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第18回 東京音楽コンクールの弦楽部門の本選を聴いて

第18回 東京音楽コンクールの弦楽部門の本選を聴いてきた。
今年は、こういう状況のために、あまり生で音楽に接することができず、寂しい思いをしているのだが、最後に登場した前田 妃奈さんの渾身の演奏に深い感動をあじわうことができた。
もちろん、この数箇月は、在京の団体が徐々に演奏会を再開されていることもあり、それなりに生で音楽に接する機会も増えているのだが、代役で登場する演奏家の質がいまひとつで、大きな物足りなさを覚えさせられていた。
この日の本選には、計5人のソリストが登場したが、最終演奏者の前田さんが登場するまでは、演奏の質が低く、全く心を揺さぶられることなく退屈していたのだが、最後の最後で素晴らしい演奏に触れることができた。
この日に登場した演奏者の中では、最年少だが(高校生)、先ず、舞台に登場してきたときの表情に感心した。
それは「風格」ともいえるもので、「舞台人」として聴衆に対して音楽を届ける機会をあたえられたことに本質的に内在する心構えができているという印象を受けた。
その意味では、他の演奏者を圧倒する存在感を示していたと思う。
演奏も実に見事なもので、彼女が作品(チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲)を心から愛していることを実感することができたし、また、全ての音符を自己の感性で吟味したうえで心を籠めて奏でていることをヒシヒシと理解することができた。
その作品を演奏することに対する必然性を感じさせる演奏と思えたのである。
そうした意味では、この日においては、「舞台芸術」として、演奏者の内的真実に裏打ちされた「芸術表現」として成立していた唯一の演奏だったと思う。
何度となく泪が溢れてきた。
数年前に、同コンクールの本選で、同じ曲を荒井 里桜さんの天を翔けるような瑞々しい躍動感と清澄感に溢れた名演を聴いたが、前田さんの演奏は、それとは異なり濃厚な情念を籠めぬきじっくりと進んでいく演奏で、これはこれで作品の本質をとらえた名演だと思う。
これでさらに生理的な躍動感や推進力が備わると一段も二段も上の次元の演奏に進化するだろう。
しばらくまえに、マリオ・ブルネロのマスター・クラスを観覧したときに、彼が生徒に言った言葉が思い出される。
「その演奏は先生に褒めてもらうための、いい得点をもらうための演奏です。しかし、あなたは今舞台の上で聴衆を前にして演奏している。あなたの目的はこれらの方々の心を震わせることにあるのです。」
個人的には、これこそが舞台芸術の要諦だと思っている。
芸術というのは、「うまい」だけではどうにもならないものだと思うし、また、その演奏に対する評価として、単純に「うまい」というのは、むしろ、実は否定的なものとさえいえるのではないか思うのである。
前田さんは神尾 真由子さんの弟子ということだが、そのことを体で理解していたのは、前田さんだけだったように思う。
これからが楽しみな演奏家である。

 

IN-SHADOWを観て


 

https://www.inshadow.net/

 

先日、SNS上で紹介されていたので、観てみたのだが、これは素晴らしい作品である。
非常に凄絶な批判精神をもって現代に於ける人類の姿をとらえているが、「インテグラル」(Vision Logic/Teal)的な視点を通して世界を視るとは、正にこの作品にあるように、人間の営みそのものを「外部」から眺めることである。
それは、あえていえば、地球外生命体の視点をとおして人類の営みを眺めるということであり、あるいは、地球上に生まれたときの感性をとおして人類の営みを眺めるということである。
映画『もののけ姫』の中に「曇りなき眼で見定め、決める」という台詞があるが、そこに籠められた意味ということもできるだろう。
インテグラル(Vision Logic/Teal)段階の思考形態は、Kurt Fischer等の認知心理学者により「advanced systems thinking」と説明されるが、それは自己の存在を包み込み、また、自らが生きる世界を覆い尽くす「マクロ・システム」そのものを対象物として意識の中に収め、それを眺め検証・探求することであるといえる。
そのためには、単に知識や情報をつなぎあわせるだけでなく、たとえば正にこの映像作品がそうであるように、物事の本質や深層をある種の芸術的な感性(あるいは、美的な感性)をもって直感的にとらえることが必要になる。
人間の発達に関する研究に於いて、こうした「芸術的な感性」に関して言及されることはないようだが、実際には、それは非常に重要な意味をもつ「必須条件」とさえいえるものなのだと思う。
たとえば、思想家のケン・ウィルバーは、人間の内面領域を司る価値観を「美の感覚」と説明しているが、そうした感性が十全に開発され機能していないと、内的な深化を希求する情熱を得ることができないまま一生を生きることになってしまうのである。
実存主義心理学者のRollo Mayは、この発達段階について膨大な臨床実践を通じて探求した実践家であるが、彼は、この段階を「智慧」(wisdom)の段階と形容して、それは「知識を含み超えるもの」(knowledge plus)であると述べている。
いうまでもなく、ここでいう「plus」とは、より多くの書籍を読んで知識を収集すれば得られるというものではない。
それは、ある意味では、知識の限界を、そして、知識を収集・整理・統合すればそれで充分であるという発想の限界を認識するところに生まれるものであるともいえるだろう。
そして、そうした認識の土壌と萌芽は、われわれが心の内奥に息づく「美の感覚」の中にあるのではないだろうか……。

