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Lectica, Inc.のトレイニングを終えて

今週、過去数箇月にわたり受講してきたLectica, Inc.のトレイニングがとりあえず終了した。

今回の内容は、Lecticaが提供している二つの発達段階測報告書の内容の理解と実際にその測定を受けた被測定者にたいするフィードバック方法の訓練である。

2週間に1度、2時間のビデオ会議が合計で8回という内容だ。

開始時間が日本時間の午前1時というのが、翌日に影響するので、少々辛いところだったが、それほど大量の宿題があるわけでもなく、非常にたくさんの気づきをもたらしてくれる経験となった。

また、今回のトレイニングを受講するにあたり、数年振りにLDMALectical Decision-Making Assessment)という測定を受け、「意思決定」という領域における自身のレベルを把握できたことは、大きな内省の機会となった(また、「意思決定」という領域における自己の状態を認識することで、自己の思考の全般的な特徴について探求する貴重な機会をあたえてもらった)。

 

今、日本では徐々に発達理論が紹介されはじめているが、そこで想定されているのは、基本的には、Robert KeganWilliam TorbertSusanne Cook-Greuter等の理論にもとづいたもので、本質的には、いわゆる「重心」(the Center of Gravity)という概念を前提とするものであるといえる。

しかし、Lecticaの場合には、この概念そのものを否定している。

そうした概念は、たしかに感覚的には人間の実際を反映したものであるかのように感じられるが、それを測定することは不可能なことである。即ち、人間の能力(domain)はあまりにもたくさんあり、それらの全てを測定することなどできない――というのが、その理由である。

また、そうした概念が実際に用いられるときに、しばしばわれわれは他者をラベル付けするための安易な道具として利用してしまいがちだ。

実際、Ken Wilberをはじめとして、Integral Communityの関係者は、こうした悪しき傾向にとらわれているように思われる。

たとえば、彼等は、人間の発達段階を大きく“First Layer”“Second Layer”という二層に分けて説明するが、そもそもそうした概念そのものは必ずしも実証されているものではないし(確かに、Abraham Maslowが、ある段階で欲求の質が大きく変化すると主張しているが、それは仮説に過ぎない)、また、人間の能力というものが非常に激しく上下動をしていることを考慮すると、これほど単純に人間を価値付けすることは、知的な怠慢といわざるをえない。

こうした問題にたいするLecticaの関係者の徹底した慎重さには非常に関心させられた。

実際、人間の能力というものについてあらためて思いを巡らせてみると、特定の領域で優れたパフォーマンスを発揮できるかどうかということは、その人物の本質的な価値と全く関係ないことが判る。

たとえば、英語能力はその個人の本質的な価値に何の影響もあたえない。あるいは、料理をしたり、掃除をしたり、運転をしたりするための諸能力の高低はその個人の本質な価値と何の関係もない(もちろん、その高低により、その個人が担える責任や役割に影響が生じることにはなるために、その個人の機能的な価値には大きな影響をあたえることにはなるが……)。

少なくとも、それらの諸能力の高低に関する議論は、個人の人格の成熟度に関する議論とは切り分けてする必要がある。

しかし、Robert Kegan等の発達理論の枠組では、人間の「意味構築活動」(meaning making activity)が主な研究対象として設定されているために、どうしても人間の本質に関わることについて言及されているような印象をあたえることになる(実際、Keganは著書の中で自分は人間の意識そのものについて研究をしているということを述べている)。

しかし、このあたりについて、Lecticaの関係者は非常に懐疑的であるように思われる。

少なくとも、それを測定するために用いられているKeganCook-Greuterの方法に関しては、基本的には意識の内容物に焦点を絞るもので、意識の構造を把握するものではないと批判している(批判をするときの表現としては、そういう言葉を用いてはいないが……)。

即ち、そこでは、あくまでもその個人の意見の聞き取りがされるだけで、課題や問題を実際に解くことを求めていないために、厳密には、その個人の能力を測定していないと批判するのである。

たしかに、個人的にも、KeganSubject-Object interviewCook-GreuterMaturity Assessment ProfileMAP)を少し勉強してきて、そうした批判には一定の正当性があるように思いう。

