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新日本フィルハーモニー第606回定期演奏会を聴いて

新日本フィルハーモニー(NJP)の第606回定期演奏会を墨田トリフォニーで聴いてきた。今日の指揮者はフィリップ・ヘレヴェッヘ(Philippe Herreweghe)。

 


まず、今日のメインとして置かれたシューマンの交響曲第2番に関して。
聴きながら思ったのは、「もしこの作品がロベルト・シューマンという有名作曲家のものでなかったとしたら、これほどまでに長くにわたり聴きつづけられたのだろうか……?」という素朴な疑問だ。
少なくとも第1・2楽章は全く凡庸な音楽だと思う。
確かに第3・4楽章は聴くに耐える出来ではあるが、古今東西の無数の名曲の中から、あえてこの作品を演奏会のメインとしてとりあげるほどの価値があるとは信じられないのである。
個人的に特に気になるのは、作品の中に包含される感情の揺れ幅が非常に「狭い」ということだ。
音だけを聞くと、そこには大きな高揚があるように思われるが、それらの音を書いている作曲者の心が真にそうした起伏を感じているとは到底思えないのである。
そこには「嘘くさい」雰囲気が常につきまとうのである。
また、そうした「齟齬」にたいする作曲者の苦しい葛藤があるかというと、必ずしもそういうわけでもない。
感情のダイナミズムを喪失した状態で書かれたこの作品は、表面的には交響曲の作曲作法に則っており、形式的には起伏のあるドラマが描かれているようにみえるが、どうしてもそれらは作曲者の内的な真実と乖離したところで作りあげられた嘘に思えてしまうのである。
あえていえば、第3楽章の深い悲しみに作曲者の本音が垣間見えるくらいである。
もしかしたら、こうした作品の「歪さ」が高く評価されているところなのかもしれないが、それはあくまでも作曲当時の作曲者の精神状態を知識として仕入れていればこそあじわえる愉しみ方であり、窮極的には作品そのものの力ではない。
単なる知的な愉しみでしかないのである。
今宵のNJPの演奏は最上のものだったと思うが、こうした作品そのものにたいする違和感は払拭できず――また、こうした作品を名曲と信じ込まされて聞かされていることにたいする居心地の悪さもあり――ほとんど感動をあじわうことはできなかった。
真に優れた古典音楽というのは、普段こうした音楽を聴かない聴衆をも圧倒するようなものでなければならないと思うのだが、そうした意味では、作品の力が弱過ぎる。

これにくらべると、前半の二曲は上々の出来だと思った。
はじめの序曲「フィンガルの洞窟」を耳にしてまず印象的だったのは、ヘレヴェッヘが指揮をすると、NJPが実に古雅なあじわいを湛えた音を紡ぐこと。
それでいて、上岡体制のもとで育んだ繊細な感性があらゆるところに瑞々しく息づいている。
古い西欧の風景画を眺めていると――実際に自分の目で見たわけでもないのに――額縁の中に収められた「失われた過去」にたいする淡い郷愁を覚えるものだが、今日の演奏を聴きながら、それと似た想いが心に去来した。
メンデルスゾーンは必ずしも普段積極的に聴きたいと思う作曲家ではないのだが、この作品は「詩情」という言葉のほんとうの意味をおしえてくれるような逸品であることにあらためて気づかされた。
次のシューマンのピアノ協奏曲は、ソリストに仲道 郁代を迎えての演奏で、特に第1楽章が絶品だった。
ゆったりと間をとり、たいせつなところで弱音を奏で聴衆を魅了していく。
また、仲道の奏でる音には常に優しさと温かさが息づいている。
こうした響きがこのピアニストの何よりの魅力だと思う。
あえていえば、それは幼子に子守唄を歌う母親の姿に宿る愛のようなものを想起させる。
また、仲道の演奏を聴きながら思ったのは、演奏者の音には実にその人柄が滲み出るものだなあ……ということだ。
彼女のインタビュー動画等を観ると、美貌と才能をあたえられていることにくわえ、経済的な豊かさ等も含めて、様々な意味で恵まれた人であることが推察されるが、そのように祝福されて生まれていることが、実に素直な幸福感として音に託されているように思われる。
確かに、芸術には苦悩や寂寥のようなものも必要だと思うが、しかし、そうしたもので勝負するのではなく、むしろ、この世に生きる極少数の人達だけが享受することのできる屈託のない祝福を音に託して届けてくれる演奏家がいてもいいと思う。
この作品は正に作曲者が愛する者にその想いを告白するようなひたむきさに溢れた作品だが、仲道の奏でる美音には、ときには寂しさが、また、ときには喜びが過度な刺激を伴わずに息づいていた。
第3楽章はさらなる強靭な躍動感がほしいところだが、全体としてはとても素敵な演奏だったと思う。
実際、第1楽章では、シューマンのあまりにもひたむきな想いに心を動かされ、思わず落泪してしまった(周りの聴衆の方々もハンカチで目をぬぐっていた)。

