督の不器用さが悪いかたちで出た作品で、正直なところ観るのが辛いところがある。

主人公を演じる酒井 美紀の演技も稚拙で、画面を眺めていると気恥ずかしくなってくる。

また、あからさまにプロパガンダ的な要素もあり、これは忘れ去られる運命にある作品だと思う。

著書紹介 : 加藤 洋平著 『成人発達理論による能力の成長:ダイナミックスキル理論の実践的活用法』

著書紹介

 

加藤 洋平著

『成人発達理論による能力の成長:ダイナミックスキル理論の実践的活用法』

(日本能率協会マネジメントセンター)

 

鈴木 規夫

インテグラル・ジャパン代表

 

現在、オランダのフローニンゲン大学で複雑性科学と発達科学を架橋する研究に従事している加藤 洋平さんが、非常に興味深い著書を出版された。今回の著作では、加藤さんはHarvard Graduate School of Educationの研究者として活躍したカート・フィッシャー(Kurt Fischer)のダイナミック・スキル理論(dynamic skill theory)の概要を一般の読者に向けて平易な言葉で紹介している。日本では、まだほとんど認知されていない理論であるが、既に合衆国では研究者と実践者の共同作業をとおして優れた研究成果が生み出されはじめている。加藤さんは、そうした最新の成果の要点を、内容のレベルを落とすことなく、幅ひろい読者層に向けて紹介している。発達という現象に関心をいだく世の人々にたいする真に貴重な貢献といえるだろう。

さて、この理論は、同じHarvard Graduate School of Educationの発達心理学者ロバード・キーガン(Robert Kegan)の構成主義的発達心理学(constructive developmental psychology)の成果を踏まえながら、さらにその限界を批判的にのりこえ、人間の能力が発揮される際に不可避的にあらわれることになる変動性と文脈依存性に関してきめ細かに言及しようとするものである。その意味では、日々の実務・実践の領域においてわれわれが経験することになる諸現象の複雑性を理解し、また、多様な課題に対処していくうえで、キーガンの理論以上に有用性の高いものであるといえるだろう。

本書で紹介されるダイナミック・スキル理論の特徴を簡潔にまとめると、人間の発達を「変動性」「文脈依存性」「発達の網」という3つのアイデアを中心概念として位置づけてとらえようとするものであるといえる。

また、そこには、たとえばロバード・キーガンが「意味構築構造」(meaning making structure)という言葉で示すような個人の「意識」や「人格」の重心といえる構造や段階が存在するのでなく、そのときの課題や状況に応じて異なる能力(「スキル」)が異なるレベルで発揮されるに過ぎないという動的な――そして、ある意味では、あまりにも皮相にも思える――発想が息づいている。その意味では、これまでにロバード・キーガンやケン・ウィルバーの書籍をとおして発達理論に触れてきた読者には、人間の発達というものが、根本的に異なる発想にもとづいてとらえられているので、大きな発想の転換が求められるところもあるだろう。

今後、これらの異なる「思想」に立脚した理論間の対話を心待ちにしたいところであるが、ここでは簡単に上記のダイナミック・スキル理論の中心概念について、少し解説してみたい。

 

変動性

 

変動性とは、人間の能力というものが、常に一定のレベルで発揮されるのではなく、さまざまな条件の影響のもと、異なるレベルで発揮されるものであることを示す概念である。

たとえば、これまでにスポーツにとりくんだ経験のあるひとであれば、人間のパフォーマンスというものが常に上下動していることを経験的に認識している。昨日できたことが今日はできないというようなことは、日常茶飯事である。また、ときには、同じ日の中でも、練習相手や練習環境が変わるだけで、パフォーマンスが大きく変化することもある。

