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雑感

4月27日
先日、奏楽堂で開催された東京藝術大学の新卒業生紹介演奏会を聴いてきた。昨年の演奏会を聴いて、あまりのレベルの高さに驚愕・感動して、今年の演奏会を楽しみにしていたのだが、期待通り素晴らしい演奏が展開された。
残念ながら、会場は6〜7割程度の客の入りで少々空席が目立った。これだけ充実した演奏会があまり注目されないというのは何とも残念である。
はじめに演奏された作曲科の成績優秀者の作品に関しては、正直なところ特に言うべきことはない。いわゆる「現代音楽」という言葉を聞くときに想起される“ありきたり”の音楽が奏でられたという印象である。その領域の関係者の耳には素晴らしい音楽として響くのかもしれないが、個人的には、アカデミアにおける「現代音楽」が完全に袋小路に嵌っているという感想を抱かされるだけだった。
しかし、その後登場した4人のソリストによる演奏はどれも秀逸なものだった。それぞれの演奏家はそれぞれに独自の音をそなえていて、それを高い芸術性をもって表現していた。
実は、最後の「皇帝」を除いて、この日に演奏された作品をこうして集中して聴いたのは初めてだったのだが、演奏が秀逸であるために、作品そのものにも魅惑されてしまった。ベルリオーズの歌がこれほどまでに美しいものだったことを、シマノフスキーのヴァイオリン協奏曲がこれほどまえに幻惑的で陶酔的であることを、そして、トマジのサクソフォン協奏曲がこれほどまでに仄暗い瀟洒と興奮を湛えた作品であることを発見させてもらった。また、もはやベテランとしての風格をそなえている桑原 志織の美音と堂々とした存在感にも深く感服させられた。くわえて、高関 健指揮の藝大フィルハーモニアの演奏が実に素晴らしいもので、奏楽堂の豊かな残響の中で大きな編成を駆使して雄大な伴奏をしていた。
個人的に何よりも嬉しいのは、高関氏とオーケストラが、ソリストと共に協奏曲としての表現を妥協なく追求しようとしていることだ。上久保 沙耶(メゾソプラノ)・堀内 星良(ヴァイオリン)・住谷 美帆(サクソフォン)・桑原 志織(ピアノ)という4人の卒業生の単なる披露目会ではなく、芸術表現としての可能性をソリストと共に追及していたことだ。

 

4月28日
東京ユヴェントス・フィルハーモニーの演奏会を聴いてきた。先日、川崎で聴いたブルックナーの交響曲第9番が非常に素晴らしく、たのしみにしていたのだが、前回ほどの圧倒的な感動までには至らないものの、素晴らしい感動を味わうことができた。
ただし、パルテノン多摩の音響はひどく素気ないもので、演奏家を助けてくれない「恐い」ホールだ。川崎とくらべると、音楽を聴くことの喜びを体験しにくいし、また、演奏者も少々苦戦しているように思われた。また、非常に残念なことに、客の入りが寂しく、これだけ魅力的な演奏会がほとんど注目されないというのは悔しい。まあ、さすがに多摩は遠過ぎるのだろう。
ワーグナーの「ニュールンベルグのマイスタージンガー」の前奏曲に関しては、まず坂入氏の指揮が非常に忙しいもので、正直なところ、少々戸惑いを覚えたことを告白しておく。この作品の演奏としてはあまりにもキビキビと運び過ぎているように感じられたのだ。ただ、そうした演出は完全に確信犯的に為されていたものであることは明確で、それが演奏に独自の筋肉質な響きをあたえていたのも事実である。それはそれで既成概念を打ち破ろうとする問題意識に支えられたもので、面白いと思う。
次のドヴォルジャークのチェロ協奏曲は、どうしてもしばらくまえに聴いたロンドンのRoyal College of Musicの演奏会の非常に感動的な演奏とくらべてしまうのだが、この作品を知り尽くしたソリストの味のある演奏が非常に見事でひたひたと聴き手の心に沁みわたる感動をあたえてくれた。ただ、肝心のところでホルンが外してしまうために、安心して聴くことができない感覚が常につきまとったのは惜しいところ。逆にフルートが非常に素晴らしく、とりわけ第3楽章のソリストとの対話は実に見事で今日のハイライトを形成していたし、また、同楽章でのバイオリン・ソロとの掛け合いも涙なしには聴けない演奏をくりひろげていた。聴いていると、作曲者の想いが死をこえて亡き人と交感していることを実感できる、そんな至上の演奏が展開された。それにしても素晴らしい作品だと思う。
アンコールのバッハの無伴奏ソナタも名演で、そのシンプルな響きに途轍もない叡智が籠められていることを聴衆に実感させてくれた。
休憩後の「英雄」は後半の第3・第4楽章が素晴らしく、坂入氏の本領が存分に発揮されていた。オーケストラも好調で、ひきつづき部分的にホルンの弱さが気にはなるが、総じて生命力に溢れた演奏を展開していた。ベートーヴェンの何という雄々しさと大らかさ!!
もちろん、前半の二楽章も充実していたが、正直なところ、作品にたいして直球勝負を挑み過ぎているように思われ、演奏が作品に押し返されてしまっているように感じられた。正攻法で攻めるだけではなく、もう少し冒険をしてもいいのではないか……。
たとえば、ティンパニの強打も中途半端で、全体のバランスを崩すことも厭わないくらいに暴れてもいいのではないか……。どんな剛速球でも、直球しか投げないと、いずれは打たれてしまうものだが、前半の二つの楽章に関しては、そんな印象を抱かされた。あらためて、この作品が難曲といわれる所以を思い知らされた気がする。
いずれにしても、無数の演奏会が開催される東京でも、これだけの「英雄」というのはなかなか聴けない。今後も坂入氏は試行錯誤を重ねていかれることだろうが、既にこの水準に到達していることが恐ろしいことだし、ここからさらにどう進化していくのかを想像するとワクワクしてくる。

 

5月1日
ある領域で非常に優れた知性をそなえているが、他の領域に関しては、その知識を同じレベルで適用しようとしない「知識人」が無数に存在する。一般論としては、人間の能力は領域により異なるレベルで発揮されるとされているが、そうした説明に納得するのではなく、「ほんの少し意識をすれば、得意領域で発揮されている透徹した能力を他の領域でも発揮できるはずなのに……」とこちらに思われる場合には、その違和感を大切にすべきである。
端的に言えば、自己の専門領域で確立した権威を背景にして、他の領域に関して言及することで、その発言までも権威あるものであるかのように錯覚させてしまうのである。

 

