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久しぶりの演奏会

7月2日@サントリーホール
新日本フィルハーモニー
指揮:下野 竜也

 

フィンジ:弦楽オーケストラのための前奏曲ヘ短調 op. 25 Finzi:Prelude for string orchestra, in F minor, op. 25
ヴォーン・ウィリアムズ:テューバ協奏曲ヘ短調* Vaughan Williams : Tuba Concerto in F minor*
ベートーヴェン:交響曲第 6 番ヘ長調 op. 68 「田園」 Beethoven: Symphony No. 6 in F major, op.68 “Pastorale”
https://www.njp.or.jp/concerts/8733

 

実に久しぶりの演奏会ということで、オーケストラのメンバーが舞台に登場するところから聴衆の熱い拍手が送られた。
演奏する方も聴く方もこの日を待ち望んでいたことが深く実感される。
演奏会はフィンジの小品からはじまったが、しみじみとした郷愁を感じさせる作品で、自然と数十年前の風景が思い出された。
しかし、ただ綺麗なだけでなく、コントラバスの低音が常に効いていて、そこはかとない悲劇性を湛えている。
オーケストレーションの妙だと思うが、このように悲劇的な想いを臆することなく率直に表現する作曲家に訓えられる気がする。
NJPの弦合奏も、この団体特有の輝かしく気品のある美しさを湛えており、その美音を浴びているだけでじんわりと泪が溢れてきた。
次のヴォーン・ウイリアムズの協奏曲は、テューバの不思議に魅力的な音色に魅了された。
楽器そのものがもつ「現代性」は、そこにどこか空虚さを湛えているが、それが不思議とおもしろい。
必ずしも深みのある作品ではないが、田園の風景を心象風景としながら、そこで営まれる人間の日常的な喜怒哀楽の息吹が実感される秀作である。
後半はベートーヴェンの「田園」。
正直なところ、下野 竜也の指揮にはいい意味での「雑然」としたところがなく、それがこの作品のスケールを小さくしてしまっているところがあるように感じた。
しばらくまえに、読売日本交響楽団の演奏会において、下野の指揮でグバイドゥリーナの作品を聴いたときには、その芸術的ともいえるバトン・テクニックには惚れ惚れとしたのだが、こうした古典に関しては、その卓越した技術が少々邪魔をしているように感じられるのである。
ただ、第2楽章以降は尻上りに良くなり、この日の演奏会の特殊性もあり、全体としてはやはり深い感動をあたえられた。
第2楽章では、まるで花園に足を踏み入れたような感覚に襲われるほどに、幻想的な音世界が創造され、聴いていて、極上のフランス音楽を聴いているような感覚に襲われた。
何十年もこの作品を聴いてきて、こうした美が息づいていたことをはじめて気づかされた思いである。
また、3楽章以降は、この作品が正にスピリットの眼をとおして、自然とそこで営まれる人間の暮らし愛の中に眺める作品であることを確信させるほどのものだった。
聴きながら、いつまでも演奏が続いてほしいと思ってしまった。
嵐の場面におけるティンパニの響きには痺れたし、また、末尾に僅かのあいだ奏でられるホルンの神々しい響きには、陶然としてしまった。
NJPの状態だが、全体が溶け合い、この団体の特質であるあの気品溢れる美音を奏でるところまでには至っていないが、今日の演奏会では、そんなことはどうでもよく、こうして音楽がこのホールで奏でられたことそのものに途轍もない意義がある。
終演後、いったん奏者全員が舞台から退いたあとも、客席の拍手は鳴り止まず、しばらくして指揮者の下野氏とコンサートマスターの豊嶋氏が再度舞台に登場して挨拶をした。
こういう光景を見て落泪しない者はいないだろう。

生の演奏が聴けることがいかに贅沢なことかということを演奏会の常連は忘れがちだが、結局のところ、感動とは、その人間が内に感じている飢餓感に支えられているものである。
飽食のために肥満しきった人間には料理の価値は解るはずもないのだ。
藝術を愛する者であれば、自身の内に「飢え」を維持するために、普段からいろいろと工夫をするものである。
同時に、もうひとつ思ったのは――これはどの団体にも言えることだが――演奏者の方々にはやはり「今日が最後の演奏会になるかもしれない」という想いをもって演奏をしてほしいということだ。
聴衆を前にして演奏する機会は、今日も明日もあると思うと、演奏行為は「仕事」になるし、また、舞台上の演奏者の姿もそうした意識を反映するものとなる(そういうものは、結構聴衆に伝わるものだ)。
定期会員の中には、苦しい生活の中で時間と資金を捻出して演奏会に脚を運んでいる人がたくさんいると思うが、そういう人達は「一期一会」の気持ちで会場に来ていると思う。
個人的には常にそういう真剣な聴衆の想いに応える演奏を期待している。
今日のような異常な事態下であれば、そうした演奏は自然とできるのかもしれないが、再び「日常」がもどってきたときに、果たしてわれわれはそうした精神的な緊張をともった演奏を聴くことができるのか……?、また、そうした演奏が可能となるような尊敬の眼差しを奏者に向けることができるのか……?
この演奏会からの帰路に着きながら、そんなことを思った。