このように、人間の能力とは――少なくとも短期的には――激しく変動をしているものなのである。そのことを軽視・無視して、単純に人間の発達というものをひとつひとつ段階を着実に昇っていくプロセスであるととらえるのは、あまりにも単調な人間観を奨励することにつながるだけでなく、実際の能力開発の現場においては、関係者の認識を歪ませ、その行動を倒錯させることになるだろう(たとえば、パフォーマンスの停滞を発達の過程上の自然な状態のとしてとらえるのではなく、本人の「遣る気」の欠如として解釈することで、指導者が無用な叱責をしてしまうことになる)。

もちろん、「重心」という概念にも、こうした上下動の存在を許容する余地が残されているが、実際には、そうした上下動は例外的な現象として片付けられてしまうため、変動性の中に発達の重要な鍵が隠されていることが蔑ろにされてしまうことになる。

たとえば、長い目で眺めると、短期的な「停滞」や「退行」が能力の開発のプロセスにおいては、重要な役割を担うにもかかわらず――例:そうした状態に転落したところから、あらためて訓練を重ねて、状態を高めることで、能力が強化され安定的に発揮することが可能となる――重心という概念に縛られてしまうと、そうしたイベントを発達を促進する契機として掌握し損なってしまうのである。

そうした意味でも、この変動性を中心概念のひとつとして位置づけて、人間の発達について探求しようとするダイナミック・スキル理論の発想は、しばしば「否定的」なものとして解釈される現象を「肯定的」なものとして再認識するための枠組を提供してくれるのである。

 

文脈依存性

 

上記のように、人間の能力は常に変動しているが、それにとりわけ大きな影響を及ぼすのが、文脈(context)である。文脈とは、その能力を発揮するときに、われわれをとりまいている空間や状況と理解することができるだろう。

たとえば、スポーツ選手であれば、天候や標高、道具や設備、あるいは、監督やコーチ等の関係者の思想や態度をはじめとする、競技に関わる諸条件にパフォーマンスが影響されることを経験していることだろう。集団競技であれば、仲間の状態の微妙な変化によりチームとしてのパフォーマンスが上下動することを経験しているし、また、指導者の指示や指導が的確であるかどうかということが、チームの士気や連携に決定的な影響をもたらしえることを認識している。あるいは、企業人であれば、同じ交渉術を駆使していても、その対話が日本語空間で行われるのか、英語空間で行われるのかにより、パフォーマンスが非常に異なるものになることは、日常的に経験しているはずである。

このように、われわれの能力は常に何等かの文脈の中で発揮されるものであり、その影響を受けて、高いレベルで発揮される(optimal level)こともあれば、低いレベルで発揮される(functional level)こともある。

このため、能力開発においては、文脈を意識的に変えることが非常に重要になる。常に同じ文脈の中で訓練をするだけでなく、たとえば、練習相手を変えてみたり、練習環境を変えてみたり、あるいは、課題の難易度を変えてみたりして、異なる刺激や負荷を自身に課してみることで、多様な文脈に対応できる柔軟、且つ、堅牢な能力の獲得が可能となるのである。

実際、われわれが生きる世界は、「道場」や「教室」と異なり、恒常的に大きく変化している。とりわけ、そうした変化の速度そのものが増しているといわれる この時代においては、われわれの能力は急速に陳腐化する可能性にさらされている。当然のことながら、こうした時代的な条件のもとにおいては、われわれは自己の能力を、固定的な文脈を前提としたものではなく、恒常的に変化する文脈を想定して鍛錬にとりくむ必要が生まれる。即ち、能力開発にとりくむにあたり、われわれは常に文脈の変動というものを現実の本質にあるものとしてとらえて、鍛錬をしていく必要があるのである。そのことを忘れた瞬間、われわれの実践は固定的な世界という虚構を前提とした誤ったものに堕していくことになる。

 

「発達の網」

 

周知のように、「多重知性」(Multiple Intelligences)という言葉がひろく認知されるようになったのは、ハワード・ガードナー(Howard Gardner)の功績によるところが大きい。人間には多様な知性があり、それらはそれぞれ自律的に発達・発揮されるものであるという主張は、特定の知性――及び、それを測定する尺度――にもとづいて人間の成熟度を把握しようとする発想の危険性に警鐘を鳴らした(例:IQを絶対化する発想の危険性)。