5月11日
昨日の奏楽堂のモーニング・コンサートではまたいろいろな刺激と発見をあたえてもらった。とりわけ、プロコフィエフのピアノ協奏曲を演奏した原田 莉奈氏の演奏には――昨年の東京音楽コンクールの演奏にも関心したが――大きな感動をあたえられた。何よりも今回は演奏がはじまる前の瞬間に会場に静かな緊張感が漲るのを聴衆席で感じて、いっそう風格を増していることが感じられた。
演奏に関しては、純粋にこの作品の素晴らしさをおしえてもらった気がする。ピアニストを夢中にさせるような魅力が詰まった作品であることが実感できた。個人的には、とりわけ第1楽章のピアンのソロが続くところでグッと惹きこまれた。また、プロコフィエフという作曲家にとり「スピード」というものが非常に重要な要素であることを実感することができた。作曲家によっては、解釈上、演奏家があえてテンポを落として演奏しても魅力が出てくるということがあるのかもしれないが、プロコフィエフにおいてはそうではなく、作品の本質的なところにこの作曲家の生理に深く結びついた「スピード感」のようなものが息づいているのではないかと思われたのである。昨日の演奏は、そんな気づきをもたらしてくれる刺激と洞察に満ちた演奏だった。
優れた演奏には二種類あると思う。作品の魅力を聴衆に率直に開示してくれる演奏、そして、演奏者の唯一無二の芸術性を堪能させてくれる演奏である。昨日の演奏は前者であるが、そうしたタイプの奏者として、大きな期待ができる演奏者だと思う。
ちなみに、はじめに演奏されたレオポルド・モーツァルトのトロンボーン協奏曲も、コンパクトにまとまった魅力的な作品で、表面的には明るい曲想の中に幽かな憂いが感じ取れるところは、息子の作品に共通するなあと思った。演奏も素敵だった。

 

5月13日
たくさんの著名経営者の著書の内容を要約して紹介する書籍を読んでいるが、いつものことながら、経営者といわれる人達が「生き方」について語りたがり、また、読者がそれをありがたく読むという構図には、異様な感覚を覚えてしまう。そもそも経営書を人生論として読んでしまう文化そのものに違和感を覚えるのだ。そういうことは個人の最も重要な内面的問題として最もたいせつにすべきことだが、多くの読者は無防備に商売人のロジックに自己の人生そのものを委ねてしまう。このことに懸念を抱けないということそのものが、既にその読者の状態を示している。

 

5月18日
書店には月刊誌の6月号が並びはじめているが、いつものことながら対極的な立場の視点にたいして完全に意識を閉ざした「論考」ばかりが掲載されている。どれほどたくさんこうした記事を読んでも、読者は自己の立場の「正当性」にたいする確信を強めることはできても、視野をひろげることはできない。少し離れて眺めると、これほど退屈な「情報収集」もないと思えるのだが……。結局は、「読む」という行為が自己に問いを突きつけるためのものではなく、自己の信念は正しいのだという感覚を強化するための自慰的なものに留まっているということなのだろう。
たとえば、「世界」には「正論」の、そして、「正論」には「世界」の常連執筆者を招けばズッと面白くなるだろう。そういうことをいっさいしようとしない「知識人」が実社会をいろいろと批判して、「視野をひろげろ」とか、「発想を柔軟にせよ」とか述べているのは何とも異様な気がする。

 

5月20日
墨田トリフォニーでの新日本フィルの演奏会を聴いた。指揮はジョアン・ファレッタ(JoAnn Falletta)。Naxosの録音で認識はしていたが、生で聴くのは初めて。非常に素直な音楽性をそなえた音楽家という印象で、その指揮振りもまるで学生演奏家にたいするものであるかのように明確で丁寧なもの。そして、同時に、男性指揮者からは聴いたことのない、聴衆をホロリとさせるような穏やかな優しさを音に息づかせることができる指揮者でもある。「男性」「女性」という括りで芸術家を区別することは嫌いだが、確かに才能ある女性指揮者の活躍で音楽界にもいい影響が出てくるのではないかと思う。
今日の収穫は、何よりも冒頭のバーバーの交響曲第1番である。少しウォルトンの交響曲第1番を想起させられたが、あの魅力的な作品を少しコンパクトにした作品といえばいいだろうか……。
次の山下 洋輔をソリストに迎えたガーシュウィンのピアノ協奏曲は全くの期待外れ。しばらくまえに東京藝術大学の卒業者演奏会で同曲が演奏されたが、そのあしもとにも及ばない。端的に言えば、このピアニストはこうした舞台で勝負できる人ではないということだ。あの魅力的な作品が、ピアニストの自己陶酔に弄ばれると、これほどまでに退屈な作品に変わってしまうということを示した演奏といえるだろう。新日本フィルハーモニーが素晴しいだけに非常に残念な気持ちにさせられた。聴衆は熱狂的に称賛の声援を送っていたが、あんな演奏に本当に感動したのだろうか……?
後半はAaron Jay Kernisという作曲家の Musica Celestisという静謐な作品があり、そして、コープランドの「アパラチアの春」が続いた。普段はコープランドの作品を聴こうと思うことはほとんどないが、こうしてあらためてじっくりと耳を澄ませてみると、日常の中に息づく人間の素朴なよろこびに寄り添ういい音楽だと思う。演奏も、過剰な演出をくわえることなく、音楽の自然な魅力を浮かび上がらせるもので、深く共感した。

 

Lectica, Inc.のトレイニングを終えて

今週、過去数箇月にわたり受講してきたLectica, Inc.のトレイニングがとりあえず終了した。

今回の内容は、Lecticaが提供している二つの発達段階測報告書の内容の理解と実際にその測定を受けた被測定者にたいするフィードバック方法の訓練である。

2週間に1度、2時間のビデオ会議が合計で8回という内容だ。

開始時間が日本時間の午前1時というのが、翌日に影響するので、少々辛いところだったが、それほど大量の宿題があるわけでもなく、非常にたくさんの気づきをもたらしてくれる経験となった。

また、今回のトレイニングを受講するにあたり、数年振りにLDMALectical Decision-Making Assessment)という測定を受け、「意思決定」という領域における自身のレベルを把握できたことは、大きな内省の機会となった(また、「意思決定」という領域における自己の状態を認識することで、自己の思考の全般的な特徴について探求する貴重な機会をあたえてもらった)。

 

今、日本では徐々に発達理論が紹介されはじめているが、そこで想定されているのは、基本的には、Robert KeganWilliam TorbertSusanne Cook-Greuter等の理論にもとづいたもので、本質的には、いわゆる「重心」(the Center of Gravity)という概念を前提とするものであるといえる。

しかし、Lecticaの場合には、この概念そのものを否定している。

そうした概念は、たしかに感覚的には人間の実際を反映したものであるかのように感じられるが、それを測定することは不可能なことである。即ち、人間の能力(domain)はあまりにもたくさんあり、それらの全てを測定することなどできない――というのが、その理由である。

また、そうした概念が実際に用いられるときに、しばしばわれわれは他者をラベル付けするための安易な道具として利用してしまいがちだ。

実際、Ken Wilberをはじめとして、Integral Communityの関係者は、こうした悪しき傾向にとらわれているように思われる。

たとえば、彼等は、人間の発達段階を大きく“First Layer”“Second Layer”という二層に分けて説明するが、そもそもそうした概念そのものは必ずしも実証されているものではないし(確かに、Abraham Maslowが、ある段階で欲求の質が大きく変化すると主張しているが、それは仮説に過ぎない)、また、人間の能力というものが非常に激しく上下動をしていることを考慮すると、これほど単純に人間を価値付けすることは、知的な怠慢といわざるをえない。

