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発達がもたらしてくれるもの……(2)

「後慣習的」(post-conventional)という言葉を理解するときに、先ずはそもそもそれにどのような意味が籠められているのかを再確認する必要があるだろう。
“conventional”という言葉は、普通 「慣習的」「常識的」と翻訳されている。即ち、ある社会や時代の中で常識として確立されているされている価値観や世界観に立脚して思考・行動する在り方――というような意味が含意されているのである。
もちろん、時代により、社会で共有される常識の内容は変わるものである。
たとえば、昔は社会の中で共有されていた価値観や世界観を純朴に信じることが「常識的」であったとしても、今はそうしたものをある程度の批判精神をもって検討・検証できることが常識的であるとされる。
その意味では、時代に変遷にしたがい「常識」として個人に求められる能力は変化するのである。
学問としての発達理論が本格的に成熟したのは、20〜21世紀であるが、この時代において、「慣習的」「常識的」という言葉で意味されるのは、ロバート・キーガン(Robert Kegan)が第3段階(third order)〜第4段階(fourth order)と呼んでいる発達段階のことである。
簡単に言えば、第3段階は、所属する共同体で共有されている価値観・世界観を無批判に受容して、そこであたえられる規則や役割を奉じて自己を確立する在り方である。そして、第4段階は、第3段階と同じように、所属する共同体の中で共有されている価値観・世界観を暫定的なものとしてとらえ、自律的・批判的な思考を発揮して、それを修正・刷新できる在り方である。
著書In Over Our Headsの中でキーガンが述べているように、確かに、先進国においても、第4段階に到達する人々の数はまだ少数であるが、実際には、企業組織等においてはそうした意識が要求されはじめていることは明らかである。
また、そうした状況を背景として、高等教育や成人教育のカリキュラムは、基本的には、この段階の意識を確立するために設計されている。
ただし、第4段階において獲得される自律的・批判的な思考というのは、思考という行動をはじめるにあたり、自己を呪縛している――半ば無意識的な――諸々の前提条件を意識化することはできないといわれる。即ち、自身が発揮している自律的な精神活動というものが、実際にはそうした無意識の領域の要因に強力に縛られていることには、総じて無自覚なのである。
自己の無意識の領域にたいする旺盛な興味というのは、往々にして、第4段階を超えていくときに先鋭的に出現するものだといわれるが、そこには自身の精神が真に自律的に機能しているという常識的な信念が幻想であることを察知する洞察が息づいているのである。
それゆえに、自己をそうした幻想の中に呪縛する意識されていない諸要因を積極的に探求しようとする衝動がめばえるのである。

このように考えると、発達理論というものをどのようにとらえているかを観察すると、その人の思考の質をある程度推測することができるのかもしれない。
こうした理論を前にして、それに自身が投影している期待や希望にほとんど無自覚である場合、現代においては、「発達することにより社会的な成功を獲得することができるはずだ」という物語を安易に信じ込んでしまうことになる。
逆に、自身のそうした投影に自覚的であれば、そうした投影をすることが対象に関する理解を歪めてしまうことに気づけるし、さらには、そもそもそうした投影をしているじしんの内面に刷り込まれている価値観や世界観について積極的に思いを馳せることができる。
第4段階においては、自律的・批判的な思考を発揮して所属する共同体の中で共有されている価値観・世界観を修正・刷新できるようになると述べたが、
第4段階をこえると、それまでに自身が発揮していた「自律的・批判的な思考」といわれるものが果たして真に自律的・批判的なものであったのかということを問うことができるようになるのである。
そして、また、そうした思考を駆使して、実現しようとしていた変化や変革といわれるものが、そもそも妥当なものであったのかということを根源的に問うことができるようになるのである。
換言すれば、それまでに善かれと思い懸命に追求していた理想や目標や目的が、実は時代・社会の中でひろく共有されている価値観や世界観にもとづいていたことに――実質的に、自身がそうした時代・社会の価値観や世界観に操られていたことに――気づき、そうした状況と対峙・格闘できるようになるのである。
思想家のケン・ウィルバー(Ken Wilber)が指摘するように、こうした内的な葛藤をとおして、われわれはいわゆる実存的な課題と直面することができるようになるわけであるが、実は第5段階というのは、そうした深い精神的な探求ができるようになる段階なのである。
そうした段階に到達することで、業務上の能力が高めることができるという主張は、あまりにも短絡的であるだけでなく、発達をするということの本質を完全に見落とした発想といえるだろう。
(もちろん、高次の発達段階を確立することで、業務上の能力が向上した事例があることは否定しないが、そこには単純に第5段階を確立したことだけでなく、それ例外の多様な人格的な要素を調整・鍛錬・統合した結果としての独自の性格があることに着目する必要があるだろう)。

 

(つづく)

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