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発達がもたらしてくれるもの……(2)

「後慣習的」(post-conventional)という言葉を理解するときに、先ずはそもそもそれにどのような意味が籠められているのかを再確認する必要があるだろう。
“conventional”という言葉は、普通 「慣習的」「常識的」と翻訳されている。即ち、ある社会や時代の中で常識として確立されているされている価値観や世界観に立脚して思考・行動する在り方――というような意味が含意されているのである。
もちろん、時代により、社会で共有される常識の内容は変わるものである。
たとえば、昔は社会の中で共有されていた価値観や世界観を純朴に信じることが「常識的」であったとしても、今はそうしたものをある程度の批判精神をもって検討・検証できることが常識的であるとされる。
その意味では、時代に変遷にしたがい「常識」として個人に求められる能力は変化するのである。
学問としての発達理論が本格的に成熟したのは、20〜21世紀であるが、この時代において、「慣習的」「常識的」という言葉で意味されるのは、ロバート・キーガン(Robert Kegan)が第3段階(third order)〜第4段階(fourth order)と呼んでいる発達段階のことである。
簡単に言えば、第3段階は、所属する共同体で共有されている価値観・世界観を無批判に受容して、そこであたえられる規則や役割を奉じて自己を確立する在り方である。そして、第4段階は、第3段階と同じように、所属する共同体の中で共有されている価値観・世界観を暫定的なものとしてとらえ、自律的・批判的な思考を発揮して、それを修正・刷新できる在り方である。
著書In Over Our Headsの中でキーガンが述べているように、確かに、先進国においても、第4段階に到達する人々の数はまだ少数であるが、実際には、企業組織等においてはそうした意識が要求されはじめていることは明らかである。
また、そうした状況を背景として、高等教育や成人教育のカリキュラムは、基本的には、この段階の意識を確立するために設計されている。
ただし、第4段階において獲得される自律的・批判的な思考というのは、思考という行動をはじめるにあたり、自己を呪縛している――半ば無意識的な――諸々の前提条件を意識化することはできないといわれる。即ち、自身が発揮している自律的な精神活動というものが、実際にはそうした無意識の領域の要因に強力に縛られていることには、総じて無自覚なのである。
自己の無意識の領域にたいする旺盛な興味というのは、往々にして、第4段階を超えていくときに先鋭的に出現するものだといわれるが、そこには自身の精神が真に自律的に機能しているという常識的な信念が幻想であることを察知する洞察が息づいているのである。
それゆえに、自己をそうした幻想の中に呪縛する意識されていない諸要因を積極的に探求しようとする衝動がめばえるのである。

このように考えると、発達理論というものをどのようにとらえているかを観察すると、その人の思考の質をある程度推測することができるのかもしれない。
こうした理論を前にして、それに自身が投影している期待や希望にほとんど無自覚である場合、現代においては、「発達することにより社会的な成功を獲得することができるはずだ」という物語を安易に信じ込んでしまうことになる。
逆に、自身のそうした投影に自覚的であれば、そうした投影をすることが対象に関する理解を歪めてしまうことに気づけるし、さらには、そもそもそうした投影をしているじしんの内面に刷り込まれている価値観や世界観について積極的に思いを馳せることができる。
第4段階においては、自律的・批判的な思考を発揮して所属する共同体の中で共有されている価値観・世界観を修正・刷新できるようになると述べたが、
第4段階をこえると、それまでに自身が発揮していた「自律的・批判的な思考」といわれるものが果たして真に自律的・批判的なものであったのかということを問うことができるようになるのである。
そして、また、そうした思考を駆使して、実現しようとしていた変化や変革といわれるものが、そもそも妥当なものであったのかということを根源的に問うことができるようになるのである。
換言すれば、それまでに善かれと思い懸命に追求していた理想や目標や目的が、実は時代・社会の中でひろく共有されている価値観や世界観にもとづいていたことに――実質的に、自身がそうした時代・社会の価値観や世界観に操られていたことに――気づき、そうした状況と対峙・格闘できるようになるのである。
思想家のケン・ウィルバー(Ken Wilber)が指摘するように、こうした内的な葛藤をとおして、われわれはいわゆる実存的な課題と直面することができるようになるわけであるが、実は第5段階というのは、そうした深い精神的な探求ができるようになる段階なのである。
そうした段階に到達することで、業務上の能力が高めることができるという主張は、あまりにも短絡的であるだけでなく、発達をするということの本質を完全に見落とした発想といえるだろう。
(もちろん、高次の発達段階を確立することで、業務上の能力が向上した事例があることは否定しないが、そこには単純に第5段階を確立したことだけでなく、それ例外の多様な人格的な要素を調整・鍛錬・統合した結果としての独自の性格があることに着目する必要があるだろう)。

