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加藤 洋平『成人発達理論による能力の成長』(日本能率協会マネジメントセンター)

友人の加藤 洋平さんが新著『成人発達理論による能力の成長』(日本能率協会マネジメントセンター)を出版された。
献呈していただいたので、さっそく目を通してみた。
ここ数年のあいだ、Robert Keganの発達心理学が漸く日本で本格的に紹介され、成人期を対象にした心理的な発達に関して注目が集まりはじめたが、それほど時を経ずして、このようにKurt FischerのDynamic Skill Theoryに関して一般向の書籍が出版されたことは、実に素晴しいことである。
Kurt Fischerの研究は今日の発達科学の中でもとりわけ重要なものでありながら、日本語にほとんど資料が翻訳されていないこともあり、実質的に全く認知されていない。
また、WEB上には膨大な量の論文が公開されているが、内容的に難解なところがあり、高度の英語能力と心理学の基礎知識がないと、なかなか理解できないものである。
その意味でも、加藤さんが、こうして非常に平易な言葉遣いで、その重要な内容を紹介してくれる書籍を著わしてくれたことは、貴重な貢献である。
成人期の発達に関する研究の最新の成果に触れる機会が無い日本の一般の読者にとって、正にこうした精緻な研究が現在進行形で展開していることを知ることができることそのものが大きな喜びをもたらしてくれるだろうし、また、さらには、ここにある知識を基礎知識として共有すれば、成人期の発達に関して、これまでよりも論点を格段に整理して対話や探求ができるようになるだろう。
端的に言えば、成人期の発達に関して、社会的な議論をはじめるための必須の知見を提供してくれる書籍といえるだろう。
一読を御勧めしたい。

尚、内容に関する詳しい感想は後日あらためてまとめて、ここで御紹介したいと思う。また、近日中に加藤さんと書籍についてインタビューをさせていただく予定なので、それについても御期待いただきたい。

今日は、とりあえずこの素晴らしいしらせを共有したく筆をとった。

発達がもたらしてくれるもの……(事例)

Harvard Graduate School of Educationの教育学者・発達心理学者のZak Steinが、学校制度の現在と将来に関して非常に内容豊かなインタビューをしている。

 

http://www.zakstein.org/the-future-of-education-a-fast-moving-podcast/

 

後慣習的段階の思考・発想というものがどのようなものであるのかということについて具体的に示すために、これは非常にいい事例である。
論者の思考を少し整理すると、「教育」というものはいかなるものであるべきなのかという本質的な問いを常に発しながら、同時に、それが、それぞれの時代の社会や産業の構造の中で本質と乖離したものに歪められていることにたいする痛烈な問題意識を抱き、同時代に胎動している変化の可能性と危険性を見据えようとしている。
時代をこえた普遍的なところに意識を向けながら、目の前にある現実を相対化して――また、それが現在進行形で変化の只中にあることを認識して――その構造を批判的に検討するのである。
今日の典型的な慣習的段階である合理性段階の論者であれば、「教育制度をどのように変革すれば、個人や社会の競争力を高めることができるか、そして、それにより、激化する国際競争の中で勝利を収めることができるか」というような物語の枠組を出ることはないだろう。
また、そうした論者の場合には、たとえ「変化」や「変革」という言葉を用いながらも、結局、あくまでの自己の時代を規定する価値観や世界観に呪縛されながら、将来を想定することになるので、Steinが示すように、「人間とは賃金を稼ぐことを義務づけられた存在である」という現代の前提条件そのものが崩れ得ることを踏まえて、将来を構想することはできない(“The issue here is what’s the human if the human’s not a wage laborer?”)。
くわえて、Steinは、教育というものが、社会の産業構造に従属する形態で構築されていることを明確に指摘したうえで、教育が内在させる課題や問題というものが、根本的には、そうした集合的な条件に起因していることを的確に診断する。
そして、きょういく改革というものが、そうした社会的・集合的な条件を批判的にとらえることなしには、実現しえないものであることを明らかにする。
即ち、それは、安易に「現実的」になることを拒絶して、問題の核心を見据えようとする非常に強靭な発想であるともいえるだろう。

 

ケン・ウィルバーの最新インタビュー

Trump: The Anti-Green Backlash Begins

 

ケン・ウィルバーの最新インタビューである。
先日発表した“Trump and a Post-Truth World: An Evolutionary Self-Correction”に関する解説をこころみている。
Integral Instituteの関係者が今日の社会動向をどのようにとらえているかを掴むことができるので、参考までに、インテグラル理論に興味のある方々はとりあえず聴いておいていただきたい。

 

ただし、少し辛辣な表現になるが、この対話は、一貫して(今日 インテグラル・コミュニティで受容されている)いわゆる「インテグラル・フレイムワーク」を無謬のものとして奉じる信奉者による対話であり、これまでに無数にくりかえされてきたのと同様の分析が半ば予定調和的に呈示するだけのものに終わっている。
もちろん、集合意識に関するひとつの分析としてはそれなりにおもしろくはある。
実際の政治そのものに言及することはまったくできていないので、結局のところ、素人による少々知的な床屋談義の域を出ないのである。
とりわけ、これだけWEB上で調査型ジャーナリズム(investigative journalism)が充実しているなかで、普段からそうした情報に注意を払っている方々には、ここで展開されている議論というのは、あまりにも具体的な情報に乏しく、また、そうした主流の報道番組でとりあげられる以外の情報を少しでも真剣に調整をした痕跡さえないので、馬鹿馬鹿しくてつきあいきれないと感じられるだろう。

この対話の中でも述べられているように、インテグラル理論の特徴のひとつは、事象と距離をとり望遠することで全体のパタンを把握するということにあるが、ただ、それはまた具体的なことに関して地道に調査をするということにたいして関係者を怠惰にさせてしまう危険性を内包している。
そうした情報を調べなくても、漠然とマクロな動向を把握できているという幻想を関係者にあたえてしまえるので、それらしいことを言えてしまえるからである。
この対話には、そうしたインテグラル理論が内包する危険性が露呈しているように思われる。

書籍紹介 - 『なぜ部下とうまくいかないのか』 加藤 洋平


近年、主にHarvard Graduate School of Educationの研究者のリーダーシップのもと、構造主義発達心理学(constructive developmental psychology)は目覚しい発展を遂げており、その成果は、日本でも、ロバート・キーガン(Robert Kegan)やケン・ウィルバー(Ken Wilber)等の著作を通じて紹介されはじめている。本書は、この領域に関して、日本人の著者によって一般の読者に向けて平易な日本語で書かれたはじめての入門書である。「コーチ」と「コーチー」の対話形式でまとめられており、クライアントの素朴な疑問に発達理論を専門とするコーチが回答するという形で対話が進められていく。

発達理論の特徴は、「知識」「スキル」「技術」をはじめとする機能的能力という概念ではとらえられない個人の深層的な能力に着目するところにある。こうした発想は、いわゆる「コンピテンシー」や「タイポロジー」の限界が明らかになりつつあるなかで、今 世界的に注目を集めはじめている。機能的な能力がいわゆる「ソフトウエア」に対応するとすれば、それらを起動させている「オペレイティング・システム」(OS)にあたるものに着目することが重要であるという認識が醸成されはじめているのである。

もちろん、そうした発想はこれまでにも存在していた。たとえば、日本語で「人間力」という言葉で言及されているものは、構造主義的発達心理学が認知構造と形容しているものにある程度は対応するのかもしれない。しかし、残念ながら、それらの言葉は、往々にして、科学的・批判的な検証に曝されることなく、個人の思想や価値観や感性に立脚するものであるために、普遍的な説得力をもつ概念としては確立されていない(むしろ、こうした概念が特定の個人の思想や価値観や感性に依拠する形で語られるとことにより、健全な批判精神をそなえた読者の顰蹙を買い、結局は、人間の深層領域に着目しようとする発想そのものの正当性を損なってしまうことになる可能性さえある)。

