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雑感 - 武蔵野音楽大学のオーケストラの演奏など

9月19日
東京芸術劇場で武蔵野音楽大学のオーケストラの演奏を聴いた。同僚の御子息が舞台に昇るということもあり、仲間を誘って聴きにきた。
前半は舞台を前にして1階の左側の席で聴いたのだが、目の前にあるバイオリンをはじめとする弦セクションが美しいことに先ず心を打たれた。
「エグモント」序曲は、ベートーヴェンという作曲家の本質を簡潔に抽出したような作品だが、その魅力がありのままにこちらに迫ってきて、思わず涙ぐんでしまった。ただ、後半の盛り上がる肝心なところで、ホルンのミスが目立ってしまい、興醒めしてしまった。音程をとるのが難しい楽器であることは承知をしているが、ここぞという重要なところであそこまえ明らかなミスを繰り返してしまうと、それまでの緊張感が一挙に消え失せてしまう。これは非常に残念だった。
2曲目のピアノ協奏曲第4番は実に安定した演奏で、演奏者のことを忘れて、曲そのものの魅力に浸ることができた。大家の演奏を聴くと滋味に溢れた深遠な作品であることが前面に押しだされてくるが、今日はあらためてこの作品が青年の筆によるものであることをおしえられた。
たとえば、作曲家は、第2楽章で深い深淵を覗き見るにもかかわらず、それにつづく第3楽章では、あたかもその経験を忘れ去ろうとするかのように、漲るエネルギーで自己を奮い立たせて飛翔していこうとする。こうしたところなど、正に青年の精神そのものなのではないかと思う。結局、老いを迎えると共に作曲家は若い頃に垣間見た深淵から逃れられなくなるわけだが、少なくともこの作品には、精神力で自己の内に潜む深淵を覆い隠せるだけの充実したエネルギーを有していた頃だからこそ書ける儚い魅力が息づいている。そんなことを今日の演奏はおしえてくれた。
ピアノ独奏をした大竹 千寛さんは、終始丁寧で気品のある演奏を展開していたが、特に第2楽章では、もっともっと背筋が寒くなるような寂寥を聴かせてほしいと思わせることもあり、その意味では、少し欲求不満が残った。ただし、少なくとも、この作品が充実度において第5番よりも優れていることに気づかせてくれる秀逸な演奏ではあったと思う。
後半は2階席の中央に移動して聴いた。前半の隣の席の客が演奏中ずっと大きなイビキを掻いていて煩いので(何のために演奏会に来ているのだろう!!)、運営者に相談したところ、快く対応してくれた。
後半の「幻想交響曲」はオーケストラも好調で、終始この異形の作品が真に傑作であることを痛感させてくれる名演奏だった。あらためてこうして聴いてみると、ベルリオーズという作曲家が――精神病を患っていたのではないかと思われるくらいに――実に特異な感性をそなえた作曲家であったことを実感させられる。第1楽章の後半では、躁状態の極致ではないかと感じられるほどの大音量の渦にわれわれを巻き込み、眩暈を覚えさせる。また、第3楽章では、幸福の只中に忍び寄る不安を音化するその見事な作曲技術にわれわれを惚れ惚れさせる。
この作品は、ベートーヴェンの没後、それほど時間を経ることなく発表されたということだが、そこには同じように青年の苦悩が表現されているものの、その表現形態があまりにも異質のものに変化していることに驚愕をすると共にこの作曲家の天才に畏怖を覚える。現代を生きるわれわれは苦悩を経験するときにベートーヴェン的な感性もベルリオーズ的な感性も自己の内に持ちながらそれらを経験するわけだが、このふたりの作曲家をこうして並べて聴くと、その質的な違いが途轍もなく大きいことにあらためて驚かされる。
ところで、今日の白眉は、第5楽章と第6楽章であった。非の打ちどころのない完璧な演奏といえる演奏で、2階中央席で聴いていて、巨大な音が色彩感と立体感を失うことなくこちらに届いてくるその体験は至福の瞬間だった。
指揮の角田 鋼亮さんの演奏には初めて接するが、その指揮ぶりを眺めていても、音楽の意味を実に的確に演奏者に伝わっていることが感じられた。特に「幻想交響曲」では、音楽が一瞬も機械的になるところがなく、常に繊細さ失うことのない迫力を生みだしていた。