こうした問題にたいするLecticaの関係者の徹底した慎重さには非常に関心させられた。

実際、人間の能力というものについてあらためて思いを巡らせてみると、特定の領域で優れたパフォーマンスを発揮できるかどうかということは、その人物の本質的な価値と全く関係ないことが判る。

たとえば、英語能力はその個人の本質的な価値に何の影響もあたえない。あるいは、料理をしたり、掃除をしたり、運転をしたりするための諸能力の高低はその個人の本質な価値と何の関係もない(もちろん、その高低により、その個人が担える責任や役割に影響が生じることにはなるために、その個人の機能的な価値には大きな影響をあたえることにはなるが……)。

少なくとも、それらの諸能力の高低に関する議論は、個人の人格の成熟度に関する議論とは切り分けてする必要がある。

しかし、Robert Kegan等の発達理論の枠組では、人間の「意味構築活動」(meaning making activity)が主な研究対象として設定されているために、どうしても人間の本質に関わることについて言及されているような印象をあたえることになる(実際、Keganは著書の中で自分は人間の意識そのものについて研究をしているということを述べている)。

しかし、このあたりについて、Lecticaの関係者は非常に懐疑的であるように思われる。

少なくとも、それを測定するために用いられているKeganCook-Greuterの方法に関しては、基本的には意識の内容物に焦点を絞るもので、意識の構造を把握するものではないと批判している(批判をするときの表現としては、そういう言葉を用いてはいないが……)。

即ち、そこでは、あくまでもその個人の意見の聞き取りがされるだけで、課題や問題を実際に解くことを求めていないために、厳密には、その個人の能力を測定していないと批判するのである。

たしかに、個人的にも、KeganSubject-Object interviewCook-GreuterMaturity Assessment ProfileMAP)を少し勉強してきて、そうした批判には一定の正当性があるように思いう。

特にMAPの場合、実質的にJane Loevingerの文章完成法(sentence completion test)をそのまま踏襲していることもあり、回答の中に登場する具体的な単語や概念が、マニュアルに照らし合わせて、どの段階に属するものであるかどうかを特定する作業に重点を置くことになってしまう。

結果として、測定されるのは、あくまでもその個人が主にどのような段階の単語・概念を内面化しているかということになるのだ。

Lecticaの関係者は、果たしてそうした方法で個人の発達段階を測定することができるのか? という根本的な問題提起をしている。

同時に、彼等も、個人の意味構築活動を把握するために果たしてそれ以外の方法があるのかといえば、適当なものはないと述べているのだが、いずれにしても、いわゆる「発達段階」というものが、少なくともIntegral Communityの関係者(発達心理学の専門家を含めて)が想定しているほど簡単に把握できるものではないのは間違いないところだと思う。

端的に言えば、いくつかの既存の理論や方法を習得したことで、人間の発達段階を把握できたと信じるのは危険であるということだ。

 

もうひとつ、今回のトレイニングをとおしてあらためて考えさせられたのは、段階と段階のあいだの“phase”をたいせつに扱うことの必要性である(Lecticaでは、段階と段階のあいだに10phaseを設けている)。

実際の現場において他者を支援するときに、次の段階についていろいろと説明をして、そこに向けて自己の行動を進化させるように指導をしても、ほとんど効果はない。

段階と段階の間に存在する「差」はあまりにも大きく、次の段階について言葉で説明をされても、実際にその段階の能力を発揮できるようになるための成長にはほとんどつながらないのである。

また、しばしば、能力が次の段階に上がるためには、数年(56年)が必要となるといわれるが、特に段階が高くなればなるほど、次の段階に移行するために必要となる資源や時間は格段に大きくなる。

この時点である程度高い段階の能力を発揮できているということは、既にそこには多様な要素を統合した複雑なシステムが存在しているということであり、それを次の次元に向けて再編成していくためには、途轍もない力が必要となる。

シンプルなシステムを進化させるためには、それほどの労力が必要となるわけではないが、複雑なシステムを進化させるためには、たとえ非常に小さな進化でも、比較にならないくらいの労力が必要となるのである。

幼い頃は短期間に段階的な成長を遂げることができるが、成人期を迎えると、段階的な成長の速度はどうしても遅くなるのである。

たとえば、はじめのころは、単語を覚えるところから、単語を並べて文章をつくれるようになれば、段階的な成長を遂げたことになったが、高い段階では、ひとつの主張を展開する章をまとめるところから、今度はそれぞれに独立した主張を展開する複数の章をひとつの大きな論旨のもとにまとめあげることができるようになると漸く段階的な成長が成し遂げられたことになるという感じだ。

後になればなるほど、段階的な成長を実現するために求められるものが劇的に増えていくのである。

このため、とりわけ成人期においては、段階を上げることではなく、段階と段階にある“phase”を上げることに焦点を絞り支援をしていくことが重要になる。

端的に言えば、「段階を上げる」というとりくみそのものがあまり意味を成さなくなるのである。

Lecticaでは、こうした観点から、発達段階の報告書の中で、その個人がどの段階のどのphaseにいるのか、そして、次のphaseに移行するためには具体的などの能力の開発に力を傾注すべきなのか、また、具体的にどのような訓練にとりくむべきなのかということに丁寧に言及してくれる(報告書の頁数はA45060頁くらいになる)。

こうした発想は実に地に足が着いたもので、心底感心してしまう。

いうまでもなく、一口に成長といっても、そこで問題にされている能力領域により、鍛錬が必要とされる能力は変わる。

組織の統括者としての意思決定能力という領域において成長しようとしているのか、あるいは、心理的・宗教的な意味の内省能力を成長させようとしているのかにより、次のphaseに向けて成長していくために習得しなければならない能力は異なってくる。

発達志向の支援をするためには、単にそれぞれの段階の特徴を認識しているだけではなく、段階間のphaseに関してある程度正確な理解を有している必要があり、しかも、そこで対象とされている能力領域に関してそれなりの土地勘をそなえていることが求められるのだ。

こうしたことを訓えられるにつけ、これまで大雑把に段階的な成長について語るばかりで、段階間の移行に関する探求を疎かにしていたことを反省してしまった。

 

そして、最後にもうひとつ重要な気づきがあった。

それは、「水平的成長よりも垂直的成長の方が難しい」というアイデアが実はそれほど信憑性のあるものではないということです。

Ken Wilberの著書では、垂直的成長を“transformation”と、そして、水平的成長を“translation”と呼んで、前者の方が後者よりも難しいと説明されているが、Lecticaの関係者によると、実はそうした主張は必ずしも立証されているものではないということだ。

そもそもLecticaの設立者のTheo Dawsonは、そもそも垂直的成長と水平的成長という二つの異なる成長が存在するという発想そのものを否定しているようだ。

即ち、それらは相互に密接に関連(interpenetrate)しているために、実際に人間の成長においては、二つの異なる成長が観察されるようなことはないというのだ。