その意味では、ここ数年のあいだに、発達心理学者達の著作をとおして、これまでに謎に包まれてきた人間の深層的な能力というものが新しい文脈の中で説明されるようになったことの価値は測り知れないものである。
 
人間の意識や人格の成熟のプロセスを理解するうえで、発達心理学の知見を参照することによりもたらされた貴重な洞察は数多く存在するが、とりわけ重要なものとしては、人間の意識というものが実は刻々と状態を変えており、その結果として、そのパフォーマンスも激しく上下動をしているということが示されたことだと思う。本書でも著者の加藤 洋平氏が述べているように、個人の能力は、純粋にその人にそなわっている能力にもとづいて発揮されるだけでなく、そのときにとりくんでいる課題の性質や環境的な条件により影響され、そのパフォーマンスは容易に変化しえるものなのである。人間の発達というものを単純に直線的に展開するものとしてとらえる発想にたいして、こうした洞察は貴重な示唆をあたえてくれる。

また、本書では、業務活動を能率的に執り行うために個人の深層能力を急いで開発しようとすることの弊害に関しても言及されており、人間の深層領域を操作の対象として位置づけて、それに効果的に梃入れをすることができれば業務状のパフォーマンスを向上できると錯覚する姿勢にも警鐘を鳴らしてくれている。いうまでもなく、人間存在そのものを利益を獲得するための操作の対象として道具化するそうした発想そのものが低次の発達段階の発想といえるのだが、今日においては、そうした発想にたいして発達心理学の関係者は慎重に警戒をする必要があるのである。

このように、発達という概念を紹介するうえで、紹介者が指摘しておくべき重要な事項が押さえられていることは、本書を真に評価すべき作品としている。

いずれにしても、発達という概念は実に複雑なものである。実際には、発達をすればパフォーマンスが上がるというような単純なものではなく、むしろ、自己の能力を高めることをとおして、さらに「価値」や「利益」を創出できるようになることを単純に「善」とする価値観を――そして、そうした価値観を純朴に信奉していた自己そのものを――対象化して、その妥当性を冷徹に検証・内省する洞察力(脱構築能力)をもたらすのが、認知構造の発達である。実際、ロバート・キーガンは、代表作のIn Over Our Headsの中で高次の発達段階が確立されると、われわれはしばしばそれまでに自身が立脚していた価値観の多くが一種の「虚構」であることを看破するようになるために、それらの「常識的」な価値観を素直に信奉して生きていくことに激しい苦痛を覚えるようになるという指摘をしているほどである。つまり、発達とは必ずしも人間に幸福を保証するものではなく、同時代に生きる大多数の人々が共有している価値観や幻想や世界観にたいする盲信を解くことをとおして、個人に実存的な苦悩をもたらす可能性も秘めているのである。

発達心理学においては、高次の発達段階を美化して、そこに向けて邁進することを称揚する無邪気な上昇主義そのものが特定の発達段階の構造的な限界に根差すものであり、発達とは、そうした構造的な限界そのものを超克していく過程であるととらえられるのである。

こうした発達の過程で生まれる独特の苦悩や困難に関しても著者が適宜言及していることも、本書を秀逸な入門書としている所以である。ひろく推薦したい。
書籍紹介 : 『行動探求:個人・チーム・組織の変容をもたらすリーダーシップ』

2004年に出版されたWilliam Torbert and AssociatesによるAction Inquiryの邦訳である。
1990年代以降、欧米では、企業組織における能力開発と組織開発の領域においては、発達心理学の知見が積極的に応用されており、研究者・実践者による膨大な文献が生み出されている。この数年のあいだに、日本においても、ケン・ウィルバー(Ken Wilber)やロバート・キーガン(Robert Kegan)による個人の成長を促進するための実践書が翻訳されている(また、その他には、DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビューの2005年9月号に本書の著者でもあるトーバートによる「リーダーシップの七類型:変革リーダーへの進化」が翻訳・紹介されている)。本書は、そうした時代的な文脈の中で大きな存在感を放つ重要な著書のひとつといえる。
過去数十年の間に、能力開発と組織開発の領域における関係者の関心は、いわゆる「スキル」の習得から、そうしたものを活用しているリーダーの「意識」そのものを深化させることに移行してきており、そうした文脈の中で、「自己内省力」(self-reflexivity)をキー・ワードとして、実務にとりくみながら同時並行的に自己を内省する能力を涵養することの重要性がひろく指摘されるようになっている。つまり、今日においては、われわれは、外部の世界に意識を向けながら、同時に、自己の内部にも意識を向けて、そこで刻々と生起する諸々の現象(例:思考・感情・感覚)を認識しながら、それらと対話をしたり、あるいは、それらを批判的に検証したりすることを求められているのである。
ただし、そうした能力は、基本的には、単純なスキルとして習得できるものではなく、いわゆる「深層的な発達」(認知構造の構造的な発達)をとおして徐々に獲得されていくものである。端的に言えば、行動の只中で内省する能力(“reflection in action”)とは、それをしようとすれば簡単にできるようなものではないのである。
本書では、このことに留意して、発達心理学の洞察を応用しながら、個人の認知構造の変容を促進することが、具体的にどのように個人と組織の思考と行動に影響をあたえ得るのかということに関して詳細に論述されている(尚、本書では、Harvard Graduate School of Educationでロバート・キーガンと共同研究をした発達心理学者のスザンヌ・クック・グロイター(Susanne Cook-Greuter)が全面的に協力をしている)。また、本書では、読者が日々の実務の中で自己の内省力を鍛錬していくための基本的な技法がいくつか紹介されている。
ただし、注意点としては、著者の文章が非常に発散型のものであるために、読者の方々は、しばしば、著者が真に云わんとすることが把握できず、混乱させられることがあると言うことが挙げられるだろう(実際、本書を研究会の課題図書としてとりあげたときには、多数の参加者から、著者が最も主張したいことが理解できず、苛々させられたという感想をいただいた)。そうした場合には、本書と同じように、発達心理学の知見を能力開発と組織開発に応用したWilliam B. Joiner & Stephen A. JosephsのLeadership Agility: Five Levels of Mastery for Anticipating and Initiating Change(Jossey-Bass)やJennifer Garvey BergerのChanging on the Job: Developing Leaders for a Complex World(Stanford Business Books)等を参照されるといいだろう。
また、発達心理学に関しては、本書の出版以降、Harvard Graduate School of Educationの研究者を中心にして、非常に大きな成果が生み出されつづけており、本書の内容が少々時代遅れになっているところがあることにも留意をすべきであろう。たとえば、近年の研究では、認知構造の発達が必ずしも生産性(performance)の向上をもたらすとは限らないことが指摘されたり、また、認知構造の発達を過度に高速度化するときにはその弊害が生まれることが警告されたりする等、単純に発達を奨励する発想の危険性が徐々に認識されはじめてもいる。本書の帯には高次の発達段階である「アルケミスト型リーダーをめざせ」という言葉が記されているが、読者の方々は、こうした安易な上昇主義的な文句に踊らされることのないように注意をしていただきたいと思う。
発達心理学者のジョン・ピアジェ(Jean Piaget)は、人間の認知構造を発達させることを、実務能力を向上させるための効率的な方法とみなして、それを人工的に推進しようとする態度を“American Problem”と呼んで警鐘を鳴らしたが、人間の内的な成長・発達とは、間違っても、業務活動を効果的に遂行するための「方法」として安易に位置づけられるようなものではないのである。発達理論を企業における人材開発は組織開発に適用するときには、こうした倫理的な観点が必要になるが、このあたりの課題に関しては、欧米においても、まだまだ対話は進展していないというのが実情である。
いずれにしても、今後、日本においても、本書をはじめとして、発達理論を応用した文献が紹介されていくことになるだろうが、読者の方々には、是非 健全な批判精神をもってそれらを読んでいただければと思う。
 