 

映画『マトリックス』が「ティール」について示唆すること


久しぶりに“The Matrix”(『マトリックス』)(1999)を観た。
現在ひろく注目を集めている「成人発達理論」に於いて「ティール」(Teal)と呼ばれている段階について説明するときに、その本質を端的に紹介する作品としてしばしば引用される映画であるが、あらためてこうして観直すと、随所に洞察に溢れる台詞が配されていることに気づかされる。
今回とりわけ印象的だったのは、次の台詞である。
これは、主人公のNeo(Keanu Reeves)が「マトリックス」への従属状態から解放されて、その「第二の誕生」のトラウマから回復するところで、師にあたるMorpheusとのやりとの中で発せられることばである。

 

Neo: What are you doing.
Morpheus: Your muscles have atrophied, we're rebuilding them.
Neo: Why do my eyes hurt?
Morpheus: You've never used them before. Rest, Neo. The answers are coming.

 

先ず興味深いのは、回復のためには、衰えた筋肉を再構築する必要があると述べられていることである。
思想家のケン・ウィルバーは、「ティール」段階の本質的な要素として「心身の統合」をあげているが、そこでは身体性というものが非常に重要な意味をもつことになるのである。
もちろん、それまでの段階に於いても、「体」は重要な意味をもつし、また、多くの人はそれを熱心に鍛えたり、労わったりしているものである。
ただ、われわれがここで留意すべきことは、この段階に於いて「体」というものが、質的に新しい意味でとらえなおされることになるということである。
換言すれば、「マトリックス」の中で生きるために体をケアすることと「マトリックス」の外で生きていくために体をケアすることの間には、根本的な差異が存在するということなのである。
そして、人はあらためて自己の体について深く探求し、それまでとは異なる体との関係の持ち方を発見する必要があるのである。
この問題と格闘することは、「ティール」段階に向けた――非常に長期に渡る――旅を舵取りするために必須の実践となるのである。

そして、上記の台詞の中でもうひとつ興味深いところは、これまでに完全に閉じられていた「目」が新しく開かれることになるということである。
もちろん、これは、肉体的な意味で視力が高まるということではなく、これまでに全くその存在を察知することのなかつた現実の次元や領域に対して心や魂の目が開かれるということである。
また、台詞は、そうして新たに開かれた目を通して視れるようになることが――少なくともはじめのころは――痛みを伴うことも示唆している。
多数の研究者は、「成長」や「発達」、あるいは、「個性化」や「自己実現」といわれるものが、一般的な期待に反して、幸福を保証するものではないことを指摘している(むしろ、大きな危機や危険を伴うものであることを強調したうえで、それを無邪気に追い求めることに対して警鐘を鳴らしている)。
われわれは、成長過程の中で「成長痛」を経験してきているが、心理的な変化や変容に於いても「痛み」は不可避的なものとして憑いて回るのである。
この映画の面白いところは、数分程の短い台詞の中にこんなことを考えさせる洞察が散りばめられていることであろう。

実際、戦慄をもたらす凄惨な現実を目のあたりにして一時的に錯乱状態に陥る主人公に対して、「師」のMorpheusは次のような言葉を投げかける。

 

Neo: I can't go back, can I?
Morpheus: No. But if you could, would you really want to? I feel I owe you an apology. We have a rule. We never free a mind once it's reached a certain age. It's dangerous, the mind has trouble letting go. I've seen it before and I'm sorry.

 

基本的に、人間は、いったんある現実を認識してしまうと、そうして得た知恵や知識を捨てて、過去の無知の状態に後退することはできないものである。
しかし、われわれは、また、そうした得た知識や知恵の重圧を背負いながら生きることを求められつづけることにもなる。
そのための耐性や強靭性が伴わないとき、そこには必ず危険が生じるのである。
年齢を問わず、それまでに自己を支えてくれた価値観や世界観を手離すことの困難は、人間にとり、非常に大きなものである。
実際、正にそうした困難がもたらす苦痛や苦悩を避けるために、われわれは往々にして真実に抗おうとしたり、あるいは、そうした真実を示唆する人々を攻撃・排撃しようとしたりするものである。
そうした意味でも、このMorpheusの言葉は含蓄に富むものである。

 

ただただひたすら残念な演奏会

#32 ルビー・アフタヌーン・コンサート・シリーズ
新日本フィルハーモニー@すみだトリフォニーホール
2020.07.17 FRI
https://www.njp.or.jp/concerts/8792

