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天才は存在するのか?


先日、主催する研究会の参考図書のひとつとして、今井 むつみ氏の『学びとは何か:“探究人”になるために』(岩波新書)をとりあげた。
今井しは、現在の日本の発達心理学において注目にあたいする研究者のひとりで、その旺盛な著述活動をとおして、ひろい範囲でその存在を認知されてはじめている。
個人的にも、人格形成期に英語圏で15年程暮らして、言語習得の問題に関しては当事者として実に様々な経験や試練に直面したこともあり、人間の言語習得に関する今井氏の研究には常に大きな感銘をあたえられている。
また、そればかりではなく、仕事の関係上、周りには家族と共に長期の海外滞在をする同僚や知人の多くが、子供達の言語学習に関して大きな悩みを抱えていることもあり、いわゆる「国際化」が急速に展開する今日において、言葉をめぐる問題が真に切実なものとして浮上していることを日々実感させられている。
言葉というものが、単なる道具ではなく、人間の認知・認識を根源的なところで規定するものであり、また、さらにはアイデンティティを支配するものであることに関しては、今日の英語礼賛の空気下では、人々は無関心を決め込んでいるが、そうした真に本質的に問題にたいして正面から発言しているという点においても、今井氏の活動は非常に重要なものだと思う(ちなみに、子供の言語教育に関して悩みを抱いている同僚には、必ず今井氏の『ことばと思考』を紹介することにしている)。
ただ、岩波新書の第二冊目として出版された『学びとは何か』においては、今井氏は、専門の範囲をこえて、人間の能力開発の極限にある「熟達」(mastery)に関して解説をしているが、印象としては、論述が少々散漫であり、言語習得に関する書籍や論文とくらべると、随分と物足りないところがある。
しかし、個人的には、それ以上に印象的だったのは、「熟達」について扱っていながらも、いわゆる「天才」(生まれながらに特殊な能力をあたえられてきている人々)というものに関しては、ほとんど論述がされていないということである。
もしかしたら、そこには「全ての人間は平等な素質をあたえられて生まれてきているのであり、生まれながらに突出した素質や能力をそなえている者などいないのだ」というような平等主義的な価値観が存在しているのではないかと推測してしまう。
換言すれば、個人間の能力の差というのは、素質・資質の差ではなく、生まれ育つ環境条件の差に起因するものに過ぎないのであるという世界観に支えられて全ての研究が行われているのではないかと思うのである。
まあ、窮極的には、それは個人が――意識的であれ、無意識的であれ――立脚する価値観や世界観に拠るものだと思うので、それについてあれこれ言ってもあまり意味はないのだろうが、少なくても、いわゆる「天才」というものが存在しえる可能性を排除した人間観・世界観というのは、この世界を随分とつまらないものにしてしまうように思う。
確かに、現在の人類社会が人間の能力を真に最大限に育成することに成功しているかどうかといえば、それは致命的なまでに失敗しているというのが正しいだろう。
また、今日、世界を席巻する社会の「進歩」は――まさに思想家ケン・ウィルバー(Ken Wilber)が「フラットランド」(flatland)という概念で問題提起するように――人間の全人格的な成長や成熟を促進するのではなく、むしろ、真・善・美という価値観を探求・体現するのとは逆行する方向で人間に影響をあたえている。
たとえば、今日において、人間の成長や成熟という概念が重要なものとして認識されるのは、あくまでもそれを実現することが経済活動の中で実利的な利益をもたらすからであり、そうした発想そのものを――そうした発想を無批判に受容・称揚する時代や社会そのものを――対象化して批判的に検討できる成長や成熟は求められない。
ハンナ・アレントは、所与の社会制度に従順に適応することに腐心することは悪であると述べたそうだが、今日、一般的に称揚される成長や成熟は、往々にして、悪を増幅するものでしかないのではないかと思うのである。
しかし、同時に思うのは、そうした劣悪な条件下においても――あたえられた教育や支援に還元できない――突出した成長や成熟を実現する個人は存在するのではないかということである。
また、たとえそうした突出した人物を研究対象としてとりあげて、その人物がなぜそれほどまでに優れた能力を発揮しえているのか――また、それを可能とする訓練・実践とはどのようなものであるのか――を解明してみたところで、その才能の偉大さを真に理解したことにはならないはずである。
真に傑出した人物が、しばしば、人並外れた訓練を実践にとりくんでいるのは言うまでもないが、しかし、その人物の偉大さをそうした訓練の効果や効率に還元することはできない。
それはあくまでの偉大さの要素のひとつでしかないのである。

 

こんなことをあらためて書き綴っているのは、今年にはいり、非常に感動的な演奏会を経験したからである。
ひとつは、東京文化会館で開催された東京音楽コンクールのヴァイオリン部門の本選会、そして、もうひとつは、東京オペラ・シティで開催された日本音楽コンクールのヴァイオリン部門の本選会である。
共に本選会なので、演奏者の方々は実に優秀なのだが、最終的に優勝したのは年齢的に若い二人の女流演奏家であった(前者で優勝した荒井 里桜さんは大学1年生、そして、後者で優勝した大関 万結さんは高校3年生)。
実際、二人とも他の参加者とくらべると全く別次元の演奏家で、彼等の奏でる音が流れはじめると会場の音が瞬時に一変してしまう。
そして、伴奏をつとめているオーケストラの音も劇的に変質してしまう(もちろん、在京のプロのオーケストラの方々は非常に誠実な仕事ぶりで、全てのソリストに真摯な伴奏を提供していたが、こうした傑出したソリストが演奏をしだすと自然と火が着いてしまうのであと思う)。
小さな弦楽器が奏でる繊細な音が巨大な会場の空気を変質させ、また、そこに集うている千人以上の人間の意識を呪縛し変容させてしまうのを間近にするのは、まさに奇跡的な瞬間に立ち会わせてもらっているような気持になる。
こうした演奏家は非常に稀有な存在ではあるが、確かに存在している。
音楽批評家がしばしば言うように、まさに生まれながらの音を持っているのである。
こんな瞬間を実際に経験すると、傑出した素質というものをあたえられて生まれてきている人間が存在するという可能性をどうしても肯定したくなってしまうのである。
また、そうした体験は、偉大なものがあたかも的確な訓練さえすれば誰にでも獲得できるものであるという物語を信奉することの傲慢さから目を覚ませてくれる。
多数の音楽愛好家が真に偉大な演奏者の生演奏に立ち会えたときのことをあたかも宗教体験のように回想するのを耳にすることがあるが、それはたぶんそうした経験が単純な訓練や実践では到達できない非日常的なものとの出逢いをもたらしてくれた経験であるからなのだと思う。

 

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