上昇と下降

今日の成人教育において――とりわけ、企業を舞台にした成人教育において――関係者は、人間の成長というものを上昇的な文脈の中でとらえることを常に求められることになる。
そこでは、成長というものが生老病死に象徴される衰退の現実を受容する中で進展することが忘れられ――正確には拒否・拒絶されというほうがいいだろう――さらなる高みをめざして上昇していくための能力を高めていくプロセスとして理解されるのである。
端的に言えば、そこでは、人間の知識や能力というものが、世界を操作するための技術的・科学的なものに矮小化されてしまい、人間の全体性の中に包含されている倫理意識や美意識といった質的なものが排除されてしまう。
たとえば、そこでは優しいことよりも、生産的であることが評価されるのである。
この瞬間、人間は機能的な存在に矮小化され、深みを剥奪されることになる。
実際、今日、「リーダー」として崇められている人達の大多数がこうした機能的な存在としての性能や機能をそなえているだけで、そこに「深み」を全く感じさせないのは、正にこうした時代の倒錯がそこに反映されているからである。
下降することが重要な能力として認められ、上昇のみに邁進するのではなく、それを体現している人間こそが真に成熟した人間であるという感覚が失われていることの貧困を日々痛感するが、こうした問題は時代を支配する「大きな物語」(meta-narrative)そのものが内包する倒錯に起因するものであるために、大多数の人達にはそもそも問題として認識されにくい。
とりわけ、大きな物語に呪縛されることなく、自由に生きることができているという確信を抱いている人間ほど、大きな物語が脱構築された空間に静かに別の大きな物語が侵入して、自己の意識と存在を深く呪縛していることに気づかない。
また、今日、至るところで「内省」の重要性が叫ばれるが、こうした「物語」は単に目を閉じて自己の内を覗き込むことで認識されるものではなく、それを対象化するための思考上の方法を用いなければ、認識されないものである。
たとえば、巷では“double-loop learning”や“triple-loop learning”等の言葉で内省の方法が伝授されているが、それは必ずしも時代や社会を批判的に検証するための視座の確立に至らないのである。
それらはあくまでも「上昇」の文脈の中でより優れた方法を見出すための行為に過ぎないのである。
確かに、インテグラル理論は、批判的な検証にも複数の方法があることを認め、それらを並行して実践することを求めるので(異なる象限に立脚した検証)、こうした限定的な内省に依存する思考を克服するための機会はあたえてくれる。
しかし、われわれはまたこの理論が必ずしも常にそのように用いられるわけではないこともたびたび目撃している。
その意味では、インテグラル理論に限らず、「この理論や枠組を用いれば、それで全てはうまくいくはずだ」というようなものは無いのかもしれない。
そうしたメタ的な視座を得ようとするためには、意識や存在の深いところでそれを真に希求する力が働く必要があるのだろう。

発達は人間を「善く」するのか?