 

ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第1番ハ長調 op. 15*
シューベルト:交響曲第8番ハ長調 D944「グレイト」

指揮:太田 弦
ピアノ:田部 京子*

 

少し時間が空いたが、先日の太田 弦&新日本フィルハーモニーの演奏会@について感想をまとめておきたい。
当初の予定では、音楽監督の上岡 敏之が指揮をするということで非常にたのしみにしていたのだが、直前になり事務局より上岡氏の帰国が不可となり、代役として太田氏が指揮をすることを知らされた。
こうした特別な状況下では、生で音楽を聴けることそのものに対する感謝の気持ちが先に立ち、演奏そのものに関しては感想が後回しになるのだが、この日の演奏会に関しては、そうしたことを脇に置いて、少し感想を書き留めておきたいと思う。
というのは、太田氏の表現者としてのあまりの未熟さに、ただただ呆れてしまい、そうした「生で音楽を聴けることの純粋な喜び」を完全に吹き飛ばしてしまうほどに、恐ろしく退屈な想いをさせられたからである。
デビューしたての指揮者にこんなことを言うのは可哀想かもしれないが、しかし、正直なところ、「聴衆を前にして舞台に立つのは早すぎるのではないか……」と思わせられるほどに「+α」の無い演奏なのである。
当然、聴衆はこの日の曲をこれまでに何度も聴いているが、全編を通じてほとんど発見が無いのである。
それまでにCDで繰り返し聴いてきた作品でも、生で聴けば、そこには普通は何らかの発見があるものだが、そうした感覚を全くあたえてくれないのである。
また、目の前の演奏に客席で耳を澄ませていると、過去に耳にした演奏が次々と思い出されてくる。
「ここは、あの演奏ではもっともっと素晴らしかった……」
「ここは、あの演奏ではもっともっと感動的だった……」
「この作品とは、これほどまでにつまらない作品なのだろうか……」
もちろん、こちらも舞台上の演奏者に敬意を表して、何とかそこに素晴らしいものを見出そうとするのだが、何も無い。
個人的に特に気になったのは、太田氏の指揮振りを眺めていて、練達の奏者達に自己の解釈と表現をもって挑んでいこうとする意志や気迫が非常に希薄に感じられるということだ。
そこには、曲を知り尽くした奏者に対して果たして何を付加して伝えようとしているのかは全く見えないのである。
端的に言えば、あまりにも表現欲求が弱く、また、情報量が少なすぎるのである。
特に後半の「グレイト」を聴きながら、この異形の名曲がこれほど浅くつまらなく聞こえることに、怒りを覚えたほどだ。
頻繁に演奏会に足を運んでいれば、多かれ少なかれ落胆させられる演奏会というものはあるのだが、しかし、これほどまでに空虚なものというのは、そうそうあるものではない。
生の音そのものに内在する本質的な力が必ず心を揺さぶってくれるものだからである。
しかし、この日に関しては、気がつくと、心は他の演奏に向けて「逃避」をしてしまう。
「これが上岡であってくれれば……」と心の中で何度も念じてしまうほどだった。

前半のベートーヴェンに関しては、田部 京子のソロの美音が魅力的ではあったが、ただ、基本的には、繊細・優美な音色だけで勝負しようとするので、どうしても一本調子に陥ってしまう。
この曲に関しては、田部のアプローチでも、それなりに楽しませてくれるが、しかし、そこには、それだけでは表現することのできない雄々しい男性性が確実に息づいていると思う。
確かに、第1楽章のカデンツァには、そうした熾烈な想いが籠められてはいたが、そうした表現が非常に部分的で、全体としては、あまりにも「弱い」演奏に終わった。
田部 京子というと、吉松 隆の『プレイアデス舞曲』で示したあの優美な美音が想起されるのだが、まさにあの音だけでベートーヴェンを演奏するとこうなるということなのだろう。

NJPは、弦は本来の美しさをとりもどしているが、管はまだまだで、前半・後半共に荒が目立った。
また、聴衆の集中力も、先日のサントリーホールの聴衆のそれとくらべると、著しく落ちるものだった(楽章間の傍若無人とした拍手や演奏中のひんぱんな物音等、常にたるんだ空気が漂う)。
今日は、ただただひたすら残念な演奏会だった。

 

 

“I think the important thing is that the review has to be first person. You are the person writing your review. It’s your opinion. You are not stating some kind of objective truth. And I am amused sometimes when people will write to me to say that I should be a more objective critique because objectivity and criticisms have nothing to do with each other. It’s all subjective. It’s all first person opinion.”
- Roger Ebert

対人支援とインテグラル理論

先日、告知をしたように、臨床心理士として活躍される廣田 靖子さん(https://mindset.tokyo.jp/)と一緒に「対人援助職のためのインテグラル理論入門講座」(オンライン)を開催します。

 

