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雑感

4月27日
先日、奏楽堂で開催された東京藝術大学の新卒業生紹介演奏会を聴いてきた。昨年の演奏会を聴いて、あまりのレベルの高さに驚愕・感動して、今年の演奏会を楽しみにしていたのだが、期待通り素晴らしい演奏が展開された。
残念ながら、会場は6〜7割程度の客の入りで少々空席が目立った。これだけ充実した演奏会があまり注目されないというのは何とも残念である。
はじめに演奏された作曲科の成績優秀者の作品に関しては、正直なところ特に言うべきことはない。いわゆる「現代音楽」という言葉を聞くときに想起される“ありきたり”の音楽が奏でられたという印象である。その領域の関係者の耳には素晴らしい音楽として響くのかもしれないが、個人的には、アカデミアにおける「現代音楽」が完全に袋小路に嵌っているという感想を抱かされるだけだった。
しかし、その後登場した4人のソリストによる演奏はどれも秀逸なものだった。それぞれの演奏家はそれぞれに独自の音をそなえていて、それを高い芸術性をもって表現していた。
実は、最後の「皇帝」を除いて、この日に演奏された作品をこうして集中して聴いたのは初めてだったのだが、演奏が秀逸であるために、作品そのものにも魅惑されてしまった。ベルリオーズの歌がこれほどまでに美しいものだったことを、シマノフスキーのヴァイオリン協奏曲がこれほどまえに幻惑的で陶酔的であることを、そして、トマジのサクソフォン協奏曲がこれほどまでに仄暗い瀟洒と興奮を湛えた作品であることを発見させてもらった。また、もはやベテランとしての風格をそなえている桑原 志織の美音と堂々とした存在感にも深く感服させられた。くわえて、高関 健指揮の藝大フィルハーモニアの演奏が実に素晴らしいもので、奏楽堂の豊かな残響の中で大きな編成を駆使して雄大な伴奏をしていた。
個人的に何よりも嬉しいのは、高関氏とオーケストラが、ソリストと共に協奏曲としての表現を妥協なく追求しようとしていることだ。上久保 沙耶(メゾソプラノ)・堀内 星良(ヴァイオリン)・住谷 美帆(サクソフォン)・桑原 志織(ピアノ)という4人の卒業生の単なる披露目会ではなく、芸術表現としての可能性をソリストと共に追及していたことだ。

 