Zachary Steinの新著Education in a Time between worldsの「Introduction」に「The Growth-to-Goodness Assumptions」という非常に重要な文章がある。
簡単に言うと、これは高次の階を確発達段立することは人間を「善く」するという物語を信奉する発想のことで、現在、発達理論がひろく紹介される中で――理論の消費者だけでなく、その研究者や提唱者も含めて――ほとんどの関係者がこうした発想に呪縛されている。
こうした状況にたいしてSteinは批判をくわえるが、その主なポイントは下記のようなものである。

 

・いわゆる「高次」の発達段階を体現する個人の数があまりにも少ないために、本格的な実証研究を実施することが不可能であるということ。そのために、理論書の中にあるこれらの高次の発達段階に関する論述は多くの場合において推論の域を超えるものではない。
・少数の実例研究を通して認識された高次の発達段階に関する研究は、必ずしも、それが人間を「善く」するものではないことを示唆している。また、それはしばしばこれらの段階特有の病理や苦悩や困難をもたらすことを示唆している。

 

実際、この領域の代表的な論客であるRobert Keganでさえ、「発達をすれば、仕事がより良くできるようになるのです」と述べてしまうほどなので、この「The Growth-to-Goodness Assumptions」が、専門家も含めて、いかに人々の意識の奥深くに忍び込んでいるかということを窺い知ることができるだろう。
確かに、高次の発達段階がもたらす恩恵も大きなものではあるが、それを「統合的」(integral・integrative)とよんで半ば無批判に称揚して、それに向けて「消費者」を駆り立てるのは、人間の現実をあまりにも無視したものだといえる。

ところで、このくだりを読みながらしきりに思い出されたのは、研究時代に読んだThe Religious and Romantic Origins of Psychoanalysis: Individuation and Integration in Post-Freudian Theory by Suzanne R. Kirschner(Cambridge University Press)という書籍である。

著者の主張は非常に簡潔なもので、いわゆる西欧心理学はその本質において「神」や「霊」等の言葉でいわれる全体性との融合に至ろうとする宗教的な衝動に支えられた営みであり、必然的にその理論はそうした宗教的な救済を約束する物語としての形態をとることになる。

端的に言えば、今日、流行の兆しをみせている発達理論もそうした特徴をそなえているということである。
もちろん、それが悪いということではないが、少なくとも関係者はみずからの探求が意識の深いところに息づく救済を求めるつよい衝動に呪縛されたものであることに自覚的であるべきであろう。
そして、また、そのことがみずからが現実を認識するときに――そして、それを理論化するときに――自己の意識に歪曲的な影響をあたえるということに注意をする必要があるだろう。
とりわけ、今日の時代精神は、本質的に、経済的な成功を得ることを救済の王道として位置づけ、そうした価値観を全ての人々の意識を強烈に呪縛しているために、心理学理論は容易に経済的な成功を約束する救済の物語に転換されてしまうことになる。
即ち、人間として発達することそのものが救済を得ることであり、そして、救済とはとりもなおさず経済的な成功を獲得することであるならば、発達は必然的に経済的成功に直結するものでなければならないという物語に洗脳されてしまうのである。

「大きな物語」は失われたのか?

Zachary SteinのEducation in a Time between worldsを読み進めている。
Introductionは、思想家ケン・ウィルバーのインテグラル理論の概要と意義を紹介しながら、同時に、現代においてなぜこうしたメタ理論が求められているのかということについて解説をしている。
個人的に「なるほど」と納得したのは下記の分析である:

 

