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思想家ケン・ウィルバーの素晴らしい言葉

思想家ケン・ウィルバーの素晴らしい言葉を見つけたので、翻訳して御紹介したいと思う。
著書『ワン・テイスト』(One Taste)の中の一説である。
尚、原文を少し意訳しているので、御了承いただきたい。

 

*

 

したがって、真の変容を通して深く魂を揺さぶられた者は全て深淵な倫理的義務と格闘しなければならなくなるーー即ち、心から叫ぶという義務である。それは静かに優しくかもしれない、熾烈な炎と憤怒の怒りと共にかもしれない、ゆるやかで注意深い分析と共にかもしれない、揺るぎない率先垂範を通してなのかもしれない。しかし、そこには真に常に絶対に要求と義務が伴われるのである。あなたは、自らに可能な最大限の能力を発揮して声を発し、霊の木を揺さぶらなければならない。現状に安住している者達の目を光で照らし出さなければならない。
もしあなたがそれを怠るとすれば、あなたは自らの真実を裏切ることになる。あなたは自らの真の財産を隠していることになるのである。あなたは自分自身を脅かしたくないから、他者を脅かすのを避けているのである。あなたは不信にもとづいて行動しているのである。悪い永遠の感覚である。
というのも、警戒すべき事実とは、深層性に関するあらゆる洞察は恐るべき重責を伴うということである。「見る」ことを許された者は、それと同時にそこで見たことを些かも誤魔化すことなく伝える義務を担わされるのである。それが条件なのである。あなたは、他者にそれを伝えることに合意するという条件の下で真実を見ることを許されたのである(それこそが菩薩戒の究極的な意味である)。したがって、もしあなたが見たのであれば、あなたはそれを語らなければならない。慈悲と共に語るのだ。あるいは、憤怒の叡智と共に語るのだ。あるいは、方便と共に語るのだ。しかし、あなたは語らなければならない。
そして、これは真に過酷な重荷である。恐るべき重荷である。というのも、そこには臆病であることの余地は全く残されていないからだ。あなたが間違っているかもしれないということは言い訳にはならない。正しいかもしれないし、誤っているかもしれない。しかし、それは問題にはならない。問題になるのは、キルケゴールがわれわれにひどく不躾に指摘するように、情熱を傾けて自己のヴィジョンを語ることを通してのみ、それは何等かのかたちで世界の抵抗を突破することができるということだ。あなたが正しいのか誤っているのかは、ただ情熱だけが明らかにしてくれるのである。あなたにはそれを明らかにする義務が課されている。したがい、あなたにはあなたの真実を心の中に見出せる情熱と勇気と共に語る義務があるのである。それがいかなる方法であれ、あなたは叫ばなければならないのである。
― ケン・ウィルバー 『ワン・テイスト』

スザンヌ・クック・グロイターの論文の邦訳

先日、翻訳者の門林 奨さんが、スザンヌ・クック・グロイター(Susanne Cook-Greuter)の論文を邦訳して、日本トランスパーソナル学会(JTA)の研究誌に寄稿してくださった。
今回、その論文を、JTAの許可を得て、Integral JapanのHPに掲載させていただいた。
2005年に発表されたものなので、に少し古いところはあるが、それでも、 “perspective taking”、即ち、視点を考慮する能力の向上が、個人の認知能力の発達にもたらす決定的な重要性を理解するには十分なものだと思う。
是非一読を御奨めしたい。

 

自我の発達:包容力を増してゆく9つの段階
スザンヌ・クック=グロイター著 / 門林 奨訳
http://integraljapan.net/articles/JTA2018EgoDevelopment.htm

「メタ」の濫用について

Harvard Graduate School of EducationでKurt FischerのもとでまなんだZachary Steinの論考は常に刺激溢れる洞察に富んでいる。

先日、blogで発表された下記の論考も面白いものだ。

 

Be Careful “Going Meta”—Metapolitical Practice (II)
http://www.zakstein.org/be-careful-going-meta-metapolitical-practice-ii/

 