 

(つづく)

発達がもたらしてくれるもの……(1)

先日 様々な業界の企業組織で人材育成や組織開発に携わる関係者が集まり食事をした。
近年 にわかに注目を集めているロバート・キーガン(Robert Kegan)の発達理論の話題を中心に会話が進んだのだが、そのなかで、いわゆる「後慣習的段階」(post-conventional stage)に意識の重心が移行していくことで、個人の世界観や価値観にいかなる変化が生まれるのだろうか……という議論になった。
数年前にキーガンの『なぜ人と組織は変われないのか』(Immunity to Change)が日本語に翻訳されたあと、発達理論に興味をもつ人が急激に増えてくれたのは嬉しいのだが、読者の方々と話をしていると、「発達」というものにたいして実にいろいろな勝手な期待や夢や希望を投影していることに気づかされる。
たとえば、発達段階が高くなると、業務遂行能力が非常に高くなるとか、人徳者になるとか、あるいは、「幸福」になれるとか……
もちろん、発達段階の高まりがそうした効果をもたらす場合もあるのだろうが、少なくとも、「発達段階が高くなれば、そうした効果がもたらされる」というような因果論的な主張をするのは、大きな間違いである。
しかし、実際には、例のKeganの書籍を読んで大きな感銘を受けている人達の中には、そうした解釈をしている方々が結構存在するようなのである。
Suzanne R. Kirschner(1996)のThe Religious and Romantic Origins of Psychoanalysis: Individuation and Integration in Post-Freudian Theoryには、心理分析というものが、人間がみずからの「堕落」(the Fall)した存在としての実存的状況を克服しようとする宗教的な衝動を成就するための装置として機能していることが指摘されているが――これは心理学全般にあてはまるのではないだろうか……――発達心理学のモデルを目にすると、われわれは無意識の内にそこに救済に至る道が示されているように思い込んでしまうのである。
しかし、実際に発達心理学の調査・研究に携わる関係者の話に耳を傾けると、このようにわれわれの意識の奥深くに息づいている救済への期待や衝動を発達という概念の上に投影するのは、少々無理があるようである。
とりわけ、今日においては、救済というものが、個人としての「能力」や「財産」を豊かにすること(例:「業務能力が高まること」「生産性が上がること」「稼ぐ能力高まること」)といった現世利益的な価値体系と密接に結びついて解釈されてしまう傾向があるので、結局のところ、発達という概念が企業人としての“performance”が上がることであると理解されてしまう。
しかし、実際には、発達することが、そうした実利的な利益をもたらすことになると結論するのは、あまりにも短絡的であるし、それ以上に、人間の内的な領域の変化・変容を、ある特定の時代・社会(現代の資本主義社会)を支配している特殊な価値観にもとづいて説明してしまおうとするのは、あまりにも傲慢であろう。
厳しい言い方をすれば、そうした発想そのものが、自己の生きる時代や社会を相対化できない認知上の幼稚さを示しているのではないかとさえ言えるだろう。
ただ、こうした誤解が広範囲で起きている背景には、それなりの事情があるのも事実である。
たとえば、上記のRobert Kegan自身も、著書の中で「発達をすれば仕事ができるようになるのです」と断言してしまう等、発達理論にたいする興味を喚起することに躍起になるあまり、読者にたいして安易に甘い夢を売ろうとしてしまっているのである。
結局のところ、こうした状況というのは、本質的には、思想家ケン・ウィルバー(Ken Wilber)が「フラットランド」(flatland)という概念を呈示して指摘したように、数的に計測できるものだけしか価値として認識しようとしない現代という時代の病理そのものを浮き彫りにする端的な事例である。
端的に言えば、「それはわれわれの金を稼ぐ能力の向上に寄与するのか?」という問いにもとづいて、あらゆる概念や洞察の価値が決めてしまう現代の倒錯性が――本来であれば、そうした時代の病理と対峙する精神を涵養するための示唆をもたらしてくれるはずの――皮肉にも、発達という概念にも持ち込まれてしまっているのである。
それでは、いわゆる「後慣習的段階」(post-conventional stage)に意識の重心が移行していくことで、個人の世界観や価値観にはいかなる変化が生まれるのだろうか?