4月28日
東京ユヴェントス・フィルハーモニーの演奏会を聴いてきた。先日、川崎で聴いたブルックナーの交響曲第9番が非常に素晴らしく、たのしみにしていたのだが、前回ほどの圧倒的な感動までには至らないものの、素晴らしい感動を味わうことができた。
ただし、パルテノン多摩の音響はひどく素気ないもので、演奏家を助けてくれない「恐い」ホールだ。川崎とくらべると、音楽を聴くことの喜びを体験しにくいし、また、演奏者も少々苦戦しているように思われた。また、非常に残念なことに、客の入りが寂しく、これだけ魅力的な演奏会がほとんど注目されないというのは悔しい。まあ、さすがに多摩は遠過ぎるのだろう。
ワーグナーの「ニュールンベルグのマイスタージンガー」の前奏曲に関しては、まず坂入氏の指揮が非常に忙しいもので、正直なところ、少々戸惑いを覚えたことを告白しておく。この作品の演奏としてはあまりにもキビキビと運び過ぎているように感じられたのだ。ただ、そうした演出は完全に確信犯的に為されていたものであることは明確で、それが演奏に独自の筋肉質な響きをあたえていたのも事実である。それはそれで既成概念を打ち破ろうとする問題意識に支えられたもので、面白いと思う。
次のドヴォルジャークのチェロ協奏曲は、どうしてもしばらくまえに聴いたロンドンのRoyal College of Musicの演奏会の非常に感動的な演奏とくらべてしまうのだが、この作品を知り尽くしたソリストの味のある演奏が非常に見事でひたひたと聴き手の心に沁みわたる感動をあたえてくれた。ただ、肝心のところでホルンが外してしまうために、安心して聴くことができない感覚が常につきまとったのは惜しいところ。逆にフルートが非常に素晴らしく、とりわけ第3楽章のソリストとの対話は実に見事で今日のハイライトを形成していたし、また、同楽章でのバイオリン・ソロとの掛け合いも涙なしには聴けない演奏をくりひろげていた。聴いていると、作曲者の想いが死をこえて亡き人と交感していることを実感できる、そんな至上の演奏が展開された。それにしても素晴らしい作品だと思う。
アンコールのバッハの無伴奏ソナタも名演で、そのシンプルな響きに途轍もない叡智が籠められていることを聴衆に実感させてくれた。
休憩後の「英雄」は後半の第3・第4楽章が素晴らしく、坂入氏の本領が存分に発揮されていた。オーケストラも好調で、ひきつづき部分的にホルンの弱さが気にはなるが、総じて生命力に溢れた演奏を展開していた。ベートーヴェンの何という雄々しさと大らかさ!!
もちろん、前半の二楽章も充実していたが、正直なところ、作品にたいして直球勝負を挑み過ぎているように思われ、演奏が作品に押し返されてしまっているように感じられた。正攻法で攻めるだけではなく、もう少し冒険をしてもいいのではないか……。
たとえば、ティンパニの強打も中途半端で、全体のバランスを崩すことも厭わないくらいに暴れてもいいのではないか……。どんな剛速球でも、直球しか投げないと、いずれは打たれてしまうものだが、前半の二つの楽章に関しては、そんな印象を抱かされた。あらためて、この作品が難曲といわれる所以を思い知らされた気がする。
いずれにしても、無数の演奏会が開催される東京でも、これだけの「英雄」というのはなかなか聴けない。今後も坂入氏は試行錯誤を重ねていかれることだろうが、既にこの水準に到達していることが恐ろしいことだし、ここからさらにどう進化していくのかを想像するとワクワクしてくる。

 

5月1日
ある領域で非常に優れた知性をそなえているが、他の領域に関しては、その知識を同じレベルで適用しようとしない「知識人」が無数に存在する。一般論としては、人間の能力は領域により異なるレベルで発揮されるとされているが、そうした説明に納得するのではなく、「ほんの少し意識をすれば、得意領域で発揮されている透徹した能力を他の領域でも発揮できるはずなのに……」とこちらに思われる場合には、その違和感を大切にすべきである。
端的に言えば、自己の専門領域で確立した権威を背景にして、他の領域に関して言及することで、その発言までも権威あるものであるかのように錯覚させてしまうのである。

 

5月11日
昨日の奏楽堂のモーニング・コンサートではまたいろいろな刺激と発見をあたえてもらった。とりわけ、プロコフィエフのピアノ協奏曲を演奏した原田 莉奈氏の演奏には――昨年の東京音楽コンクールの演奏にも関心したが――大きな感動をあたえられた。何よりも今回は演奏がはじまる前の瞬間に会場に静かな緊張感が漲るのを聴衆席で感じて、いっそう風格を増していることが感じられた。
演奏に関しては、純粋にこの作品の素晴らしさをおしえてもらった気がする。ピアニストを夢中にさせるような魅力が詰まった作品であることが実感できた。個人的には、とりわけ第1楽章のピアンのソロが続くところでグッと惹きこまれた。また、プロコフィエフという作曲家にとり「スピード」というものが非常に重要な要素であることを実感することができた。作曲家によっては、解釈上、演奏家があえてテンポを落として演奏しても魅力が出てくるということがあるのかもしれないが、プロコフィエフにおいてはそうではなく、作品の本質的なところにこの作曲家の生理に深く結びついた「スピード感」のようなものが息づいているのではないかと思われたのである。昨日の演奏は、そんな気づきをもたらしてくれる刺激と洞察に満ちた演奏だった。
優れた演奏には二種類あると思う。作品の魅力を聴衆に率直に開示してくれる演奏、そして、演奏者の唯一無二の芸術性を堪能させてくれる演奏である。昨日の演奏は前者であるが、そうしたタイプの奏者として、大きな期待ができる演奏者だと思う。
ちなみに、はじめに演奏されたレオポルド・モーツァルトのトロンボーン協奏曲も、コンパクトにまとまった魅力的な作品で、表面的には明るい曲想の中に幽かな憂いが感じ取れるところは、息子の作品に共通するなあと思った。演奏も素敵だった。

