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雑感 - 『君の名は』・演奏会

先日、ようやく新海 誠監督の『君の名は』を観ることができた。

素直に感動した。そして、この作品がひとつの社会現象になったことに納得感を抱いた。
端的に言えば、作品は現代人の等身大の霊性(spirituality)を見事に描いていると思う。
自己の存在を意味づけるためのコスモロジーを示してくれているといえるだろう。
周知のように、現代社会においては、われわれの存在を根源的なかたちで意味づけてくれる社会的・文化的な資産が半ば完全に失われてしまっている。
たとえば、作品の中でも示されているように、主人公達の日常を占める活動(受験勉強や就職活動)は、われわれがこの世界に生まれてきたことに根源的なかたちで意義や価値をあたえてくれるものではない。
つまり、われわれの「魂」や「霊」といわれる領域に全く関係のない殺伐とした営みによって、われわれの日常は占められているのである。
そうした状況は、都会であれ、田舎であれ、ほとんど変わることはない(気を紛らわすために用意されている装置が異なるだけである)。
現代社会の特徴をあらわす言葉として、しばしば「閉塞感」という言葉が挙げられるが、その本質的なものとは、このように時空を超えた領域や文脈にたいして半ば完全に意識を閉ざしている現代社会の根源的な貧困に起因するものとはいえないだろうか……。
大多数の識者は、そうした閉塞感を「打破」するために、これまでよりもさらに懸命に日々の経済活動に邁進するように人々を鼓舞するが、それは、決してわれわれを救済してくれない表層的な領域に人々を駆り立てることでしかない。
もう少し懸命に努力をすれば、現代の不毛な世界は再び意味や意義を湛えたものに変貌するはずだ――そんな的外れの主張の暴力にわれわれは恒常的に曝されているのである。
アメリカの思想家・ケン・ウィルバー(Ken Wilber)は、そうした発想を「フラットランド」(表層主義)と名付けて、「そうした倒錯した発想は、われわれに底の浅い水溜りに頭から飛び込むことを奨励している」と批判している。
そうした狂気に恒常的に囲まれていれば、精神の羅針盤に混乱を来すことになるのは当然のことだろう。
こうしたことを考えると、この作品が、あたかも清涼剤のように、われわれ現代人の精神の深層に働く羅針盤を回復させてくれるような感動と洞察をあたえてくれるものとして受容されたのは、自然なことだと思う。
こうした作品を観ると、あらためて、「ファンタジーは最高の社会批判となりえるのだ」というミヒャエル・エンデの言葉を思い出される。(6月21日)

 

 

ロンドンのRoyal College of Music(RCM)の在学生のオーケストラ・RCM Symphony Orchestraの演奏会に訪れた。
夕刻にCovent Gardenで遅い昼食を摂り、その後Tate Modernに立ち寄り、そこから地下鉄でSouth Kensingtonまで移動して、RCMに徒歩で向かった。
演奏されたのは、ドヴォルジャークの「チェロ協奏曲」とバルトークの「管弦楽のための協奏曲」、そして、リゲティの「Lontano」である。