告知・対人援助職のためのインテグラル理論入門講座(オンライン)
http://norio001.integraljapan.net/?eid=379

 

先日、確認したところで、ほぼ定員に達したとのことでしたが、もしかしたらまだ数名の枠は残っているかもしれないので、御興味のある方は、上記のリンクより御連絡いただければと思います。
今回の企画に関して廣田さんより話をいただいたときに、はじめに思ったのは、「インテグラル理論の価値というのは、心理臨床をはじめとする対人支援に携わる実践者の方々こそ、もっとも実感をともなって理解してもらえるのではないか……」ということでした。
インテグラル理論には、精神的な大きな危機に直面しているクライアントに寄り添うときに、その危機に的確な意味づけをし、それをクライアントが自己の人生の中に的確に位置づけるのを支援するために必要となる概念がひととおりそろっています。
そして、対人支援の重要な要素のひとつが、意味の構築という、人間の中に息づく根源的な欲求を充たすための支援を提供することにある以上、多様な人間が普遍的に経験することになる共通のダイナミクスについて概念的に認識していることは――そして、それを生きた人間の生々しい現実に耳を傾けながら、それを意味ある物語として編み上げるプロセスに効果的に寄り添えることは――優れた支援者としての重要な条件となります。
もちろん、そのほかにも、支援者に求められるスキルは数多くありますが、これは特に重要なものであるといえます。
インテグラル理論の提唱者であるケン・ウィルバーは、「意識ができることそのものが治癒をもたらすのである」という意のことを述べていますが、そのためには、的確に「概念化」できるが力が必須となるのである。
このあたりは、正にインテグラル理論が本領を発揮するところといえるのです。
また、こうした能力は、クライアントの状態・状況を的確に把握・診断する能力と密接に関連しています。
共同作業に於いて、クライアントの積極的な関りが必須となる以上、先ずは現状に関する把握と診断にクライアントが深く納得できることは非常に重要になります。
そこで躓いてしまうと、その後の作業は半ば不可避的に難航することになるからです。
長年にわたり対人支援をしていると、ときとして、「解決されるべき問題」として自己を認識することで(実存主義心理学者ロロ・メイの言葉)、他者が推し量れないほどに深い苦悩を抱えている方々を支援することがあります。
とりわけそうした場合には――これは被支援者としての自分自身の体験にもとづいて確信をもって言えることですが――支援者は、そうした特殊な苦悩の存在に開かれた理論体系を体得していることを必須の条件として求められることになります。
そうした背景を携えてクライアントと出逢うことができないと、その瞬間に相互の関係が半ば有効性を失ってしまうことになるのです。
そうした意味でも、支援者が真に統合的な概念体系を習得していることは、大きな価値をもつことになるのです。
今回の講座では、こうしたことに留意しながら、初学者の方々にもたのしんでいただけるよう、インテグラル理論を紹介していきたいと思います。

 

現代人の心に潜む脆弱性

SNS上では、定期的に学校社会の中で強制されている異常な校則に関する記事が回覧されてくるが、それらの記事を眺めたときに心配するのは、そうした環境の中で長年暮らし、そこで人格形成期を過ごしてしまうと、「規則」を無批判に受け容れるべきものとして認識してしまう癖を心の奥底に刷り込まれてしまうのではないかということだ。
即ち、そうした環境は、規則というものが、管理・支配する側のためにあるのではなく、そこに暮らすひとりひとりの幸福に寄与するために存在すべきものであり、また、諸々の規則を真に理に適うものとするために、ひとりひとりには、その妥当性を徹底して批判的に考える権利と責任が課されていることを忘れさせてしまうのではないかと深く危惧させられるのである。
それがいかに理不尽なものであっても、しばらくのあいだ我慢をしてやり過ごせばいいのだ――という発想に陥ることを実質的に「鼓舞」するシステムが全国に隈なく張り巡らされていることの危険性について、もっともっと意識を向けてもいいと思う。
実際、そうした「権利と責任の放棄」は、大多数の「大人」にも当てはまることであり、その意味では、こうした危険は既に致命的なレベルに到達しているといえるのではないかと思う。

ところで、「成人発達論」においてひろく注目を集めている「後慣習的段階」といわれる段階の思考を確立するためには、こうした人格の基本的な領域に刷り込まれている「障害」をしっかりと治癒することが非常に重要になると思う。
特に同調圧力が強い日本で人格形成をしたわれわれは、半ば不可避的に、こうした基礎的な領域で深刻な脆弱性を心の内に抱えて生きている。
発達心理学者が言うように、基礎的領域における脆弱性は必ず「高次」に向けた成長を阻害することになる。
先に「進む」ためには、どうしても「戻る」必要があるのである。
それは、端的に言えば、自己の「影」(Shadow)に内包されている課題を省察するということであり、また、そうした問題が次世代に再生産されることがないように、社会的な発言や活動をするということになるのだろう。