たとえば、既存の能力を少し修正して適用するのは、水平的成長としてとらえられるが、それも小さな垂直的成長としてとらえることもできるわけで、その意味では、垂直的成長と水平的成長を分ける必要性そのものが無いといえるのだ。

また、それら質的に異なる二つの成長が存在するとしても、それらのうちのひとつがより難しいと断言する根拠はない。

あたらしい能力を習得する(垂直的成長)のと、既存の能力を異なる仕方で用いる(水平的成長)のは、どちらが難しいかといえば、実際には、それは状況により異なるということになるだろう。

 

いずれにしても、今回のトレイニングをとおして、あらためて気づかされたのは、真実として信奉されている概念をあらためて検証することの重要性だ。

とりわけ、Ken Wilberの概念は、非常に解りやすく、また、感覚的に「納得度」の高いものであるために、われわれはそれらを無批判に受け容れてしまいがちだ。

複雑な話題に関して勉強をはじめるための導入的な概念としては非常に便利なものだが、一歩踏み込んで探求しようとするときには、それらをいったん批判的な眼差にさらさないと、自覚しないあいだに思考停止状態に囚われてしまう危険性が生じる。

そうした意味でも、今回のトレイニングには、貴重な気づきをあたえられた。

 

尚、最後のセッションは、周囲の関係者(潜在的顧客)にたいして発達理論をどのように紹介していくかということについて議論をしたのだが、担当の講師によると、徐々に垂直的成長にたいする興味・関心は増してきているという。

ひとつには、この概念が、組織開発や人材開発の関係者によって「次なる流行」(“the next fad”)として認識されているということがあるだろう(もちろん、そういう空気というものは、所詮それだけのものに過ぎないので、いずれは冷めていくものだが……)。

そして、もうひとつは、純粋にこの垂直的成長に関する研究が開示してくれる洞察にたいする興味・関心がひろい範囲で醸成されはじめているということでもあるのだろう。

ただ、個人的に懸念するのは、1990年代後半にKen Wilberが主催するIntegral Communityの中で発達理論が、実際の実証研究と遊離して、半ばイデオロギー化した一連のプロセスがここでも再現されなければいいのだが……ということだ。

とりわけ、Spiral Dynamicsの「色識別」(color coding)を模倣して、各発達段階を色づけして、発達論を大衆化しようとしたことで、Integral Communityの中で発せられる言葉の質は劇的に劣化してしまった。

こうした状況を眺めて、Integral Instituteの関係者の軽薄さに失望して、そこから距離をとりはじめた人は多数いることだろう。

Lecticaとしては、こうした状況に問題意識を抱いているようで、ことあるごとに、Kurt Fischerdynamic skill theoryが、今日急速に大衆化されている発達理論と大きく質を異にするものであることを強調している。

今回のトレイニングをとおして、Lecticaのそうした真当な問題意識が確認できたことだけでも嬉しかったのだが、それ以上に、現在、真実として無批判に信奉されている諸概念の内どの概念がとりわけ問題を内包しているのかということについて、Harvard Graduate School of Educationで実証研究に携わっている関係者に直接的に確認することができたことは貴重な経験だった。

いずれにしても、今後、「紹介者」に求められるのは、発達理論にたいして数多くの人達が無防備に投影している幻想を丁寧に解体して、その実像(限界と魅力)を説明することだろう。

その意味では、この段階において、紹介者にはこれまでとは異なる能力が求められるようになっているといことなのだろう。

「ティール」という言葉の意味するもの

今『ティール組織』という組織がひろく読まれているが、ここでいう「ティール」とは、アメリカの思想家のケン・ウィルバーが提唱するインテグラル理論の中でこれまで「Vision Logic」段階と名付けられている人間の意識の発達段階のことを指している。

もちろん、Harvard Graduate School of Educationの研究者の調査では、この段階の認知能力をある程度恒常的に発揮できる人間の割合は総サンプルの中でも数%にも満たないので、実際には、上記の書籍の中で紹介されている「ティール組織」において、その構成員がそうした段階の認知構造を持続的に発揮しているということではない。

むしろ、何らかの制度的・文化的な仕掛を活用することで、個々人の発達段階にかかわらず、いわゆる「ティール」という言葉で想起される行動様式が組織の中で成立しているという事例を紹介しているのである。

個々人の意識が成長させるための方法を呈示するのではなく、その共同体に参加することで、おのずと行動が自己の個人的な能力をこえたレベルで発揮されるような仕組を呈示するというのが、書籍の趣旨だと思う(そして、それは非常に賢明な発想だと思う)。

ただし、21世紀の先進国においても、営利・非営利を問わず、実質的には大多数の組織の関係者が、強烈な同調圧力のもと、組織という「部族」に殉じるために半ば全ての能力を発揮することを求められている状況を鑑みると(先日の「証人喚問」における「証人」の行動論理は正にそうした時代の状況を端的に示したものだといえる)、その先の先にある行動論理が組織の関係者により常態的に発揮される時代が到来すると想像するのは非常に難しい。

もしそのようなことを無防備に想像している人がいたとするならば、正直なところ、そうした夢物語に夢中になるまえに、先ずは目の前の現実を直視するべきではないかと言いたくなってしまう。

しかし、同時に、もしその人が、そうした現実を見据えながらも、尚そうした高次の可能性について真剣に検討しているとすれば、それは真に素晴らしいことだと思う。

ただ、そのときにひとつ確認すべきは、いわゆる「ティール組織」といわれる組織を安定的に成立させるために、そこに生きる個々人に求められる認知構造がどのようなものであるのかということである。

Kurt FischerのConstructive Developmentalismでは、「advanced systems thinking」といわれる認知能力がそれにあたるのだと思うが、これは非常に透徹した世界の洞察を可能とする段階であり、それゆえに、それを発揮することには、大きなリスクが伴うことになる。

端的に言えば、それは、あたえられている課題や問題に最も効果的・効率的に対処しようとするのではなく、そもそもそれが「課題」や「問題」として存在している構造そのものに着目する段階である。

社会は、実際のところ、それらの課題や問題として存在していて、それにたいして異なる立場の関係者が延々と議論や軋轢を生みだしてくれていることで安定もするし、また、特定の階層の関係者は、そうした状態が維持されることで利益を守ることもできる。

しかし、advanced systems thinkingは、そうした構図そのものを意識化して、それを批判的に超克しようとする。

日本の受験勉強を例にとりあげると、「そもそもこのような『勉強』にとりくむことを国民に強いる『教育制度』とは、果たしていかなる思惑や目的のもとで維持されているのか? また、それを温存することに拘泥する社会構造とはいかなる構造なのか?」等の問いを発することから思索をはじめる意識である。

「受験」という「ゲーム」にいかに勝つのかという思索ではなくーーまた、「それには問題もあるが、とりくみ方次第では意味のある勉強もできる」という発想に陥ることもなくーーそれが「虚構」であることを看破して、それを「現実」であると錯覚させている構造を解き明かそうとするのである。

その意味では、単にあたえられた競争の中で勝利を収めるための知識や洞察を得るためにこうした発達理論にもとづいた書籍に接するのであれば、そこには根本的なところで誤解をしているといえるだろう。

一般的には、ビジネス書というものは、どれほど話題になっても、しばらくすると忘れられてしまうものだが、そうした状況を回避するためにも、そこで扱われている中心概念に関してもう少し慎重に吟味をする必要があるのではないだろうか……?

