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成長の触媒としての「越境」について


今日、児童教育の関係者達は、生徒を受験競争に勝たせることに腐心し、また、人材育成の関係者達は、クライアントである企業人の能力開発を支援することに腐心している。
対象年齢は異なるが、共にあたえられた「ゲーム」の中で生徒が成功できることに意識を閉ざしているのである。
本来、教育とは、そうした時代の「実利的」な要請の呪縛を逃れたところでとりくまれるべきものなのだが、実際のところ、大多数の関係者が「ゲーム」にのめりこんでいるのである。
企業関係者はしばしば今日の教育の問題点を辛辣に指摘するが、何のことはない、所与のゲームの枠組の中で能力を開発にとりくむことしかしないという点においては、両者はあまり変わらないのである。
その意味では、今日、真に必要とされているのは、教育というものを同時代のゲームに従属したものではなく、むしろ、それから人々の意識を解放するものに進化することである。
時代の変遷と共にゲームの内容は変化をする。そして、人々はそうした変化に適応することを求められつづけることになる。
教育が、単に刻々と変わるゲームに適応するための能力を養うためのものに堕しているとすれば、それはその元目的から非常に解離した状態にあるといえる。
そして、そうしたものでありつづける限り、それは個人の尊厳を保証するものではありえない。
結局、それは所与のゲームの中で勝つことにしか興味のない人間――即ち、それは真に思考することができない人間である――を生み出すことにしかならないのだ。

現在、企業社会の人材教育においては、しばしば、越境という言葉が重要概念としてとりあげられている。
終身雇用制を前提として、あるひとつの環境の中に収まっているのではなく、異なる環境の中に積極的に飛び込んでいくことで、自己の視野や発想をひろげ、ひいては人材としての自己の感性や発想や視野を高める・拡げるべきであると言われているのである(そうした努力を重ねれば、いわゆる「創造性」(innovation)を高めることができるはずだと考えられているのである)。
ただ、一般的には、こうしたときに意図されているのは、あくまでも最終的に労働市場における自己の価値を高めることを目的とした越境である。
多様な文脈に参画することをとおして、自己の意識を拡張することに反対する人はいないと思うが、ただ、そうしたとりくみが、結局のところ、企業社会における生産性(performance)を高めるためのものとして位置づけられることには違和感を覚える人もいるだろう。
というのも、そこでは、物理的に多様な文脈に越境していくことが称揚されながらも、精神的には常にあたえられたゲームの中に留まりつづけることが半ば無意識の内に前提とされているために、本来的に「越境」という概念が内包しているダイナミズムが矮小化されてしまっているからである。
物理的な越境は称揚されるが、精神的な越境は実は半ば無視されてしまっているのである。
しかし、とりわけ時代の変わり目においては、われわれには、自己の生きる社会の支配的な論理そのものを対象化する力が求められることになる。
たとえば「経済成長」という概念がこれほど強烈に社会を呪縛している時代というのは、未曾有のものであるが、もしわれわれが真に越境をこころみるのであれば、そうした概念を対象化して、それとは異なる論理にもとづいて社会が営まれえることを探るような経験をしてみてはどうだろうか……?
即ち、自己の存在をとりこんでいるゲームそのものを対象化して、あらためて自己の実存そのものについて意識を向けることができるような越境をしてみるべきではないだろうか……と思うのである。
平たい言葉で言えば、それは「非日常」を求めるということである。
日常生活を支配している価値観や世界観を気づかせてくれるような状況に参画してみるということである。
そうした体験を積極的に求めることができるようになることが、今日の日本人の心に蔓延しているといわれる「閉塞感」を打破することにも寄与すると思うのだが……。

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