<< October 2017 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>
<< 企業という文脈における人間の発達について | main | Wigmore Hallでの演奏会 >>
『この世界の片隅で』を観て

先日出張した際、飛行機内で話題の『この世界の片隅で』を観た。

都内では公開劇場があまりなく、観たい観たいと思いながらも、機会をみつけることができずにいたのだが、ようやく観ることができた。

正に珠玉の作品である。

 

「われわれの心を揺り動かすのは、この作品に息づく郷愁なのではないか」というのが、まず最初に思ったことである。

即ち、主人公・すずのような人が幸福に生きることができた時代にたいする郷愁である。

現代は誰もが勉強をすることや出世することや成長することに四六時中追われているが――愚かにも、それが幸せになるための道であると思い込まされている――そうした倒錯した常識が人間の心を完全に呪縛するまえの時代にたいする望郷のようなものをこの作品はわれわれの内に喚起してくれる。

周知のように、そうした時代は急速に失われてしまい、われわれは彼女のように心穏やかに生きることを許されなくなってしまったが、まさにそれにゆえにわれわれは彼女にありのままで幸せになってほしいと応援したくなるのだと思う。

 

ただ、いっぽうで、彼女のように、世界の片隅に生き、そこだけを意識しているだけでは、自己――そして、愛する人々――に降りかかってくる理不尽な暴力にたいして無防備になってしまうのも事実である。

そして、彼女もまたそうしたみずからの無防備にたいして、みずからの体と心に深い傷を負うことをとおして贖わされることになる。

終戦の玉音放送を聞いたときの主人公の悲痛な叫びは、それまでに抑えられていた悲しみや苦しみに声があたえられた瞬間であり、それは彼女の中にはじめて時代や社会に目を向け、それらと対峙する力が芽生えたことの証でもある。

ただし、それは、成長といわれるものがしばしばそうであるように、悲しい成長であることはまぎれもない事実である。

それは、間違っても彼女が望んで得たものではないのである。

 

結局、「彼女のような人が穏やかに生きることができる平穏な世界が続いてほしかった」というわれわれの想いは叶うことはない。

残念ながら、世界はそれほどまでに寛容な場所ではないのである。

われわれにできるのは、作品の最後に再出発をする彼女の幸福を願うことくらいである。

そして、それは彼女の存在が象徴するものが、失われることなく、この世界に在りつづけてほしいというわれわれの願いそのものでもある。

 

視聴者は、この作品を鑑賞しながら、主人公の生きた幸福な世界を守りたいという想いを抱くと共にそのためには自分自身はそうした幸福な世界に安住することはできないことに気づかされることになる。

言い換えれば、作品は、世界の残酷に目覚めながらも、自己の内に幸福な世界を護りつづけることの重要性を訓えてくれるのだと思う。

ほとんどの現代人のように、徹底した「現実主義」(合理主義・数値主義・上昇主義)になるのではなく、自己の内にすずを抱きつづけることのたいせつさを訓えてくれるのである。

実際には、この残酷な世界においては、すずの世界に安住できる人はいないのかもしれない。

しかし、そうした世界を自己の内に維持しつづけることはできるのだと思う。

Trackback URL
http://norio001.integraljapan.net/trackback/251
TRACKBACK