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感想・第55回 東京藝大シンフォニー オーケストラ定期演奏会

第55回 東京藝大シンフォニー オーケストラ定期演奏会

 

数週間前に「この演奏会に行かないと」という虫の知らせがあり、曇り空の中を出かけてきた。
非常に感動した。
これまで長いあいだいろいろなプロのオーケストラの演奏会に脚を運んできたが、これほどまでに感動をしたのは、たぶんはじめてのことではないだろうか(先日、ロンドンで聴いたサイモン・ラトル指揮のロンドン交響楽団の演奏よりも百倍感動した)。
はじめにモーツァルトの協奏曲の導入部の弦合奏が鳴った瞬間、そのあまりの美しさに胸がじんとして涙が流れてきた。
いいオーケストラだなあと素直に思った。
いうまでもなく、舞台に上の演奏家は若い学生の方々だが、普段こうしたところで接するプロの演奏家の存在感とは異なり――陳腐な言葉かもしれないが――実に瑞々しい。

それにしても、東京藝術大学奏楽堂の残響の豊かなこと!!
この豊饒な響きに包まれているだけで幸せになる。
これは間違いなく東京都の名ホールのひとつといえるだろう。

休憩後は、ショスタコーヴィチの交響曲第8番。
古今東西のありとあらゆる交響曲作品の中でも真に突出した傑作のひとつだが、この作品を東京藝大シンフォニー・オーケストラは実にみごとに演奏した。
指揮の高関 健氏も、オーケストラを無理に締めつけることなく、彼等に伸び伸びと演奏をさせ、楽団の可能性を最高度にひきだしていたと思う。
随所で活躍する木管楽器の独奏も素晴らしかったし、また、第1楽章や第3楽章の魅せ場の全協奏は美観を維持したまま圧倒的な音量で鳴り渡り聴衆を圧倒した。
この作品には多数の名演奏の録音があり、これまでにもそれらを随分と聴いてきたが、先日の演奏会では、それらのことを完全に忘れて、ただただ凄い曲が目の前の空間に立ちあらわれるのに圧倒された。
この演奏は、この作曲家の作品の中に息づく真実をあますところなく音化することに成功していたと思う。
個人的には、この作品の最終楽章をどのように理解すればいいのか、これまでほとんどわからず、いつもは半ば聴き流していたのだが、今回の演奏に触れて、この楽章に籠められた作曲家の意図を少し洞察できたような気がする。
それにしても、なんと意地悪な真意を隠した楽章であろう……。
たとえどれほどの悲劇を経験しても、人間という生き物は、しばらく経てば、日常の平穏の中で意識を鈍磨させていき、そうした平穏の中に確実に――しかし姿を変えて――息づいている破壊と抑圧の力にたいしては、幽かな違和感を覚えつつも、無視を決め込んで眠りに落ちていくのである。

今日の演奏会に参加した演奏者の方々は、その全員がプロの演奏家になるわけではないので、このようにしてこの作品を演奏するのは、最初で最後という方々もいるのではないかと思う(この交響曲はまだそれほどひんぱんにとりあげられる作品ではない)。
その意味では、今日の演奏会はまさに彼等にとってこの作品との一期一会の出会いということもできるのだと思うが、そうした文脈が演奏にあたえた影響も少なからずあるのではないかと思う。
演奏というのは、実に不思議なもので、これからもくりかえしてその作品を演奏することを前提としたものと、そうでないものとは、そこに大きなちがいが生まれるように思う。

ところで、日本の芸術大学の学生の方々のオーケストラの演奏会を聴くのは初めてのことなのだが、正直なところ、その技量の高さに驚いた。
これ以上技術が高い必要はないのではないか……
そんな風に思わせるくらいに、みごとなものだった。
このように素晴らしい演奏を聴くと、技術的・技巧的なうまさというものが、ある一定の水準をこえると、ほとんど問題とならないことを実感する。
たとえこれよりもさらに技術的な水準が上がったとしても、それが演奏の芸術性にもたらす効果というのは、それほどないのではないだろうかとさえ思うのである。

 

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