 

「発達理論」に求められる倫理性

 

「測る」という行為には本質的に倫理的な責任が伴うものである――発達心理学者達がとりわけ主張するのがこのことである。
測定をするとは、結局のところ、他者を対象として観察することであり、また、その結果を踏まえて、その人物に対して働きかけることである。
端的に言えば、その人物の人生に影響をあたえたり、介入をしたりする権利を得ることになるのである。
また、そもそも測定という行為そのものが、そこに上限関係を生み出すことである。
その関係性の中で、測定者は被測定者に対して上位に立つことになるのである。
そうした意味では、測定者としてのトレイニングは、倫理的な要素を含めた、総合的なトレイニングの要素として位置づけられるべきであり、それだけを取り出して勉強するのは、非常に危険なことなのである。
また、そもそも測定は「何のために測定するのか?」という問いとの格闘を常に要求するものでもある。
発達心理学者のZachary Steinは、その著書の中で、現代の教育に於いて、「テスト」といわれるものがいかに倒錯したものとなっているかについて多面的な解説を展開している。
また、その文脈の中で、いわゆる「IQ」というものに関しても、それを上げることを目的とするのは、そもそもそうした概念が構築され、また、それを測定するための方法が創出されたそもそもの目的を踏み外すものであると述べている。
端的に言えば、そうしたスコアの「高い」ことを「善し」として、人間を階層的に識別する発想は、実質的に優生学的な発想に道を開くことになりかねないのである(この問題に興味のある方は下記の書籍を御参照いただきたい:
War Against the Weak: Eugenics and America's Campaign to Create a Master Race by Edwin Black)。
そして、Steinは発達理論に関しても同じことが言えると警鐘を鳴らしている。
人間というものをそうしたモノサシにもとづいて測定して、そのスコアが高いほど「善い」のだという発想……、そして、個人や組織はその発達段階を上げるべきであるという発想……
こうした発想に対して、われわれはもう少し冷静であるべきであろう。
換言すれば、それほどまでに人間を対象化して、あらゆる能力を測定し、そして、その結果としてあきらかにされるスコアを少しでも「高い」ものにすることに熱中する社会というのは本質的に健全な社会なのか?――という問いを発するべきなのである。
Steinの著書には、“A nation's greatness is measured by how it treats its weakest members.”というマハトマ・ガンジーの言葉が紹介されている。
現代は「成長」したり、「発達」したり、「能力」を開発しつづけたりしないと、まるで生きる資格が無いように人々に思わせる社会だが、それがいかに倒錯したものであるのかを強烈に指摘するのが、この言葉であるとSteinは主張するのである。
真に病み傷つき、虐げられた人々は、「成長」や「発達」等という概念とは無縁のところで生きているものである。
また、そうした概念に無縁であっても、幸福に生きていけることこそが、その社会の成熟度を示すものなのである。
もちろん、非常に逆説的ではあるが、これは、こうした現代に蔓延する「成長・発達イデオロギー」の呪縛から自由になれるくらいに社会が「成熟」する必要があるということなので、必ずしも、「成長」や「発達」の価値そのものを否定しているわけではないと思う。
もし真に自律的に思考することができるのであれば、巷で受容されている「成長」や「発達」という言葉の定義に対して少しは批判的になるだろうし、また、そもそもこの世に人間が生を受けた根本的な理由とは、果たして「発達」や「成長」をすることなのか? という根源的な問いを自然と発するはずである。
少なくとも、「生活」や「成功」をするためには、「成長」や「発達」が必要であると発想する風潮を批判的に省察することができるだろう。
Steinをはじめとする発達心理学者が指摘するのは、そうした懐疑の精神が、この領域の研究者には求められるということなのである。
但し、少々逆説的かもしれないが、発達理論をまなぶということは、われわれの生きる社会に蔓延するこうした「成長」や「発達」を礼賛するイデオロギーに対して批判精神をもって対峙するための思想的・理論的な見識をもたらしてくれるものであるということはできるのではないだろうか……。
人間というものが、そうした単純なイデオロギーで都合よく扱えるものではないことを訓えてくれるからである。

 