「後慣習的段階」といわれる段階の思考を特徴づけるのは、「自己」という主体がいかなる文化的・社会的な文脈の中で形造られてきたのかということについて歴史的な視点をとおして深く省察できることでもある。
即ち、そこでは、重要な問題は、「どうすれば成長・発達できるのか?」ではなく、「そもそも“自分”という存在はいかなる要素が複合的に相互作用することにより、ここに存在しているのか?」というものに変質していく。
そこでは、「わたし」という「存在」はひとつの「虚構」として、「構築物」として眺められることになるのである(あるいは、特に洞察力をそなえた人であれば、そもそも、そんなものは実在しないことに薄々と気づくことになるかもしれない)。
そのとき、人は、そうした「虚構」を「成長」させたり「発達」させたりすることの無意味さを深く認識することになる(その意味では、少々逆説的ではあるが、「成長」や「発達」というイデオロギーから醒めることが、成長・発達を実現することであるといえるのかもしれない)。
むしろ、先ずはそれまでの自らの人生をそうした「虚構」の中に絡めとってきた社会的・文化的な影響に興味が向くことになるのである。

このところ、様々なところで、成人発達理論に関する概要を紹介させていただく機会に恵まれるのだが――正に、ケン・ウィルバーが指摘するように――今日われわれが直面する最大の課題は、社会全体が集合規模で半ば病理化した「体制順応型」(Amber)段階の呪縛に絡めとられつづけていることである(いわゆる「空気の支配」)。
もちろん、それは、日本だけでなく、人類全体にいえることである。正に、それゆえに、われわれは、表面的には合理的に思考しているようでありながら、結局は「空気」をとおして「供用」された物語を合理的に正当化するような思考をすることに陥っているのである。
あたえられた規則や空気を唯々諾々と受け容れて、そこに適応して生きていくように人格形成期に刷り込まれてしまうと、自律的な思考をするために必要とされる精神の筋肉を鍛錬することがないままに年齢を重ねてしまうことになる。
そうした基盤の上に自律的思考力(Orange)以降の思考力を確立するのは、途轍もなく難しいことになるのは明らかであろう。
そうした意味では、成人期の発達支援に真摯に関与しようとするほど、人々の基礎的な人格形成期に影響をあたえる社会的・文化的な状況に関して深い問題意識を抱くことにならざるをえないのだろう。

 

「シャドー」に対するリテラシーを高めること

このところ、臨床心理士の方々と立てつづけに意見交換をする機会があったのだが、「シャドー」(Shadow)領域の作業というのは、「爆弾処理」のそれに似ていると思った。
「シャドー」の領域というものが存在し、また、その領域の探求や治癒にとりくむことが重要であることは、ある程度勉強すれば理解できるのだが、実際にそれに深くとりくもうとすると、どうしてもその領域の専門家の助けが必要になる。
というのも、そこで間違いがあると、深刻な「事故」や「爆発」が惹き起こされることになるからだ。
ケン・ウィルバーは、様々な著書の中で「シャドー」領域の重要性を指摘し、また、そのために読者がとりくめるいくつかの簡便な方法を紹介している。
そのことには途轍もない価値があるとは思うが、ただ、われわれが気をつけなければならないのは、それがときとして爆弾処理に似た大きなリスクを伴う作業となりえるということだ。
そのためには、どうしてもプロの支援が必要となるのだ。
あらゆる領域の実践には「art」としての側面があると思うのだが、この「シャドー」領域に関しては特にそれが言えるのではないかと思う。
「シャドー」領域の探求に心を開こうとすると、この世界の最も勇猛果敢な人でさえたじろいでしまうような「恐怖」が生まれるものだが、そうした逡巡の只中にある者に招きの手をさしのべて、そして、その旅路に寄り添うことができるためには、正にそうした「art」と形容すべき資質と能力が求められるのである。
そうした意味では、「シャドー」領域の探求にとりくむに際しては、先ずは支援を求める決意をするということが重要になるのだと思う。
特にある程度の社会的な影響を発揮する立場にある人には、「シャドー」領域に関する支援を求めるというのは必須の責任となると思う。
シャドーはその人物の思考と行動の全てに忍び込み影響をあたえることにあるが、それが意識化されないために生み出される悲劇の規模は、その人の社会的な影響力が高まれば高まるほど、真に深刻なものになる。
ときとして、「シャドー」の領域に課題や問題がそのまま治療されずに温存されているからこそ、それが「エンジン」となって、その人の猛烈な行動を可能としているということもあるのだろう。
しかし、それが「+」として見做されえるのは、その人の社会的な影響の範囲が非常に小さなものであるうちであろう。
とりわけ、共同体の重要な意思決定に携わる立場に就いている者に於いては、この領域の課題や問題を放置しつづけることは、それは多数の人々に深刻な被害をもたらすことになる。
日本だけでなく、人類社会全般にいえることであるが(これは、また、発達心理学者のZachary Steinが強烈な批判を展開しているところでもあるが)、今日、われわれ人類は健全なリーダーを育成するということに於いて、完全に失敗をしている。
誇張ではなく、われわれは正に「カキストクラシ―」という言葉が意味する「最悪の者達による統治」の下に生きているのである。
いわゆる「リーダー」といわれる人々がこれほどまでに劣化している原因は多様であるが(Steinは、教育にその主たる理由があると主張している)、こうした状況を修正していくために、リーダーの病理を的確に看破する鑑識眼をひろい範囲の人々が涵養していくことが必要となるのは明らかであろう。
そして、そのためには「シャドー」に対するリテラシーを高めることは非常に有益となるのである。