(つづく)

 

芸術と意識の変容

先日 ロンドンに一週間ほど滞在したのだが、そのときにあらためて街が宗教的なシンボルに埋め尽くされていることに静かな衝撃を受けた。

そこがまさしく宗教国であることを実感した。

宿泊したのがSt Paul's Cathedralの脇にあるホテルだったこともあるのだろうが――一日をとおして頻繁に大音量で鐘が鳴らされる――それにしても、これほどまでに隅々に宗教的な視覚的シンボルが配置されていることには驚きを受ける。

今回は、滞在中に時間を見つけてTate ModernとTate Britainという二つの美術館に脚を運んだのだが、とりわけ現代美術作品を眺めていると、それらの作品が、こうした文化的な文脈のなかで、それと対峙するなかで生みだされたものではないかという感覚が自然に沸いてきた。

旅行者として眺めるだけであれば、諸々の宗教的なシンボルは単なる物珍しいものでしかないかもしれないが、そこに暮らす人々にとっては、それらは圧迫感を帯びてその精神に迫ってくることだろう。

たとえそれがどれほど深い意味や価値を顕すものであろうと、これほど高い密度で生活空間を満たしていると、自然とそれは自己を呪縛するものと感じられ、いずれは対峙と抵抗の対象としてみなされることになるだろうと思う。

また、それらのシンボルが、正にそれらが豊饒なものであるがゆえに、人間の意識に堅固な秩序をあたえてくれる結果、その反作用として、人々はそれに窒息感を覚えるようになるのだろう。

現代美術に息づく破壊衝動は、そうした意味では、共感できるものである。

人々は、自己をとらえる世界観そのものを揺さぶり、自己の感覚を解放したいと希求するのである。

しばしば言われるように、優れた芸術作品は鑑賞者の意識の変容を促すが、現代美術館に並べられた作品を眺めていると、確かに自己の意識が作品を注視している自己そのものにも自然と向かうことを自覚する。

そして、そうした瞬間には、周囲の空間そのものが――そこに集うた他の鑑賞者もふくめて――異なる質感をもって意識に映じはじめる。

そんなとき、われわれは自己の意識を変容させることができるなら、この世界そのものを芸術的に視ることができるのではないか……と束の間のあいだ信じることができるのである。

Wigmore Hallでの演奏会

先日、ロンドンに出張した折、Wigmore Hallで開催された現代音楽の演奏会を訪れた。

UKの同僚が過去に演奏家として活動していたということもあり(また、夫君は現代音楽の作曲家である)、食事をしながら、いろいろと音楽談義をしたのだが、そのときに「Wigmore Hallの演奏会は基本的には音楽関係者に向けた玄人好みのものであり、おもしろいものが多いので、ぜひ行くといいよ」というアドバイスをもらい、ちょうど滞在中に開催されたこの演奏会に参加してきた。

 

Birmingham Contemporary Music Group; Timothy Redmond; Calder Quartet; Thomas Adès; Nicolas Hodges

 

この日は、イギリスの現代作曲家であるThomas Adesの特集が組まれており(演奏会では本人がピアノを演奏していた)、昼の部と夜の部の二部構成で演奏会が企画されていたのだが、わたしは昼はTate Brittenを訪れ、その脚で夜の部に行った。

当日の聴衆は幅広い年齢層で構成されていたが、同僚が述べていたとおり、総じて音楽を聴き慣れている人達であることが感じられた(ちなみに、隣に座っていた老婦人は、その長年にわたる現代音楽にたいする貢献を評価され、演奏会の途中でRoyal Philharmonic Societyに表彰されていた)。

ここで演奏された作品は、ヤナチェックの作品を除いては、基本的に理知的にたのしむべき作品ばかりで、必ずしも心地よく陶酔させてくれるものはなかったのだが、非常に熱心に聴きいっていた。

 

簡単に感想を書き留めておきたいと思う:

・この演奏会の演目は数分の短い断章(fragments)で構成される作品ばかりであったが、このようにあらためて意識的に聴いてみると、断章というものが内包する力を実感をすることができる。断章というのは人間が生きているなかで束の間に経験する感覚や想念を素朴に作品として結晶化するために実に適した形態であることが実感されるのである。そうしたものを古典的な作品にあるような論理的な構造の中で表現しようとしても、そこには無理が生じることになる。実際、人間の日常は泡沫のように生まれては消えていく刹那的な感覚の連続ともいえるわけで、それを論理的に展開させるのではなく、あえてありのままに作品として結晶化させておこうという態度は自然なものだと思う。また、それらを大きな論理的な構造をもつ作品の素材として用いようとすれば、それらはもはや異なるものに変質してしまう。

