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備忘録:第18回東京国際音楽コンクール(指揮)第二次予選第1日目


東京オペラ・シティで第18回東京国際音楽コンクール(指揮)の第二次予選第1日目を聴いた。指揮部門のコンクールを聴くのは初めてだが、「本番」に向けて音楽を完成させていく「厨房」の中を覗き見る経験は非常に勉強になる。実際、指揮者の指示を受けて、オーケストラが曲をあらためて演奏をすると、曲の意味があらたに立ちあらわれてくる瞬間を目のあたりにするのは実に興奮するものである。
今日の課題曲は下記の3曲:

  • 武満 徹:弦楽のためのレクイエム
  • バルトーク:管弦楽のための協奏曲(抜粋)
  • ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第3番(抜粋)

指揮者達はこれらの曲を合計45分の中で仕上げていくことになる。
今日の4人の指揮者はいずれも優秀で感心したが、とりわけアレクサンドル・フマラ(Alexander Humala)さんと沖澤 のどか(Nodoka Okisawa)さんの指揮振りは印象に残った。
先ず、沖澤さんだが、非常に意思疎通能力が高い。あいまいな言葉を用いずに、常に的確な言葉で職人集団としてのオーケストラに意図を伝えていく。あたえられた時間を踏まえて、その中でどこに焦点を絞り彫琢をするのか、また、どのように演奏者に指示をすれば、演奏者の納得感につながるのかということを俯瞰的にとらえているのである。端的に言えば、「実務者」としての能力が卓越しているのである。今日の演奏者の表情を眺めていても感じられたが、こういう練習をしてくれると、演奏者も気持ちいいことだろう。
いっぽう、フマラさんは芸術家としての独自の感性で勝負するタイプである。その指示はしばしば文学的なもので、また、それほど英語が得意でないためか、何をいわんとしているのか理解しにくいところがたくさんあったが、しかし、その少々混沌とした意思疎通から生みだされてくる音楽は実に感動的なものだった。とりわけ、武満の作品の練習中にあまりの美しさに思わず涙ぐんでしまったほどである。また、その指揮振りは、ほとんどバレエの動作を想起させるもので、記号としての音符と離れて、音楽の意味そのものを伝えようとしているように思われた。
これはあくまでも推測だが、斎藤 秀雄の指揮法の影響下にある日本の音楽教育では、こういう指揮法を「禁止」しているのではないかと思うのだが、こうした見事なものに触れると、きっちりとした日本人の指揮振りが事務的なものにみえてくるのも事実である。

「オーケストラは指揮者がいなくても演奏はできるものだ」としばしば言われるが、今日そのことをあらためて実感させられた(これだけ優秀なオーケストラだと、それはなおさらである)。
舞台上の指揮者を観察しながら、「ひとつの自律的な運動体として存在しているオーケストラにいかに寄り添えるのか」が先ず指揮者に問われているのだということをあらためて思い知らされた。オーケストラはひとつのシステムとして自己の内的なダイナミクスにもとづいて行動をしているので、それを「外」から変えようとしても、それはうまくいくわけはない。少なくともそのために、先ずはその「内」にはいり同化をする必要があるのだ(いわゆるautopoiesis的な視点が必要になるということだ)。そして、その練達度というのは、指揮者の「存在感」や「身体性」といわれるものに少なからずあらわれるのではないかと思うのである。次々と登壇してくる4人の指揮者のアプローチを観察していると、このあたりの差異が見えるものである。

そして、もうひとつ考えさせられたのは、「指揮者はオーケストラの成長にいかに寄与できるのか?」ということについてである。
あたえられた短い時間の中で課題曲を仕上げていくという状況は、こうしたコンクールだけでなく、定期演奏会でもそれほど変わらないだろう。そうした状況が慢性化している条件下では、本番に向けて演奏を無難にまとめあげることに意識が収斂してしまうものだが、しかし、その共同作業をとおして、真にオーケストラそのものの成長や成熟につながるものを残していけるのかという課題が常に指揮者に課されているのだろうと思う。それは単に実務者として有能なだけの指揮者にはできないものだろう。
たとえば、沖澤さんの指揮振りを観ると、圧倒的に優秀ではあるが、それだけでは真に大成できないのではないか……と思ってしまうのだ。
逆にフマラさんは不器用なところを多く残しているが、このひとにしか表現できない音楽性をそなえている。
確かに、プロの演奏者達は効率的な練習をありがたいとは思うだろうが、窮極的には、その音楽性に触れたことで自己の音楽性を進化させてくれるような刺激を求めているはずである。そうなるとただ実務者として優れているだけでは、勝負ができなくなるのではないだろうか……と思うのである。
実務者としての能力はある程度は訓練で高めることはできるだろうが、しかし、果たして独自の音楽性というのはそうそう簡単に高められるものではないはずである。
若い世代の指揮者は、そうしたものを深めることに力を注ぐべきなのではないか……。
今日の「演奏会」を聴きながら、そんな不安を漠然と感じた。

ところで、今日のオーケストラは東京フィルハーモニー交響楽団だが、英語を介しての意思疎通となる場合もあり(東欧の指揮者にとっても英語は外国語である)、必ずしも共同作業は簡単ではなかつたはずだが、指揮者の意図を懸命に汲みとろうとするその姿勢は実に素晴らしく、また、反応も俊敏なものだった。
この団体は近年実に演奏活動を展開していると噂に聞いていたが、実際、それほど容量の大きくない東京オペラ・シティには収まりきらないほどに豪華な音を響かせていた(16-17で聴いたのだが、この席で聴く限りでは、ロマン派以降の大編成の作品は、会場に音が飽和してしまい、そうとう聴きにくくなるという印象である)。

 

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