近年、日本においても「メタ」という言葉が用いられるようになり(例:「メタ認知」)、とりわけ教育の領域においては、いわゆるメタ的な視座を涵養することを重要な目標のひとつとして位置づけているようである。
このように、基本的には「メタ」な発想をすることはいいことであると信じられているのだが、興味深いことに。ここでSteinはいわゆる「メタ」な視点を議論に持ち込むことに、われわれは慎重であるべきであると述べている。
即ち、「メタ」な視点を濫用すると、議論をするために必要となる前提条件そのものをひたすらに溶解させる危険性が生まれることになるのである。
また、同じように、それは論点を掏り替えための技術にもなる。
あいてが論点として設定していることを誠実にとりあうことを拒絶したいとき、この「メタ」な視点は便利な道具となるのである。

ケン・ウィルバーとロバート・キーガンのインタビュー(2004)

少し古いものになるが、ケン・ウィルバー(Ken Wilber)とロバート・キーガン(Robert Kegan)のインタビュー(2004)がYouTube上で無料公開されたので、御紹介したい。
https://youtu.be/sRzU1bDXQIs
ポスト・モダニズムの強い影響下にある今日のアカデミアにおいて「発達論」を研究することが政治的にいかに困難なことであるかということについて多くの時間が割かれている。
対話中に“normative”という言葉が登場するが、これは「規範的」と訳されるようだが、その意味するところは、複数の人間の意識の状態を比較して、ある状態を他の状態よりも“better”なものであると価値判断する態度という意味で理解しておけばいいと思う。
発達論は、そうした価値判断をすることを、人間を理解するうえで不可避的な要素として受容する理論であるといえるだろう。
しかし、こうした発想は、必然的に、「ある状態に向けて人間は成長をしていくべきである」という規範を主張するものとなるので、それを「科学」の名のもとに社会に強要するのは横暴であるという批判を招くことにもなる。
いわゆるポスト・モダニズムといわれる思想は、そうした批判を先鋭的に展開するわけだが、そうした発想がひろく浸透した今日のアカデミアにおいては、発達論を研究することそのものがどうしても難しくなる。
端的に言えば、価値判断をすることそのものが暴力につながるという価値相対主義の支配下においては、発達論等のnormativeな発想をする学問は常に攻撃に曝されることになるのである。
ウィルバーとキーガンは、こうした同時代の思想空間の中でどのように研究活動を舵取りしていくべきかということについて語っている。
もちろん、ポスト・モダニズムそのものも深刻な盲点をそなえていることは徐々に認識されはじめている。
そこには、「価値判断をするnormativeな発想よりも、そうした発想を否定する発想の方が優れている」という価値判断が息づいているわけで、端的に言えば、他者にたいして禁止していることを自らがしているのである(“performative contradiction”)。
ウィルバーとキーガンは、こうした自己矛盾をある発達段階の特徴のひとつとして位置づけ、それそのものは比較的に高度の認知構造にもとづいた発想ではあるが、最終的には超克されていくと述べているが、ただ、少なくとも、今日のアカデミアにおいては、こうしたポスト・モダニズムの価値相対主義が主流を占めているために、それよりも高次の段階に立脚した発想は、正にそれが価値相対主義を信奉しないがゆえに、熾烈な批判に曝されるのである。
ただし、
ウィルバーとキーガンの発言に関して
少し注意を喚起しておくべきことがあるとすれば、それは、彼等が往々にしてあまりにも無警戒に高次の発達段階を美化してしまうことだろう。
端的に言えば、彼等は「よりたくさんの人々が高次の発達段階を獲得すれば、社会の問題が解決されるはずだ」と言うのである。
しかし、高次の発達段階を獲得すれば、人間が必ずしも良心的になるという保証は無いし、また、視点取得能力が高まることで、たとえその可能性が高まるとしても、それが今日の社会制度の中で活用されるという保証はどこにもない。
むしろ、高次の認知能力を駆使して、自己、あるいは、自己の所属組織の利益をさらに巧みに追及するようになるだけに終わるという可能性もあるのである。
実際、今日の社会の支配層の極度の腐敗を診れば、認知構造の集合規模の高度化が社会の福利の向上に繋がるという主張があまり信憑性の無いことは窺いしれるのではないだろうか……。
たとえば、高次の認知構造にもとづいて発想されているとされる『ティール組織』(Reinventing Organization by Frédéric Laloux)等の知識が、結局のところ、来るべき時代の中で勝ち組となるための道具として受容されているに過ぎないという今日の状況を鑑みれば、いわゆる「高次」の「能力」や「知識」を半ば不可避的に横領してしまう現代社会の構造にたいして鋭いメスを挿れることなしには、個人の発達などというものが実際にはそれほどの意味を持たないことに気づくことができるだろう。