特にMAPの場合、実質的にJane Loevingerの文章完成法(sentence completion test)をそのまま踏襲していることもあり、回答の中に登場する具体的な単語や概念が、マニュアルに照らし合わせて、どの段階に属するものであるかどうかを特定する作業に重点を置くことになってしまう。

結果として、測定されるのは、あくまでもその個人が主にどのような段階の単語・概念を内面化しているかということになるのだ。

Lecticaの関係者は、果たしてそうした方法で個人の発達段階を測定することができるのか? という根本的な問題提起をしている。

同時に、彼等も、個人の意味構築活動を把握するために果たしてそれ以外の方法があるのかといえば、適当なものはないと述べているのだが、いずれにしても、いわゆる「発達段階」というものが、少なくともIntegral Communityの関係者(発達心理学の専門家を含めて)が想定しているほど簡単に把握できるものではないのは間違いないところだと思う。

端的に言えば、いくつかの既存の理論や方法を習得したことで、人間の発達段階を把握できたと信じるのは危険であるということだ。

 

もうひとつ、今回のトレイニングをとおしてあらためて考えさせられたのは、段階と段階のあいだの“phase”をたいせつに扱うことの必要性である(Lecticaでは、段階と段階のあいだに10phaseを設けている)。

実際の現場において他者を支援するときに、次の段階についていろいろと説明をして、そこに向けて自己の行動を進化させるように指導をしても、ほとんど効果はない。

段階と段階の間に存在する「差」はあまりにも大きく、次の段階について言葉で説明をされても、実際にその段階の能力を発揮できるようになるための成長にはほとんどつながらないのである。

また、しばしば、能力が次の段階に上がるためには、数年(56年)が必要となるといわれるが、特に段階が高くなればなるほど、次の段階に移行するために必要となる資源や時間は格段に大きくなる。

この時点である程度高い段階の能力を発揮できているということは、既にそこには多様な要素を統合した複雑なシステムが存在しているということであり、それを次の次元に向けて再編成していくためには、途轍もない力が必要となる。

シンプルなシステムを進化させるためには、それほどの労力が必要となるわけではないが、複雑なシステムを進化させるためには、たとえ非常に小さな進化でも、比較にならないくらいの労力が必要となるのである。

幼い頃は短期間に段階的な成長を遂げることができるが、成人期を迎えると、段階的な成長の速度はどうしても遅くなるのである。

たとえば、はじめのころは、単語を覚えるところから、単語を並べて文章をつくれるようになれば、段階的な成長を遂げたことになったが、高い段階では、ひとつの主張を展開する章をまとめるところから、今度はそれぞれに独立した主張を展開する複数の章をひとつの大きな論旨のもとにまとめあげることができるようになると漸く段階的な成長が成し遂げられたことになるという感じだ。

後になればなるほど、段階的な成長を実現するために求められるものが劇的に増えていくのである。

このため、とりわけ成人期においては、段階を上げることではなく、段階と段階にある“phase”を上げることに焦点を絞り支援をしていくことが重要になる。

端的に言えば、「段階を上げる」というとりくみそのものがあまり意味を成さなくなるのである。

Lecticaでは、こうした観点から、発達段階の報告書の中で、その個人がどの段階のどのphaseにいるのか、そして、次のphaseに移行するためには具体的などの能力の開発に力を傾注すべきなのか、また、具体的にどのような訓練にとりくむべきなのかということに丁寧に言及してくれる(報告書の頁数はA45060頁くらいになる)。

こうした発想は実に地に足が着いたもので、心底感心してしまう。

いうまでもなく、一口に成長といっても、そこで問題にされている能力領域により、鍛錬が必要とされる能力は変わる。

組織の統括者としての意思決定能力という領域において成長しようとしているのか、あるいは、心理的・宗教的な意味の内省能力を成長させようとしているのかにより、次のphaseに向けて成長していくために習得しなければならない能力は異なってくる。

発達志向の支援をするためには、単にそれぞれの段階の特徴を認識しているだけではなく、段階間のphaseに関してある程度正確な理解を有している必要があり、しかも、そこで対象とされている能力領域に関してそれなりの土地勘をそなえていることが求められるのだ。

こうしたことを訓えられるにつけ、これまで大雑把に段階的な成長について語るばかりで、段階間の移行に関する探求を疎かにしていたことを反省してしまった。

 