A Thought on the Speech by Robb Smith

A friend of mine recently participated in an event hosted by Integral Life called What NOW conference (https://integrallife.com/events/what-now/). Soon after the event, the key note speech by the CEO Robb Smith was made available online, and I was recommended to take a look at it.

 

Never Been Better, Never Felt Worse: Inside the Rise of an Integral Global Operating System for the 21st Century

By Robb Smith

January 4, 2018

 

Over the past decade, I have been following the presentation by those associated with Integral Institute (Integral Life) on the topic of politics, and I have been consistently disappointed by the poor quality of those presentations. One of the key problems that characterize them is the adamant refusal of those presenters to pay attention to the shadow aspect of politicsnamely what is commonly called deep politics. Instead, they consistently confine their thinking with the realms of the conventional thinking. When even the main stream media is forced to address the reality of deep politics, partially because they have lost credibility so profoundly under the threat of the alternative media, this state of discourse in the Integral Community characterized by serious ineptitude made me conclude that the community basically degenerated into a mere ideology movement rather than a community of open inquiry.

However, of those pundits associated with Integral Institute, I find some of the presentations by Robb Smith rather interestingso much so that I find them to be worth criticizing as Elliot Aronson would say.

 

So here is my thought on the presentation:

 

Probably the most serious problem is that Robb tends to reify the stage or color too much. I hear phrases such as Stage X thinks this way or Stage Y behaves that way or Stage Z values that... However, in reality, it is extremely difficult to simplistically claim that individuals at a certain stage act in certain ways this definitively.

Furthermore, any value or ideology can be held from multiple stages (for example, both conservative and liberal stance can be held by individuals at stage 3 or 4 or 5 or higher; or even integral ideology can be believed from a wide range of stages), so describing a certain ideological stance as well developed or not well developed is deeply troublesome way of utilizing developmental theory. My impression is that Robb does not really distinguishing between the structure of consciousness and the content of consciousness.

To be honest, it is simply not possible to take anything the person with this level of understanding says seriously.

 

Also, it would appear that there is an underlying conviction that more developed individuals are in terms of cognitive development, more successful they become by necessity. However, the researches do not seem to support that it is actually the case. In reality, highly developed cognitive capacity can lead to greater success only when certain conditions are metfor example, the nature of the position or role he or she occupies and the tasks at hand need to be complex enough to require that level of cognitive functioning. Furthermore, other conditions such as domain specific skills and cultural and system support for that complex cognitive functioning is necessary. Also, when individuals apply complex cognitive functioning to situations that do not call for it can end up doing disservice to the situation (or the person will be simply considered incapable). So, simplistic celebration of complexity is the last thing we want to do.

By the way, developing the cognitive capability at the post-conventional stages such as Turquoise (Construct Aware) and Indigo (Ego Aware) means that individuals begin to deconstruct the fundamental beliefs and values that they have held throughout their lives. That is, at this point, they begin to see the concepts such as development or evolution or maturity as a kind of fiction that we utilize to make sense of reality. Or more fundamentally, they come to realize that those conceptual products is construct or manufactured outcome of human psychological processthus potentially lack reality in the fundamental sense. Clearly, this kind of awareness can be highly disruptive and can easily lead to deep existential crisis. Higher development does not mean greater psychological ease or equilibrium or happiness.

So, to me, what appears to be the lack of attention to the intrinsic risks that lie in the process of development in the presentation is too disturbing. In other words, it would appear that developmental theory is here used as some kind of an ideology based on pseudo-science.

 

With regards to Robbs overall view of the collective world affairs, I think that it is essentially a narrative typically held by those who lives enveloped in the conventional world in the US. From a perspective that is a little removed from the US domestic politics, for example, people are generally aware that it does not really matter who the president is (Bush, Clinton, Obama, Trump...) as the deep structures of the national security community and policies remain pretty much the same. Whatever the contents of speech a president reads out loud on front of the public, more and more people now realize that it does not really matter much in the context of the big picture. A while ago, Jeff Saltzman and others at Integral Institute proclaimed Barak Obama as integrally informed president, and it shocked many of us as such a proclamation only attested their naiveté.

Basically, we need to pay attention not to what words (e.g., speeches and presentations) are being spoken by the famous political figures but the overarching context and system within which such words are spoken and consumed (and what kind of status is preserved by means of that cycle) in the political discourse.

Frankly, in this sense, despite all the remarks on the radical changes that are taking place in the world, I do not think that I have heard anything that is truly insightful in Robbs speech.

 

Overall, despite the assertion by those who are associated with Integral Institute that they are thinking from high developmental stages, my sense is that the community is struggling to produce anything that can qualify as integral or turquoise or indigo or whatever color that is in vogue today in reality. And in my opinion, this is one of the reasons why the community is failing to be provocatively relevant in society at this point.

天才は存在するのか?