小出 裕章(元京都大学原子炉実験所助教)の会見


2015年4月25日に開催された小出 裕章(元京都大学原子炉実験所助教)の会見。
 
このところ報道機関は、福島原子力発電所の事故に関してほとんどとりあげなくなりつつあるのは周知のとおりである。
しかし、それにしても、あの事故が、東京全域が退避圏内にはいる可能性を秘めていた過酷事故であったことを考慮すると、この大衆の無関心振りというのは、実に異様なものである。
事故直後、東京都内の通勤の風景を眺めていたときに、あたかもそれまでの日常が継続しているかのように人々が歩いているのを目撃して、言葉にしがたい不気味な感覚を覚えたことを安冨 歩氏が著書『原発危機と「東大話法」:傍観者の論理・欺瞞の言語』の中で報告しているが、こうした症状は、正に「離人・現実感喪失症侯群」に比すことができるのだろう。
世界の状況がいかに非日常的なものに変質しても、そのことを認識することができずーーそのことに心を揺さぶられることなく――日常を規定するルーティーンに没入しつづけることができるという状態……。
そして、日本社会においてはいわゆる「健康」な人々の大多数がこうした状態の中で生きているという事実は真に震撼すべきことである。
 
Vision Logic段階への道程 - 2015年4月25日開催 インテグラル・エジュケーション研究会 配布資料
2015年4月25日開催
インテグラル・エジュケーション研究会
配布資料

Vision Logic段階への道程
鈴木 規夫
Integral Japan
 
合理性段階の「自己」(self)は、「自律的自己」(the autonomous self)と形容される。それは、ひとりの主体として自らの責任において世界を観察し、情報を収集・処理することで、ひとつの整合性のある主張を構築することができる自己である。
Robert Keganが指摘するように、こうした自己は総じて「自己充足感」(the sense of self-sufficiency)により特徴づけられる。それまでのように、社会的な規範や権威をはじめとする外的な価値体系に従属するかたちで自己を構築するのではなく、自らの責任において客観的な説得力をもつ主張を構築できることにたいする基本的な自己信頼感を獲得するのである。
たとえば、高等教育における論文執筆等の訓練では、生徒がある問題意識をもつ自律的な探求者であるという前提に立ち、その探究をより効率的・効果的なものにするための補助的なものとして諸々の道具を提供するのである。即ち、そこでは、あくまでも生徒が自律的な探求能力を有していることが前提とされているのである。
もちろん、これはあくまでもひとつの事例であるが、今日においては、日常的な業務活動や人間関係においても、同じように、外部の干渉を拒絶するところに成立する ひとりの個としての尊厳を基盤とした自己を前提とされている。そこでは、個人とは、単に指示されたり、命令されたりする存在ではなく、独自の価値観をもち、また、自らの責任において思考や判断をする存在であるという認識(人間観)のもとで人間関係が営まれるのである。必然的に、そこには、同じ基本的な権利を保障された関係者が相互に対話・交渉・調整、あるいは、協力・競争・衝突する空間が生まれることになる。こうした文脈の中では、たとえば企業組織において、コーチング等の方法が重視されるのは、当然のことだといえるだろう(その意味では、対話を重視する文化は、必ずしもVL的なものではなく、その基礎は合理性段階に構築されるといえる)。
しかし、合理性段階が熟してくると、この段階を特徴づける自己充足感が自己閉塞感(あるいは、孤独感や孤立感)を伴うものに「変化」してくる。即ち、自らの責任において構築した主張や世界観や構想が他者の批判や攻撃に耐えられる鉄壁なものに練磨されるほどに、逆にその主張や世界観や構想に呪縛されてしまい、そこから自らの思考や発想を解放することができなくなるのである。自己の構築・蓄積したものが自己を閉じこめる「檻」として感じられてくるのである。
異なる感覚・価値観・思考をそなえた他者にたいして興味をいだき、そうした人々との対話をとおして自己を相対化しようという興味や動機が芽生えるとき、合理性段階からVL段階に向けた成長がはじまるといえる。それは、単に“I'm OK, You're OK”という態度をとることではなく、ある視点や立場や理論や論理に立脚して主張を展開することを通じて、不可避的に排除・抑圧される事実や側面や要素を積極的に探求しようとする態度として結実していくことになる。必然的に、そこでは、他者を知ることが、同時に自己を知るための有効な方法として認識されるのである。
関係性の中でそれぞれの関係者がひとつの対象を独自の視点をとおして観察・経験・解釈しており、また、それにもとづいた行動が他者に影響をあたえているという 関係者間の相互作用を認識するようになると、そこでは自然と関係性全体を見渡す俯瞰的な視点が芽生えてくることになる。価値判断を保留して、先ずそれぞれの関係者がどのような立場に置かれ、また、その結果として、どのような価値観をもつことになり、そして、どのような思考・発想・行動しているのかを ある程度体系的に把握しようとするのである(前期VL段階)(『もののけ姫』)。
ただし、この段階では、あくまでも多様な視点の足し算をとおして、全体像を把握しようとするために、結局、全ての関係者を呪縛している構造的なダイナミクスに注意を向けることはないままに終わることになる。たとえば、前期VL段階においては、異なる視点や立場に立脚する関係者間の軋轢や衝突を緩和・仲裁することに関心が向かうが、そもそもそうした視点や立場を生み出している大局的・深層的なダイナミクスを見極めて、それに直接的にアプローチしようとする発想は得てして稀薄になる(例:今日 注目されている格差問題においては、総じて「富める者」と「富まざる者」との間の軋轢や衝突を解決するために、当事者間の対話や調停をしようと企図されるが、そもそもそうした格差を生じさせる構造的な問題そのものを問題視することはあまりない)。全ての関係者の視点を共感的に理解して、それらが共存できるように、必要な規則や仕組を考案しようとはするが、結局のところ、そうした状況を生み出している根本的・根源的な問題に言及しようとはしないのである。
中期VL段階とは、こうした限界を克服する段階であるといえる。それは、各関係者が置かれた文脈を理解するだけでなく、そうした多様な関係者が共有している集合規模の文脈や構造を見極めて、それそのものに言及していく段階である。換言すれば、全ての関係者を呪縛している集合的な構造(system)を俯瞰的にとらえる視点であるといえるだろう。即ち、同時代に生きる人々が無意識の内に参画している「ゲーム」を対象化して、それが「ゲーム」であることを看破する意識であり、また、それを支配する諸々の規範や規則を超越して、「本質的」「本来的」「普遍的」な価値や法則にもとづいて生きようとする意識であるといえる。つまり、それは、同時代の中で共有されている幻影や幻想(「ゲーム」)に埋没して生きるのではなく、常に目醒めて生きようとする実存的な欲求にもとづいて生を営もうとする意識であるといえるのである。
たとえば、Viktor Franklの思想は、同時代の中に生きることをとおして無意識の内に内面化される諸々の浅薄な価値観にたいして批判的な考察をするだけでなく、本質的には、人間存在としての最も基本的、且つ、根本的な営み――生きるということ・存在するということ・思考するということ・体験するということ・苦悩するということ――に注意を向けようとする。そして、それらの行為が本質的に内在させている「尊厳」を再確認することをとおして、われわれが人間として生きているそのことをとおして賦与されている尊厳を確認・回復しようとするのである。
時代の変化の中で日常生活を規定・支配するゲームの規則や形態はめまぐるしく変わることになる。しかし、人間社会とは、基本的に、その瞬間に目の前で展開しているゲームを現実と錯覚して、それに順応することを鼓舞するものであり、大多数の人々は、それを現実と信じて生きることになる。確かに、人間の内には、目醒めて生きることにたいする幽かな欲求は息づいているが、それは往々にして「騒音」に掻き消されてしまい、日常を対象化するための刺激や衝撃(例:危機的体験等の非日常的体験)をあたえられない限り、真に顕在化することはないのである。
Logotherapyとは、そのように所与の世界観や価値観の中で意味の構築ができなくなるときに意味を持ちはじめるものであるといえる。もちろん、全ての苦悩がVLが顕在化していることの証左ではないし、また、全ての治療がVLの確立を意図するものでもない。ただし、Logotherapyそのものは、VL段階の苦悩に対処するための包容力をそなえているし、また、実際にこの方法の可能性を最大限に活用するためには、治療者そのものがVL段階の意識構造を確立していることが必須の条件となるのは間違いないところであろう。
その意味では、VLというものに関する理解を深めるうえで、Logotherapyを勉強することは、VL的な意味空間を視野に収めた探求するということがどのようなものであるのかを垣間見る貴重な経験となるのである。
 
