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Wigmore Hallでの演奏会

先日、ロンドンに出張した折、Wigmore Hallで開催された現代音楽の演奏会を訪れた。

UKの同僚が過去に演奏家として活動していたということもあり(また、夫君は現代音楽の作曲家である)、食事をしながら、いろいろと音楽談義をしたのだが、そのときに「Wigmore Hallの演奏会は基本的には音楽関係者に向けた玄人好みのものであり、おもしろいものが多いので、ぜひ行くといいよ」というアドバイスをもらい、ちょうど滞在中に開催されたこの演奏会に参加してきた。

 

Birmingham Contemporary Music Group; Timothy Redmond; Calder Quartet; Thomas Adès; Nicolas Hodges

 

この日は、イギリスの現代作曲家であるThomas Adesの特集が組まれており(演奏会では本人がピアノを演奏していた)、昼の部と夜の部の二部構成で演奏会が企画されていたのだが、わたしは昼はTate Brittenを訪れ、その脚で夜の部に行った。

当日の聴衆は幅広い年齢層で構成されていたが、同僚が述べていたとおり、総じて音楽を聴き慣れている人達であることが感じられた(ちなみに、隣に座っていた老婦人は、その長年にわたる現代音楽にたいする貢献を評価され、演奏会の途中でRoyal Philharmonic Societyに表彰されていた)。

ここで演奏された作品は、ヤナチェックの作品を除いては、基本的に理知的にたのしむべき作品ばかりで、必ずしも心地よく陶酔させてくれるものはなかったのだが、非常に熱心に聴きいっていた。

 

簡単に感想を書き留めておきたいと思う:

・この演奏会の演目は数分の短い断章(fragments)で構成される作品ばかりであったが、このようにあらためて意識的に聴いてみると、断章というものが内包する力を実感をすることができる。断章というのは人間が生きているなかで束の間に経験する感覚や想念を素朴に作品として結晶化するために実に適した形態であることが実感されるのである。そうしたものを古典的な作品にあるような論理的な構造の中で表現しようとしても、そこには無理が生じることになる。実際、人間の日常は泡沫のように生まれては消えていく刹那的な感覚の連続ともいえるわけで、それを論理的に展開させるのではなく、あえてありのままに作品として結晶化させておこうという態度は自然なものだと思う。また、それらを大きな論理的な構造をもつ作品の素材として用いようとすれば、それらはもはや異なるものに変質してしまう。

特にクータッグの作品は断章というものの魅力を見事に伝えていたと思う。

・Gramophone等の雑誌を眺めている、英国では現代音楽が比較的に熱心に支持されているという印象を抱かされるのだが、しかし、実際にそこで紹介される作品を聴いて、大きな感銘を受けることはあまりない。この演奏会で特集されていたThomas Adesの作品にも、個人的には、まったく感銘を受けなかった。周りの聴衆は熱い拍手を送っていたが、「果たしてこんな作品のどこがいいのだろう……?」とひとり醒めていた。現代音楽にありがちではあるが、作品中には他の作曲家の作品が引用されるが(今回はベートーヴェンの弦楽四重奏曲)、それが終わると、作品は再び異様につまらなくなってしまう。皮肉にも、古典を引用することで、両作曲家の音楽の訴求力が圧倒的に違うことが露呈してしまうのである。

・いずれにしても、こうした演奏会を聴いていると、確かにクラッシック音楽は大きな袋小路にはいっていることを実感させられる。しばらくのあいだは、ある程度の知的なたのしみはあたえてくれるのだが、われわれが音楽というものに求める存在の深いところに響いてくる感動をあじあわせてくれることはない。端的に言えば、音楽ではなく、音響という素材を用いた実験の結果を聴かされている気持ちになるのだ。

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