 

久しぶりの演奏会

7月2日@サントリーホール
新日本フィルハーモニー
指揮:下野 竜也

 

フィンジ:弦楽オーケストラのための前奏曲ヘ短調 op. 25 Finzi:Prelude for string orchestra, in F minor, op. 25
ヴォーン・ウィリアムズ:テューバ協奏曲ヘ短調* Vaughan Williams : Tuba Concerto in F minor*
ベートーヴェン:交響曲第 6 番ヘ長調 op. 68 「田園」 Beethoven: Symphony No. 6 in F major, op.68 “Pastorale”
https://www.njp.or.jp/concerts/8733

 

実に久しぶりの演奏会ということで、オーケストラのメンバーが舞台に登場するところから聴衆の熱い拍手が送られた。
演奏する方も聴く方もこの日を待ち望んでいたことが深く実感される。
演奏会はフィンジの小品からはじまったが、しみじみとした郷愁を感じさせる作品で、自然と数十年前の風景が思い出された。
しかし、ただ綺麗なだけでなく、コントラバスの低音が常に効いていて、そこはかとない悲劇性を湛えている。
オーケストレーションの妙だと思うが、このように悲劇的な想いを臆することなく率直に表現する作曲家に訓えられる気がする。
NJPの弦合奏も、この団体特有の輝かしく気品のある美しさを湛えており、その美音を浴びているだけでじんわりと泪が溢れてきた。
次のヴォーン・ウイリアムズの協奏曲は、テューバの不思議に魅力的な音色に魅了された。
楽器そのものがもつ「現代性」は、そこにどこか空虚さを湛えているが、それが不思議とおもしろい。
必ずしも深みのある作品ではないが、田園の風景を心象風景としながら、そこで営まれる人間の日常的な喜怒哀楽の息吹が実感される秀作である。
後半はベートーヴェンの「田園」。
正直なところ、下野 竜也の指揮にはいい意味での「雑然」としたところがなく、それがこの作品のスケールを小さくしてしまっているところがあるように感じた。
しばらくまえに、読売日本交響楽団の演奏会において、下野の指揮でグバイドゥリーナの作品を聴いたときには、その芸術的ともいえるバトン・テクニックには惚れ惚れとしたのだが、こうした古典に関しては、その卓越した技術が少々邪魔をしているように感じられるのである。
ただ、第2楽章以降は尻上りに良くなり、この日の演奏会の特殊性もあり、全体としてはやはり深い感動をあたえられた。
第2楽章では、まるで花園に足を踏み入れたような感覚に襲われるほどに、幻想的な音世界が創造され、聴いていて、極上のフランス音楽を聴いているような感覚に襲われた。
何十年もこの作品を聴いてきて、こうした美が息づいていたことをはじめて気づかされた思いである。
また、3楽章以降は、この作品が正にスピリットの眼をとおして、自然とそこで営まれる人間の暮らし愛の中に眺める作品であることを確信させるほどのものだった。
聴きながら、いつまでも演奏が続いてほしいと思ってしまった。
嵐の場面におけるティンパニの響きには痺れたし、また、末尾に僅かのあいだ奏でられるホルンの神々しい響きには、陶然としてしまった。
NJPの状態だが、全体が溶け合い、この団体の特質であるあの気品溢れる美音を奏でるところまでには至っていないが、今日の演奏会では、そんなことはどうでもよく、こうして音楽がこのホールで奏でられたことそのものに途轍もない意義がある。
終演後、いったん奏者全員が舞台から退いたあとも、客席の拍手は鳴り止まず、しばらくして指揮者の下野氏とコンサートマスターの豊嶋氏が再度舞台に登場して挨拶をした。
こういう光景を見て落泪しない者はいないだろう。