「ティール」に関する対話

いわゆる「成人発達理論」において「ティール」といわれる段階の特徴に関して、この数日、その領域で活躍する仲間といろいろと議論をしていたのだが、その特徴のひとつとして、「文脈」(context)に関する精緻な認識を持つ傾向にあるということで意見が一致した。
たとえば、自身が何かに興味・関心を抱き、それについて思考や探求をしているときに、
「そもそも自分はなぜそれに興味や関心を抱いているのか?」
「そもそも自分にそうした話題に関して興味・関心を抱かせている社会的・時代的な背景はどこにあるのか?」
という風に自分自身の思考(意識)そのものを客観的に眺めることができるのである。
換言すれば、何等かの思想や理論に惹かれ、それを探求していこうとしている自分自身そのものを客観的に眺めて、それをひろい視野から眺めることができるということである。
人間は自由に思考をしていると思い込んでいるが、意外と時代や社会の影響に支配されているものである。
たとえば、今日、数多くの人々が「戦略的思考」や「論理的思考」に興味を抱き熱心に勉強をしているが、そもそもわれわれがそうした勉強に膨大な時間と精力を投じようと思うのは、この時代と社会に生まれ、そこで人格形成する中で「そうしたことについて勉強をするのは重要なことである」と訓えられてきたからである。
もしわれわれが全く異なる時代や社会や文明に生まれていれば、そもそもそんなものに興味や関心を抱くことさえないだろう。
思考とは、完全なる自由の中で営まれるものでなく、思考を成立させている世界観や価値観の枠組の圧倒的な影響の下で営まれるものである(経済学者のHerman Dalyがpreanalytic visionと呼んでいるものである)。
実際、「ティール」的な発想を習得した人達の言葉に耳を澄ませていると、人間が思考や探求をはじめる「前」の時点でその行為に影響をあたえ、その行為を半ば支配・呪縛している文脈的な要因に関して鋭く言及するので、聞いていて非常に面白いものだ。
そうした洞察は半ば必然的に自らの生きる時代や社会の本質そのものを批判的にとらえるマクロ的な分析にならざるをえないからである。
ある意味では、それはひとりの「思想家」や「哲学者」と話をしている感覚に似ているといえるかもしれない。
これはそのまま発達理論に関しても言えることで、こうした発想にもとづいて発達理論を勉強している人は、「そもそもこのような理論が社会的に注目され、また、自分自身もそれに興味を覚え、熱心に勉強をしているが、そもそもなぜ自分はこんなものにこれほどまでに夢中になっているのだろうか? また、関係者の間で半ば暗黙の裡に真実として共有されている価値観(例:“higher is better”)は、どのような時代的・社会的な価値観を反映しているのか? また、それを無批判に受容することをとおして、自分はどのような時代や社会の偏見を助長することになるのか?」というような問題意識を同時に維持できているものである。
これは非常に不思議な「在り方」で、表面的には人一倍の「熱意」をもって探求をしているようにみえるのだが、一方では、人一倍の「醒め」を持っている。
人間は特定の時代的・社会的な文脈の中で生きていかざるをえないが、また、そうした文脈を心理的に超越して、対象化して眺めることができる生き物でもある。
「慣習的段階」(conventional stage)を超えて成長していくということは、こうした内的な緊張を経験できるようになるということにほかならない。
そして、こうした内的な緊張こそが、「ティール」といわれる段階に関して長年にわたり探求を深めてきた実存主義心理学者達が強調するところでもあるのだ。
われわれが生きる現代社会の最大の問題は、「教育」の名の下に、既存の社会の文化や構造を所与の条件として思考することを人々に強要することにあることである。
即ち、社会の中で営まれる「ゲーム」に参加し、その中で「勝つ」ことを「正しい」価値観として刷り込み、そのための知識や技術を伝授することを「教育」の目的として設定してしまっているのである。
「現実的になる」というのは、その「ゲーム」を、虚構ではなく、不変のものとしてとらえるということであり、その意味では、たいへんな言葉の倒錯が起きているのだが、その「狂気」を「正気」としてひろく信じているというのが、われわれの社会の本質であろう。
発達理論がわれわれに呈示している諸々の洞察は――もしわれわれがそれを賢明に活用することができれば――こうした「倒錯」と「狂気」を克服するためのヒントとなるのではないだろうか……?
幸いなことに、日本に於いても、このところ多数の方々が成人発達理論に興味や関心を寄せはじめてくれている。
そして、そこには、「適応」することの「狂気」を薄々と感じとり、それを突破するための「道」を模索している方々も少なからずいると思う。
個人的にはそうした意識を応援していきたいと思っている。

 