付記#1
ちなみに、「ゲームのルール」の急速な変化を先読みして、それに適応したり、あるいは、それを活用したりするための能力開発を謳う発想は、今日、戦略論や組織論等ではしばしば強調されるが、こうした問題意識は総じて合理性段階の論理を通して構築されている。というのも、そこでは、ゲームの中に投げ込まれたゲーム・プレイヤーとして自己を位置づける自己認識(identity)そのものは所与のものとされており、基本的に全ての思考や探求はそれを前提として営まれているからである。必然的にそこでは外部環境の変化に適応することを至上の価値とする適応主義的な発想が尊重されることになり、個人は、実質的に「適応できるのか、適応できないのか、あるいは、どれくらい適応できるのか」という非常に限定的な範囲の中で自らの生を舵取りしていくように迫られることになる。つまり、ゲームの変化や変遷を精緻に分析・予想することは奨励されるが、ゲームに参加をするという前提にもとづいて生を営むことを半ば強要する現代社会の構造そのものを問題視するような本質的探究は奨励されないのである(むしろ、実際には、そうした探求を蔑視するような構造が存在している)。結果として、人々は、ゲームの中に生じる課題や問題を解決はできるようになるが、ゲームが営まれることによって生みだされている課題や問題にたいしては対応ができないままになるのである。
 
付記#2
また、VL段階は しばしば “Being-oriented stage” (as opposed to “Doing-oriented stage”) と形容される。
それは、共同体の規則や規範等に則って自己の行動を統御する神話的合理性段階・大勢順応型段階(“rule/role mind”)の行動論理とも、合理的・自律的な法則や思考にもとづいて自己の行動を統御する合理性段階(“rational mind”)の行動論理とも異なるものである。
 
* 神話的合理性段階において対象化されるのは、自己の行動であり、それを外的権威が示す規則や規範にもとづいて自己の行動を統御・統制することである。
* 合理性段階において対象化されるのは、それまで自己の行動を統御・統制するうえの拠所となっていた規則や規範であり、今度はその妥当性を検証できるようになる。そうした検証をするための方法を習得・実践することをとおして――例:要素分解・論理的整合性の確認・仮説検証――それまでに自己を呪縛していた言説(statement)が信頼にたるものであるのかを再検討することになる。
 
VL段階において対象化されるのは、意識(意識状態)そのものである。合理性段階においては、思考を自律的にすることが絶対化されていたが、思考を生み出している基盤である意識そのものが意識化され、その状態の変化に応じて、異なる思考や発想が生み出されることを認識するのである。たとえば、立場(例:所属・役職)が異なると、それに伴い、前提条件や利害や優先順位が変化して、展開される思考や論理も変わることになる。それまで絶対化されていた思考というものが――また、その拠所とされていた普遍的法則というものが――実は自己の置かれる文脈の変化に応じて揺らぎを持つということが認識さえるのである。
 
付記#3
今日において、「ビジネス」は、個人のたいして自己の全存在(body・Mind・Heart・Soul)の全てを投じることを求めはじめている。それは、個人の全存在の商品化(commoditization)と形容できるものである。そして、今日、ビジネスの領域において、しばしば、霊性(spirituality)が言及されるが、基本的には、それはそうした商品化の流れを促進することに寄与するだけである。それは論理的には正しいものであるかもしれないが、それは、また、すべては経済活動(経済成長)に寄与するべきであるという前提条件の上に成立しているものでもある。
VL段階を確立するとは、意識の内容物(contents)としてBeingを扱うということではなく、時代や社会の諸々の影響のもとに自己のBeingがどう影響・操作されているかを内省的に認識するということである(それが意図されたものであるのか、意図されたものでないのかにかかわらず)。そして、そうした影響にたいして対応能力・責任能力(response-ability)を涵養しようとすることがVL段階の行動論理の特徴となるのである。換言すれば、自己の存在(Being)そのものが文脈との関係性の中で構築されていることを認識して、その構築のプロセスに意識的に参画しようとするのである。
 
What Postformal Thought Is, And Why It Matters
Michael Lamport Commons and Sara Nora Ross
 
「段階」(stage)の条件
下記の条件がそろうときに、ある行動(task action)は階層的により複雑であるといえる。
1. 2つ以上の低次の行動により定義される
  例:VL段階の行動は、複数の合理性段階の行動を要素とするものとして説明・定義される。
2. 低次の行動を組織化する
例:VL段階の行動は、複数の合理性段階の行動を組織化(統合・変容・融合)するものとして説明・定義される
3. この「組織化」は恣意的(arbitrary)なものではない。この「組織化」はそうなる必然性のあるものか?
例:VLは、合理性段階の限界を克服すべきものとして、必然性のあるかたちで合理性段階を組織化しているか?
 
Axiom 1. Higher order actions are defined in terms of two or more lower order ones.
Question to apply to each example: Is the last action in the sequence defined in terms of those that precede it? This is usually enough to reject that the sequence of actions under examination is a hierarchical sequence rather than just a chain of actions sequence.
 
Axiom 2. The higher order actions organize or transform the lower order ones.
Question to apply to each example: Does the last item in the sequence organize or transform. Organization may be putting the action in some temporal or spacial sequence of execution.
 
Axiom 3. The organization is not arbitrary.
Questions to apply to each example: Is the organization from the application of axiom 2 non-arbitrary? Could it be other than it is? Is it necessarily so, for the action under consideration to match some real world, logical, or mathematical constraint?
 
Systematic Stage(前期VL段階)
At the Systematic stage, people solve multivariate problems. Sometimes this involves discriminating the frameworks in which relationships between variables are embedded. The systems of relationships are formed out of relations among variables. Thus, the elements that are coordinated by systematic task actions are multiple relations among abstract order variables. The tasks include: (a) determining possible multivariate causesoutcomes that may be determined by many causes; (b) the building of multivariate representations of information in the form of tables, matrices, diagrams, or narrative; and (c) the multidimensional ordering of possibilities, including the acts of preference and prioritization. Such actions generate systems of tendencies and relationships. Perceptions of such systems generated give the appearance of a single true unifying structure. Other systems of explanation or even other sets of data collected by adherents of other explanatory systems tend to be rejected. New findings that do not fit within the present system are often rejected out of hand. Most standard science operates at this order. At this order, science is seen as an interlocking set of relationships, with the truth of each relationship in interaction with embedded, testable relationships. Researchers carry out variations of previous experiments. Behavior of events isseen as governed by multivariate causality. Our estimates are that only 20 percent of the U.S. population now function at the Systematic stage without support.
 