生の演奏が聴けることがいかに贅沢なことかということを演奏会の常連は忘れがちだが、結局のところ、感動とは、その人間が内に感じている飢餓感に支えられているものである。
飽食のために肥満しきった人間には料理の価値は解るはずもないのだ。
藝術を愛する者であれば、自身の内に「飢え」を維持するために、普段からいろいろと工夫をするものである。
同時に、もうひとつ思ったのは――これはどの団体にも言えることだが――演奏者の方々にはやはり「今日が最後の演奏会になるかもしれない」という想いをもって演奏をしてほしいということだ。
聴衆を前にして演奏する機会は、今日も明日もあると思うと、演奏行為は「仕事」になるし、また、舞台上の演奏者の姿もそうした意識を反映するものとなる(そういうものは、結構聴衆に伝わるものだ)。
定期会員の中には、苦しい生活の中で時間と資金を捻出して演奏会に脚を運んでいる人がたくさんいると思うが、そういう人達は「一期一会」の気持ちで会場に来ていると思う。
個人的には常にそういう真剣な聴衆の想いに応える演奏を期待している。
今日のような異常な事態下であれば、そうした演奏は自然とできるのかもしれないが、再び「日常」がもどってきたときに、果たしてわれわれはそうした精神的な緊張をともった演奏を聴くことができるのか……?、また、そうした演奏が可能となるような尊敬の眼差しを奏者に向けることができるのか……?
この演奏会からの帰路に着きながら、そんなことを思った。

 

「発達理論」に求められる倫理性

 

「測る」という行為には本質的に倫理的な責任が伴うものである――発達心理学者達がとりわけ主張するのがこのことである。
測定をするとは、結局のところ、他者を対象として観察することであり、また、その結果を踏まえて、その人物に対して働きかけることである。
端的に言えば、その人物の人生に影響をあたえたり、介入をしたりする権利を得ることになるのである。
また、そもそも測定という行為そのものが、そこに上限関係を生み出すことである。
その関係性の中で、測定者は被測定者に対して上位に立つことになるのである。
そうした意味では、測定者としてのトレイニングは、倫理的な要素を含めた、総合的なトレイニングの要素として位置づけられるべきであり、それだけを取り出して勉強するのは、非常に危険なことなのである。
また、そもそも測定は「何のために測定するのか?」という問いとの格闘を常に要求するものでもある。
発達心理学者のZachary Steinは、その著書の中で、現代の教育に於いて、「テスト」といわれるものがいかに倒錯したものとなっているかについて多面的な解説を展開している。
また、その文脈の中で、いわゆる「IQ」というものに関しても、それを上げることを目的とするのは、そもそもそうした概念が構築され、また、それを測定するための方法が創出されたそもそもの目的を踏み外すものであると述べている。
端的に言えば、そうしたスコアの「高い」ことを「善し」として、人間を階層的に識別する発想は、実質的に優生学的な発想に道を開くことになりかねないのである(この問題に興味のある方は下記の書籍を御参照いただきたい:
War Against the Weak: Eugenics and America's Campaign to Create a Master Race by Edwin Black)。
そして、Steinは発達理論に関しても同じことが言えると警鐘を鳴らしている。
人間というものをそうしたモノサシにもとづいて測定して、そのスコアが高いほど「善い」のだという発想……、そして、個人や組織はその発達段階を上げるべきであるという発想……
こうした発想に対して、われわれはもう少し冷静であるべきであろう。
換言すれば、それほどまでに人間を対象化して、あらゆる能力を測定し、そして、その結果としてあきらかにされるスコアを少しでも「高い」ものにすることに熱中する社会というのは本質的に健全な社会なのか?――という問いを発するべきなのである。
Steinの著書には、“A nation's greatness is measured by how it treats its weakest members.”というマハトマ・ガンジーの言葉が紹介されている。
現代は「成長」したり、「発達」したり、「能力」を開発しつづけたりしないと、まるで生きる資格が無いように人々に思わせる社会だが、それがいかに倒錯したものであるのかを強烈に指摘するのが、この言葉であるとSteinは主張するのである。
真に病み傷つき、虐げられた人々は、「成長」や「発達」等という概念とは無縁のところで生きているものである。
また、そうした概念に無縁であっても、幸福に生きていけることこそが、その社会の成熟度を示すものなのである。
もちろん、非常に逆説的ではあるが、これは、こうした現代に蔓延する「成長・発達イデオロギー」の呪縛から自由になれるくらいに社会が「成熟」する必要があるということなので、必ずしも、「成長」や「発達」の価値そのものを否定しているわけではないと思う。
もし真に自律的に思考することができるのであれば、巷で受容されている「成長」や「発達」という言葉の定義に対して少しは批判的になるだろうし、また、そもそもこの世に人間が生を受けた根本的な理由とは、果たして「発達」や「成長」をすることなのか? という根源的な問いを自然と発するはずである。
少なくとも、「生活」や「成功」をするためには、「成長」や「発達」が必要であると発想する風潮を批判的に省察することができるだろう。
Steinをはじめとする発達心理学者が指摘するのは、そうした懐疑の精神が、この領域の研究者には求められるということなのである。
但し、少々逆説的かもしれないが、発達理論をまなぶということは、われわれの生きる社会に蔓延するこうした「成長」や「発達」を礼賛するイデオロギーに対して批判精神をもって対峙するための思想的・理論的な見識をもたらしてくれるものであるということはできるのではないだろうか……。
人間というものが、そうした単純なイデオロギーで都合よく扱えるものではないことを訓えてくれるからである。