特にクータッグの作品は断章というものの魅力を見事に伝えていたと思う。

・Gramophone等の雑誌を眺めている、英国では現代音楽が比較的に熱心に支持されているという印象を抱かされるのだが、しかし、実際にそこで紹介される作品を聴いて、大きな感銘を受けることはあまりない。この演奏会で特集されていたThomas Adesの作品にも、個人的には、まったく感銘を受けなかった。周りの聴衆は熱い拍手を送っていたが、「果たしてこんな作品のどこがいいのだろう……?」とひとり醒めていた。現代音楽にありがちではあるが、作品中には他の作曲家の作品が引用されるが(今回はベートーヴェンの弦楽四重奏曲)、それが終わると、作品は再び異様につまらなくなってしまう。皮肉にも、古典を引用することで、両作曲家の音楽の訴求力が圧倒的に違うことが露呈してしまうのである。

・いずれにしても、こうした演奏会を聴いていると、確かにクラッシック音楽は大きな袋小路にはいっていることを実感させられる。しばらくのあいだは、ある程度の知的なたのしみはあたえてくれるのだが、われわれが音楽というものに求める存在の深いところに響いてくる感動をあじあわせてくれることはない。端的に言えば、音楽ではなく、音響という素材を用いた実験の結果を聴かされている気持ちになるのだ。

『この世界の片隅で』を観て

先日出張した際、飛行機内で話題の『この世界の片隅で』を観た。

都内では公開劇場があまりなく、観たい観たいと思いながらも、機会をみつけることができずにいたのだが、ようやく観ることができた。

正に珠玉の作品である。

 

「われわれの心を揺り動かすのは、この作品に息づく郷愁なのではないか」というのが、まず最初に思ったことである。

即ち、主人公・すずのような人が幸福に生きることができた時代にたいする郷愁である。

現代は誰もが勉強をすることや出世することや成長することに四六時中追われているが――愚かにも、それが幸せになるための道であると思い込まされている――そうした倒錯した常識が人間の心を完全に呪縛するまえの時代にたいする望郷のようなものをこの作品はわれわれの内に喚起してくれる。

周知のように、そうした時代は急速に失われてしまい、われわれは彼女のように心穏やかに生きることを許されなくなってしまったが、まさにそれにゆえにわれわれは彼女にありのままで幸せになってほしいと応援したくなるのだと思う。

 

ただ、いっぽうで、彼女のように、世界の片隅に生き、そこだけを意識しているだけでは、自己――そして、愛する人々――に降りかかってくる理不尽な暴力にたいして無防備になってしまうのも事実である。

そして、彼女もまたそうしたみずからの無防備にたいして、みずからの体と心に深い傷を負うことをとおして贖わされることになる。

終戦の玉音放送を聞いたときの主人公の悲痛な叫びは、それまでに抑えられていた悲しみや苦しみに声があたえられた瞬間であり、それは彼女の中にはじめて時代や社会に目を向け、それらと対峙する力が芽生えたことの証でもある。

ただし、それは、成長といわれるものがしばしばそうであるように、悲しい成長であることはまぎれもない事実である。

それは、間違っても彼女が望んで得たものではないのである。

 

結局、「彼女のような人が穏やかに生きることができる平穏な世界が続いてほしかった」というわれわれの想いは叶うことはない。

残念ながら、世界はそれほどまでに寛容な場所ではないのである。

われわれにできるのは、作品の最後に再出発をする彼女の幸福を願うことくらいである。

そして、それは彼女の存在が象徴するものが、失われることなく、この世界に在りつづけてほしいというわれわれの願いそのものでもある。

 

視聴者は、この作品を鑑賞しながら、主人公の生きた幸福な世界を守りたいという想いを抱くと共にそのためには自分自身はそうした幸福な世界に安住することはできないことに気づかされることになる。

言い換えれば、作品は、世界の残酷に目覚めながらも、自己の内に幸福な世界を護りつづけることの重要性を訓えてくれるのだと思う。

ほとんどの現代人のように、徹底した「現実主義」(合理主義・数値主義・上昇主義)になるのではなく、自己の内にすずを抱きつづけることのたいせつさを訓えてくれるのである。