先日、主催する研究会の参考図書のひとつとして、今井 むつみ氏の『学びとは何か:“探究人”になるために』(岩波新書)をとりあげた。
今井しは、現在の日本の発達心理学において注目にあたいする研究者のひとりで、その旺盛な著述活動をとおして、ひろい範囲でその存在を認知されてはじめている。
個人的にも、人格形成期に英語圏で15年程暮らして、言語習得の問題に関しては当事者として実に様々な経験や試練に直面したこともあり、人間の言語習得に関する今井氏の研究には常に大きな感銘をあたえられている。
また、そればかりではなく、仕事の関係上、周りには家族と共に長期の海外滞在をする同僚や知人の多くが、子供達の言語学習に関して大きな悩みを抱えていることもあり、いわゆる「国際化」が急速に展開する今日において、言葉をめぐる問題が真に切実なものとして浮上していることを日々実感させられている。
言葉というものが、単なる道具ではなく、人間の認知・認識を根源的なところで規定するものであり、また、さらにはアイデンティティを支配するものであることに関しては、今日の英語礼賛の空気下では、人々は無関心を決め込んでいるが、そうした真に本質的に問題にたいして正面から発言しているという点においても、今井氏の活動は非常に重要なものだと思う(ちなみに、子供の言語教育に関して悩みを抱いている同僚には、必ず今井氏の『ことばと思考』を紹介することにしている)。
ただ、岩波新書の第二冊目として出版された『学びとは何か』においては、今井氏は、専門の範囲をこえて、人間の能力開発の極限にある「熟達」(mastery)に関して解説をしているが、印象としては、論述が少々散漫であり、言語習得に関する書籍や論文とくらべると、随分と物足りないところがある。
しかし、個人的には、それ以上に印象的だったのは、「熟達」について扱っていながらも、いわゆる「天才」(生まれながらに特殊な能力をあたえられてきている人々)というものに関しては、ほとんど論述がされていないということである。
もしかしたら、そこには「全ての人間は平等な素質をあたえられて生まれてきているのであり、生まれながらに突出した素質や能力をそなえている者などいないのだ」というような平等主義的な価値観が存在しているのではないかと推測してしまう。
換言すれば、個人間の能力の差というのは、素質・資質の差ではなく、生まれ育つ環境条件の差に起因するものに過ぎないのであるという世界観に支えられて全ての研究が行われているのではないかと思うのである。
まあ、窮極的には、それは個人が――意識的であれ、無意識的であれ――立脚する価値観や世界観に拠るものだと思うので、それについてあれこれ言ってもあまり意味はないのだろうが、少なくても、いわゆる「天才」というものが存在しえる可能性を排除した人間観・世界観というのは、この世界を随分とつまらないものにしてしまうように思う。
確かに、現在の人類社会が人間の能力を真に最大限に育成することに成功しているかどうかといえば、それは致命的なまでに失敗しているというのが正しいだろう。
また、今日、世界を席巻する社会の「進歩」は――まさに思想家ケン・ウィルバー(Ken Wilber)が「フラットランド」(flatland)という概念で問題提起するように――人間の全人格的な成長や成熟を促進するのではなく、むしろ、真・善・美という価値観を探求・体現するのとは逆行する方向で人間に影響をあたえている。
たとえば、今日において、人間の成長や成熟という概念が重要なものとして認識されるのは、あくまでもそれを実現することが経済活動の中で実利的な利益をもたらすからであり、そうした発想そのものを――そうした発想を無批判に受容・称揚する時代や社会そのものを――対象化して批判的に検討できる成長や成熟は求められない。
ハンナ・アレントは、所与の社会制度に従順に適応することに腐心することは悪であると述べたそうだが、今日、一般的に称揚される成長や成熟は、往々にして、悪を増幅するものでしかないのではないかと思うのである。
しかし、同時に思うのは、そうした劣悪な条件下においても――あたえられた教育や支援に還元できない――突出した成長や成熟を実現する個人は存在するのではないかということである。
また、たとえそうした突出した人物を研究対象としてとりあげて、その人物がなぜそれほどまでに優れた能力を発揮しえているのか――また、それを可能とする訓練・実践とはどのようなものであるのか――を解明してみたところで、その才能の偉大さを真に理解したことにはならないはずである。
真に傑出した人物が、しばしば、人並外れた訓練を実践にとりくんでいるのは言うまでもないが、しかし、その人物の偉大さをそうした訓練の効果や効率に還元することはできない。
それはあくまでの偉大さの要素のひとつでしかないのである。

 

こんなことをあらためて書き綴っているのは、今年にはいり、非常に感動的な演奏会を経験したからである。
ひとつは、東京文化会館で開催された東京音楽コンクールのヴァイオリン部門の本選会、そして、もうひとつは、東京オペラ・シティで開催された日本音楽コンクールのヴァイオリン部門の本選会である。
共に本選会なので、演奏者の方々は実に優秀なのだが、最終的に優勝したのは年齢的に若い二人の女流演奏家であった(前者で優勝した荒井 里桜さんは大学1年生、そして、後者で優勝した大関 万結さんは高校3年生)。
実際、二人とも他の参加者とくらべると全く別次元の演奏家で、彼等の奏でる音が流れはじめると会場の音が瞬時に一変してしまう。
そして、伴奏をつとめているオーケストラの音も劇的に変質してしまう(もちろん、在京のプロのオーケストラの方々は非常に誠実な仕事ぶりで、全てのソリストに真摯な伴奏を提供していたが、こうした傑出したソリストが演奏をしだすと自然と火が着いてしまうのであと思う)。
小さな弦楽器が奏でる繊細な音が巨大な会場の空気を変質させ、また、そこに集うている千人以上の人間の意識を呪縛し変容させてしまうのを間近にするのは、まさに奇跡的な瞬間に立ち会わせてもらっているような気持になる。
こうした演奏家は非常に稀有な存在ではあるが、確かに存在している。
音楽批評家がしばしば言うように、まさに生まれながらの音を持っているのである。
こんな瞬間を実際に経験すると、傑出した素質というものをあたえられて生まれてきている人間が存在するという可能性をどうしても肯定したくなってしまうのである。
また、そうした体験は、偉大なものがあたかも的確な訓練さえすれば誰にでも獲得できるものであるという物語を信奉することの傲慢さから目を覚ませてくれる。
多数の音楽愛好家が真に偉大な演奏者の生演奏に立ち会えたときのことをあたかも宗教体験のように回想するのを耳にすることがあるが、それはたぶんそうした経験が単純な訓練や実践では到達できない非日常的なものとの出逢いをもたらしてくれた経験であるからなのだと思う。

 