しかし、多重知性の研究は、人間が発揮する知性が実に多様にあることを示したものの、それらの知性が相互にどのような関係にあるのかということに関しては――少なくとも筆者の認識している限りでは――それほど突っ込んだ研究はしていない。

巷では、「クロス・トレイニング」という言葉に象徴されるように、複数の異なる領域の訓練に並行的にとりくむことを重視しようとする機運は着実に高まっているが、実際に、領域間にどのような相補的な関係性が成立しているのかということに関する研究はまだそれほど存在していないようである。

ダイナミック・スキル理論の真に重要な貢献のひとつは、正にここにあるといえると思う。即ち、人間の発達というものを本質的に多様な能力が相互に絡みあいながら展開していくプロセスとしてとらえることを可能としているのである。発達とは、自律的に存在する「線」(line)として想起されるべきものではなく、あたかも蜘蛛の巣のように四方八方に伸びる糸が交差して織り上げられる「網」(web)として把握されるべきものなのである。

実際、われわれが日常生活の中で課題に対応するとき、ひとつの能力を発揮して対応するようなことはほとんどない。

たとえば、組織人として、企画に関する社内関係者の承認を得ようとするときに、われわれには、その企画に関係する関係者の意見や要望を想像する能力(視点取得能力)が求められるし、また、その企画の意義や価値、あるいは、それが組織の戦略と整合性をそなえたものであることについて説得力のある説明をする能力(合理的な思考力と主張力)が求められるし、さらには、それが現存資源で現実的に実現できるものであることを的確に計算する能力(計画能力)が求められる。もちろん、実際に関係者と対話をするときに、彼等の情緒的な側面にも配慮をして的確に関係性を築くことも必要とされる(共感力と傾聴力)。くわえて、あらためて言うまでもないが、そもそも説得力のある提案をとりまとめるためには、関連領域に関する豊富な知識や洞察が必要であるし、それらを素材として活用して物語性と整合性のある物語を構築できる必要がある(関連領域に関して土地勘がないときには、たとえどれほど優れた共感力や傾聴力や主張力があっても、責任を果たすことができない)。

このように、実際の日常のほとんどの活動において、われわれは実に多様な能力を統合的に活用しているのである。

こうしたことを考慮すると、われわれの能力とは常に具体的な文脈の中であたえられる具体的な課題にたいして発揮されるのであり、そうした文脈から切り離して人間の能力のひとつひとつについて云々しても、あまり意味はないといえるだろう。むしろ、われわれが必要としているのは、世界に存在する無数の文脈の中で、それぞれの要求に応じて、複数の能力を臨機応変に組み合わせて発揮する人間の動的(dynamic)な生態そのものを解明することなのである。そして、ダイナミック・スキル理論の意図するのは、正にそこにあるのである。

 

 

その革新的な価値にもかかわらず、日本では、これまでダイナミック・スキル理論に関してほとんど紹介されることがなかった。そうした中で、今回、加藤 洋平氏による入門書が出版されたことには、非常に大きな価値がある。また、本書は、単なる入門書ではなく、中級者〜上級者にも読み堪えのある充実した内容になっている。とりわけ、営利・非営利を問わず組織の現場において成人の成長支援にとりくんでいる方々には、ダイナミック・スキル理論の知見は、重要な疑問を解くための貴重な示唆と洞察をもたらしてくれるはずである。

また、各章には、ダイナミック・スキル理論の知見を実際の実践や訓練に活かすための方法が豊富に紹介されている。読者の方々には、それらを日々の現場で活用してみることで、ダイナミック・スキル理論の可能性を御自身の手で確認していただきたいと思う。