 

5月13日
たくさんの著名経営者の著書の内容を要約して紹介する書籍を読んでいるが、いつものことながら、経営者といわれる人達が「生き方」について語りたがり、また、読者がそれをありがたく読むという構図には、異様な感覚を覚えてしまう。そもそも経営書を人生論として読んでしまう文化そのものに違和感を覚えるのだ。そういうことは個人の最も重要な内面的問題として最もたいせつにすべきことだが、多くの読者は無防備に商売人のロジックに自己の人生そのものを委ねてしまう。このことに懸念を抱けないということそのものが、既にその読者の状態を示している。

 

5月18日
書店には月刊誌の6月号が並びはじめているが、いつものことながら対極的な立場の視点にたいして完全に意識を閉ざした「論考」ばかりが掲載されている。どれほどたくさんこうした記事を読んでも、読者は自己の立場の「正当性」にたいする確信を強めることはできても、視野をひろげることはできない。少し離れて眺めると、これほど退屈な「情報収集」もないと思えるのだが……。結局は、「読む」という行為が自己に問いを突きつけるためのものではなく、自己の信念は正しいのだという感覚を強化するための自慰的なものに留まっているということなのだろう。
たとえば、「世界」には「正論」の、そして、「正論」には「世界」の常連執筆者を招けばズッと面白くなるだろう。そういうことをいっさいしようとしない「知識人」が実社会をいろいろと批判して、「視野をひろげろ」とか、「発想を柔軟にせよ」とか述べているのは何とも異様な気がする。

 

5月20日
墨田トリフォニーでの新日本フィルの演奏会を聴いた。指揮はジョアン・ファレッタ(JoAnn Falletta)。Naxosの録音で認識はしていたが、生で聴くのは初めて。非常に素直な音楽性をそなえた音楽家という印象で、その指揮振りもまるで学生演奏家にたいするものであるかのように明確で丁寧なもの。そして、同時に、男性指揮者からは聴いたことのない、聴衆をホロリとさせるような穏やかな優しさを音に息づかせることができる指揮者でもある。「男性」「女性」という括りで芸術家を区別することは嫌いだが、確かに才能ある女性指揮者の活躍で音楽界にもいい影響が出てくるのではないかと思う。
今日の収穫は、何よりも冒頭のバーバーの交響曲第1番である。少しウォルトンの交響曲第1番を想起させられたが、あの魅力的な作品を少しコンパクトにした作品といえばいいだろうか……。
次の山下 洋輔をソリストに迎えたガーシュウィンのピアノ協奏曲は全くの期待外れ。しばらくまえに東京藝術大学の卒業者演奏会で同曲が演奏されたが、そのあしもとにも及ばない。端的に言えば、このピアニストはこうした舞台で勝負できる人ではないということだ。あの魅力的な作品が、ピアニストの自己陶酔に弄ばれると、これほどまでに退屈な作品に変わってしまうということを示した演奏といえるだろう。新日本フィルハーモニーが素晴しいだけに非常に残念な気持ちにさせられた。聴衆は熱狂的に称賛の声援を送っていたが、あんな演奏に本当に感動したのだろうか……?
後半はAaron Jay Kernisという作曲家の Musica Celestisという静謐な作品があり、そして、コープランドの「アパラチアの春」が続いた。普段はコープランドの作品を聴こうと思うことはほとんどないが、こうしてあらためてじっくりと耳を澄ませてみると、日常の中に息づく人間の素朴なよろこびに寄り添ういい音楽だと思う。演奏も、過剰な演出をくわえることなく、音楽の自然な魅力を浮かび上がらせるもので、深く共感した。

 

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