先日 ロンドンに一週間ほど滞在したのだが、そのときにあらためて街が宗教的なシンボルに埋め尽くされていることに静かな衝撃を受けた。
そこがまさしく宗教国であることを実感した。
宿泊したのがSt Paul's Cathedralの脇にあるホテルだったこともあるのだろうが――一日をとおして頻繁に大音量で鐘が鳴らされる――それにしても、これほどまでに隅々に宗教的な視覚的シンボルが配置されていることには驚きを受ける。
今回は、滞在中に時間を見つけてTate ModernとTate Britainという二つの美術館に脚を運んだのだが、とりわけ現代美術作品を眺めていると、それらの作品が、こうした文化的な文脈のなかで、それと対峙するなかで生みだされたものではないかという感覚が自然に沸いてきた。
旅行者として眺めるだけであれば、諸々の宗教的なシンボルは単なる物珍しいものでしかないかもしれないが、そこに暮らす人々にとっては、それらは圧迫感を帯びてその精神に迫ってくることだろう。
たとえそれがどれほど深い意味や価値を顕すものであろうと、これほど高い密度で生活空間を満たしていると、自然とそれは自己を呪縛するものと感じられ、いずれは対峙と抵抗の対象としてみなされることになるだろうと思う。
また、それらのシンボルが、正にそれらが豊饒なものであるがゆえに、人間の意識に堅固な秩序をあたえてくれる結果、その反作用として、人々はそれに窒息感を覚えるようになるのだろう。
現代美術に息づく破壊衝動は、そうした意味では、共感できるものである。
人々は、自己をとらえる世界観そのものを揺さぶり、自己の感覚を解放したいと希求するのである。
しばしば言われるように、優れた芸術作品は鑑賞者の意識の変容を促すが、現代美術館に並べられた作品を眺めていると、確かに自己の意識が作品を注視している自己そのものにも自然と向かうことを自覚する。
そして、そうした瞬間には、周囲の空間そのものが――そこに集うた他の鑑賞者もふくめて――異なる質感をもって意識に映じはじめる。
そんなとき、われわれは自己の意識を変容させることができるなら、この世界そのものを芸術的に視ることができるのではないか……と束の間のあいだ信じることができるのである。