雑感 - 『君の名は』・演奏会

先日、ようやく新海 誠監督の『君の名は』を観ることができた。

素直に感動した。そして、この作品がひとつの社会現象になったことに納得感を抱いた。
端的に言えば、作品は現代人の等身大の霊性(spirituality)を見事に描いていると思う。
自己の存在を意味づけるためのコスモロジーを示してくれているといえるだろう。
周知のように、現代社会においては、われわれの存在を根源的なかたちで意味づけてくれる社会的・文化的な資産が半ば完全に失われてしまっている。
たとえば、作品の中でも示されているように、主人公達の日常を占める活動(受験勉強や就職活動)は、われわれがこの世界に生まれてきたことに根源的なかたちで意義や価値をあたえてくれるものではない。
つまり、われわれの「魂」や「霊」といわれる領域に全く関係のない殺伐とした営みによって、われわれの日常は占められているのである。
そうした状況は、都会であれ、田舎であれ、ほとんど変わることはない(気を紛らわすために用意されている装置が異なるだけである)。
現代社会の特徴をあらわす言葉として、しばしば「閉塞感」という言葉が挙げられるが、その本質的なものとは、このように時空を超えた領域や文脈にたいして半ば完全に意識を閉ざしている現代社会の根源的な貧困に起因するものとはいえないだろうか……。
大多数の識者は、そうした閉塞感を「打破」するために、これまでよりもさらに懸命に日々の経済活動に邁進するように人々を鼓舞するが、それは、決してわれわれを救済してくれない表層的な領域に人々を駆り立てることでしかない。
もう少し懸命に努力をすれば、現代の不毛な世界は再び意味や意義を湛えたものに変貌するはずだ――そんな的外れの主張の暴力にわれわれは恒常的に曝されているのである。
アメリカの思想家・ケン・ウィルバー(Ken Wilber)は、そうした発想を「フラットランド」(表層主義)と名付けて、「そうした倒錯した発想は、われわれに底の浅い水溜りに頭から飛び込むことを奨励している」と批判している。
そうした狂気に恒常的に囲まれていれば、精神の羅針盤に混乱を来すことになるのは当然のことだろう。
こうしたことを考えると、この作品が、あたかも清涼剤のように、われわれ現代人の精神の深層に働く羅針盤を回復させてくれるような感動と洞察をあたえてくれるものとして受容されたのは、自然なことだと思う。
こうした作品を観ると、あらためて、「ファンタジーは最高の社会批判となりえるのだ」というミヒャエル・エンデの言葉を思い出される。(6月21日)

 

 

ロンドンのRoyal College of Music(RCM)の在学生のオーケストラ・RCM Symphony Orchestraの演奏会に訪れた。
夕刻にCovent Gardenで遅い昼食を摂り、その後Tate Modernに立ち寄り、そこから地下鉄でSouth Kensingtonまで移動して、RCMに徒歩で向かった。
演奏されたのは、ドヴォルジャークの「チェロ協奏曲」とバルトークの「管弦楽のための協奏曲」、そして、リゲティの「Lontano」である。

RCMは、有名なRoyal Albert Hallの目の前にある実にこぢんまりとした学校だが、錚々たる著名音楽家を輩出している(後で気づいたのだが、敬愛する作曲家・James Hornerも在学していた)。
会場のAmaryllis Fleming Concert Hallは、昔の体育館のようで、演奏会を開催するときには、床にパイプ椅子を並べて体裁を整えているような粗末な施設だが――ただし、天井に透明の反響板が設えてある――音響は豊かである(これにくらべると、日本の音楽大学の施設の充実していること!!)。
演奏の素晴しさもあり、冒頭のドヴォルジャークの協奏曲の演奏が開始されたときには、その弦の響きの美しさに思わず涙ぐんでしまった。
ただし、バルトークの作品のような大編成の作品には、会場が小さ過ぎて、音が飽和してしまい、どのような音楽なのか解らなくなってしまう。
くわえて、当日は、バルトークに関しては、金管が随分と荒れており、それもそのことに貢献していたようだ。
この日の白眉は、ドヴォルジャークのチェロ協奏曲であった。
もしかしたらこの作品を生で聴くのは初めてかもしれないが、あらためてこの作曲家の偉大さをおしえられた。
そして、この作品が古今東西のチェロ協奏曲の王者と言われることに納得した。
作品を貫くのは郷愁だが、それは、換言すれば、年齢を重ねて、自己がとりかえしのつかないものを抱えた存在であることを認識するときに生まれる後悔の念ともいえるだろう。
そして、作品をひときわ魅力的なものにしているのは、そうした想いを微笑みと共に超克していこうとする意志である。
それは、世界にたいする根源的な信頼とでもいえるものである。
RCM Symphony Orchestraの演奏は、こうした作品の魅力をあますところなく表現していた。
そして、こうしたことを、これから将来に向けて羽ばたいていこうとする若い青年演奏家達におしえてもらうというのも、なんとも不思議な感じである。
感謝である。(6月30日)