 

加藤 洋平『成人発達理論による能力の成長』(日本能率協会マネジメントセンター)

友人の加藤 洋平さんが新著『成人発達理論による能力の成長』(日本能率協会マネジメントセンター)を出版された。
献呈していただいたので、さっそく目を通してみた。
ここ数年のあいだ、Robert Keganの発達心理学が漸く日本で本格的に紹介され、成人期を対象にした心理的な発達に関して注目が集まりはじめたが、それほど時を経ずして、このようにKurt FischerのDynamic Skill Theoryに関して一般向の書籍が出版されたことは、実に素晴しいことである。
Kurt Fischerの研究は今日の発達科学の中でもとりわけ重要なものでありながら、日本語にほとんど資料が翻訳されていないこともあり、実質的に全く認知されていない。
また、WEB上には膨大な量の論文が公開されているが、内容的に難解なところがあり、高度の英語能力と心理学の基礎知識がないと、なかなか理解できないものである。
その意味でも、加藤さんが、こうして非常に平易な言葉遣いで、その重要な内容を紹介してくれる書籍を著わしてくれたことは、貴重な貢献である。
成人期の発達に関する研究の最新の成果に触れる機会が無い日本の一般の読者にとって、正にこうした精緻な研究が現在進行形で展開していることを知ることができることそのものが大きな喜びをもたらしてくれるだろうし、また、さらには、ここにある知識を基礎知識として共有すれば、成人期の発達に関して、これまでよりも論点を格段に整理して対話や探求ができるようになるだろう。
端的に言えば、成人期の発達に関して、社会的な議論をはじめるための必須の知見を提供してくれる書籍といえるだろう。
一読を御勧めしたい。

尚、内容に関する詳しい感想は後日あらためてまとめて、ここで御紹介したいと思う。また、近日中に加藤さんと書籍についてインタビューをさせていただく予定なので、それについても御期待いただきたい。

今日は、とりあえずこの素晴らしいしらせを共有したく筆をとった。

発達がもたらしてくれるもの……(事例)

Harvard Graduate School of Educationの教育学者・発達心理学者のZak Steinが、学校制度の現在と将来に関して非常に内容豊かなインタビューをしている。

 

http://www.zakstein.org/the-future-of-education-a-fast-moving-podcast/

 

後慣習的段階の思考・発想というものがどのようなものであるのかということについて具体的に示すために、これは非常にいい事例である。
論者の思考を少し整理すると、「教育」というものはいかなるものであるべきなのかという本質的な問いを常に発しながら、同時に、それが、それぞれの時代の社会や産業の構造の中で本質と乖離したものに歪められていることにたいする痛烈な問題意識を抱き、同時代に胎動している変化の可能性と危険性を見据えようとしている。
時代をこえた普遍的なところに意識を向けながら、目の前にある現実を相対化して――また、それが現在進行形で変化の只中にあることを認識して――その構造を批判的に検討するのである。
今日の典型的な慣習的段階である合理性段階の論者であれば、「教育制度をどのように変革すれば、個人や社会の競争力を高めることができるか、そして、それにより、激化する国際競争の中で勝利を収めることができるか」というような物語の枠組を出ることはないだろう。
また、そうした論者の場合には、たとえ「変化」や「変革」という言葉を用いながらも、結局、あくまでの自己の時代を規定する価値観や世界観に呪縛されながら、将来を想定することになるので、Steinが示すように、「人間とは賃金を稼ぐことを義務づけられた存在である」という現代の前提条件そのものが崩れ得ることを踏まえて、将来を構想することはできない(“The issue here is what’s the human if the human’s not a wage laborer?”)。
くわえて、Steinは、教育というものが、社会の産業構造に従属する形態で構築されていることを明確に指摘したうえで、教育が内在させる課題や問題というものが、根本的には、そうした集合的な条件に起因していることを的確に診断する。
そして、きょういく改革というものが、そうした社会的・集合的な条件を批判的にとらえることなしには、実現しえないものであることを明らかにする。
即ち、それは、安易に「現実的」になることを拒絶して、問題の核心を見据えようとする非常に強靭な発想であるともいえるだろう。

 

ケン・ウィルバーの最新インタビュー

Trump: The Anti-Green Backlash Begins

 

