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発達理論を巡る危険な誤解

先日、Lectica, Inc.のTheo Dawson博士と簡単な対話をした。
Lectica, Inc.は、Harvard Graduate School of Educationの発達心理学者達を中心にして、Constructive Developmentalism(Dynamic Skill Theory)にもとづいた個人の発達段階の測定を提供する組織である。
Dawson博士はその代表者である。
1月10日付けでLectica, IncのHPに掲載された「Leadership, vertical development & transformative change: a polemic」というタイトルの非常に興味深い記事に関して、少し質問をさせていただいたのだが、個人的にも、これまで漠然といだいていた疑問を解決していただいた気持ちである。
記事の中でDawsonが指摘しているのは、現在、欧米を中心にしてひろがりをみせている発達心理学にもとづいたLeadership開発の領域において、発達(「構造的発達」・「垂直的発達」)というものを多様な課題や問題を解決できる万能薬のようなものとして非常に短絡的にみなされているということである。
企業組織において個人がその「生産性」(capability)を高めるためには、とりわけ認知構造の発達段階を高めることが重要であるという言説は、今日、発達心理学を勉強した人材開発や組織開発の領域の関係者が主張しているところであるが、Dawsonは、それは実際とは大きく乖離したものであるという。
むしろ、認知構造の発達は、ときとして深刻な破壊的な影響をもたらすこともあるものであり、そうした類の発達を単に業務遂行能力を高めるために安易に推進するのは非常に危険なことであるというのだ。
個人的にも、これまでに発達理論に関していろいろな研究者や実践者と対話をしながら思考錯誤をしてきたのだが、constructive developmentalismにおける認知構造を高次のものに垂直的に高めることが――少なくとも直接的なかたちで――実務者としての能力の向上につながると主張するのは、非常に短絡的な発想であると結論づけるに至っていた。
認知構造とは、結局のところ、われわれが意味を構築するときに依拠する思考機能の質そのものを規定するものである。
それが変容するということは、個人の世界観や価値観そのものの根本的な変革をもたらすことになりかねず、往々にして、われわれの心理的な平衡状態を大きく動揺させることになる。
もちろん、それが実務者としての機能性を高めることに貢献するということもあるだろうが、それは、あくまでもそういうときもあるということで、認知構造の構造的な発達の必然の結果ではないのである。
そのことを無視して、短絡的に発達段階を高めれば実務者としての成長上の多様な課題や問題を克服することができると発想するのは、あまりにも単純であるし、また、端的に事実に反しているのである。
同じHarvard Graduate School of EducationのRobert Keganが著したImmunity to Change等を読むと、「発達段階が高くなることで仕事ができるようになる」という主張があり、個人的には、たとえ一般向けの書籍とはいえ、こうした説明の仕方は非常に危険だなと危惧していたのだが、こうした発言を目にすると少し安堵する。

そもそも人材育成・組織開発の領域で、発達理論が注目を浴びるようになったのは、それまでに流通していたいわゆる「昨日的能力」(competency)や「性格特性」(typology)といわれるものが、個人の深層領域に関して言及するための厳密な方法を持ち合わせていないことに起因すると思われるが、皮肉にも、今度は、発達理論が過剰に万能視される状況が生まれているのである。

いずれにしても、Dawsonが指摘しているように、認知構造の垂直的な発達というものが、個人の防衛機構を動揺させる可能性を秘めていることにわれわれは真剣に留意しなければならない。
認知と思考の質を変容させるということは、とりもなおさず、個人の意味構築活動そのものを本質的に変容させるということである。
そして、それは、また、個人がみずからの心理的なトラウマやストレスに対処するために用いている諸々の防衛機構を動揺させることになる。
というのも、それは「対象を認識して、それを意味づけし、そして、それにたいする自己の対応を構想・実行する」という認知活動が直接に関わるからである。
その意味では、認知構造の変容を支援しようとするときには、臨床心理学との密接な連携が必須となるといえるだろう。

そして、ここでもうひとつ検討すべきことは、そもそも発達理論というものが、ある特定の価値観・世界観の中で所与のものとしてある目標に到達するための「道具」として相応しいのかということである。
というのも、認知構造を変容させるということは、それまでに前提とされていた――それまでに自己を呪縛していた――価値観や世界観そのものを対象化、及び、その批判的な検討と超克ができるようになるということを意味する。
たとえすべての場合において、そうした根本的な価値観や世界観の診直しが起きるわけでないとしても、その可能性は高まるはずである。
「既存の目標は真剣にとりくむに価するものであるという前提は疑うことなく、あくまでもそれをより効果的・効率的に実現するための方法を進化させるために発達してください」というような都合のいい「発達」ができるわけではないのである。
むしろ、既存の目標そのものが過去の幼稚な価値観・世界観の中で意味を持ち得ていたものに過ぎないということに気づけることこそが、認知構造の発達がもたらしてくれる価値の本質にあるものであるとすれば、今日 流行している能力開発のための道具として発達心理学をみなすことは、大きな欺瞞を内包しているのではないかとさえ思えるのである。

 

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