例 1:Project Management(PM)。PMにおいては、同時に複数の変数(項目・要素)を考慮する必要がある。しかも、それらの変数は往々にして優先順位の付けにくいもので、刻々と変動する状況(文脈)に応じて、優先順位そのものも変化するものである。そうした変数の代表的なものとしては、たとえば、時間(time)・費用(money)・人的資源(human resources)・成果物の質(quality)・利害関係者の思惑(stakeholder)・Project Team内の人間関係等があげられる。これらは基本的に同時に全て考慮されるべきものであるが――「これに関しては今は考慮をしない」という考慮もふくめて――これらはまた相互に関連をしているために、いくつかを恣意的にとりだして、それだけをとりあつかうということはできない。その意味では、PM担当者は、全変数を意識に容れて、たとえ漠然とであれ、それらをひとつの「system」として把握できる必要があるのである。
 
例2:身体的・精神的な症状の診断。身体的な症状は必ずしもひとつの器官や部位の病理に起因するものであるとは限らない。それは、いくつかの要因がある条件(例:温度・体調)のもと、特定の相互作用を起こすときに発生することもある。
 
個人は、「system」を認識することはできるが、基本的には、それを所与のものと認識している。即ち、それは「system」に囚われている存在であり、そのダイナミクスに適応していこうとする行動論理といえる。合衆国の人口の20%がここに到達すると思われる。
 
Meta-systematic Stage(中期VL段階)
At the Meta-systematic stage, people can act on systems. The systems are as described earlier. Such systems of relations are the objects of Meta-systematic tasks or actions. Meta-systematic actions compare, contrast, transform, and synthesize systems. One can compare and contrast systems in terms of their properties, with a focus on the similarities and differences in each systems form, as well as constituent causal relations and actors within them. The products or results are Meta-systems sometimes referred to as supersystems. These complex understandings underlie the formulation of universal principles applicable to all, many, or even only specific contexts. Such principles are Meta-systems by definition. For instance, philosophers, some scientists, and others examine the logical consistency of sets of rules in their respective disciplines. Doctrinal lines are replaced by a more formal understanding of assumptions and methods used by investigators. As an example, we would suggest that almost all professors at top research universities function at this stage in their line of work. We estimate that 1 to 2 percent of people in the U.S. population now function at Meta-systematic stage without support.
 
これまでに所与のものとされていたsystemに主体的に働きかけることができる段階である。換言すれば、それは、systemの中でそのダイナミクスに適応しながら、自己の行動を舵取りするのではなく(例:アシタカ)、systemの構造そのものを変化させていく段階であるとえいえる。即ち、それは、そのsystemを成立させている根本的な要素や条件を見極めて、それにアプローチすることで、systemの変革そのものを戦略的に企図することができる段階であるといえる。
また、これは、複数の異なるsystem(文脈)に参画することができる段階である。そのすべてと精神的な距離を保ちながら、それらを俯瞰する意識を有する。それぞれの性質や特徴を認識して、それらを比較・分析することができる。また、複数のsystemを横断・超越して存在する共通点や深層構造や高次法則等を解明することができる段階である(例:人間の実存的条件)(但し、上記のように、ここには、そうした普遍的な法則が作用する文脈を限定・特定することも含まれる)。合衆国の人口の1〜2%がここに到達すると思われる。
 
例:「構造改革」の設計と誘導(c.f., 『円の支配者』)
例:Ken Wilber 『意識のスペクトル』 心理学の領域の中に存在する多様な方法(system)を吟味して、それらを横断して存在する上位の概念や法則を特定する。そして、それにもとづいて、それらのsystemを統合するmeta-systemを構築・提案する。
 
Paradigmatic Stage(後期VL段階)
At the Paradigmatic stage, two things are done. People create new paradigms out of multiple meta-systems. Or they show the impossibility of doing so. Thus, the objects of paradigmatic task actions are meta-systems. A paradigm is a systematized set of relations among meta-systems that reflects a coherent set of assumptions. In a domain, sometimes the highest stage development is to show that meta-systems that are incomplete and that adding to them would create inconsistencies. No further stages in that domain on that sequence are then possible (Sonnert and Commons, 1994). Usually, a paradigm develops out of recognizing a poorly understood phenomenon or collection of phenomena. Paradigmatic actions integrate meta-systematic understandings and principles that may appear unrelated to the original field of the thinkers. Individuals who reason at the Paradigmatic order have to see the relationship between very large and often disparate bodies of knowledge in order to reflect on, compare, contrast, transform, and synthesize multiple principles and Meta-systems. Paradigmatic action requires a tremendous degree of decentration. One has to transcend tradition and recognize ones actions as distinct and possibly troubling to those in ones environment. At the same time, one has to understand that the laws of nature operate both on oneself and ones environment. This unity enables one to generalize learning and pattern-recognition in one realm to others.
Examples of Paradigmatic order thinkers drawn from the history of science are discussed in The Connection Between Postformal Thought and Major Scientific Innovations, this issue. We estimate that fewer than .05 percent of people in the U.S. population now function at Paradigmatic stage without support.
 
合衆国の人口の0.5%がここに到達すると思われる
 
例:Ken Wilber 『進化の構造』(Sex, Ecology, Spirituality) 世界に存在する多様な領域を俯瞰して、各学問領域・探求領域をmeta-systemとして整理して、さらにそれらをひとつのパラダイムの中に統合する。
 
Cross-Paradigmatic Stage(Psychic Stage)
The fourth postformal stage is the cross-paradigmatic. The objects of cross-paradigmatic actions are paradigms. The task at this stage is to integrate paradigms into a new field or profoundly transform an old one. A field contains more than one paradigm and cannot be reduced to a single paradigm. The cross-paradigmatic thinker reflects on, compares, contrasts, transforms, and synthesizes existing paradigms. One might ask whether all interdisciplinary studies are therefore crossparadigmatic, for example, whether psychobiology is cross-paradigmatic. That is not the case. Such interdisciplinary studies might create new paradigms with their own systematized set of relations among Meta-systems, reflecting a coherent set of assumptions such as psychophysics, but not new fields.
This stage has not been examined in much detail because there are very few people who can solve tasks of this complexity. It may also take a certain amount of time and perspective to realize that behavior or findings were cross-paradigmatic. All that can be done at this time is to identify and analyze historical examples. Such examples are included in The Connection Between Postformal Thought and Major Scientific Innovations, this issue.
 
