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書籍紹介 - 『なぜ部下とうまくいかないのか』 加藤 洋平


近年、主にHarvard Graduate School of Educationの研究者のリーダーシップのもと、構造主義発達心理学(constructive developmental psychology)は目覚しい発展を遂げており、その成果は、日本でも、ロバート・キーガン(Robert Kegan)やケン・ウィルバー(Ken Wilber)等の著作を通じて紹介されはじめている。本書は、この領域に関して、日本人の著者によって一般の読者に向けて平易な日本語で書かれたはじめての入門書である。「コーチ」と「コーチー」の対話形式でまとめられており、クライアントの素朴な疑問に発達理論を専門とするコーチが回答するという形で対話が進められていく。

発達理論の特徴は、「知識」「スキル」「技術」をはじめとする機能的能力という概念ではとらえられない個人の深層的な能力に着目するところにある。こうした発想は、いわゆる「コンピテンシー」や「タイポロジー」の限界が明らかになりつつあるなかで、今 世界的に注目を集めはじめている。機能的な能力がいわゆる「ソフトウエア」に対応するとすれば、それらを起動させている「オペレイティング・システム」(OS)にあたるものに着目することが重要であるという認識が醸成されはじめているのである。

もちろん、そうした発想はこれまでにも存在していた。たとえば、日本語で「人間力」という言葉で言及されているものは、構造主義的発達心理学が認知構造と形容しているものにある程度は対応するのかもしれない。しかし、残念ながら、それらの言葉は、往々にして、科学的・批判的な検証に曝されることなく、個人の思想や価値観や感性に立脚するものであるために、普遍的な説得力をもつ概念としては確立されていない(むしろ、こうした概念が特定の個人の思想や価値観や感性に依拠する形で語られるとことにより、健全な批判精神をそなえた読者の顰蹙を買い、結局は、人間の深層領域に着目しようとする発想そのものの正当性を損なってしまうことになる可能性さえある)。

その意味では、ここ数年のあいだに、発達心理学者達の著作をとおして、これまでに謎に包まれてきた人間の深層的な能力というものが新しい文脈の中で説明されるようになったことの価値は測り知れないものである。
 
人間の意識や人格の成熟のプロセスを理解するうえで、発達心理学の知見を参照することによりもたらされた貴重な洞察は数多く存在するが、とりわけ重要なものとしては、人間の意識というものが実は刻々と状態を変えており、その結果として、そのパフォーマンスも激しく上下動をしているということが示されたことだと思う。本書でも著者の加藤 洋平氏が述べているように、個人の能力は、純粋にその人にそなわっている能力にもとづいて発揮されるだけでなく、そのときにとりくんでいる課題の性質や環境的な条件により影響され、そのパフォーマンスは容易に変化しえるものなのである。人間の発達というものを単純に直線的に展開するものとしてとらえる発想にたいして、こうした洞察は貴重な示唆をあたえてくれる。

また、本書では、業務活動を能率的に執り行うために個人の深層能力を急いで開発しようとすることの弊害に関しても言及されており、人間の深層領域を操作の対象として位置づけて、それに効果的に梃入れをすることができれば業務状のパフォーマンスを向上できると錯覚する姿勢にも警鐘を鳴らしてくれている。いうまでもなく、人間存在そのものを利益を獲得するための操作の対象として道具化するそうした発想そのものが低次の発達段階の発想といえるのだが、今日においては、そうした発想にたいして発達心理学の関係者は慎重に警戒をする必要があるのである。

このように、発達という概念を紹介するうえで、紹介者が指摘しておくべき重要な事項が押さえられていることは、本書を真に評価すべき作品としている。

いずれにしても、発達という概念は実に複雑なものである。実際には、発達をすればパフォーマンスが上がるというような単純なものではなく、むしろ、自己の能力を高めることをとおして、さらに「価値」や「利益」を創出できるようになることを単純に「善」とする価値観を――そして、そうした価値観を純朴に信奉していた自己そのものを――対象化して、その妥当性を冷徹に検証・内省する洞察力(脱構築能力)をもたらすのが、認知構造の発達である。実際、ロバート・キーガンは、代表作のIn Over Our Headsの中で高次の発達段階が確立されると、われわれはしばしばそれまでに自身が立脚していた価値観の多くが一種の「虚構」であることを看破するようになるために、それらの「常識的」な価値観を素直に信奉して生きていくことに激しい苦痛を覚えるようになるという指摘をしているほどである。つまり、発達とは必ずしも人間に幸福を保証するものではなく、同時代に生きる大多数の人々が共有している価値観や幻想や世界観にたいする盲信を解くことをとおして、個人に実存的な苦悩をもたらす可能性も秘めているのである。

発達心理学においては、高次の発達段階を美化して、そこに向けて邁進することを称揚する無邪気な上昇主義そのものが特定の発達段階の構造的な限界に根差すものであり、発達とは、そうした構造的な限界そのものを超克していく過程であるととらえられるのである。

こうした発達の過程で生まれる独特の苦悩や困難に関しても著者が適宜言及していることも、本書を秀逸な入門書としている所以である。ひろく推薦したい。
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