ケン・ウィルバーの最新インタビューである。
先日発表した“Trump and a Post-Truth World: An Evolutionary Self-Correction”に関する解説をこころみている。
Integral Instituteの関係者が今日の社会動向をどのようにとらえているかを掴むことができるので、参考までに、インテグラル理論に興味のある方々はとりあえず聴いておいていただきたい。

 

ただし、少し辛辣な表現になるが、この対話は、一貫して(今日 インテグラル・コミュニティで受容されている)いわゆる「インテグラル・フレイムワーク」を無謬のものとして奉じる信奉者による対話であり、これまでに無数にくりかえされてきたのと同様の分析が半ば予定調和的に呈示するだけのものに終わっている。
もちろん、集合意識に関するひとつの分析としてはそれなりにおもしろくはある。
実際の政治そのものに言及することはまったくできていないので、結局のところ、素人による少々知的な床屋談義の域を出ないのである。
とりわけ、これだけWEB上で調査型ジャーナリズム(investigative journalism)が充実しているなかで、普段からそうした情報に注意を払っている方々には、ここで展開されている議論というのは、あまりにも具体的な情報に乏しく、また、そうした主流の報道番組でとりあげられる以外の情報を少しでも真剣に調整をした痕跡さえないので、馬鹿馬鹿しくてつきあいきれないと感じられるだろう。

この対話の中でも述べられているように、インテグラル理論の特徴のひとつは、事象と距離をとり望遠することで全体のパタンを把握するということにあるが、ただ、それはまた具体的なことに関して地道に調査をするということにたいして関係者を怠惰にさせてしまう危険性を内包している。
そうした情報を調べなくても、漠然とマクロな動向を把握できているという幻想を関係者にあたえてしまえるので、それらしいことを言えてしまえるからである。
この対話には、そうしたインテグラル理論が内包する危険性が露呈しているように思われる。

書籍紹介 - 『なぜ部下とうまくいかないのか』 加藤 洋平


近年、主にHarvard Graduate School of Educationの研究者のリーダーシップのもと、構造主義発達心理学(constructive developmental psychology)は目覚しい発展を遂げており、その成果は、日本でも、ロバート・キーガン(Robert Kegan)やケン・ウィルバー(Ken Wilber)等の著作を通じて紹介されはじめている。本書は、この領域に関して、日本人の著者によって一般の読者に向けて平易な日本語で書かれたはじめての入門書である。「コーチ」と「コーチー」の対話形式でまとめられており、クライアントの素朴な疑問に発達理論を専門とするコーチが回答するという形で対話が進められていく。

発達理論の特徴は、「知識」「スキル」「技術」をはじめとする機能的能力という概念ではとらえられない個人の深層的な能力に着目するところにある。こうした発想は、いわゆる「コンピテンシー」や「タイポロジー」の限界が明らかになりつつあるなかで、今 世界的に注目を集めはじめている。機能的な能力がいわゆる「ソフトウエア」に対応するとすれば、それらを起動させている「オペレイティング・システム」(OS)にあたるものに着目することが重要であるという認識が醸成されはじめているのである。

もちろん、そうした発想はこれまでにも存在していた。たとえば、日本語で「人間力」という言葉で言及されているものは、構造主義的発達心理学が認知構造と形容しているものにある程度は対応するのかもしれない。しかし、残念ながら、それらの言葉は、往々にして、科学的・批判的な検証に曝されることなく、個人の思想や価値観や感性に立脚するものであるために、普遍的な説得力をもつ概念としては確立されていない(むしろ、こうした概念が特定の個人の思想や価値観や感性に依拠する形で語られるとことにより、健全な批判精神をそなえた読者の顰蹙を買い、結局は、人間の深層領域に着目しようとする発想そのものの正当性を損なってしまうことになる可能性さえある)。

その意味では、ここ数年のあいだに、発達心理学者達の著作をとおして、これまでに謎に包まれてきた人間の深層的な能力というものが新しい文脈の中で説明されるようになったことの価値は測り知れないものである。
 