いわゆるポスト・モダンの世界においては、「大きな物語」(meta-narrative)が失われてしまったと言われるが、それでは果たして人々はそうした物語無しに生きているのか? というと必ずしもそうではない。
実情は、大きな物語を構築しようとする社会の意図的な営みが失われた結果、defaultとして誰もが容易に合意できる大きな物語が信奉されるようになっているのである。
即ち、知的な努力無しに簡単に理解できる物語が信奉されるようになっているのである。
いうまでもなく、それは「質」よりも「量」に注目する物語である。
「質」(例:何を真として、何を善として、何を美として追い求めるのか?)について考えるためには知性が必要になるが、「量」に関して考えるためには、事の大小を図ることができればいい。
100円よりも10000円の方がいいという判断ができさえすればいいのである。
正にこれこそウィルバーのいう「フラットランド」(Flatland)的な価値観に支配された思考ということになるが、思考をすることに怠惰になった途端、こうした最大公約数の人々が容易に理解できる低劣な物語が静かに「大きな物語」としての市民権を得て、社会を支配するようになるのである。
妥当性を喪失した既存の物語を否定(脱構築)することは必要なことであるが、それが結果として生み出す「価値の欠如」が、こうした最も低劣な物語に強奪されてしまうことになるというメカニズムについて、脱構築という行為に夢中になりすぎた現代人は気づくべきであろう。

発達理論を学ぶうえでの必須条件

Zachary SteinのEducation in a Time between worldsを読み進めているが、インテグラル・コミュニティの研究者の中でこれほどまでに倫理的な感性をしっかりともって意見を表明している人は皆無といってもいいのではないだろうか……。
著者は、一貫して、人間を資源として矮小化してとらえる教育――即ち、生徒を社会的に有用な存在として仕立てあげることを教育の役割と見做す教育――を批判している。
端的に言えば、そうした教育においては人間が本質的に経済的な機能を効果的・効率的に果たせるようになるために訓練されるべき存在としてとらえられ、教育はそうした訓練を最も効果的・効率的に提供する機関と位置づけられてしまっているのである。
そして、また、そこでは「測定」というものは必然的にそうした資源としての人間の能力を測るためのものになり果てることになる。
非常に重要なことは、Harvard Graduate School of Educationで長年にわたり測定に関する研究にとりくんできた著者が、常にこうした問題意識を維持してきたということである。
ある意味では、それは発達理論を学ぶうえでの必須の条件とさえいえるだろう。
それは医師におけるヒポクラテスの誓いのようなものといえるだろう。
今日、成人期の発達に関する研究成果が一般に紹介され、ひろい範囲の人々の関心を集めているが、そうした勉強をするうえで、われわれはまずはこうした倫理的な誓いを立てなければならないということがどれだけ認識されているのだろうか……。
それを忘れてしまった途端、発達理論に関する知識はそのまま人間を資源として矮小化してとらえる同時代の風潮に加担するためのものとして濫用されてしまうことになるのである。

