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雑感 – 対立・インテグラル・コミュニティの行方
ユングのいう個性化の本質とは、対立を解消するのではなく、対立しているものを――対立状態を許容したまま――統合することにあるようである。
そして、その個性化をとおして獲得される全体性とは、「悪」や「闇」をはじめとする諸々の否定的な要素を「排除」「浄化」したところに実現されるものではなく、それらを抱擁したところに成立するものであるという。
それは自己の内に対立の存在を許容することである。
インテグラル思想の枠組にもとづいていえば、それは、異なる価値体系や行動論理を――それらが自然と発生させる対立や衝突を許容しながら――全体として統合することだといえるかもしれない。
これはあくまでも個人的な印象なのだが、今日の日本人は、対立状態を許容して、それに積極的に参加することに肯定的な意味をみいだす能力を脆弱化させているのではないかと思う。
平和とは、あくまでもそうした対立が解消され全てが平穏であるときに達成されるものなのだという価値観に呪縛されているのではないだろうか……。
そして、皮肉にも、そうした対立能力の鍛錬を怠りつづけているために、いったん対立状態に巻き込まれることになると、じょうずに対立することができず、攻撃性を暴走させてしまうことになる。
日常的な例をあげれば、普段、武道や武術をとおして鍛錬をしていないと、自己の攻撃性が無意識化されてしまうために、いざ衝突に巻き込まれると、過剰反応してしまうのである(あるいは、正当な自己防衛ができないまま、いたずらに攻撃を受けつづけてしまう)。
つまり、今日において、われわれ日本人は、否定的な側面や要素を無意識化(排除・抑圧)することが、それらを統合することだと勘違いしているように思われるのである。
こうした集合的な心性(無意識化)は、今日の政治的なイベントの中に見事に露呈しているように思う。
衝突とは、国際関係の本質的な要素であり、われわれが国家としていかに効果的に衝突をしているかということを検証すれば、この能力領域におけるわれわれの集合的な成熟度を把握できるのである。
とりわけ、国際的な文脈においては、交渉とは、基本的には、それぞれが衝突・対立するための基礎能力を有していることを前提として営まれる。
そうした基礎能力を鍛錬することは、関係に参加のための基礎条件とさえいえるのである。
そして、そうした基礎能力を欠如させているからこそ、日本の「左」も「右」もこの閉鎖された思想空間の中で知的自慰行為に励んでいるのである(その意味では、「空想的平和主義」も「親米保守主義」も共に同じ穴のむじなである)。
 
今日、巷では「価値観の多様性を尊重しよう」という掛け声が氾濫しているが、そういう時代においても、実際には、たくさんの価値観が抑圧・排斥されている。
いわゆる“political correctness”といわれることばがそうした状況を説明するために用いられるが、皮肉にも、そうしたものが跋扈するほどに、集合的な影が肥大化することになる。
多様性尊重という価値観が絶対化されてしまえば、それぞれの価値観の妥当性をめぐる「議論」や「批判」が封じ込められてしまうからである。
また、そうした対立的な関係に参加することで、それぞれの価値観が鍛錬されることもなくなり、結局、それぞれの価値観を信奉する人々が閉鎖的な部族を形成していくことになる。
多様性尊重という価値観が重視される時代であるからこそ、強靭な批判能力が必要とされるのである。
 
 
Integral Institute(I-I)の発足後、思想家・著作家としてのケン・ウィルバー(Ken Wilber・KW)の活動が大きく停滞している――KWの活動に長年注目してきた国内・国外の関係者と話をすると、こうした話題がしばしば出てくる。
もちろん、その理由がいかなるところにあるのかは正確にはわからない。
ただ、ひとつ言えるのは、KWが守りの姿勢にはいっているということだ。
創造性というのは、本質的に、破壊衝動と隣り合わせのところにはたらくものだが、I-Iの創設後、その活動の焦点がこれまでに構築したものを強化・補強することに向ってしまい、それを破壊することも厭わないような荒びたものが希薄になっているように思うのである。
むしろ、その発言が、全てのひとにみずからの思想や理論を受け容れてもらいたいという欲求に呪縛されたものになりはじめているように感じられるのである。
そうした姿勢は、たとえば同時代の政治問題にたいするI-Iの関係者のあまりにも腰のひけた態度や発言に端的にあらわれている。
 
インテグラル思想のみならず、統合理論・統合思想は、激動の時代には大きな挑戦を受けることになる。
それまでの日常が流動化して、現実そのものが既存の世界観や価値観を無意味化するような新情報をつぎつぎと呈示するようになるからである。
守りにはいると、たとえそれがいかに壮大な枠組をそなえたものであろうと、思想や理論は途端に時代に取り残されることになる。
個人的には、インテグラル思想はその瀬戸際にあるように思う。
統合的であろうとするあまり、みずからの枠組そのものを動揺させかねない新情報や新事実を排除してしまうのである。
そうした保守性はあらゆる共同体の構造的な特性ではあるとはいえ、そうしたものを超克することを宣言しているI-Iのような共同体がそうした陥穽に陥るのは、皮肉なことである。
集合的な進化について語り、また、みずからの存在をその最先端に位置づけようとするI-Iの戦略は、血気盛んな若者には支持されるかもしれないが、それは同時に自己を肥大化させかねない危険なものであるともいえる。
また、それはあまりにも甘いものであるとも思う。
それは、意識的な進化ができるほどに人類が賢明な存在ではないということを認識していない。
また、たとえ集合的な進化というものが事実であるとしても、そのようなものが、それを意図することで、容易に実現できるようなものではないということにたいして鈍感である。
端的に言えば、インテグラル・コミュニティは、いまだ若者文化の体質を克服しきれていないのである。
また、それゆえに、世界と人類が構造的に内蔵する暗黒に言及しようとする問題意識が希薄なのである。
個人的には、このあたりの課題を克服していかないと、この思想運動は意外と早く陳腐化してしまうのではないかと危惧しているのだが……。

尚、この件については、Frank Visserが興味深い文章を発表しているので、御一読いただきたい:http://www.integralworld.net/visser64.html
 
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