パラダイムとパラダイムを比較・統合する。ときとして、統合をしようとすると、パラダイムがその整合性を維持することができなくなるという状況がある。その場合には、「統合はできない」という可能性を指摘するという解もありえる。
例:Ken Wilberの「統合的」パラダイムとRudolf Steinerの統合的パラダイム――共にBody・Mind・Heart・Soul・Spiritを包含する――を比較・統合する(両者の統合は不可能であるという可能性も含めて)。
事例の不足のために、人口に占める割合は不明。
 
 
朗報 - カート・W・フィッシャー 『成人の知的発達のダイナミクス : 発達ウェブからのアプローチ』 丹精社
日本は翻訳大国と言われるが、しかし、少し専門的な書籍や資料となると、ほとんど翻訳されていない。
実際、周囲にいる専門的な研究者の方々と会話をすると、日常の情報収集活動は、基本的には英語論文を読むことであるという(実際には、論文として発表されたとき情報というのは、実は既に古いものであり、むしろ、個人的な関係性をとおして論文化されていない生情報をタイムリーに収集・勉強しておくことが勝負の分かれ目になるという)。
『日本語が亡びるとき』の中で水村 美苗が指摘しているように、こうした状況は、今後、ますます加速していくことは間違いない。
既存の知の地平や枠組を超克する真に斬新な研究の圧倒的な大多数は、英語で書かれ、英語で読まれることになるのである。
真に先端的な知的探求は英語空間の中で完結することになるのである。
 
こうした状況は発達心理学の領域にもそのままあてはまる。
先日、Harvard Graduate School of EducationのRobert KeganのIn Over Our Headsが翻訳出版されて(邦題は『なぜ人と組織は変われないのか』)、少し渇を癒されたところであるが、実際には、発達心理学(Constructive Developmentalism)の領域においては、次世代の研究者により、膨大な量の優れた論文が生み出されている。
そして、それらは日本には全く翻訳・紹介されていないのである。
こうした状況下においては、これらの論文に直接的にアクセスすることができなければ、残念ながら、今日 現在進行形で進展している発達心理学の成果を全く採りいれることができないのである。
これらの研究が、ひろく流布している人間の発達に関する諸々の硬直的な見方を根本的に超越するものであることを鑑みると、これは非常に残念なことである。
また、発達理論がインテグラル理論の中核に位置するものであることを考慮すると、こうした情報の圧倒的な欠如は、インテグラル理論の批判的な考察と建設的な再構築を難しくすることにもなろう。
 
ただ、今日はひとつすばらしい情報があるので、御提供したいと思う。
先日、WEB上で調査をしていたときに、偶然 Harvard Universityの発達心理学者・Kurt Fischerの論文が日本語に翻訳され、出版されていることを発見した。
中川 恵里子(訳)
『成人の知的発達のダイナミクス : 発達ウェブからのアプローチ』
明文書房・丹精社
2008年10月
ISBN: 9784839110185
1,800円 + 税

 
文京区の本郷にある丹精社という出版社から出版されているのだが、どういうわけかAmazon.co.jpでは定価で購入できないために、早速 帰宅時に本郷の出版社に立ち寄り購入した(尚、出版社の説明によると、この書籍は普通に近所の書店で注文をすると購入できるとのこと)。
Kurt Fischerの仕事は、間違いなく、これまでの発達心理学の成果を継承・超克するもので、今後の発達理論のパラダイムを規定するものである。
これまでにFischerが執筆した論文は膨大な数に昇るが、そのひとつがこのように日本語で読めることは実にありがたいことである。
一読を御薦めしたい。
 
付記
 
本論文は、Handbook of Developmental Psychologyに寄稿されたもので、Kurt Fischerの提唱するDynamic Skill Theoryの概要を簡潔にまとめた導入的な内容のものである。
ただ、残念ながら、ある程度の基礎知識なしには、非常に難解な箇所が散在しているのも事実である。
もともとFischerの文章は、非常に学術的なスタイルで書かれており、一般の読者に向けて平易な言葉で語りかけようとするものではない。
また、翻訳者の方でも、そうした難解な文章を噛み砕いて読者のもとに解りやすく届けようという特別な工夫をしているわけではないので、何度読んでも著者が云わんとしていることが掴めないという箇所がある。
そういう箇所に関しては、基本的には、WEB上に公開されているFischerの論文にあたっていただきたい。
ケン・ウィルバー批判の動向について
 
ケン・ウィルバーの伝記・Ken Wilber: Thought as Passionの著者であるFrank Visserが非常に興味深い文章を発表した。
1998年のIntegral Institute設立後のケン・ウィルバー 及び インテグラル・コミュニティの活動を総括的に検証・評価する批判的な内容の文章であるが、上記の著書の追加章ということである。
過去15年程のあいだのインテグラル・コミュニティの「成果」と「失敗」をなかなか的確にまとめていると思う。
インテグラル思想・理論に興味をもつている方は御一読いただきたいと思う。
 
 
ところで、Frank Visserが主催するウエブ・サイト・Integral Worldには、ケン・ウィルバーのインテグラル思想・理論に関する批評が数多く掲載されている。
先日、Joe Corbettの批評(Jeff Salzman, Ken Wilber, and the Missing Link in Integral Theory and Practice)にたいして、ウィルバーの盟友としてThe Daily Evolverというウエブ・サイトを運営するJeff Salzmanが反論を発表した。
個人的には、実はCorbettの主張とSalzmanの主張の両方にそれなりに首肯できるところがあると考えている。
ただし、少なくともCorbettの批判には、インテグラル・コミュニティが真摯に傾聴すべき非常に重要な指摘が含まれているのは、紛れもないところである。
問題は、そうした批判にたいして、Salzmanが――実はこれはIntegral Instituteの関係者に典型的な行動パターンともいえるのだが――概念的(抽象的)な議論に逃げ込んで、巧妙に本質的な議論を回避していることである。
本質的には、Corbettが提起しているのは――これは上記のVisserの文章においても指摘されているのだが――2001年以降、世界が動乱の時代に突入するなかで、インテグラル・コミュニティは、全ての出来事を進化の中の過程として糊塗するのではなく、社会悪に対峙すべきではないのかということである。
そうした批判にたいして、Salzmanがしているのは、結局のところ、インテグラル思想・理論は、そうした社会問題に言及するための概念的な道具をそなえていると主張しているに過ぎない。
実際には全く反論として成立していないのであるが、Salzmanは、こう主張することで、インテグラル・コミュニティが時代的な責任を果たしていることを証明できると思い込んでいるのである。
また、もうひとつの問題は――これもIntegral Instituteの関係者に典型的な行動パターンなのだが――自己の特殊な感性や発想を統合的(“second-tier”)な認知構造を体現するものとして位置づけ、それと異なる感性や発想を低次のそれとして乱暴に看做してしまうことである。
Salzmanの表現は表面的にはエレガントなものであるが、少し慎重に吟味すると、こうした悪質な体質を内包している。
個人的には、こうしたものがインテグラル・コミュニティの中で容認されていることに非常に危機感を覚えるのである。
 
書籍紹介 『日本をダメにしたB層の研究』 適菜 収著
書籍紹介
『日本をダメにしたB層の研究』
適菜 収
講談社

 
鈴木 規夫

インテグラル・ジャパン代表

過激な表現で読者を挑発してやろうという著者の意図があからさまであるためだろう、ひどく攻撃的な言葉遣いで書かれているために、読むのを止めてしまう読者も出てくることだろう。ただ、ここで主張されていることは非常に重要性であり、そのことを考慮すると、単なる表現上のスタイルのために無視をしてしまうのは、あまりにも勿体無いことである。
この作品で分析されているのは、質的な高さや深さを否定しようとする現代社会にひろく蔓延する病理の構造である。即ち、「成熟」や「専門性」や「円熟」等のことばによって象徴される人格的な素養の重要性を軽視しようとする心性である。それは、たとえば思想家のケン・ウィルバー(Ken Wilber)が“Boomeritis”という概念を呈示して鋭く考察した問題と本質的に同質のものである(ただし、部分的には重ならないところもある)。ただ、ウィルバーと異なり、適菜 収氏は日本の具体的な実例を豊富に紹介しながら解説をしてくれているので、読者には格段に理解しやすくなっている。
ここでは、その内容を掻い摘んで御紹介しよう。
 