 

9月23日
久しぶりのサントリー・ホール。あらためていいホールだと思った。都内の他の名ホールとくらべて音がそれほど混じ合うことなく、壮絶さを失わないままで聴こえてくる。ひとつひとつの音の粒としての美しさが味わえるのである。その意味では、今日の「わが祖国」のような外向的な作品との相性は抜群である。こういう会場で聴くと、新日本フィルハーモニーの金管群の輝かしくも力強い魅力が堪能できる。その点では、墨田トリフォニー以上のホールといえるのではないか……。
スメタナの『我が祖国』の全曲を生で聴いたのは初めてのことだ。
個人的には、第1曲と第2曲は素晴らしいと思うが、その後の曲にはそれほど惹かれない。今日の素晴らしい演奏を聴いても、その気持ちに変わりはない。
特に第3曲以降は、接続曲的に構成された物語が、大編成のオーケストラの外向的な豪奢な響きで語られていくが、内省的な要素が希薄なので。徐々に飽きを生じさせる。
しかし、こども向けの教科書で紹介されるような「モルダウ」などは、こうして優れた演奏で聴くと、あらためてその素晴らしさに圧倒される。途中の水の精霊の描写などは、その幻想的な美に陶酔させられるし、また、主題の素朴な旋律美には自然と涙腺がゆるんでくる。人間の営みというものが、常に水と隣り合わせにあることを、そして、その象徴としての河というものが、われわれの様々な感情の母胎でもあることに気づかされる。
ところで、個人的に思ったのは、特に後半の曲に描かれているように、ボヘミアの愛国心というものが、侵略や暴政にたいする抵抗という英雄的行為と密接に結びあったものであるということである。非常に素朴にそのことに新鮮な感覚を覚えた。
ところで、指揮者のペトル・アルトリヒテル(Petr Altrichter)の演奏には初めて接するが、この作品に期待される郷愁の表現に力をいれるのではなく、むしろ、この作品の交響的な特性の表現に力をいれていたと思う。実力のあるオーケストラの性能をフルに活用して、音の輪郭を際立たせた筋肉質の豪華な響きを実現していた。また、その指揮振りも実にエネルギッシュなもので、終焉後の団員の表情を眺めると、必ずしも全員が深く共感しているという雰囲気でもなかったが(終焉後にあれほどの熱狂的な聴衆の歓声を受けているにもかかわらず、冷たい顔をして舞台を降りていく奏者がいるのはどうしたことだろう……)、少なくとも演奏は実に立派なものだった。こういうところでさらに臨界を超えようとする意志と気迫が漲ると、聴衆としても嬉しいのだが……。

 

9月23日
書店で『レコード芸術』の最新号をパラパラと眺めてみたのだが、あたらしい編集者に替わり、情報誌としていっそう充実してきていると思った。批評誌なのか、情報誌なのか判然とせず、非常に中途半端な状態が続いていたが、ここにきて明確に後者であることを決意したのではないだろうか……。実際、執筆陣もその個性的な鑑識眼を売りにする人が完全に消えて、その情報収集力と勉強熱心さを売りにする解説者で構成されるようになった。雑誌の構成を観ても、これまで中心的な位置を占めていた月評の存在感が大きく減じており、また、内容も完全に批評の形態をとった宣伝文というものが大半を占めるようになった。
少なくとも、「この批評家の意見は聴いてみたい」と読者に思わせる執筆者はいなくなった。
ただ、「情報」というのは、ある程度の訓練を受けた執筆者をそろえれば、ほとんど同じような内容の常識的なものが量産・掲載されていくようになるものである。また、そうしたものがweb上にいくらでも無料で読めるような時代を迎えている中では、こうした方針の行き着くところは自己の存在意義を消すというとこになるのではないだろうか……。情報誌として充実すればするほど、存在価値が減じるという循環である。

 

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