実際には、この残酷な世界においては、すずの世界に安住できる人はいないのかもしれない。

しかし、そうした世界を自己の内に維持しつづけることはできるのだと思う。

企業という文脈における人間の発達について

発達心理学(具体的には、Harvard Graduate School of EducationのRobert KeganKurt Fischerが提唱するconstructive developmental psychology)について企業関係者と議論をするときにしばしば話題となるのは、「企業という環境に生きる者が、後・慣習的段階(post-conventional stages)に到達することは、却って逆効果をもたらすのではないか……」という問いである。
後・慣習的段階の特徴は、社会で信奉される価値観や世界観を対象化してそれを批判的に検証できることにあるが(「脱構築」)、そうした能力を獲得することは、個人に所与の条件としてあたえられている目的や目標や物語そのものを根本的に問い直すことを可能とするために、結果として、企業人として求められる思考や行動をすることを難しくしてしまうことになるのではないか?
実際、In Over Our Headという著作の中でRobert Keganも述べているように、発達段階が後・慣習的段階に近づくと、多くの人が企業人としての立場を離れて、たとえばフリーランスとしての立場を選択するようなことがあるようである。
特定の組織に所属することを生活の基盤とするのではなく、人生という大きな文脈の中で働くということをとらえなおすようになるなかで、半ば持続的に組織にコミットして、その制度の中で自己を実現していくことの妥当性そのものが疑問視されるようになるのである。
たとえば、その組織において繰りひろげられる昇進競争そのものがひとつの虚構であることが認識されてしまうために、それとの関連において人生を意味づけてしていくことに醒めてしまうのである。
その意味では、確かに後・慣習的段階の認知構造は、企業組織に生きることを難しくする可能性を内包しているといえるだろう。
また、Abraham Maslowが指摘するように、そうした認知構造を確立しながらも、企業組織に生きることを決断している人の場合には、そうした自己の異端性をあからさまにすることなく、慣習的な物語の中に巧みに適応していることだろう。

過去においては、後・慣習的段階というのは、いわゆる「引退」をしたあとに、そうした世俗的な物語を離れて、残された短い時間の中で自己の実存的条件(死)と向き合いながら涵養される意識であった。
しかし、社会的・時代的な理由により、そうした発達段階が人生の晩年を迎えるまえの段階において発現するようになった結果として、そうした状況におかれた人々が、少数者として精神的な苦悩を背負わされるようになっているのである。

このように考えると、成人期の発達の問題とは、発達がもたらす特殊な精神的な苦悩をいかにケアするかという視点をとおしてアプローチされるべきものであるといえるだろう。
残念ながら、国内・国外でも、「認知構造を後・慣習的段階に向けて発達させることにより、職業人としてのパフォーマンスを高めることができる」という物語が独り歩きしているが、実はそれは倒錯したもので、むしろ、われわれが関心を向けるべきは、発達の結果としてもたらされる精神的な苦悩や危機にたいする対策を講じていくことなのではないか……。
 

ジョージ・オーウェルの『1984』

今ジョージ・オーウェル (George Orwell)(1903〜1950)の『1984』が国内外でとても売れているという。
わたしも以前より読んでみたいと思っていたところだったので、その朗読版をMP3で聴いてみた。
小説という体裁は採っているが、実質的には研究書というべき作品のように思われるが、いずれにしても、半世紀以上もまえにこれほど鋭く人類社会の行く末を予言的に描いた作品が存在したということに素直に感嘆した。
随所にすばらしい洞察が散りばめられている。
今回はそれらを書き留めておくことができなかったので、あらためて書籍をとりよせて精読してみたいと思う。

この半世紀もまえの作品が突然に注目を集めている背景には、いうまでもなく、合衆国の大統領にドナルド・トランプが就任したことがある。
ただ、個人的に不思議なのは、このような現象が、バラク・オバマが就任したときには起きなかったことである。
両大統領は共に――微妙に性質が異なるとはいえ――いわゆる“Big Money”(“deep state”)の後押しを受けて、そうした勢力の指示のもとに政策を展開している(c.f., Donald J. Trump and The Deep State by Prof Peter Dale Scott)。
表面的には異なる衣装を纏っているとはいえ、実質はそれほど変わらないのである。
とりわけ、オバマの場合には、公の場におけるその発言が進歩派受けするものに仕立てられていたために、大きな誤解を生んだが、その本質は徹頭徹尾徹その「主人」に尽くすもので、その目的は一貫して世界の富を極少数の寡頭勢力(oligarchy)のてに極度に集中させることであった(c.f., Obama: A Legacy of Ashes)。
大衆はそうした印象操作に実に見事に騙され、これほどまでに政権の悪質性を指摘する分析がWEB上に掲載されても、いまだに状況を把握できずにいる。
「1984」のような著作を読むというのは、まさにこうした表面的な印象操作に呑み込まれることのないように、鍛錬するということである。
自己の意識そのものが操作の対象として位置づけられ、そのための制度や方法が体系的に張り巡らされていることを意識して、その具体的な実情を理解・洞察し、また、そうした状況の中で自己の尊厳を守るための術を見出そうとすることである。
ただ、今回のような流行を眺めていると、結局のところ、この作品も、他の無数の商品のように、単に消費され忘却されていくのだろう……。