セバスティアン・ヴァイグレの読売日本交響楽団第10代常任指揮者就任披露演奏会を聴いて

5月14日にサントリー・ホールでセバスティアン・ヴァイグレ(Sebastian Weigle)& 読売日本交響楽団の演奏会を聴いてきた。
第10代常任指揮者に就任したこの指揮者の就任披露演奏会である。
前半はヘンツェ「7つのボレロ」であるが、あまりの曲のつまらなさに20分程の短い演奏時間にもかかわらず完全に退屈してしまった。
サイモン・ラトルをはじめとして、有名識者がこの作曲家の作品を録音しているが、個人的には、この日の演奏を聴いて、この作曲家がいかに過剰評価されているかということだけを実感した。
ある意味では――作曲は没してはいるが――今はまだ作品が一般聴衆に紹介されている時期なのではあろうが、将来、こうした作品が演奏会で頻繁にとりあげられるようになり、聴衆が熱心に耳を傾けて心や魂の潤いを得ることになるとは到底思えないのである。
そうした意味では、まずこの重要な演奏会の冒頭にこうした作品をとりあげたヴァイグレの選曲センスを疑ってしまった。
そして、後半のブルックナーの交響曲第9番だが、この作曲家を特徴付ける箴言が全く聞こえてこない。
読売日本交響楽団の献身と高度な機能性もあり、見事な音響が鳴り響くのだが、それを超えて届いてくるものがまるでないのである。
また、指揮者の動作そのものからも芸術性がまるで感じられない。
たとえば上岡 敏之の指揮振りが音楽の意味そのものを高い純度で体現したものであるのと異なり、悪い意味で「合理的」なものであるように思える。
そこには表現することにたいする気迫や執念のようなものが全く看てとれないのだ。
技術的にはほぼ完璧な演奏を聴いているのに、これほどまでに全く心が動かされないというのは久しぶりだ。
ブルックナーの交響曲を知悉している読売日本交響楽団の演奏が非常に見事なものであるがゆえに、皮肉にも、指揮者の芸術性の貧弱性がひときわ際立つのである。
このような指揮者を常任指揮者に迎えて、このオーケストラは大丈夫なのか……? と心配してしまう。
もしこういう類いの演奏をこれから聞かせられるのだとすると少々恐くなるほどだ。
こうした心配がいい意味で裏切られるといいのだが……。
いずれにしても、この指揮者は、日本人が期待する古い「ドイツの精神」の持ち主というよりは、むしろ、近代の合理主義的な精神の持ち主という方が正確だと思う。
報道記事のほとんどは、ヴァイグレのことをドイツの精神を継承する指揮者として宣伝しているようだが、それは大きな誤解を生むものといえるだろう。
先日の第587回定期演奏会でオラリー・エルツが指揮するシベリウスの演奏を聴いて、読売日本交響楽団の状態が非常にいいことに驚嘆したのだが(それは前任者のシルヴァン・カンブルランの大きな遺産であろう)、あらたな常任指揮者のもとでそうした美質が失われないことを切に祈る。

 

上岡敏之&新日本フィルハーモニーのワーグナー・プログラム

サントリー・ホールで新日本フィルハーモニー&上岡敏之のワーグナー・プログラムを聴いた。
いつものようにとても個性的な解釈に溢れていたが――驚くほどの弱音にたいするこだわり、そして、長い間の見事な頻出――何よりもワーグナーとブルックナーが漸くつながったという感覚をあたえられたことが嬉しい。
端的に言うと、このふたりは対極的ともいえるほどに異なる霊的な深化と浄化の過程を辿ったといことが、そして、最終的には共に非常に崇高な領域に至ったのだということがみえたのである。
今日のプログラムは正にワーグナーの魂の遍歴を追う構成になっていたが、最後の「パルシファル」は西欧音楽の真に究極的な世界を開示するものであったし、それが圧倒的な芸術性で表現されていた。
演奏を聴いていると、ありきたりの情緒的な感動とは異なる畏怖の念が沸いてきて、静かに温かい泪が溢れてきた。
演奏会であじわえる最高の体験である。
但し、選ばれた版については、大きな不満を覚えた。
とりわけ、冒頭に演奏された『タンホイザー』の「序曲とバッカナール」(パリ版)は、特に後半のバッカナールが著しく格調が落ちてしまうために、いわゆる「通常版」を聴くときのカタルシスを全くあたえてくれない。
また、後半のはじめに演奏された『神々の黄昏』の「ジークフリートのラインへの旅」はこれから盛り上がるというところで実に乱暴で醜悪な削除があり、この曲を聴く喜びをあたえてくれないばかりか、大きな苛立ちを感じさせるほどである。
また、こうした劣悪な編曲もあり、聴衆も余韻が消えるまえにフライングの拍手をする始末。
こうした点では、あえてこれらの版を選んだ上岡氏の見識を疑いたくなった。
多数のマイクが設置してあったが、あえて短縮版を用いることでCD1枚に収まるように演奏時間を縮めようとしたのか、あるいは、あえて最後の「パルジファル」までは聴衆にカタルシスをあじわうのを禁じようと意地悪をしたのか……。
逆に、「ジークフリートの死と葬送行進曲」はたいへんな名演で、普通であれば音量を維持して奏されるパッセージで何の前触れもなく突然挿入される弱音は正にそこに死の暗黒の世界が現出したようで凍りつくような想いをした。
そして、最後の「パルジファル」の抜粋は正に至高の演奏としか表紙用のない演奏だった。
尚、この日のNJPのアンサンブルは、個人的には――たとえば先日の『復活』とくらべると――いまひとつという感想を抱いた。
たしかに十分に美しいのだが、音の立ち上がりの部分でそろわない箇所が散見されたし、それに、このコンビであれば、もう音を聴いているだけで陶酔感をもたらしてくれるほどの美音を期待してしまう。