成人教育の最前線

今日、成人を対象にして一般的に行われているトレイニングのほとんどは、なんらかの「システム」(例:手法・方法・枠組)を紹介し、その習得を支援するためのものである。
たいていの場合は、そうしたトレイニングで参加者の要望に応えることができるのだが――正にそれゆえに、そうした類のトレイニングがひろく受容されている――まだ比率的には少ないが、それよりもひとつ次元の高いトレイニングが求められはじめていることを実感する。
具体的には、あるひとつのシステムを紹介するのではなく、複数のシステムを組み合わせて統合的に用いることで、参加者の課題や問題を解決するための助けをしようとするものである。
実際のところ、たとえば企業組織の選抜者を対象にしたトレイニング等の優秀な人間を対象とする場合、単にシステムを紹介するだけでは参加者の拒絶を招いてしまうことになる(それは、そこで紹介されるシステムがたとえ複数であろうと同じことで、システムが統合されることによって新たな価値が生みだされないといけないのである)。
結局、彼等は既に自律的に勉強するための高い学習能力をそなえており――また、そのために、日常生活の中で様々な工夫を重ねており――わざわざ集合型のトレイニングに来なくてもいいのである。
端的に言えば、そうした類のトレイニングは非効率的なのである。
発達心理学者ロバート・キーガン(Robert Kegan)の用語を用いて説明するならば、自律的思考力を発揮する第4段階の人間にとって、システムを習得することは独力で可能なことなのである。
それよりも、彼等が求めているのは、ひとつのシステムをあてはめるだけでは把握・解決できない課題や問題に対処するためのスキルを高めることである。
そして、それは、とりもなおさず、複数のシステムを統合的に活用するためのスキルなのである。
そうした能力を有するインストラクターがつくる空間の中で探求をすることで、そうした統合的な思考をするとはどういうことなのかを束の間のあいだ体験することが、そのまま彼等の成長衝動を刺激することになる。
そこで彼等は日常の思考の枠組を超えて質的により高い視野をとおして思考することがどういうことなのかを垣間見るのである。
ただ、今日においては、そうした統合的な意識というものは、生きた指導者の支えを借りなければなかなかあじわえないものであるようだ。
巷に流通する大多数の書籍が合理性段階の執筆者により合理性段階の発想や思考を紹介するために書かれたものであるために、それよりも質的に高いレベルの思考に触れようとすると、どうしてもそれ以外の媒体の刺激に触れることが必要となるのである(また、文章という媒体そのものが直線的に展開するものであるために、合理性段階を超えた発想や思考を示すには少々適さないところがある)。
その意味では、今日において成人を対象にした――とりわけ、優秀な層を対象にした――成長支援施策に必要となるのは、参加者が合理性段階のもうひとつ高い段階の意識を体感できるための仕掛を企画者・運営者がいかに用意することができるかといことになるだろう。
もちろん、そうした空間を構築するのは容易なことではない。
また、一対一のセッションにではそれができても、多人数を相手にしたときにそれができるとも限らない。
実際、日本国内の人材育成業界を見渡したとき、果たして何人のトレイナーがその域に達しているかといえば、極少数ということになるだろう。
しかし、今日の社会情勢を眺めると、非常に烈しい速度で既存の世界観が崩れはじめていることは明らかであり、そうした文脈の中では、合理性段階の思考だけでは全く時代に適応できなくなりはじめていることは議論の余地の無いところであろう。
たとえば、今話題を集めている『東芝 原子力敗戦』(大西 康之著・文藝春秋社)という書籍があるが、そこで示されているのは、日本の優秀な政財官の関係者が悉く破綻した虚構の中に埋没し、皮肉にも、卓越した合理的思考力を発揮して着実に、そして、主体的に破滅に向けて突き進んでいる悲劇である。
あまりにも典型的な事例ではあるが、合理性段階の知性は、「利権」と「保身」と「同調圧力」の下では、自己の思考が立脚する「現実」が実は虚構であるかもしれないことに意識を向けることができなくなってしまうのである。
ここに描かれている「敗戦」は、ひとえに日本のエリート層の精神の貧困に起因するものである。そして、こうした敗戦は社会のあらゆるところで発生している。
それは、合理性段階を超える知性を社会の中に全く生み出しえていないことに大きく関わっている。
いわば、「進化」することに失敗していることの直接的な結果なのである。
統合的思考をする能力(ロバート・キーガンの発達理論における第5段階にあたる)を社会の重要な意思決定にたずさわる人々の中に涵養するという点においては、今日、日本は世界でも悲劇的なまでに立ち遅れている。
そして、そうした状況を打開する兆しは全くみえない状況である。
少なくともしばらくのあいだは日本の地盤沈下は止まることなく着実に深刻化していくことだろう。
巷では、「教育改革」の必要性が叫ばれているが、実はそうした声をあげている大人達が、時代の要請を受けて成長・変化していくことができないという、いわば「発達障害」的な状態に集合規模で陥っていることは、ほとんど指摘されない。
われわれが今真に為すべきは、破綻と破滅を次世代に継承しようとしている大人達にたいする教育的支援を強化することなのではないだろうか……。

 

成長の触媒としての「越境」について


今日、児童教育の関係者達は、生徒を受験競争に勝たせることに腐心し、また、人材育成の関係者達は、クライアントである企業人の能力開発を支援することに腐心している。
対象年齢は異なるが、共にあたえられた「ゲーム」の中で生徒が成功できることに意識を閉ざしているのである。
本来、教育とは、そうした時代の「実利的」な要請の呪縛を逃れたところでとりくまれるべきものなのだが、実際のところ、大多数の関係者が「ゲーム」にのめりこんでいるのである。
企業関係者はしばしば今日の教育の問題点を辛辣に指摘するが、何のことはない、所与のゲームの枠組の中で能力を開発にとりくむことしかしないという点においては、両者はあまり変わらないのである。
その意味では、今日、真に必要とされているのは、教育というものを同時代のゲームに従属したものではなく、むしろ、それから人々の意識を解放するものに進化することである。
時代の変遷と共にゲームの内容は変化をする。そして、人々はそうした変化に適応することを求められつづけることになる。
教育が、単に刻々と変わるゲームに適応するための能力を養うためのものに堕しているとすれば、それはその元目的から非常に解離した状態にあるといえる。
そして、そうしたものでありつづける限り、それは個人の尊厳を保証するものではありえない。
結局、それは所与のゲームの中で勝つことにしか興味のない人間――即ち、それは真に思考することができない人間である――を生み出すことにしかならないのだ。

現在、企業社会の人材教育においては、しばしば、越境という言葉が重要概念としてとりあげられている。
終身雇用制を前提として、あるひとつの環境の中に収まっているのではなく、異なる環境の中に積極的に飛び込んでいくことで、自己の視野や発想をひろげ、ひいては人材としての自己の感性や発想や視野を高める・拡げるべきであると言われているのである(そうした努力を重ねれば、いわゆる「創造性」(innovation)を高めることができるはずだと考えられているのである)。
ただ、一般的には、こうしたときに意図されているのは、あくまでも最終的に労働市場における自己の価値を高めることを目的とした越境である。
多様な文脈に参画することをとおして、自己の意識を拡張することに反対する人はいないと思うが、ただ、そうしたとりくみが、結局のところ、企業社会における生産性(performance)を高めるためのものとして位置づけられることには違和感を覚える人もいるだろう。
というのも、そこでは、物理的に多様な文脈に越境していくことが称揚されながらも、精神的には常にあたえられたゲームの中に留まりつづけることが半ば無意識の内に前提とされているために、本来的に「越境」という概念が内包しているダイナミズムが矮小化されてしまっているからである。
物理的な越境は称揚されるが、精神的な越境は実は半ば無視されてしまっているのである。
しかし、とりわけ時代の変わり目においては、われわれには、自己の生きる社会の支配的な論理そのものを対象化する力が求められることになる。
たとえば「経済成長」という概念がこれほど強烈に社会を呪縛している時代というのは、未曾有のものであるが、もしわれわれが真に越境をこころみるのであれば、そうした概念を対象化して、それとは異なる論理にもとづいて社会が営まれえることを探るような経験をしてみてはどうだろうか……?
即ち、自己の存在をとりこんでいるゲームそのものを対象化して、あらためて自己の実存そのものについて意識を向けることができるような越境をしてみるべきではないだろうか……と思うのである。
平たい言葉で言えば、それは「非日常」を求めるということである。
日常生活を支配している価値観や世界観を気づかせてくれるような状況に参画してみるということである。
そうした体験を積極的に求めることができるようになることが、今日の日本人の心に蔓延しているといわれる「閉塞感」を打破することにも寄与すると思うのだが……。