『1984』を執筆した当時オーウェルが想像していなかったであろうことは、支配というものは、作品の中にあるような強圧的なものである必要はなく、むしろ、支配されている者達に、みずからが支配されていることを意識させないような巧妙なものとして設計することが可能であるということだろう。
たとえば、現代においては、先進国に住むほとんどの人達は、みずからが半ば完全な自由を謳歌していると思い込んでいる。
しかし、同時に、われわれは、わずか数人の個人が地球の富を占有する窮極的な階層社会に生きている(Just 8 men own same wealth as half the world)(また、こうした調査は、あくまでも調査の対象となりえる人物のみを対象としたものでしかない)。
当然のことながら、そうした少数の人物、及び、関連組織が社会にたいして不当に巨大な影響を及ぼすことになる。
そして、そうした影響のもとに策定される諸々の政策・施策は、あたかも民主的な合意形成のプロセスを経て形成されたものであるかのように思い込まされ、推進されていく。
そうした現実と直視することなく、自由という虚構に浸りつづけることを可能とするのが、今日の支配の本質なのである。
その意味では、この作品にあるような露骨な統制や暴力がないぶん、その事実はより意識化しにくいものといえるだろう。
『1984』は、そうした同時代の意識の統制にたいして意識を向けるための契機をあたえてはくれるが、その洗練された性質を十分に照明してくれるものではないのである。

 

ケン・ウィルバーの新論考について

いよいよドナルド・トランプの新政権が発足したが、ケン・ウィルバー(Ken Wilber)が、政権発足と合わせるように、Integral Lifeに論考を発表した(無料でダウンロードができる)。

 

Trump and a Post-Truth World: An Evolutionary Self-Correction
https://integrallife.com/trump-post-truth-world/

 

ざっと目をとおしたが、これは、政治そのものに関する論考ではなく、同時代の政治に関して人々がどのような意識をいだいているかを整理した社会学的な論考である。
端的に言えば、合衆国の大統領選挙という「興行」(show)を大衆がいかに意味づけしているかについて大雑把に整理したものである。
政治そのものについて深く議論するには、必要な事項が全く押えられていないので、そうしたものを期待すると完全に落胆させられることだろう。
内容は、いつものごとく、社会に存在する主要な価値体系を色づけして、それらがそれぞれどのように同時代の動向――より正確には、主流マスコミをとおして流布された「情報」や「物語」――をどのように意味づけているかを俯瞰的に整理するものである。
ただ、分析のために用いられている方法そのものは、全く修正されていないので、半ば機械的にまとめられただけのものに過ぎないという印象をぬぐいきれない。
端的に言えば、ウィルバーが立脚する方法そのものが完全に進化を止めてしまっており、しかも、それを同時代の現象の表層的な側面にあてはめて、それを統合的な分析として示しているので、基本的に何のあたらしさもない文章になってしまっているのである。
たとえば、今日、少しでも政治について勉強をしている人間であれば、政治には、いわゆるメインストリームの報道機関が提供する表層的な側面に関する情報にくわえて、それよりも圧倒的に大きな重要性をもつ深層的側面が存在することをある程度は認識しているものだが、この文章の中にはそうした認識が完全に欠落している。
それはあたかも無意識を無視した心理学のようなものである。
その意味では、どう好意的にみても、これは真に統合的な分析とは到底いえないのである。
残念ながら、こうした文章を診ると、著作家としてウィルバーが完全に枯渇していることを痛感せずにはおれない。
いうまでもなく、単にインテグラル・フレイムワークを適用して対象を分析すれば、それを統合的に理解したことにはならない。
そうしたフレイムワークがそもそも暫定的なものであるし、また、たとえそれが十分なものであるとしても、思考の素材となる情報を収集するにあたり、あまりにも排除している領域が大き過ぎる場合には、結局、まともな思考をしたことにはならないのである。
少なくても政治の領域に関しては、ウィルバーの創出する作品は完全にそうしたものになってしまっているように思う。

 