人間の意識や人格の成熟のプロセスを理解するうえで、発達心理学の知見を参照することによりもたらされた貴重な洞察は数多く存在するが、とりわけ重要なものとしては、人間の意識というものが実は刻々と状態を変えており、その結果として、そのパフォーマンスも激しく上下動をしているということが示されたことだと思う。本書でも著者の加藤 洋平氏が述べているように、個人の能力は、純粋にその人にそなわっている能力にもとづいて発揮されるだけでなく、そのときにとりくんでいる課題の性質や環境的な条件により影響され、そのパフォーマンスは容易に変化しえるものなのである。人間の発達というものを単純に直線的に展開するものとしてとらえる発想にたいして、こうした洞察は貴重な示唆をあたえてくれる。

また、本書では、業務活動を能率的に執り行うために個人の深層能力を急いで開発しようとすることの弊害に関しても言及されており、人間の深層領域を操作の対象として位置づけて、それに効果的に梃入れをすることができれば業務状のパフォーマンスを向上できると錯覚する姿勢にも警鐘を鳴らしてくれている。いうまでもなく、人間存在そのものを利益を獲得するための操作の対象として道具化するそうした発想そのものが低次の発達段階の発想といえるのだが、今日においては、そうした発想にたいして発達心理学の関係者は慎重に警戒をする必要があるのである。

このように、発達という概念を紹介するうえで、紹介者が指摘しておくべき重要な事項が押さえられていることは、本書を真に評価すべき作品としている。

いずれにしても、発達という概念は実に複雑なものである。実際には、発達をすればパフォーマンスが上がるというような単純なものではなく、むしろ、自己の能力を高めることをとおして、さらに「価値」や「利益」を創出できるようになることを単純に「善」とする価値観を――そして、そうした価値観を純朴に信奉していた自己そのものを――対象化して、その妥当性を冷徹に検証・内省する洞察力(脱構築能力)をもたらすのが、認知構造の発達である。実際、ロバート・キーガンは、代表作のIn Over Our Headsの中で高次の発達段階が確立されると、われわれはしばしばそれまでに自身が立脚していた価値観の多くが一種の「虚構」であることを看破するようになるために、それらの「常識的」な価値観を素直に信奉して生きていくことに激しい苦痛を覚えるようになるという指摘をしているほどである。つまり、発達とは必ずしも人間に幸福を保証するものではなく、同時代に生きる大多数の人々が共有している価値観や幻想や世界観にたいする盲信を解くことをとおして、個人に実存的な苦悩をもたらす可能性も秘めているのである。

発達心理学においては、高次の発達段階を美化して、そこに向けて邁進することを称揚する無邪気な上昇主義そのものが特定の発達段階の構造的な限界に根差すものであり、発達とは、そうした構造的な限界そのものを超克していく過程であるととらえられるのである。

こうした発達の過程で生まれる独特の苦悩や困難に関しても著者が適宜言及していることも、本書を秀逸な入門書としている所以である。ひろく推薦したい。
書籍紹介 : 『行動探求:個人・チーム・組織の変容をもたらすリーダーシップ』