現代社会を支配する価値観のひとつは、すべての人が平等に尊重されるべきであるという平等主義である。そして、それは、往々にして、あらゆる重要な社会的問題に関して、すべての人の発言が同等に尊重されるべきであるという発想につながることになる。
ただ、あらためて考えるまでもなく、現代社会が直面する重要な問題の多くは複雑なものであり、その構造や性質や文脈を正確に理解して、それに効果的に対処するための解決策を創出するには、成熟した思考力や専門性が必要とされる。
たしかに、今日においては、インターネットをとおしてあらゆる話題に関する情報を簡単に得ることはできる。しかし、膨大な量の情報を収集して、それらの中から己の嗜好に合うものを拾いあげて、それらを少し加工して意見として表明することが、自律的に思考できていることを意味するのかといえば、必ずしもそうではないのである。
しかし、今日においては、一般の生活者の感覚や感性こそが真の叡智を体現するものとして安易に祭り上げられてしまう。そして、逆に、専門性に立脚した思考や発想が、閉塞した空間の中で形成された歪なものとして排除されてしまう。そういうものは、人間性や生活感覚を喪失した非人間的・非常識的なものとして目の敵にされてしまうのである。
つまり、長年の探求や鍛錬の結果として確立された能力ではなく、そうしたプロセスを経ていない自然な感性や発想こそが「人間的」なものであり、また、優れているという発想が幅を効かせるのが、今日の社会なのである。それは「しろうと」を賛美する社会と言えるだろう。
もちろん、安冨 歩氏が「東大話法」に関する一連の著作の中で洞察するように、今日の日本社会において、社会の命運を左右するような重大な意思決定にたずさわる治世者の人格が極度に未熟化して、その思考や倫理が利己的なものに劣化しているのは、紛れもない事実である。その意味では、「生活者」の感覚や感性を重視することを主張する今日の風潮にはそれなりの妥当性もある。
ただ、問題は、そうした風潮のもとでは、長年の鍛錬をとおして技術や能力を涵養することの重要性にたいする尊重の念が育まれなくなる可能性が高くなることである。長年の専門的な鍛錬をとおして獲得される能力や発想とは、本質的に実社会との結びつきを喪失したところに育まれる歪なものであり、それは共同体の共有財(Common Good)のためではなく、特定の利権集団の思惑を実現するために利己的に用いられることになる――という偏見が蔓延してしまい、知や技の伝統に参加して、自己陶冶することの重要性が蔑ろにされるのである。
そうした価値観が蔓延するとき、社会には、高度の職人性や専門性にたいする尊重の念が涵養されなくなり、必然的にそれは意識の集合的な退行をひきおこすことになる。そうした状況において重視されるのは、「普通」の「生活者」の感覚や感性や発想であり、また、極端な場合には、専門的な訓練や鍛錬をしないことが礼讃されることになる。ことばを替えれば、それは、未熟であることが、幼稚であることが、無知であることが、愚かであることが評価されるということである。
こうした状況下においては、リーダーを選出するときに参照される基準とは、この危機の時代において共同体の舵取りをするために必要な卓越した叡智や能力をそなえているかというものではなく、普通の生活者と同じ感覚や感性や視野をそなえているかというものになってしまう。「小難しい議論をする人物ではなく、普通の生活者にもすぐに納得できるような簡潔・平易な表現で政策や方針を説明してくれる人」が優れたリーダーとして誤解され、そして――非常に皮肉なことに――民主的な選挙をとおして選出されてしまうのである。
周知のように、ここしばらくのあいだ、日本においては、窮極的なまでに簡略化された「ワン・フレーズ」(例:『構造改革』『郵政民営化』『事業仕分』『平成の開国』)を柱にした選挙戦が展開されるが、正にそれは、そうした精神的に退行した選挙民の要請に応えるものといえるのである。
もちろん、大多数の人々は、己が、政党と広報会社が結託して垂れ流す情報により醸成された空気や気分に囚われ、自律的な思考や判断をできていないとは思っていない。彼等は、己の意見や判断が、実はメディアにあたえられた物語の中から自身の嗜好に合うものを取捨選択して、それらを加工したものに過ぎないことに気づいていないのである。
実際のところ、「思考」とは非常に高度な能力であり、真に自律的な思考ができるようになるためには、長年の鍛錬が必要となる。しかし、例外的な場合を除いて、われわれはそうした鍛錬をほとんどしてきていないために――工藤 順一氏(1999)が考察するように、日本の教育では基本的に自律的な思考をするための「型」が示されることはない(『国語のできる子どもを育てる』講談社)――「意見をもつ」ことが必ずしも自律的な思考していることではないことに気づけていないのである。
たとえば、SNS上で「感性」や「感覚」の合う仲間と情報を共有して、ある特定の物語や価値観にたいする「確信」や「信頼」を補強しあうことは、自律的に思考をすることではない。というのも、それは、特定の結論や立場を選択したうえで、それを補強(正当化)するための材料を収集しているに過ぎないからである。自律的に思考をするとは、そうした情報収集の前提である特定の結論や立場の妥当性そのものを批判的に検証することを意味するのだが、そういう作業は回避されることになる。
いうまでもなく、こうした社会においては、そのときどきに流行するアイデアは、広告代理店をはじめとする世論操作機関の意向にもとづいて、目まぐるしく変化することになる。しかし、人々は、本質的には、そうしたアイデアを受動的に消費することができるだけであり、結局のところは、あたえられた「選択肢」の中からそれらしいものを選ぶことしかできないのである(そもそも選択肢として存在しているものが、
果たして選択に価するものであるのかという問いを発することができない)。また、たとえこうした状況の構造的な問題を指摘する情報や分析があたえられたとしても、彼等はそれに耳を貸すことができない。というのも、彼等が重視するのは、全く努力をすることなしにインスタントに理解できる物語であり、そうした構図を脱して自律的に思考・判断することを鼓舞する言説ではないからである。
こうしたメンタリティに社会が支配されると、自称「生活者」が数の論理にもとづいて、そのときどきに社会に醸成される気分や雰囲気や空気にもとづいて、無軌道に社会を動かしていくことになる。それは、成熟した思考や洞察により保証される質の論理が排除され、量(数)の論理が社会を支配する状況である。
また、こうした状況においては、リーダーの役割は、そうした「生活者」にたいして判りやすいことばで「感動」させる扇動者としてのそれに変質することになる。人々が求めるのは、見識や叡智ではなく、勉強や研究をしなくても簡単に理解・共感できることばであり、それができない指導者は無能の烙印を押されることになるのである。端的に言えば、現代社会とは、「生活者」という大義のものとに、大多数の人が学習・鍛錬する責任を臆面もなく放棄して、治世者や指導者にたいして己の無知や幼稚にひたすらに従属するように要求する社会と化しているのである。
もちろん、実際の社会は、そのような単純な論理や物語にもとづいて動いているはずはなく、遅かれ早かれ、人々は、「公約」が単なるまやかしであることに気づかされ、為政者が約束を反故にしたと憤慨することになる。しかし、そのようなものは、そもそも世論を誘導するためにたくみにデザインされたものであり、そうしたものにコロリとだまされてしまうほどに、己の知性を鈍磨させたのは、ほかでもない自分自身である。正に堤 未果氏が言うように、『政府は必ず嘘をつく』ものである。そうしたことを知りながら、広告代理店が仕組む世論操作に簡単にだまされてしまうほどの愚かな存在に己を貶めたのは、だれでもない自分自身なのである。
 