発達理論を巡る危険な誤解

先日、Lectica, Inc.のTheo Dawson博士と簡単な対話をした。
Lectica, Inc.は、Harvard Graduate School of Educationの発達心理学者達を中心にして、Constructive Developmentalism(Dynamic Skill Theory)にもとづいた個人の発達段階の測定を提供する組織である。
Dawson博士はその代表者である。
1月10日付けでLectica, IncのHPに掲載された「Leadership, vertical development & transformative change: a polemic」というタイトルの非常に興味深い記事に関して、少し質問をさせていただいたのだが、個人的にも、これまで漠然といだいていた疑問を解決していただいた気持ちである。
記事の中でDawsonが指摘しているのは、現在、欧米を中心にしてひろがりをみせている発達心理学にもとづいたLeadership開発の領域において、発達(「構造的発達」・「垂直的発達」)というものを多様な課題や問題を解決できる万能薬のようなものとして非常に短絡的にみなされているということである。
企業組織において個人がその「生産性」(capability)を高めるためには、とりわけ認知構造の発達段階を高めることが重要であるという言説は、今日、発達心理学を勉強した人材開発や組織開発の領域の関係者が主張しているところであるが、Dawsonは、それは実際とは大きく乖離したものであるという。
むしろ、認知構造の発達は、ときとして深刻な破壊的な影響をもたらすこともあるものであり、そうした類の発達を単に業務遂行能力を高めるために安易に推進するのは非常に危険なことであるというのだ。
個人的にも、これまでに発達理論に関していろいろな研究者や実践者と対話をしながら思考錯誤をしてきたのだが、constructive developmentalismにおける認知構造を高次のものに垂直的に高めることが――少なくとも直接的なかたちで――実務者としての能力の向上につながると主張するのは、非常に短絡的な発想であると結論づけるに至っていた。
認知構造とは、結局のところ、われわれが意味を構築するときに依拠する思考機能の質そのものを規定するものである。
それが変容するということは、個人の世界観や価値観そのものの根本的な変革をもたらすことになりかねず、往々にして、われわれの心理的な平衡状態を大きく動揺させることになる。
もちろん、それが実務者としての機能性を高めることに貢献するということもあるだろうが、それは、あくまでもそういうときもあるということで、認知構造の構造的な発達の必然の結果ではないのである。
そのことを無視して、短絡的に発達段階を高めれば実務者としての成長上の多様な課題や問題を克服することができると発想するのは、あまりにも単純であるし、また、端的に事実に反しているのである。
同じHarvard Graduate School of EducationのRobert Keganが著したImmunity to Change等を読むと、「発達段階が高くなることで仕事ができるようになる」という主張があり、個人的には、たとえ一般向けの書籍とはいえ、こうした説明の仕方は非常に危険だなと危惧していたのだが、こうした発言を目にすると少し安堵する。

そもそも人材育成・組織開発の領域で、発達理論が注目を浴びるようになったのは、それまでに流通していたいわゆる「昨日的能力」(competency)や「性格特性」(typology)といわれるものが、個人の深層領域に関して言及するための厳密な方法を持ち合わせていないことに起因すると思われるが、皮肉にも、今度は、発達理論が過剰に万能視される状況が生まれているのである。

いずれにしても、Dawsonが指摘しているように、認知構造の垂直的な発達というものが、個人の防衛機構を動揺させる可能性を秘めていることにわれわれは真剣に留意しなければならない。
認知と思考の質を変容させるということは、とりもなおさず、個人の意味構築活動そのものを本質的に変容させるということである。
そして、それは、また、個人がみずからの心理的なトラウマやストレスに対処するために用いている諸々の防衛機構を動揺させることになる。
というのも、それは「対象を認識して、それを意味づけし、そして、それにたいする自己の対応を構想・実行する」という認知活動が直接に関わるからである。
その意味では、認知構造の変容を支援しようとするときには、臨床心理学との密接な連携が必須となるといえるだろう。

そして、ここでもうひとつ検討すべきことは、そもそも発達理論というものが、ある特定の価値観・世界観の中で所与のものとしてある目標に到達するための「道具」として相応しいのかということである。
というのも、認知構造を変容させるということは、それまでに前提とされていた――それまでに自己を呪縛していた――価値観や世界観そのものを対象化、及び、その批判的な検討と超克ができるようになるということを意味する。
たとえすべての場合において、そうした根本的な価値観や世界観の診直しが起きるわけでないとしても、その可能性は高まるはずである。
「既存の目標は真剣にとりくむに価するものであるという前提は疑うことなく、あくまでもそれをより効果的・効率的に実現するための方法を進化させるために発達してください」というような都合のいい「発達」ができるわけではないのである。
むしろ、既存の目標そのものが過去の幼稚な価値観・世界観の中で意味を持ち得ていたものに過ぎないということに気づけることこそが、認知構造の発達がもたらしてくれる価値の本質にあるものであるとすれば、今日 流行している能力開発のための道具として発達心理学をみなすことは、大きな欺瞞を内包しているのではないかとさえ思えるのである。

 