2004年に出版されたWilliam Torbert and AssociatesによるAction Inquiryの邦訳である。
1990年代以降、欧米では、企業組織における能力開発と組織開発の領域においては、発達心理学の知見が積極的に応用されており、研究者・実践者による膨大な文献が生み出されている。この数年のあいだに、日本においても、ケン・ウィルバー(Ken Wilber)やロバート・キーガン(Robert Kegan)による個人の成長を促進するための実践書が翻訳されている(また、その他には、DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビューの2005年9月号に本書の著者でもあるトーバートによる「リーダーシップの七類型:変革リーダーへの進化」が翻訳・紹介されている)。本書は、そうした時代的な文脈の中で大きな存在感を放つ重要な著書のひとつといえる。
過去数十年の間に、能力開発と組織開発の領域における関係者の関心は、いわゆる「スキル」の習得から、そうしたものを活用しているリーダーの「意識」そのものを深化させることに移行してきており、そうした文脈の中で、「自己内省力」(self-reflexivity)をキー・ワードとして、実務にとりくみながら同時並行的に自己を内省する能力を涵養することの重要性がひろく指摘されるようになっている。つまり、今日においては、われわれは、外部の世界に意識を向けながら、同時に、自己の内部にも意識を向けて、そこで刻々と生起する諸々の現象(例:思考・感情・感覚)を認識しながら、それらと対話をしたり、あるいは、それらを批判的に検証したりすることを求められているのである。
ただし、そうした能力は、基本的には、単純なスキルとして習得できるものではなく、いわゆる「深層的な発達」(認知構造の構造的な発達)をとおして徐々に獲得されていくものである。端的に言えば、行動の只中で内省する能力(“reflection in action”)とは、それをしようとすれば簡単にできるようなものではないのである。
本書では、このことに留意して、発達心理学の洞察を応用しながら、個人の認知構造の変容を促進することが、具体的にどのように個人と組織の思考と行動に影響をあたえ得るのかということに関して詳細に論述されている(尚、本書では、Harvard Graduate School of Educationでロバート・キーガンと共同研究をした発達心理学者のスザンヌ・クック・グロイター(Susanne Cook-Greuter)が全面的に協力をしている)。また、本書では、読者が日々の実務の中で自己の内省力を鍛錬していくための基本的な技法がいくつか紹介されている。
ただし、注意点としては、著者の文章が非常に発散型のものであるために、読者の方々は、しばしば、著者が真に云わんとすることが把握できず、混乱させられることがあると言うことが挙げられるだろう(実際、本書を研究会の課題図書としてとりあげたときには、多数の参加者から、著者が最も主張したいことが理解できず、苛々させられたという感想をいただいた)。そうした場合には、本書と同じように、発達心理学の知見を能力開発と組織開発に応用したWilliam B. Joiner & Stephen A. JosephsのLeadership Agility: Five Levels of Mastery for Anticipating and Initiating Change(Jossey-Bass)やJennifer Garvey BergerのChanging on the Job: Developing Leaders for a Complex World(Stanford Business Books)等を参照されるといいだろう。
また、発達心理学に関しては、本書の出版以降、Harvard Graduate School of Educationの研究者を中心にして、非常に大きな成果が生み出されつづけており、本書の内容が少々時代遅れになっているところがあることにも留意をすべきであろう。たとえば、近年の研究では、認知構造の発達が必ずしも生産性(performance)の向上をもたらすとは限らないことが指摘されたり、また、認知構造の発達を過度に高速度化するときにはその弊害が生まれることが警告されたりする等、単純に発達を奨励する発想の危険性が徐々に認識されはじめてもいる。本書の帯には高次の発達段階である「アルケミスト型リーダーをめざせ」という言葉が記されているが、読者の方々は、こうした安易な上昇主義的な文句に踊らされることのないように注意をしていただきたいと思う。
発達心理学者のジョン・ピアジェ(Jean Piaget)は、人間の認知構造を発達させることを、実務能力を向上させるための効率的な方法とみなして、それを人工的に推進しようとする態度を“American Problem”と呼んで警鐘を鳴らしたが、人間の内的な成長・発達とは、間違っても、業務活動を効果的に遂行するための「方法」として安易に位置づけられるようなものではないのである。発達理論を企業における人材開発は組織開発に適用するときには、こうした倫理的な観点が必要になるが、このあたりの課題に関しては、欧米においても、まだまだ対話は進展していないというのが実情である。
いずれにしても、今後、日本においても、本書をはじめとして、発達理論を応用した文献が紹介されていくことになるだろうが、読者の方々には、是非 健全な批判精神をもってそれらを読んでいただければと思う。
 
小出 裕章(元京都大学原子炉実験所助教)の会見


2015年4月25日に開催された小出 裕章(元京都大学原子炉実験所助教)の会見。
 
このところ報道機関は、福島原子力発電所の事故に関してほとんどとりあげなくなりつつあるのは周知のとおりである。
しかし、それにしても、あの事故が、東京全域が退避圏内にはいる可能性を秘めていた過酷事故であったことを考慮すると、この大衆の無関心振りというのは、実に異様なものである。
事故直後、東京都内の通勤の風景を眺めていたときに、あたかもそれまでの日常が継続しているかのように人々が歩いているのを目撃して、言葉にしがたい不気味な感覚を覚えたことを安冨 歩氏が著書『原発危機と「東大話法」:傍観者の論理・欺瞞の言語』の中で報告しているが、こうした症状は、正に「離人・現実感喪失症侯群」に比すことができるのだろう。
世界の状況がいかに非日常的なものに変質しても、そのことを認識することができずーーそのことに心を揺さぶられることなく――日常を規定するルーティーンに没入しつづけることができるという状態……。
そして、日本社会においてはいわゆる「健康」な人々の大多数がこうした状態の中で生きているという事実は真に震撼すべきことである。