「シン・ゴジラ」 ‐ 二つの合理性

先日、「シン・ゴジラ」をDVDで再観賞したのだが、あらためて傑出した作品だと思った。
ただ、ひとつどうしても気になるのは、日本人俳優の英語が酷いことで、もちろん、ある程度は練習はしているのだろうが、総じて恥ずかしいレベルである(外国人俳優の英語は、日本人にも聞きとれるように意識しているのだろうか、とても聞きやすい)。特に石原 さとみは酷く、彼女が登場すると一気に画面の現実感と緊迫感が失われ、そこだけ別のコメディ映画のような雰囲気になる。
まあ、それはともあれ、「シン・ゴジラ」の面白さというのは、ひとえに「官僚」の行動論理を的確に描いていることにある。彼等は非常に優秀であるが、その優秀さは常に他者にあたえられた目的を達成するためにしか活用されないという特性を備えている――あるいは、自己の立場に付随する目的を達成することにしか用いられない。全ての会議はそうした所与の目的を「確認」「承認」するためのものであり、 それよりも踏み込んだ議論は行われない。
こうした文化を維持するための重要な約束が、「想定外」のことについては考慮しないという暗黙の合意を全ての関係者がしておくことである。そうした議論を許してしまうと、ほんとうに議論をしなければならなくなるし、目的そのものについても問い直さなければならなくなる。
作品の中では、ただひとり主人公だけがそうした「約束」を破る勇気を持ち合わせた人物として描かれるが、正にそれがこの人物を主人公たらしめているのである。また、それは単に周りの空気に抗うという勇気を持ち合わせているだけでなく、そうした状況においても、「前提を疑う」というより高い認知能力を駆使することができるという真に高い認知能力を発揮できるという認知的な特徴に支えられてもいる。発達心理学のロバート・キーガン(Robert Kegan)が述べるように、個人の認知構造の成熟度とは、結局のところ、周囲の支援が無い過酷な状況においても発揮されるものをみて測定されるべきものなのである。
その意味では、「シン・ゴジラ」という作品は、二つの異なる認知構造間の衝突を描く作品としてもみれるだろう。即ち、同じ合理性段階の認知構造でも、所与の目的の実現にたいして盲目的に従属する合理性と所与の目的に呪縛されることなくそうした前提条件を脇に置いて、現実と対峙できる合理性のあいだの衝突なのである。
ちなみに、前者に関しては、Max HorkheimerとTheodor W. Adornoが“Dialectic of Enlightenment”の中で詳述している。そうした精神は、第二次世界大戦中には全体主義の温床となり、そして、現代においては「想定外」にたいしては意識を閉ざし、ひたすらにあたえられた目的に自己の精神を従属させる思考麻痺を蔓延させている。
日本の集合意識は半世紀前とくらべて、少しも進化はしていないのである。

 

精神の檻

発達心理学者のZachary SteinがBLOGの中で、今日の社会的な危機の中心にあるのは、社会の意思決定の中心にいる高学歴者の能力的な限界であるという指摘をしている(http://www.zakstein.org/mediations-during-an-educational-crisis/)。端的に言えば、彼等が高等教育の中で授けられる訓練そのものが、社会を舵取りしていくうえで、決定的に不十分なものに成り果てているのである。
日本でも、いわゆる「エリート」といわれる人間達が、その精神に深刻な倒錯されて抱え込まされていることが、安冨 歩氏が指摘している。
教育は一歩間違うと「調教」に堕することになるが、今日、世界規模で露呈しているのは、人類の教育が――とりわけ、上層部において――その語源に息づく「解放」(liberate)するものではなく、むしろ、その間逆を推し進めるものに変質しているのである。
実際、優秀といわれる人間であるほど、それまでに蓄積してきた知識や枠組の檻の中に閉じ込められてしまってしまい、それを揺さぶりかねない知識や思想に耳を閉ざしてしまう(あるいは、非常に攻撃的・批判的になる)。
少し戯画化していえば、彼等は非常に熱心な日本経済新聞の愛読者ではあるが、そこに掲載されない情報は「虚偽情報」(“fake news”)としてしか認識されないのである。
自己の認識や思考を支えている前提や基盤そのものを防衛しようとするのではなく、それが往々にして自己の精神を幽閉する檻になることを自覚して、常にそこから自己を解放しようとこころみようとする態度こそが教育がわれわれに授けるべきものなのだろうが、皮肉にも、長年にわたり「高い」レベルの教育を受けてきた人間ほど、それができなくなる傾向があるようである。
人材育成の世界では、こうした批判的な能力を“Double Loop Learning”と形容して、主として企業研修の世界でひろく紹介されているが、ただ、真にDouble Loop Learningを実践するということは、われわれの日々の経済活動を下支えしている諸々の前提や基盤にある価値観等にたいしても批判的になるということである。
その意味では、Double Loop Learningが実践されているとは間違ってもいえないのである(Double Loop Learningについてトレイニングを提供しているインストラクター自身がそれをできていない)。
上記の記事の中でSteinが主張するように、21世紀において求められているのは、これまでとは異なる優秀さであり、また、それを把握するための測りである。
自己の精神の檻から自己を解放するという点においては、人類は概ね劣等性であり、また、とりわけ「エリート」は圧倒的な能力不足である。

第15回東京音楽コンクール 本選 ピアノ部門

東京文化会館で開催された15回東京音楽コンクール 本選 ピアノ部門を鑑賞してきた。

いわゆるコンクールを聴きにいくのは初めてのことだが、なかなか興味深い体験であった。

今日、われわれはCD等をとおしてあたりまえのように優れた演奏家の演奏に触れることができるが、こうした演奏を聴くと、そうした演奏家達の凄さにあらためて気づかされる。

1演奏者はラフマニノフのピアノ協奏曲第2番を異常に遅いテンポで弾いたが、そのテンポを必然的なものとするものが演奏者の内に感じられないために、総じてもたれる演奏に思われた。

逆に、同じ曲を弾いた第4演奏者は、強靭な打鍵を駆使して早めのいいテンポで弾いたが、あくまでも運動神経だの善さだけが魅力の演奏で、あまり芸術性は感じられなかった。

個人的には、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番を弾いた第2演奏者とラフマニノフの狂詩曲を惹いた第3演奏者に才能を感じた。共に東京藝術大学の在学生だが、彼等の演奏を聴いていつも思うのは、実に舞台慣れしているということである。そして、また、彼等がこれまでに受けて教育の質の高さが自然と伝わってくることである。二人の演奏には、作品をとおして自己を表現しようとする意志を感じることができた。

 

協奏曲の場合には、作品のレベルにまで演奏者が自己を高めていないと、それが瞬く間に露呈してしまうところがある。そこには、こうした有名曲を何度も演奏して作品を知り尽くしているオーケストラの存在があるのだろう。独奏者が彼等のレベルに到達していないと、そのことが露わにされてしまうのである。その意味では、協奏曲というものは、独奏者にとっては、恐いものなのだなあと痛感させられた。

 

梅田 俊明の指揮する日本フィルハーモニー管弦楽団の良心的な仕事にも感心した。終焉の数分後、楽屋口の前を通りかかると、急ぎ足で帰宅する楽団員の姿が目にはいったが、4人のピアニストはともかく、少なくとも彼等には、今日の演奏会は無数の仕事のひとつなのだ。そんな彼等の率直な心に触れたようで、何とも微笑ましく思った。

 

東京文化会館は色気の無い演奏会場で、会場の音響が演奏を高めてくれることはないので、正直、そうした意味では、愛着を抱きにくい会場である。

 

尚、正式な審査結果は下記のとおり:

 

1位:ノ・ヒソン

2位:原田 莉奈

3位:丸山 晟民

入選:太田 糸音

聴衆賞:ノ・ヒソン