ところで、「B層」ということばは、2005年に、小泉 純一郎内閣が推進した郵政民営化政策を実現するうえで、内閣府の依頼を受けて宣伝戦略の立案を担当した広告会社(有限会社 スリード)が、小泉政権の主な支持基盤として想定した層を指す概念である。「政策に関しては具体的なことは良く判らないが、小泉 純一郎のキャラクターを支持する層」――と定義されている。
もちろん、こうした人々が支持するのは、小泉 純一郎だけでなく、同じように「カリスマ」として仕立てあげられて公の表舞台に登場してくる全ての人々である。そして、適菜 収氏が指摘するように、こうした人々は、今日においては、国民の主要な構成層として、その巨大な規模を背景にして、社会の重要な意思決定に傍若無人に参与してくることになる。彼等は、自らの知的怠惰をとおして、自身を世論調査の餌食として差しだし、結果として、社会をその数の論理にもとづいた暴力的な意思決定プロセスに引き摺り込んでいくのである。
 
最後に、これまでに説明してきたことを、ケン・ウィルバーがBoomertitisに関する議論で述べていること(詳しくは、ウィルバーの『万物の理論』、及び、『Boomeritis』を参照していただきたい)との関連で整理しておきたい。
ウィルバーは、Boomeritisを「高度の認知構造にもとづいて既存の価値体系を脱構築することにより、人格形成の途上にある人々に対して発達プロセスを段階的に歩んでいくのを阻害しようとする態度や発想」と説明している。社会に存在する価値体系は、基本的には、それまでの歴史的過程を通じて構築されてもの(虚構)であり、それは絶対的なものではない。高度の認知構造をそなえた人々は、そのことを明確に認識することができるがゆえに、社会に存在する既存の価値観(例:慣習・道徳・美徳・倫理)が人間の内的・外的な行動を呪縛している状況を解決しようと、その虚構性を暴くことで人々を解放しようとするのである。
たとえば、真に信頼にたる価値は存在しないという主張を展開する価値相対主義は、ある特定の時代や社会で信頼される価値観や世界観に立脚して生きることが、究極的には自己を不自由にすることであるという示唆をあたえようとする。こうした洞察は、本来的には、人々を解放しようという「善意」にもとづいたものであるかもしれない。しかし、実際には、こうした発想が集合規模で共有されるとき、それは、歴史を通じて蓄積・継承・洗練されてきた価値体系や秩序体系にたいする不信を蔓延させることになり、われわれから人格陶冶の契機を奪うことになる。
たとえば、実践や鍛錬をとおして自己を成長させていこうとするとりくみは、「高み」や「深み」ということばで象徴される状態をめざして、現状を超克していこうとする徹底的に価値や秩序の感覚にねざしたものである。そうした感覚を涵養するためには、とりわけ人格形成期において、「型」と出逢うことが、そして、それをとおして訓練や修行をすることが必須となる。
価値相対主義の蔓延は、そうした型を下支えする価値体系や秩序体系を攻撃することをとおして、社会の集合知として存在する人格的な成長・成熟を可能とするための叡智を解体することになるのである。また、その結果として、人間性心理学者のエイブラハム・マズロー(Abraham Maslow)が警告したように、普通であることを、凡庸であることを人々が相互に強要しあう「凡庸であることの共同謀議」(the conspiracy of mediocrity)が社会を覆うことになる(また、今日の競争社会に蔓延する利己主義――「学歴主義」「出世主義」「拝金主義」――は、表面的には自己成長や能力開発に貪欲であるように見えるが、個人を己の利己的な動機に従属させるという意味において、本質的には、それは現代社会における凡庸の形態のひとつに過ぎないのである)。
ウィルバーの呈示するBoomeritisとは、そうした発想にたいして理論的な正当性をあたえる――ただし、それそのものは善意にもとづいた――知性の構造を解明するための概念である。適菜氏の著書において、B層と呼ばれているのは、こうした知性の蔓延が必然的にもたらすことになる結果なのである。そして、作品は、社会の歴史的・伝統的な叡智の恩恵を戴く機会を奪われた人々が集合規模で発生するときに、人々が世論操作に無防備になり、未熟で凶暴な群衆としてあまりにも容易にコントロールされてしまう危険性にたいする問題提起なのである。
皮肉なことに、Boomeritisに罹患した知識人は、他者の精神的な解放を祈って既存の価値体系(「因襲」「慣習」)を脱構築する。そして、そうした行為は、それらが果たしている重要な意義までを否定してしまうことになる。
しかし、彼等は、往々にして、その結果として大量に生みだされることになる荒廃を、それは個人が己の「ありのまま」の感覚や欲求に正直になったことの成果であり、むしろ、肯定的に評価すべきことであると思ってしまいさえする。そこでは、自己実現をするということが、人間存在の中に存在する多様な衝動や動機の中から高次の動機を見極めて、高度の規律にもとづいて、それを実現していく格闘のプロセスであることが無視され、ひたすらに利己的な衝動や欲求に正直であることを奨励されてしまうのである。
B層が社会の多数派を占める社会とは、そうした言説が「優しさ」の証として誤解されてしまう社会といえるだろう。そして、また、それは、そうした言説が「癒し」や「慰め」の糧・として商品化される社会である。残念ながら、それは、ウィルバーが指摘するように、霊性(spirituality)が、自己変容(それは自己否定をとおして実現される)のためではなく、自己肯定のための方途として道具化されてしまう社会でもある。
 
それでは、こうした今日の状況下において、果たして実践のコミュニティには何ができるのだろうか?
ケン・ウィルバーが呈示するインテグラル思想の枠組は、こうした状況を打開するための有効な処方箋といえるが、その要となるのは、垂直性(verticality)という価値の確立であることは間違いないだろう。即ち、それは、人間というものが、成長・成熟しえる存在であることを認識することであり、また、それが各発達段階に相応しい実践法(型)をとおして実現されることを認識することである。あるいは、ことばを替えれば、人間というものが、成長・成熟すべき存在であることを認識することであろう。
巷では人間のありのままを尊重することを至上の価値とするイデオロギーが信奉されているが、これだけ世論操作の技術が進歩している状況下においては、型の提供をとおして確実に人間の精神的・人格的な成長と成熟を促進することができなければ、そうしたイデオロギーの信奉者は簡単に外的操作の餌食となってしまう。また、こうしたイデオロギーは、往々にして、人間存在が成長と成熟を志向する内発的な力を内包していることを無視して、単に現状肯定を推奨するイデオロギーとして機能してしまうことになる。その意味では、それは、人間存在に関してあまりにも洞察を欠いたものであり、現代社会の悪意にたいして、ひとびとを無防備にするものであるといえるだろう。
今日、緊急に必要とされているのは、世界を読むことができるためには――そして、自己の存在で世界を書くことができるためには――知性を徹底的に鍛錬することが重要となるという認識である。また、知性とは、構造的に身体的な叡智と霊的な叡智を包含したものでしかありえず、結局のところ、それは人間の統合的な成長と成熟の実現にとりくむことをとおしてしか鍛錬されえないのである(たとえば、ルドルフ・スタイナーが看破したように、人間の言語活動そのものが肉体的・感覚的・躍動的な要素を基盤として内包している)。
その意味では、今、緊急に必要とされているのは、窮極的には、倒錯した今日の教育をいかに超克していくかということに懸かってくるのだろう。ただ、そうした遠大な企てにとりくむまでもなく、垂直性を視野に収めた教育的なとりくみは、あらゆるところではじめることができる作業である。そのためには――たとえば、「意見をもつこと」と「思考をすること」が異なるように――知性を発揮するということが訓練を必要とすることをひとりでも多くの人が認識することだろう。