優れた批評の条件とは……


先日、参考にさせていただいているある音楽愛好家の方の上岡 敏之に関するBlog記事を興味深く拝読したのだが、そこの記事を受けて、何人かの読者の方々がTwitter上で発信された意見を感心しながら読ませていただいた。
特に個人的に考えさせられたのが、「アンチ上岡 敏之」の「代表格」として音楽雑誌に記事を投稿している金子 建志に関する意見と分析だった。
個人的にも、金子の「批評」には長年大きな違和感を覚えていたのだが、その「つまらなさ」に関して、何人かの方々が鋭い洞察を示していて、思わず「なるほど」と頷いてしまった。
個人的には、少々極端な言い方をすれば、金子の文章は批評としての条件を満たしていない無味乾燥な論文の「できそこない」のようなものといえるのではないかと思っている。
音楽というものを総体としてとらえるのではなく、それを徹底的に要素分解して、それらの要素の処理の仕方が「理に適った」ものであるか否かを細々と評価していくのが金子の文章である。
端的に言えば、食卓に並べられた料理を眺めて、それをひとつの総体としてあじわうのではなく、それぞれの素材をとりだして、それらが「適切」に調理されているかを確認しているようなものである。
もちろん、そんな文章を読んでも、その演奏の魅力が読者に伝わってくることはない。
ここでは、主観(心)をもつたひとりの人間として、その音楽や料理がどのような反応を自己の中に生みだしたのかということについては全く語られない(もちろん、そうした「主観的なことは述べるべきではない」という信条そのものは主観的なものなので、そうした徹底的に外面的な態度の妥当性はひどく脆弱なわけだが、そこまでは思いが至らないのであろう……)。
表現者として自らに生得的に付与されている「一人称」の言葉をはじめから放棄しているわけだから、必然的にその表現は貧困なものになり、抑圧された素朴な主観的な心情は対象に対する攻撃性として表出することになる。
ある投稿者の方が指摘されていたように、金子 建志という執筆者を衝き動かしているエネルギーというのは、要素分解して説明できないものに対する「怨念」のようなものなのかもしれない。
そして、そうした怨念をもっとも刺激するのが上岡 敏之なのだろう。
いずれにしても、こうした「批評家」が重宝されている日本の「音楽界」というのは実に不思議なところだと思う……。
そこには、その演奏解釈が教科書的な意味で「正しい」ものであるのか、そうでないのかということを何よりも重視する価値観が根強く生きているということなのだろう……。
しかし、こうした態度というのは、少し離れたところから眺めると、何と自閉的なものなのだろうと思う。
優れた演奏芸術の本質とは、結局のところ、それが正しいものであることにあるのではなく、小難しいことなど何も知らない全くの素人が耳にして心を深く揺さぶるところにあるのではないだろうか……。
そうした問いを蔑ろにして、「学術的」な意味において、その演奏が「正しい」か否かという論点に逃げ込むのは、芸術の鑑賞者としての「逃げ」そのものであると思う。
客観的な資料を根拠にして評価や判断をしている限り、個としての告白をする責任からは逃れられるものである。
金子 建志という執筆者の「つまらなさ」は正にそうした姿勢にあると思うのである。

 

心の「痙攣」としての「自己実現」:『レボリューショナリー・ロード:燃え尽きるまで』を観て

サム・メンデス(Sam Mendes)監督の『レボリューショナリー・ロード:燃え尽きるまで』(Revolutionary Road)を観た。
1950年代の合衆国を舞台にしたドラマであるが、とりあげられている主題は非常に現代的なもので、また、その当時と比較にならないくらいに「自己啓発」や「自己実現」等の言葉が巷に流通している現代に於いては、この作品で主人公達が格闘する心の葛藤は非常に生々しいものとして感じられるだろう。
個人的には、特に臨床心理等の現場に於いて実践をしている支援者の方々に是非御奨めしたいと思う。
ユング派の心理学者であるジェイムズ・ヒルマン(James Hillman)が書いた『The Soul’s Code』の中では、「平凡」であることについて興味深いことが記述されていたと記憶している。
自己実現しようとする強い内的な衝動を抱えた現代人は、しばしば、自らがあらゆる意味で平凡な存在であるという事実を前にして苦悩をあじわうことになるが、そこでは、そうした事実をいかに受容するかということが問われる――というような主張であったと思う。
この作品の主人公達は正にそうした葛藤と直面し、そして、悲劇的な結末に向かっていくわけだが、そこに示されるのは、そうした葛藤と格闘することができるためには、人格的な成熟がいかに重要であるかということだ。
即ち、それは真の「勇気」をもつことであり、また、「ありのまま」に対して感謝できることであるともいえるだろう。
若い主人公夫婦のドラマを視ていると、その若さゆえに、正にそのことを見失ってしまい、「破滅」に向かって歩んでしまっているように思えるのである。

ホックシールドが『管理される心:感情が商品になるとき』の中で指摘しているように、現代の資本主義社会は、われわれに対して自己の人格そのものを商品として道具化するように要請する社会であるといえるが、そうした空気に暴露されつづければ、心は悲鳴をあげて、自己の「正気」と「健康」(integrity)を回復しようとして、いずれは痙攣を起こすことになる。
そうした「痙攣」には様々な形態があると思うが、そのひとつが、いわゆる「自己実現」という表現をとるのだろうと思う。
しかし、現代社会の「邪悪」なところは、「自己実現」さえもが、自己の商品価値を高めるための方法として接収されてしまっているということである。
そのために、そうした衝動が内蔵していた「叫び」が声として発せられる前に封じられてしまうことになるのである。
端的に言えば、自己実現とは、それ「そのもの」のために為されるものだといえるが、今日に於いては、実利的目的性と離れたものを志向する発想そのものが公の場では半ば「市民権」を奪われてしまっているのである。
「自己実現」という概念は決して一筋縄ではいかない複雑なものであるが、この『Revolutionary Road』という作品は、こうしたことについて考えるうえで実に刺激的な素材を提唱してくれる。

 

雑感・商品としての感情と人格

5月31日
『管理される心:感情が商品になるとき』
A. R. ホックシールド 著
https://sekaishisosha.jp/book/b354579.html