 

 

東京オペラシティで国立音楽大学の学生オーケストラによるメシアンの「トゥーランガリア交響曲」を聴いた

なにぶん帰国の翌日で時差呆けの状態なので体調的にキツかったのだが、こうしたときでないと、こういう作品に触れることもできないので――それほどひんぱんに演奏会でとりあげる作品ではない――心待ちにしていた。
演奏は実に素晴らしいものだった。
実に不思議な音楽である。
個人的には、あたかも鉱物の響きで構成された作品というような印象をあたえられる。
正直なところ、構成的に随分と冗長なところのある作品だと思うのだが、忍耐強く耳を傾けていると、不協和音がこの世の清濁併せ飲んだ美として心の中に鳴り響いてくる。
また、一聴するとひどく拙いように聞こえる旋律が深い叡智を蔵した旋律として響いてくる。

昨年の暮れより、音楽大学主催の演奏会に脚を運ぶようにしているのだが、在学生の演奏には独特の魅力がある。
たとえば、秋頃に聴いた東京藝術大学の演奏会などは、その直前にロンドンで聴いたサイモン・ラトル率いるロンドン交響楽団の演奏会より何倍もの感動をあたえられた。
それ以降、その理由についていろいろ思いを巡らせているのだが、ひとつには作品にたいする理解を深めようとする現在進行形のとりくみが自然と生み出すことになる開かれた謙虚さと誠実さのようなものが伝わってくるのだと思う。
くわえて、優れた指揮者・指導者の存在も大きいと思う。
この日の指揮は、準・メルクルが担当していたが、その非常に誠実な姿勢が舞台姿からも如実に伝わってくる。
舞台人としての活動だけでなく、教育者としてこうした人達が果たしている役割の価値は測り知れないものだと思う(7月3日)

 

 

東京芸術大学の奏楽堂で開催された「モーニング・コンサート」にはじめて行ってきた、ほぼ満席である。驚いた。

在学生をソリストに迎えて2曲の協奏曲が演奏された。
個人的には、久しぶりにブラームスのピアノ協奏曲第1番をじっくりと聴いて、ひどく感動した。
実はあまり得意な作曲家ではないのだが、特にこうした若い頃の瑞々しい作品は絶品だと思う。
とりわけ、第二楽章にみられるように、この作曲家の奏でる高貴な旋律には深く心が震える。
たしかに、強靭な打鍵の男性的な演奏もいいが、もしかしたら、この作品の魅力というのは、この演奏会の武岡 早紀さんの演奏のように、常人の等身大の演奏をとおして伝わるものなのかもしれない。
いずれにしても、このような作曲家の若い頃の魅力的な作品に触れると、ある意味では、音楽というのは若い頃だけに人間の内に生まれる感情を糧として成立する芸術なのではないかとさえ思えてくる。
往々にして、作曲家の人生後半の作品は、技巧的に優れてはいるが、ここに息づくような瑞々しさが失われるように思われるのだ。(7月6日)