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「思想家」の甘さ
現在、2016年1月のインテグラル・エジュケーション研究会用の発表資料を作成している。
そのために、ここ数年のあいだ読んできた文献の中でとりわけ重要と思われるものをあらためて読み直して、それらが示している現代に関する洞察をインテグラル理論の枠組の中で整理している。
今期の研究会では、統合的認知構造(Vision Logic)の確立という成人期の成長課題をわれわれが達成していくために必要と思われる能力に関して俯瞰している。
このように時代が劇的に変化をしている時代的文脈の中においては、みずからの生きる生存環境を的確に把握・洞察することが非常に重要となることが、あらためて実感される。
いうまでもなく、そのためには成熟した認知能力が要求される。そして、それを鍛錬するためには、純粋な意味での知性の訓練が必要となる。
ただ、能力とは、常に具体的な文脈の中で発揮されるものである。われわれはみずからの能力を発揮するために、同時代に存在する文脈を的確に洞察して、それらの要求や要請に応じたかたちで発揮するように努めることになるのである。
端的に言えば、Vision Logicという「能力」があるのではなく、個人が時代の生存環境の中でその要求や要請を的確にとらえて、それに卓越した形態で対応することができるときに、「Vision Logic的」と形容できる行動(内的・外的な行動)が観察しえる瞬間があるということなのである。
その意味では、発達理論において、個人の認知構造をあるひとつの段階に定常的にあるものとして説明するのは、少し粗雑な発想といえうことができるのである。
むしろ、発達理論とは、ある具体的な課題や問題をつきつける具体的な文脈の中にいる個人が、それらに対応するときにどの水準(複雑性)で事にあたる傾向があるかを把握することができるだけのものに過ぎないのである。
換言すれば、時代の変化の中で個人をとりまく生存環境が大きく変わるとき、そこで適応障害を起こしてしまえば、ほんの少し前は高い確率でVision Logic段階の行動を発揮していた個人でさえも瞬時に低次の段階に落ちてしまうことになるのである。
その意味では、刻々と変化する時代との対話を継続することは、成人が成人としての責任を発揮するために、必須の条件となるのである。
 
Integral Instituteの関係者による同時代の集合的な課題や問題に関する論考に目をとおしていると、いわゆる“meta-story”を持つことの危険性に気づかされる。
往々にして、関係者は「進化の物語」(“evolutionary narrative”)を「信奉」することが「統合的」(integral)であることだと錯覚してしまい、結果として、同時代で展開する具体的な事象を全てそのあまりにも単純な物語の枠組で意味づけてしまうことになる。
それらの事象を他の枠組をとおして意味づけをしてみるということに怠惰になってしまっているのである。
その瞬間、インテグラル思想・理論は単なる「進化」という概念を思考停止的に弄する「御伽噺」(fairy tale)に堕してしまうことになる。
統合的な精神を特徴づけていたはずの開かれた態度――自己の認識を呪縛しているバイアスを意識化しながら、対象と対峙しようとする態度――は、そこから失われてしまうことになるのである。
残念ながら、いかなる思想・理論であれ、それが共同体の中でひろく共有されるようになると、個人の呪縛する物語(神話)として固着化してしまう傾向があるようである。
そうした事象は、インテグラル・コミュニティに限らず、多数の思想共同体に診られることである。
しかし、インテグラル・コミュニティの場合には、その基礎となる思想・理論そのものがそもそもそうした思考の固着化を超克することを目的としているだけに、今日の状況は皮肉である。
 
今回あらためて発表資料を作成しながら実感するのは、思想や理論が教条化してしまうときに求められるのは、現実に回帰することだということである。
それは、自己の立脚する理論ではうまく説明することのできない事象を素直に丁寧にみつめるということであり、また、それを的確に説明していると思われる他者の理論や洞察を謙虚に学ぶということである。
そうした姿勢の維持に努めることが、われわれに時代の中で成熟した知性を発揮しつづけるることを可能にしてくれるのだと思う。
 
ところで、今回、諸々の参考資料に目を通しながら、あらためて感じたのは、いわゆる「思想家」や「理論家」の認識が、社会の深層的領域にたいする認識を著しく欠くものになりがちであるということであった。
より具体的に言えば、いわゆる「調査型ジャーナリスト」(investigative journalists)といわれる人達が認識している現代社会の深層的側面(Peter Dale ScottがDeep Politicsと形容している側面)にたいして、ほとんどの政治学者や社会学者が全く認知できていないのである。
そのために、彼等の思想や理論は、どうしても過度の楽観性に彩られたものになってしまう。
たとえば、今回、及び、次回でとりあげる思想家ウルリヒ・ベック(Ulrich Beck)やナオミ・クライン(Naomi Klein)も、21世紀という時代の本質にたいして非常に秀逸な洞察を示しているのだが、理論的な議論を展開するために立脚している具体的な事件や事象の把握の仕方が深層性を排除したものであるために、どうしても無防備(naïve)な印象をあたえてしまうことになる。
こうした印象は、今日、内外で活躍する思想家のほとんどにあてはまるように思う。
あえて言えば、そうした態度は、深層意識を考慮しないままに、人間の心理を理解しようとする態度のようなものと形容できるだろう。
 
インテグラル理論の枠組を援用して集合的な領域を探求することの大きな利点は、世界を広くとらえることが可能となるだけでなく、世界を深くとらえることが可能となるということにあると思う。
今期の研究会では、外部講師の方々を招聘して定期的に特別講座を実施しているが、主催者側の担当講座においては、主にこの世界を広く深くとらえるために必要な視座を紹介することを目的として多様な概念を紹介している。
今期の回数も残り数回となるが、ケン・ウィルバー(Ken Wilber)が「フラットランド」(flatland)という概念で射程にいれている問題がいかに広く深いものであるかますます明らかにされると思う。
 
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