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人生の達人の筆による作品

今日は墨田トリフォニーで新日本フィルハーモニーの新シーズン幕開けの演奏会を聴いてきた。
客席は満席に近い状態。
曲目は全てリヒャルト・シュトラウスの作品だが、個人的には、相性の悪い作曲である。
これまで長く音楽を聴いてきて、ごくごく一部を除いて、ほとんど共感を覚えることがなかった。
しかし、今日の演奏会を聴いて、この作曲家に少し近づくことができたのではないかと感じている。
正直なところ、『ドン・ファン』や『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』等の交響詩は途轍もなくつまらない作品だと思っている。
西洋音楽の管弦楽法の最高の会得者がその能力をフルに動員して造りだした凡作――というのが率直な見解である。
しかし、いっぽうで、「オーボエ協奏曲」のように、正に人生の達人の筆によるものとしか形容しようのない窮極的な作品も生みだしている。
実際、今日の演奏を聴いて、「これはこの世の果実をあじわいつくした人間の真に充足した心の中に生まれた幸福な悟りに裏付けられた作品なのだ」という確信をあらたにした。
モーツァルトの作品とくらべると、無暗に音の数が多く、また、ときに凡庸さが顔を出すと共に漠然とした気怠さと退屈さを感じさせるのだが、それさえもが作曲家の深い悟りの中に大らかに抱擁されてしまう。
作品には一面に白い花々が咲き乱れているような純白な至福の世界が息づいている。
この作曲家が到達したこうした境地を踏まえて、あらためて「凡庸」「退屈」な交響詩の諸作品を聴いてみると、これまでとは異なる聴き方ができるような気がする。
これほどまでに卓越した作曲家が、その稀有の才能を投じて、そうした作品を書いたということの中に西洋音楽の不思議な奥深さを感じることができると思うのだ。
そして、今日、最後に演奏された『死と変容』は、西洋音楽の極致を体験させてくれるような窮極的な演奏といえるものだった。
演奏会前半は、オーケストラも少々のりきらない印象だったが、後半はエンジンが掛ってきて、この『死と変容』では正に最高の音楽芸術を奏でていた。
特に作品の結末の「魂の救済と浄化」の箇所においては、あまりの美しさにただただ圧倒され聴き惚れるしかなく、そうした稀有の瞬間を体験できることに胸の奥深くから熱く静かなよろこびが沸き上がってきた。
それにしても、あらためて上岡 敏之という指揮者の芸術性の素晴らしさに驚嘆する。
また、その指揮姿そのものが芸術表現になっていて、その舞台上の動作を眺めているだけで、そこで表現されている音楽の意味がビシビシと伝わってくる。
新日本フィルハーモニーの状態も良く、もちろんそれなりに小さな事故はあったが、演奏会をとおして一貫して決して絶叫することのない上品・上質な音楽を奏でていた。
こうした作品の場合、たとえばカラヤンの演奏に典型的に診られるように、オーケストラを極限まで喚かせて、騒音とさえいえるような大音量を響かせることに終始してしまう演奏があるが、上岡率いる新日本フィルハーモニーは、常に余力を残した音響を武器にして、そこに生まれる「余白の美」とでもいえるもので聴衆を陶然とさせていた。
明日はさらに優れた演奏をするはずなので、迷っている方がおられたら、錦糸町まで出かけられるといいだろう(券が残っているかは不明だが……)。

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