先日、紹介してもらい、ピンと来たので、早速近所の図書館でとりよせてみた。
パラパラと眺めてみただけではあるが、非常にいい内容で、同じような問題意識を発達心理学者のZachary Steinが著書の中で表明していたことを思い出した。
現代という社会は、個人の心を商品化する社会であるといえる。
経済活動に於いて、われわれは単に時間や能力だけではなく、われわれの心を自己の商品価値を支える重要な要素として位置づけて、それを「売る」ことを求められる。
しかし、そのように「売り物」として見做された瞬間、それは自己の中で「分離」してしまい、「自己の一部であるにも拘らず、自己の一部ではないもの」として道具化されてしまうことになる。
端的に言えば、顧客に対して向けられる「配慮」や「笑顔」は、経済的な取引を円滑に行うための道具と化してしまうのである。
もちろん、そうしたサービスをあたえる方も受ける方もそのことを認識している。
しかし、たとえそうではあっても、それは「とりひき」に於いて求められつづけるし、また、社会が「進化」する中で個人に対して衝きつけられるこうした心理的な要求の度合いは高まることになる。
今日に於いては、単に感情的な犠牲を払うだけでなく、自己の人材として商品価値を高めるために、能力を高め、また、さらには「価値観」や「世界観」や「人間力」といわれる人格の基盤にあるものそのものを鍛錬するように求められる。
端的に言えば、人間の全存在が経済的な活動の中で価値を生み出すための道具として見做されるようになっているのである。
先述のSteinは、こうした文脈の中で発達理論をはじめとする心理学が利用されることの危険に対して警鐘を鳴らしているのであるが、Arlie Hochschildは社会学者として異なる視座からこうした問題を探求している。
また、現代社会のこうした病理に批判的な眼差しは、思想家のケン・ウィルバーが「フラットランド」(flatland)という概念で示しているところでもあるが、いわゆる「後慣習的段階」の認知にもとづいているといわれる諸々の思想や理論には、こうした問題意識が必ず息づいているし、また、その有無が一種の試金石になると思う。

 

6月2日
昨日、久しぶりに書店(誠品生活日本橋)を訪れたのだが、あらためて書店というのは贅沢な空間なのだなぁ〜と思った。そして、また、雑誌や書籍というものの存在価値について考えさせられた。
単純に情報を得るという意味では、こうした紙媒体はWEBに太刀打ちできない。リアルタイムに「検閲」されない生情報にアクセスできるこの時代において、その存在価値はどこにあるのか……? 充実した書店の棚を眺めながら考えてしまう。
もう少し具体的に言えば、これだけ「情報」に対するアクセスがしやすくなった時代に於いて、消費者が金を払いたいと思う価値が雑誌や書籍に籠められているのかということだ。
たとえば、雑誌の棚を眺めていると(特に政治関連の雑誌)、実に綺麗に「右」と「左」の雑誌が棲み分けをして並べられているが、こうした構造の中でそのどちらも言及しようとしないことが膨大に存在することに気づいてしまうと、その光景があまりにも退屈なものであることを思い知らされる。
その意味では、現在の出版界そのものがあらかじめ用意された棚の欄に大人しく納まる形態で整理・包装されたものばかりを商品として送り出しているのではないだろうか……と思わざるをえないのである。

 

6月2日
ドイツのバンドTangerine Dreamのメンバーが一新されたとは聞いていたのだが、たまたま年明けに新体制で制作されたアルバムを視聴して、一瞬でファンになってしまつた。
1980年代に彼等がPrivate Labelに移籍した頃にその音楽を聴きはじめたのだが、初期の作品も含めて、正直なところ、創設メンバーの音響にあまり馴染めずにいた。
特に音響の中に常に鉛の固まりのような「重さ」が漂っていて、それが音楽を過剰に濁らせているような感覚がしたのである。
しかし、新メンバーの奏でる音楽にはそうしたものがなく、爽やかな透明性が息づいている。
ということで、今は新メンバーとして加わったUlrich Schnaussのアルバムを買い求めて聴いている。
いわゆる「エレクトロニカ」といわれるジャンルの作品になるのだが、この世代の作曲家の音楽を聴いていると、ほんとうに「クラシック」と「ポップス」の境界が希薄になっていることを実感する。
同世代のMax RichterやJohann Johannsson等の作品を聴いていても感じることだが、「現代」の作品が、ある意味では、これまでのクラシックの伝統がいったん終焉したところに生み出されているものであることを痛感する。
音楽としてのベクトルがこれまでの伝統的なものと変わっているように思われるのだ。
演奏会で耳をそばだて集中して聴く音楽というよりは、他の作業をする中でそこに環境音楽として鳴るような音楽であることを積極的に受容している音楽という気がする。
これまでの音楽を支えていた「深み」とは決別しているので、そこにどれほどの価値があるのか……とも思うが、しかし、正にそれこそが現代の価値でもあるのだろう。

 

マーティン・スコセッシ監督の作品

このところ、時間を見つけてマーティン・スコセッシ(Martin Scorsese)監督の作品を観ている。

 

https://www.imdb.com/title/tt1130884/

 