そして、最後にもうひとつ重要な気づきがあった。

それは、「水平的成長よりも垂直的成長の方が難しい」というアイデアが実はそれほど信憑性のあるものではないということです。

Ken Wilberの著書では、垂直的成長を“transformation”と、そして、水平的成長を“translation”と呼んで、前者の方が後者よりも難しいと説明されているが、Lecticaの関係者によると、実はそうした主張は必ずしも立証されているものではないということだ。

そもそもLecticaの設立者のTheo Dawsonは、そもそも垂直的成長と水平的成長という二つの異なる成長が存在するという発想そのものを否定しているようだ。

即ち、それらは相互に密接に関連(interpenetrate)しているために、実際に人間の成長においては、二つの異なる成長が観察されるようなことはないというのだ。

たとえば、既存の能力を少し修正して適用するのは、水平的成長としてとらえられるが、それも小さな垂直的成長としてとらえることもできるわけで、その意味では、垂直的成長と水平的成長を分ける必要性そのものが無いといえるのだ。

また、それら質的に異なる二つの成長が存在するとしても、それらのうちのひとつがより難しいと断言する根拠はない。

あたらしい能力を習得する(垂直的成長)のと、既存の能力を異なる仕方で用いる(水平的成長)のは、どちらが難しいかといえば、実際には、それは状況により異なるということになるだろう。

 

いずれにしても、今回のトレイニングをとおして、あらためて気づかされたのは、真実として信奉されている概念をあらためて検証することの重要性だ。

とりわけ、Ken Wilberの概念は、非常に解りやすく、また、感覚的に「納得度」の高いものであるために、われわれはそれらを無批判に受け容れてしまいがちだ。

複雑な話題に関して勉強をはじめるための導入的な概念としては非常に便利なものだが、一歩踏み込んで探求しようとするときには、それらをいったん批判的な眼差にさらさないと、自覚しないあいだに思考停止状態に囚われてしまう危険性が生じる。

そうした意味でも、今回のトレイニングには、貴重な気づきをあたえられた。

 

尚、最後のセッションは、周囲の関係者(潜在的顧客)にたいして発達理論をどのように紹介していくかということについて議論をしたのだが、担当の講師によると、徐々に垂直的成長にたいする興味・関心は増してきているという。

ひとつには、この概念が、組織開発や人材開発の関係者によって「次なる流行」(“the next fad”)として認識されているということがあるだろう(もちろん、そういう空気というものは、所詮それだけのものに過ぎないので、いずれは冷めていくものだが……)。

そして、もうひとつは、純粋にこの垂直的成長に関する研究が開示してくれる洞察にたいする興味・関心がひろい範囲で醸成されはじめているということでもあるのだろう。

ただ、個人的に懸念するのは、1990年代後半にKen Wilberが主催するIntegral Communityの中で発達理論が、実際の実証研究と遊離して、半ばイデオロギー化した一連のプロセスがここでも再現されなければいいのだが……ということだ。

とりわけ、Spiral Dynamicsの「色識別」(color coding)を模倣して、各発達段階を色づけして、発達論を大衆化しようとしたことで、Integral Communityの中で発せられる言葉の質は劇的に劣化してしまった。

こうした状況を眺めて、Integral Instituteの関係者の軽薄さに失望して、そこから距離をとりはじめた人は多数いることだろう。

Lecticaとしては、こうした状況に問題意識を抱いているようで、ことあるごとに、Kurt Fischerdynamic skill theoryが、今日急速に大衆化されている発達理論と大きく質を異にするものであることを強調している。

今回のトレイニングをとおして、Lecticaのそうした真当な問題意識が確認できたことだけでも嬉しかったのだが、それ以上に、現在、真実として無批判に信奉されている諸概念の内どの概念がとりわけ問題を内包しているのかということについて、Harvard Graduate School of Educationで実証研究に携わっている関係者に直接的に確認することができたことは貴重な経験だった。

いずれにしても、今後、「紹介者」に求められるのは、発達理論にたいして数多くの人達が無防備に投影している幻想を丁寧に解体して、その実像(限界と魅力)を説明することだろう。

その意味では、この段階において、紹介者にはこれまでとは異なる能力が求められるようになっているといことなのだろう。

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