 

『エイリアン』最新作を観て

リドリー・スコット(Ridley Scott)監督の『エイリアン:コヴェナント』(Alien: Covenant)を漸く観ることができた。
BluRayを購入したまま開封せずに放置していたのだが、休暇で時間ができたので、鑑賞してみた。
前作の『プロメテウス』(Prometheus)とこの『コヴェナント』共に評判が悪いが、個人的には、とても観応えのある作品だと思う。
ジェイムズ・キャメロン(James Cameron)が監督した『エイリアン2』(Aliens)は娯楽に徹していたが、他の作品は基本的に哲学的な主題を探求する非常に生真面目な作品である。
実際、今から15年も前のことになるが、大学院では、少し先輩の在学生が博士論文のテーマに初期の3作を採りあげていた。
記憶は朧気なのだが、そのときにはエイズ問題等と絡めて論を展開していたのではないかと思う。
但し、当時とくらべると時代の情勢も変化しており、しばしの時間を置いて再開された『プロメテウス』と『コヴェナント』は明らかに異なる主題を扱っている。
具体的に言えば、人工知能と遺伝子操作の領域の技術が格段に進歩した結果として、現実に人類に新たな生命を創造する能力が芽生えようとしている――それは正に神になるということでもある――この情勢を踏まえて、それが最終的にもたらすことになる破滅のシナリオについて比喩的に探求しているのである。
これらの作品の中では、アンドロイドとして登場するDavid(Michael Fassbender)が、自己の創造主である人類に叛逆を企て、そして、彼等を計画的に殺戮していく過程として人類の自滅が描かれる。
それはあたかも子供が親に幻滅し、そして、叛逆し超克をしていく生命(世代交代)の普遍的な過程が描かれているわけだが、われわれ人類が経験しようとしているのは、そうした「親と子」という個体間のそれではなく、生物種としての集合的な交代であるという点において正に画期的なことである。
そして、非常に皮肉なことに、人類はそれを進歩の名のもとに嬉々として熱心に実現しようとしているのである。
「それが技術的に可能であるから」という理由さえあれば、人類は全く躊躇することなく――そして、それはいうまでもなく全く内省することなくということでもある――一心不乱に進歩を遂げようとする。
倫理的な問いかけをし、そうした探求の結果如何によっては技術的な進歩を諦める――あるいはその速度を遅める――ということを真の意味では選択肢に含めようとしないこうした人類のあり方は正に思想家ケン・ウィルバー(Ken Wilber)が「フラットランド」(flatland)という概念で批判した狂気に罹患したあり方そのものであろう。
そこでは創造性の発揮の中に死の種が存在するという実にあたりまえの洞察が忘れ去られ、「変革」や「改革」の名のもとに「創造性」の発揮がただひたすらに奨励されていく。
全ての人に創造的であることを強要するこのあまりにも前向きな社会の空気の異様さに気づけないほどに感性が鈍化しており、そうした鈍さを前提として思索と会話が営まれるのである。
視聴者として、人類に叛逆するDavidに感情移入できるのは、人類の愚かさの産物としてこの世界に生み出されていることの悲しみと憤りに共感できるからであり、また、彼が画策する工作が成功を収めることに倒錯した快感を覚えるのは、それが人類にたいする相応の罰であると認めることができるからだろう。
そして、正にこれこそが要なのだが、Davidが叛逆の道具として利用するゼノモーフ(エイリアン)は人間を母胎とする生物である。
作品の中でも描かれるように、正に破壊衝動の結晶かともいえるそれは人間の存在なしにはこの世界に存在しえないものなのである。
最終的に自己の肉体を食い破り生まれ出るものを自己の中に育てることを宿命づけられた人間の本質を見詰める眼差しが作品の中には息づいていると思う。
『マルサの女2』の中で監督の伊丹 十三は三國 連太郎に「春には死の匂いがする」というようなことを言わせているが、あらたな生命が芽吹くときには必ず死の影が忍び寄るものである。
今、われわれ人類は歴史的に未曾有の技術的な発展を目撃しようとしている。
そして、大多数の人々をそれを「成功」や「成長」の絶好の機会と見做して、自己の生命を投じて懸命に切磋琢磨している。
その純朴な姿の中には、時代の中に幽かに息づく死の臭いにたいする感性は全く認められない。
人間の発達とは、そうした鈍感さに牙を剥く洞察を育むものではないだろうか……。