公開されてからもう10年が経過しているのだが、ようやく観ることができた。
一般的には、同監督の作品群の中では「失敗作」の中に位置づけられているようだが、個人的には、これは深読みをすればするほど面白い作品だと思う。
単なるスリラーとして観てしまうと、結末は少々「ありきたり」だが、主人公の「妄想」として退けられている諸々の情報は、たとえばナオミ・クラインが『ショック・ドクトリン』の中で膨大な調査にもとづいて裏付けているところでもあるので、そのことを考慮すると、むしろ、結末の「どんでんがえし」は、そうした危険は情報にアクセスをした人間を「狂人」として葬り去る「手法」を開示していると解釈することもできるように思う。

この作品に触発されて、個人的に大好きな同監督の『ケイプ・フィア』(Cape Fear)をあらためて観てみたのだが、20年程前に同様の主題をとりあげていることを発見して、少々驚いた。


https://www.imdb.com/title/tt0101540/?ref_=ttfc_fc_tt

 

即ち、その主題とは「意識の蹂躙」(Mind Rape)である。
Cape Fearでは、蹂躙の対象となるのは、ジュリエット・ルイス(Juliette Lewis)演じる(名演!!)主人公の娘だが、ソウル・バス(Saul Bass)とエレイン・バス(Elaine Bass)による冒頭のタイトルからして、その血生臭い倒錯的な映像は、正にこの作品の本質である悪魔的な特性を象徴していると思う。
また、『ケイプ・フィア』の場合には、心理学的な視点を通して鑑賞しても面白く、「悪役」として登場するロバート・デニーロ(Robert De Niro)の存在は、正に主人公の「影」(the Shadow)そのものが顕在化したものとしてとらえることができるだろう。
意識から排斥され、膨張して凶暴化したものが、「平和」な日常を恐怖のどん底に突き落とすのである。
また、この作品のもうひとつの着目点は、「悪魔的なもの」の襲撃に遭い、完全に混乱状態に陥り、その関係に修復しがたい亀裂を生じさせていく両親の姿を目のあたりした娘の心の動揺と変容である。
最終的には両親はこの事件について口をつぐむことを「決意」することになるが、それは、それまでに自己を庇護してくれた者達が実は現実の凶暴性の前では無力であることに子供が気づく契機でもある。
日々の平穏に裂けて、そこから現実(reality)が侵入してきたときに、それから目を背けようとする庇護者の姿に晒されることで幼い心は目覚めていくのである。
その意味では、庇護者の「敗北」が若い魂の目覚めを促すのだといえるかもしれない。
そこには悪魔の関与が必須となるのである。

 

https://www.imdb.com/title/tt0993846/

 

この作品は2013年に公開されたので、既に6〜7前の作品ということになるが、ようやく観ることができた。
これは素晴らしい作品だ。また、レオナード・ディカプリオ(Leonardo DiCaprio)の最高の演技が記録された映画だと思う。
実は個人的にはこれまでどの作品を観てもこの俳優の演技にあまり共感を覚えることができなかったのだが、この外連味ある演技には実に感心した。
内向的な雰囲気を湛え、また、頭のいい俳優なので、むしろ、それとは対極にあるこうした人物を描く方が、俳優としての魅力が「隠し味」として際立つのではないだろうか……
スコセッシの演出も見事で、特に主人公が正に「自己啓発講座」のカリスマ的なスピーカーのような物言いをはじめ、従業員を催眠に掛けていくシーンなどは、そうした催眠に呑まれていくことの倒錯的な快感を見事に描いていると思う。
金と富の幻想に耽ることを通して全能感を一気に肥大化させることができたときの熱狂と陶酔がありありと伝わってくる。
また、最後の「エピローグ」的な場面では、セミナーの発表者として登壇した主人公の視界に写る聴衆の姿は、そうした幻影に憑かれて、現実感覚を喪失した夢遊病者としての現代人の姿そのものであるようにも思われる。
そうした聴衆を眺める主人公の視点は、激動のドラマを生き、そこで「墜落」(fall)を経験した者に典型的な醒めたものであるが、ひとつの部屋の中に集うた主人公と聴衆を隔てる心理的な隔たりがあまりにも大きなものであることに愕然とする。
作品を通して、主人公は一貫して「略奪者」として自己を完成させていくが、「夢」にとり憑かれた聴衆の純粋なまなざしは、そうした者に変容するための「参入の儀式」(initiation)を控えた「信者」であり、「生贄」でもある人間の姿に見えてくる。
ここにも意識を蹂躙された変貌を遂げた者達の姿が活写されている。

 

「飢餓感」を忘れた時代

「音楽」
小澤 征爾&武満 徹
https://www.shinchosha.co.jp/book/122803/

 