岐路に立つインテグラル・コミュニティ

インテグラル・コミュニティにおいては、社会現象を分析するときにしばしばSpiral Dynamics(SD)の枠組を用いるが、これまでにコミュニティが配信してきた数々の分析を俯瞰的に眺めると、正にそうしたアプローチが現実の深刻な誤解や歪曲を生んでいることが明らかになりつつある。
端的に言えば、SDにおいては、「意識の構造」(the structure of consciousness)と「意識の内容」(the contents of consciousness)の違いを峻別しようとする発想が非常に希薄なために、往々にして、表明されている意見や立場の種類のみに着目するようになる。
結果として、それが個人であれ組織であれ、対象の行動論理を大きく見誤ることになるのである。
そもそも、SDは、Integral Institute(I-I)の立ち上げ期に、インテグラル理論を一般向けに簡略化して紹介するために便宜的に活用されたのだが、I-Iの関心が諸概念を「商品化」して包装・普及することに収斂していくなかで、いつの間にかその発想そのものが「便宜的」なものでしかなかったSDの水準にまで引き下げられることになる。
こうして関係者は、そうした過剰なまでに簡略化された発想に安住して、仮の納得感に呪縛されていくことになる。
悪いことに、SDの理論がシンプルなものであればあるほどに、それがもたらしてくれる「理解」は単純明晰なものとなり、関係者に知的な優越感に浸らせてくれることになる。
みずからが依拠する枠組に呪縛されてしまい、それそのものを対象化して超克していくことができないという合理性段階の行動論理に半ば完全に呪縛されているのである。
少なくとも、政治・経済等の集合領域(これらの領域はSDの主な関心領域でもある)に関するインテグラル・コミュニティの発言がこれほどまでに劣化しているのは、過去10年程のあいだに継承されてきた知的怠惰が大きく影響しているのである。

2016年度は、世界的に大きな政変がおきた激動の一年であった。
そうした文脈の中でわれわれはこれまでにみずからが立脚していた価値や前提が大きく誤っていたことに気づかされるような経験をひんぱんに経験している。
特筆すべきは、これまでに展開してきた「グローバル化」といわれるものが、実は必ずしも人類の進化を体現するものではないということにたいするきづきが正に地球規模で生まれているということだろう。
むしろ、それが、実はいかなる土地にも責任をもたない無国籍の資本の論理が、その略奪的(predatory)な獣性を無軌道に発揮して、あらゆるものを捕食していくための制度の急速な拡充のプロセスであったことが認識されたのである。
もちろん、グローバリズムというものが、波のようによせてはかえす現象に過ぎないことは指摘されていたし、また、今回のグローバル化が地球の富を極少数の超富裕層のてもとに集中させることで、地球規模の格差社会を構築するものであることについても、警鐘が鳴らされてきた。
2016年は、そうした声が大衆規模の行動にまとめあげられ、それまでに無防備に礼讃されてきたグローバリズムというものにたいする明確な拒絶として結晶化した年であったのである。
もともと日本の場合には、知識人も大衆も「流行」(buzz words)に流されやすい根深い体質があるために(http://www.mitsuhashitakaaki.net/2016/12/21/sato-106/)、いまだにグローバリズム幻想に憑かれている状態にあるが、欧米では、人々がいちはやくそうした夢から醒めはじめているので、いずれはそうした状態から揺さぶり起こされることになるだろう(ただし、日本の場合には、無国籍性のイデオロギーに対抗するための拠所となるべき健全な郷土愛や愛国心が涵養されていないために、内発的な力でこうした幻想状態を脱却するのに苦労する可能性はある)。

こうした状況において、
本来であれば、インテグラル・コミュニティは、たとえばその重要な理論的な柱であるホロン理論にもとづいて、早い段階で、今日のグローバル化が、人類社会の進化ではなく、むしろ、個々の共同体の健全性を溶解することで、最終的には人類社会の全体的な破壊をもたらすことを洞察すべきであった。
しかし、実際には、今日のグローバル化を「世界中心主義」(world-centrism)の発現と錯覚して――また、それに反発する動きを退行的な「排外主義」や「保護主義」と錯覚して――それを無批判に追認してしまった。
その意味では、I-Iを中心としたインテグラル・コミュニティの関係者は完全に時代に取り残されているだけでなく、むしろ、さらに深刻な問題として、みずからの認識の前提そのものを批判的に検証するという統合的であること基本を見失ってしまっている。
いうまでもなく、こうした体質の共同体が辿りつく先は、閉ざされたイデオロギー集団でしかない。

ただし、一方では、Sean HargensやZachary Steinをはじめとする若い世代の研究者や実践者が、I-Iの直接的な影響を離れて、独自の優れた活動を展開しているのも事実である。
将来に向けて、インテグラル・コミュニティが持続的に発展していけるかどうかは、こうした良質な人材をどれだけ育てていけるかに懸かっているように思う。