危険な香りがする言葉……

 

このところ本を読むことがめっきり減った。
継続的に購入はしているのだが、それを丁寧に読むことはなく、著者の講演の動画を視聴することで、ある程度の内容を掴んで済ませるということが増えている。
結局のところ、多くの時間を掛けて読むに価する内容があるのか……?――と問いかけると、大半の著書に関しては動画で大よその内容が掴めればいいという判断に至るということなのである。
それでは、あえて多くの労力を掛けて真剣に読みたいと思う書籍とはどのようなものなのか……?――と問えば、それは「破壊性」を内に宿した言葉と洞察がそこにあることが条件となる。
換言すれば、自身の価値観や世界観を打ち砕いてくれる破壊的な洞察や感性を秘めているのかということが重要な判断基準となるのだ。
どれほど豊かな知識や教養に支えられた著書でも、この条件が欠けていると読みはじめてすぐに退屈してしまう(また、単なる知識を集めるだけであれば、書籍ではなく、Web上で検索をすれば済む話である)。
そして、残念なことに、そうした著書が圧倒的大多数を占めているのである。
たとえば、先ほど世間で非常に高い評価を受けているある評論家の著書をパラパラと眺めていたのだが、この著者の作品にあまり関心が向かないのは、結局そうしたところにあるのだなと納得した。
そこには危険な香りが全くしないのである。
そういう行儀のいい教養にはもう食指が動かなくなってしまった。
「知」の役割は多様にある。
ひとつは現状を正当化すること、そして、もうひとつは現状を超克するための可能性を照明することだ。
たとえば、いわゆる「実用書」は正に前者の範疇にはいるものといえるだろう。
社会の中で営まれている「Game」の中で成功を収めていくための具体的な方法が解説されている。
また、たとえそれが「変革」や「革新」を謳うものであっても、結局のところ、既存のGameの妥当性を受容するところから発想するものが殆どである。
それはやはり前者に属するのである。
いわゆる「知識人」の重要な責任とは、ひとつには後者の発想を社会に提供することにあるはずなのだが、残念ながら、そういう言葉がこのところめっきり減ってしまった……。

 