しばらくまえにパラパラと眺めたのだが、今でも記憶しているのは、この二人の音楽家が共に音楽を真に理解するための条件として「飢餓感」を挙げていることだ。
二人は、終戦後の混乱期に芸術に対する渇望感を抱えながら、劣悪な条件下で必死になって音楽に触れるための機会を求めていたことを思い出しながら語っているのだが、これは真に本質を衝いた意見だと思う。
確かにこの数箇月の間は例外的な状態が続いているが、基本的には現代は芸術が巷に溢れている状態にあるといえる。
少なくとも、ある程度、資金と時間に余裕があれば、一級の芸術に触れる機会は豊富にあたえられている(特に東京では)。
しかし、正にそうであるからこそ、われわれは「飢餓感」を忘れてしまっているのではないだろうか……。
たとえば、いわゆる「批評家」や「評論家」といわれる人達のスケジュールを聞くと、年間に数百回の演奏会を聴いているというが、こうなると、「飢餓感」を覚えることは不可能であろうし、また、その感性は常に飽和し鈍化した状態に陥っているはずである。
端的に言えば、毎日のように豪勢な高級料理を食べている者はその素晴らしさは判らないのである。
そうなると、余程自身の感性を保つための実践を有しているのでない限り、一般の鑑賞者との感性的な乖離は甚だしいものとなり、その心を打つ文章は書けなくなる。
その意味では、今日の飽和状況の中で真に優れた感性を維持しながらプロの「批評家」や「評論家」と活動していくのは恐ろしく難しいことなのではないかと思うのである。
また、実際のところ、そうした「批評家」や「評論家」は実質的に絶滅状態にあるといえる。
もちろん、そうしたことを認識してのことであろう、あたらしい世代の執筆者の多くは「批評」や「評論」を書くことに早々と見切りをつけて、「情報」や「分析」を読者に提供することを自らの役目と割り切って活動をしているようにも見える。
しかし、たくさんの情報に裏づけられた「客観的」な文章というのは、窮極的には、検索をすればウエブ上に見つけることができるようなものに限りなく近づいていくことになる。
往々にして、執筆者が「勉強熱心」になればなるほど、その文章は匿名的なものになり、異論は唱えられにくくはなるが、存在価値は希薄なものになるのである(例えば、商品の広告文や解説文は、執筆者の署名を必要としないが、そういう文章になり果てるのである)。
結局のところ、こうした趨勢の先にあるのは、自己の存在意義を消失することでしかないのではない。

われわれが、「この人の文章は読むに値する」と思うときに、そこで何を直感的に把握しているのかと言えば、それは、そこに書かれている文章の背景に著者の独自の価値観や世界観が存在していることなのである。
読者の中には、自らの価値観や世界観そのものを深化させたいという欲求があるので、そこに書かれている個々の主張の「善し悪し」だけでなく(例:それに賛同できるか否か)、それを生み出している著者の中に継続的につきあい理解を深めるに値する独自の価値観や世界観が存在しているのかどうかを判定しようとする感性が常に働いている。
しかし、執筆者が自分は積極的に情報の紹介者に過ぎないと割り切ってしまい、 自らの価値観や世界観にもとづいて敢えて「独善的」な言葉を吐くのを止めてしまえば、そうした読者の欲求には全く応えられなくなる。
実際、そうした意味に於いては、今、われわれ一般読者は非常に寂しい状況の中に置かれている。

今日、優秀な人は、たくさん勉強をして、たくさん情報を収集し、また、それを整理して紹介するところまではできるのだが、そのプロセスの中で自己の「声」を育てるということを忘れたり、「声」そのものを捨てたりしているのではないだろうか……
あるいは、情報を集め尽くしたその先に「声」が生まれるという幻想に憑かれているのかもしれない。
いずれにしても、今われわれが「飢餓感」を覚えにくい時代を生きていることと表現者が自己の「声」を見つけることに非常に苦労していることのあいだには密接な関係があるような気がする。

 

「方便」の二側面

先日、御伝えしたように、明日のインテグラル理論講座では、いわゆる「方便」(skillful means)に関して解説をする。

https://www.holisticspace-aquarius.com/20200527integral/


先ほどまで資料を作成していたのだが、その過程で、この話題について語るためには、大きく二つのことを説明する必要があることを再認識した。
ひとつは、他者の視点や要求を勘案して、自己の謂わんとすることを的確に「翻訳」「包装」するスキルを習得するということ。
そして、もうひとつは、先日のBLOG記事でも紹介したように(http://norio001.integraljapan.net/?eid=369)、自己の把握した真実をありのままに表現する情熱と勇気を涵養することだ。
ケン・ウィルバーはこれらの両方について語っているが、どちらかといえば、前者に関してより多くの文字数を割いて説明していると思う。
そのために、この概念が少し一面的に理解されているように思う。
しかし、われわれが忘れてはならないのは、「方便」(skillful means)とは、他者に対して発揮されるものであるだけでなく、自己に対しても発揮されるべきものでもあるということだ。
自己を尊重するとは――自己を愛するとは――自己にあたえられた可能性を最大限に表現・発揮するということである。
その責任を回避することを心理学者のエイブラハム・マズローは「Johnna Complex」と呼称したが、それは自己にあたえられた可能性(あるいは、知識や洞察や認識や能力)を否定することであり、また、それを他者と分かち合うことを拒絶することである。
そして、また、それは、これから生まれてくる将来世代に対して、「今」を生きることを課された者が「今」為すべきことを怠ることにより、責任を放棄することでもあるといえる。
こちらの側面に関しては、本質的に同時代を生きる人達に対してというよりは、むしろ、次世代を生きる人達に対して責任を発揮するという要素が強くなることもあり、現代を共にする人々と対決することも厭わない意志と勇気と情熱が必要になる。
そこでは正にウィルバーが指摘するように恐怖との対峙が必要となるのである。
換言すれば、それは自己の内に息づく「未来」に対して責任を負うということだといえるだろう。
「方便」(skillful means)の実践に於いて最も難しいのは、このあたりにあるのかもしれないと思う。

