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「現代音楽」と職人文化

先日、東京芸術大学の奏楽堂で「創造の杜」と題された現代音楽の演奏会が開催されたので、聴いてきた。
目当ては黛 敏郎の『曼荼羅交響曲』だったのだが、二人の在学生の作品もなかなかいい作品だった。
やはり現代音楽を聴くときには、「どのような音楽が飛び出してくるのだろう」という独得のワクワク感がある。
数週間前に同じ会場でシューマンの交響曲を聴いたのだが、そのときの退屈感とくらべると(もともとロマン派の作曲家にはそれほど惹かれないのだが、特にシューマンは苦手である)、同じ「クラシック音楽」といわれる音楽でも、体験の質が全く異なることに気づかされる。
当日 演奏された四作品の中で最もつまらなかったのは、皮肉なことに、大家と目される小鍛冶 邦隆氏の作品で――配布された資料の作曲者の意味不明な解説に象徴されるように――アカデミアという閉じた世界の中で「身内」に向けて語ることしかせずに長年月を過ごしてきた芸術家の成れの果てをみせつけられるような気がした。
二人の在学生に関しては共に才能を感じさせられたが、とりわけ、久保 哲朗氏の作品は、非常に演奏効果に富んでおり、ときに花園にいるような感覚に襲われた。

ただ、この演奏会を聴いて――そして、現代音楽之演奏会を聴いてしばしば思うことなのだが――ひとつだけ苦言を呈すとすれば、いわゆる現代音楽といわれる作品の語法が、作曲者はいろいろと工夫をこらしているのだろうが、どれも似通ったもので、非常に陳腐化しているという印象をあたえられるのも事実である。
また、いわゆる「大衆的」であることを意固地に拒絶しているために、逆に、そうした姿勢そのものがありきたりのものになっているように思うのである。
将来的な可能性を秘めた若い作曲家の作品と、「現代音楽」という閉じた世界の中に長く安住して完全に干からびてしまったベテラン作曲家の作品を並べて聴きながら、それらの若い作曲家達が後者と同じ道を辿らなければいいなあと――そして、そのためには、あまりに「現代音楽」の世界に安住することなく、そこから越境していく勇気をもってくるといいなあと――思ってしまった。

ちなみに、黛 敏郎の作品は、期待ほどではなかったが、それなりに愉しませてもらった(個人的には、この作曲家の「手癖」のようなものが散見されるので、気にはなる)。
響きが骨太で、作曲者がみつめている世界が非常に本質的(精神的)なものであることが明瞭に感得できる。
これは、芸術家としての問題意識の次元が高いとも、志が高いともいうことができると思う。
このことは、この日に演奏された他の作曲家の作品とくらべると非常にあきらかで、端的に言えば、彼等は音の細工師としての要素がつよく、感覚的な領域の向こうにあるものをどれくらい視ることができているのだろうという素朴な疑問が沸いてくる。
もちろん、それはそれで「芸術とは精神的なものでなければならない」という価値観の呪縛から解放されているとも言えるのだが――そして、そうした在り方を自由度が高いとも言う向きもあるのだろうが――そうした態度そのものが既に陳腐化しているように思うし、また、時代や社会の中で作曲者としての自己の役割について思いを巡らせたときに、果たしてそうした在り方に安住していいのだろうか? という疑問が沸かないのだろうかと素朴に思う。
換言すれば、音楽の世界においては、役割上 演奏者が常に聴衆に寄りそうことを求められるのにたいして、作曲者達は往々にして「技」をみがくことだけに意識を狭めてしまい、語りかけるべき他者の存在を見失ってしまうのではないかと危惧するのである。

こうした課題というのは、音楽界のみならず、いわゆる専門的な技術の鍛錬を軸にしている職人文化の構造的な課題なのだと思うが、演奏会で披露された作品を聴くかぎりでは、その解決の糸口はみえてこないというのが正直なところである。
固定された専門領域では驚異的な能力を発揮するが、その領域の「パラダイム」と距離をとり、発想していくということはできないというのは、非常に普遍的な問題だと思う。

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