RCMは、有名なRoyal Albert Hallの目の前にある実にこぢんまりとした学校だが、錚々たる著名音楽家を輩出している(後で気づいたのだが、敬愛する作曲家・James Hornerも在学していた)。
会場のAmaryllis Fleming Concert Hallは、昔の体育館のようで、演奏会を開催するときには、床にパイプ椅子を並べて体裁を整えているような粗末な施設だが――ただし、天井に透明の反響板が設えてある――音響は豊かである(これにくらべると、日本の音楽大学の施設の充実していること!!)。
演奏の素晴しさもあり、冒頭のドヴォルジャークの協奏曲の演奏が開始されたときには、その弦の響きの美しさに思わず涙ぐんでしまった。
ただし、バルトークの作品のような大編成の作品には、会場が小さ過ぎて、音が飽和してしまい、どのような音楽なのか解らなくなってしまう。
くわえて、当日は、バルトークに関しては、金管が随分と荒れており、それもそのことに貢献していたようだ。
この日の白眉は、ドヴォルジャークのチェロ協奏曲であった。
もしかしたらこの作品を生で聴くのは初めてかもしれないが、あらためてこの作曲家の偉大さをおしえられた。
そして、この作品が古今東西のチェロ協奏曲の王者と言われることに納得した。
作品を貫くのは郷愁だが、それは、換言すれば、年齢を重ねて、自己がとりかえしのつかないものを抱えた存在であることを認識するときに生まれる後悔の念ともいえるだろう。
そして、作品をひときわ魅力的なものにしているのは、そうした想いを微笑みと共に超克していこうとする意志である。
それは、世界にたいする根源的な信頼とでもいえるものである。
RCM Symphony Orchestraの演奏は、こうした作品の魅力をあますところなく表現していた。
そして、こうしたことを、これから将来に向けて羽ばたいていこうとする若い青年演奏家達におしえてもらうというのも、なんとも不思議な感じである。
感謝である。(6月30日)

 

 

東京オペラシティで国立音楽大学の学生オーケストラによるメシアンの「トゥーランガリア交響曲」を聴いた

なにぶん帰国の翌日で時差呆けの状態なので体調的にキツかったのだが、こうしたときでないと、こういう作品に触れることもできないので――それほどひんぱんに演奏会でとりあげる作品ではない――心待ちにしていた。
演奏は実に素晴らしいものだった。
実に不思議な音楽である。
個人的には、あたかも鉱物の響きで構成された作品というような印象をあたえられる。
正直なところ、構成的に随分と冗長なところのある作品だと思うのだが、忍耐強く耳を傾けていると、不協和音がこの世の清濁併せ飲んだ美として心の中に鳴り響いてくる。
また、一聴するとひどく拙いように聞こえる旋律が深い叡智を蔵した旋律として響いてくる。

昨年の暮れより、音楽大学主催の演奏会に脚を運ぶようにしているのだが、在学生の演奏には独特の魅力がある。
たとえば、秋頃に聴いた東京藝術大学の演奏会などは、その直前にロンドンで聴いたサイモン・ラトル率いるロンドン交響楽団の演奏会より何倍もの感動をあたえられた。
それ以降、その理由についていろいろ思いを巡らせているのだが、ひとつには作品にたいする理解を深めようとする現在進行形のとりくみが自然と生み出すことになる開かれた謙虚さと誠実さのようなものが伝わってくるのだと思う。
くわえて、優れた指揮者・指導者の存在も大きいと思う。
この日の指揮は、準・メルクルが担当していたが、その非常に誠実な姿勢が舞台姿からも如実に伝わってくる。
舞台人としての活動だけでなく、教育者としてこうした人達が果たしている役割の価値は測り知れないものだと思う(7月3日)

 

 

東京芸術大学の奏楽堂で開催された「モーニング・コンサート」にはじめて行ってきた、ほぼ満席である。驚いた。

在学生をソリストに迎えて2曲の協奏曲が演奏された。
個人的には、久しぶりにブラームスのピアノ協奏曲第1番をじっくりと聴いて、ひどく感動した。
実はあまり得意な作曲家ではないのだが、特にこうした若い頃の瑞々しい作品は絶品だと思う。
とりわけ、第二楽章にみられるように、この作曲家の奏でる高貴な旋律には深く心が震える。
たしかに、強靭な打鍵の男性的な演奏もいいが、もしかしたら、この作品の魅力というのは、この演奏会の武岡 早紀さんの演奏のように、常人の等身大の演奏をとおして伝わるものなのかもしれない。
いずれにしても、このような作曲家の若い頃の魅力的な作品に触れると、ある意味では、音楽というのは若い頃だけに人間の内に生まれる感情を糧として成立する芸術なのではないかとさえ思えてくる。
往々にして、作曲家の人生後半の作品は、技巧的に優れてはいるが、ここに息づくような瑞々しさが失われるように思われるのだ。(7月6日)

 

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