 

「ティール」に関する対話

いわゆる「成人発達理論」において「ティール」といわれる段階の特徴に関して、この数日、その領域で活躍する仲間といろいろと議論をしていたのだが、その特徴のひとつとして、「文脈」(context)に関する精緻な認識を持つ傾向にあるということで意見が一致した。
たとえば、自身が何かに興味・関心を抱き、それについて思考や探求をしているときに、
「そもそも自分はなぜそれに興味や関心を抱いているのか?」
「そもそも自分にそうした話題に関して興味・関心を抱かせている社会的・時代的な背景はどこにあるのか?」
という風に自分自身の思考(意識)そのものを客観的に眺めることができるのである。
換言すれば、何等かの思想や理論に惹かれ、それを探求していこうとしている自分自身そのものを客観的に眺めて、それをひろい視野から眺めることができるということである。
人間は自由に思考をしていると思い込んでいるが、意外と時代や社会の影響に支配されているものである。
たとえば、今日、数多くの人々が「戦略的思考」や「論理的思考」に興味を抱き熱心に勉強をしているが、そもそもわれわれがそうした勉強に膨大な時間と精力を投じようと思うのは、この時代と社会に生まれ、そこで人格形成する中で「そうしたことについて勉強をするのは重要なことである」と訓えられてきたからである。
もしわれわれが全く異なる時代や社会や文明に生まれていれば、そもそもそんなものに興味や関心を抱くことさえないだろう。
思考とは、完全なる自由の中で営まれるものでなく、思考を成立させている世界観や価値観の枠組の圧倒的な影響の下で営まれるものである(経済学者のHerman Dalyがpreanalytic visionと呼んでいるものである)。
実際、「ティール」的な発想を習得した人達の言葉に耳を澄ませていると、人間が思考や探求をはじめる「前」の時点でその行為に影響をあたえ、その行為を半ば支配・呪縛している文脈的な要因に関して鋭く言及するので、聞いていて非常に面白いものだ。
そうした洞察は半ば必然的に自らの生きる時代や社会の本質そのものを批判的にとらえるマクロ的な分析にならざるをえないからである。
ある意味では、それはひとりの「思想家」や「哲学者」と話をしている感覚に似ているといえるかもしれない。
これはそのまま発達理論に関しても言えることで、こうした発想にもとづいて発達理論を勉強している人は、「そもそもこのような理論が社会的に注目され、また、自分自身もそれに興味を覚え、熱心に勉強をしているが、そもそもなぜ自分はこんなものにこれほどまでに夢中になっているのだろうか? また、関係者の間で半ば暗黙の裡に真実として共有されている価値観(例:“higher is better”)は、どのような時代的・社会的な価値観を反映しているのか? また、それを無批判に受容することをとおして、自分はどのような時代や社会の偏見を助長することになるのか?」というような問題意識を同時に維持できているものである。
これは非常に不思議な「在り方」で、表面的には人一倍の「熱意」をもって探求をしているようにみえるのだが、一方では、人一倍の「醒め」を持っている。
人間は特定の時代的・社会的な文脈の中で生きていかざるをえないが、また、そうした文脈を心理的に超越して、対象化して眺めることができる生き物でもある。
「慣習的段階」(conventional stage)を超えて成長していくということは、こうした内的な緊張を経験できるようになるということにほかならない。
そして、こうした内的な緊張こそが、「ティール」といわれる段階に関して長年にわたり探求を深めてきた実存主義心理学者達が強調するところでもあるのだ。
われわれが生きる現代社会の最大の問題は、「教育」の名の下に、既存の社会の文化や構造を所与の条件として思考することを人々に強要することにあることである。
即ち、社会の中で営まれる「ゲーム」に参加し、その中で「勝つ」ことを「正しい」価値観として刷り込み、そのための知識や技術を伝授することを「教育」の目的として設定してしまっているのである。
「現実的になる」というのは、その「ゲーム」を、虚構ではなく、不変のものとしてとらえるということであり、その意味では、たいへんな言葉の倒錯が起きているのだが、その「狂気」を「正気」としてひろく信じているというのが、われわれの社会の本質であろう。
発達理論がわれわれに呈示している諸々の洞察は――もしわれわれがそれを賢明に活用することができれば――こうした「倒錯」と「狂気」を克服するためのヒントとなるのではないだろうか……?
幸いなことに、日本に於いても、このところ多数の方々が成人発達理論に興味や関心を寄せはじめてくれている。
そして、そこには、「適応」することの「狂気」を薄々と感じとり、それを突破するための「道」を模索している方々も少なからずいると思う。
個人的にはそうした意識を応援していきたいと思っている。