「シュタイナー × インテグラル理論〜新時代の教育対話〜」に参加させていただいて

今日の午後は「シュタイナー × インテグラル理論〜新時代の教育対話〜」と題された今井 重孝さんと後藤 友洋さんが登壇したイベントに参加させていただいた。
優れた教育者の方々が指摘されるポイントというのは、その基盤となる思想的・理論的な背景に拘わらず、しばしば共通している。
それは、一言で言えば、人間が自然に付与されている成長・発達のリズムやペイスを尊重することの重要性である。
端的に言えば、効率性を半ば盲目的に追求する今日の時代精神がいかに愚かしく、また、危険なものであるのかということを厳しく指摘するのである。
「発達はゆっくりであるべきだ」と主張したのは、発達心理学者のジァン・ピアジェであるが、その警告を無視し、大量の人口肥料を投下して――また、同時に、深刻な害悪をもたらす大量の食品添加物を混ぜ込んで――成長や発達を効率化させるために全力を投じているのが現代社会といえるかもしれない。
今日の登壇者の話を伺って非常に納得したのは、われわれの社会が、ルドルフ・シュタイナーの「7年周期説」の第2期(7〜14歳)の重要性に関する理解を徹底的に欠いているということだ。
この期間は権威に対する純粋な尊敬の念を育む期間と解説されるが、換言すれば、それは、自己の存在を超えた「高いもの」「深いもの」の存在と出逢い、それに対する憧憬や畏敬を覚えることができるようになると共にそれを体現する存在を尊敬するための能力を涵養する期間ということができよう。
そして、こうした鍛錬をしっかりとすることで、人間ははじめて他者を独自の内的な世界を有した未知なる存在として認識し、その世界に敬意をはらい、また、その世界を傾聴することができるようになるのである。
今、巷では「傾聴」の重要性が訴えられているが、それは単なる「スキル」に還元できるものではなく、こうした人格形成のプロセスの初期に確立された感覚や感性に根差すものといえる。
たとえば、味覚の無い人は砂糖を舐めてもその甘さを感じることができないように、こうした感覚を欠いている人は、他者を尊敬や尊重や傾聴の対象として感じることができない可能性があるのである(もちろん、何等かの治癒的な活動を通して、ある程度の是正はできるだろうが……)。
それでは、こうした感覚の開発を阻害する要因は何であろうか……?
今日、講師の方に訊いたところでは、早すぎる議論(debate)がそれにあたるという。
即ち、意見交換というものを、真に相互理解の機会として活用・満喫できるようになるための準備が整わない段階でそうした活動をさせられると、意見交換というものを単なる「勝つ」ためのゲームとして認識してしまうことになる危険性があるということだ。
自己の意見を確立するというのは、実は一般的に考えられているよりもずっとずっと難しいことだ。
そのことを理解せずにあまりにも早い段階で他者と議論をさせられると、結局は、借りてきた意見や情報を自分のものと勘違いして主張することになってしまう。
また、単純に議論に勝つことが求められるときには、そうした偽りの意見を強引に主張することを覚えてしまうことになる(それが会話の本質であると錯覚してしまうことになる)。
会話が単なる「technique」を駆使する場所に成り果ててしまうのである。
しばらくまえに「東大話法」という概念が注目を集めたが、そこで分析されている「エリート」といわれる人々の話法の特徴とは正にこうしたものだといえる。
結局のところ、その口から出る全ての言葉が借りものであり、また、言葉は「勝つ」ために利用されるべき道具に過ぎないために、言葉は徹底的に愚弄される。
そのサイコパス的な振る舞いは正に第2期を健全に送ることを阻まれた人々の歪みを端的に示しているのであろう。
もちろん、彼等はあくまでも氷山の一角に過ぎない。
今日の教育制度は、彼等のような少数の東大話法の「熟練者」だけでなく、二流・三流の習得者を膨大に生み出している。
自己の存在を超えた「高いもの」「深いもの」の存在と出逢い、それに対する憧憬や畏敬を覚えることができると共にそれを体現する存在を尊敬する能力をそなえていること――こうした条件を欠落させている人間を大量に再生産する社会は正に狂気の社会といえるだろう。
また、そうした「高いもの」「深いもの」を隣人の中に見出すことができない人間が多数派となる社会に於いては、同胞意識は消失し、格差は――たとえそれがいかに苛烈なものになろうとも――所与の条件として受容され、虐げられた人々に対する慈悲は根絶やしにされるであろう。