優秀な人材が飛躍するために必要となるもの

4月19日に奏楽堂で開催された東京藝術大学新卒業生紹介演奏会を聴いてきた。
毎年、非常にたのしみにしている演奏会なのだが、今年は総じて低調な印象を受けた。
もちろん、ソリストの演奏は惚れ惚れとする美音に彩られた見事なものなのだが、普段、国内のコンクールの本選等で同世代の優秀な演奏者の壮絶な演奏に触れていると、「美しい」だけに留まらないものを求めたくなる(あるいは、少なくともそうしたものを志向する気迫を求めたくなる)。
そうした意味では、今年の演奏会は残念ながら優等生的な演奏で占めていたように思う。
もちろん、そうはいっても、聴くべきものがあったのも間違いないところで、たとえば、マルティヌーのオーボエ協奏曲を吹いた山田 涼子さんの演奏には、深く熱い追及があり、大きな感動をあたえられた。
また、プロコフィエフのピアノ協奏曲を弾いた京増 修史さんの美音にも非常に耳を奪われた。ただし、この作品の場合には、どれほどの美音を奏でたとしても、それだけでは御しきれない奇怪性(グロテスクさ)があり、演奏が作品のそうした側面に光をあてようとしないために、徐々に飽きを生じさせてしまう。
チャイコフスキーの協奏曲を演奏した栗原 壱成さんは、積極的に個性的な表現を希求していたようにみえたが、どういうわけか心(存在)の深いところで制限を掛かっているように感じられ、それがそうした意図を阻害しているように思われた。
そのために、たとえば、本来であれは居ても立ってもいられないほどの興奮をもたらすはずの第3楽章が、全くのりきれないものに終わってしまう。
端的に言えば、自己の中の根源的(それは「動物的」と言ってもいいと思う)なものにつながり、それを素直に表現してもいいのではないかと思うのだ。
指揮者として登場した神成 大輝さんは、シベリウスの交響曲第7番という難曲をとりあげたが、正直、この選曲には無理があったように思う。
しばらくまえにハンヌ・リントゥ & 新日本フィルハーモニーの超絶的な名演奏を聴いており、そのときの記憶が生々しく残っているので、酷なのではあるが、藝大フィルハーモニアの非常に献身的な演奏を得ても、この作品に籠められた深い叡智や洞察は全く届いてこなかった。
自作を発表した小野田 健太さんの作品に関しては、美しい旋律を奏でるピアノとそれと対比するように実験的な響きを生み出す管弦楽の対話が興味深く、比較的に好感を抱いたが、それよりも、この作品をとおしていわゆる「現代音楽」の混迷ぶりが透けて観えてしまい、こういう作品を優秀な若者に創るように指導をする今日の作曲科の価値観・世界観そのものに白けてしまった。
そもそもどういう人達を聴衆として設定して創作活動にとりくんでいるのだろう……?

というわけで、この日は、苦労して日程調整をしてまでして聴きに来たのだが、少々期待外れに終わった。
ここで云わんとしているのは、出演者の個性が乏しいということではない。
そもそも個人的には「個性」という概念を信じていないし、もしそういうものがあるとしても、それは意図的に発揮しようとして発揮されるものではなく、その演奏者の自然な演奏姿の中に他者が見出すものに過ぎない。
むしろ、ここで云わんとしているのは、本質的に自己の存在に付与されている「資産」に繋がれていないがゆえに、どれほど強靭な意志と優秀な能力を発揮して自己陶冶しても、表現が十全なものになりきれないのではないかということだ。
とりわけ、理知の対極にあるもの――それは「根源的」・「動物的」・「感覚的」等の言葉で示されるが、決して浅薄なものではなく、深い叡智を息づかせているものである――に繋がれることは、とりわけ重要になるはずなのだが、果たしてそうした観点での教育が行われているのだろうか……? という疑念が沸いてくるのだ。
思想家ケン・ウィルバー(Ken Wilber)の言葉を借りれば、それは「心と身を統合する」(body-mind integration)を実現するということになるのだろうが、そうしたプロセスを進めることができれば、これまでに蓄積してきたものが豊饒であるがゆえに、類稀な成果をもたらすはずである。
しかし、そのためには、これまでに追求してきた探求の方向性の中には――換言すれば、これまでの探求を規定した枠組の中には――真に求める「解」が無いことを認識する必要がある。
優秀な人材と出逢うときにしばしば思うのは、それまでにとりくんできた精進が正しいものであるがゆえに――今、享受している優秀さはそのことを証明している――次の次元に飛躍するために必要となる「幻滅」を経験するための「機会」と「能力」が非常に重要となるということである。
外野からの勝手な意見に過ぎないが、彼等の輝くような才能をみると、そうした幸運にひとりでも多くが見舞われることを願ってやまない。