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日本音楽コンクール バイオリン部門本選を聴いて

昨日は東京オペラ・シティで日本音楽コンクールのバイオリン部門本選を聴いてきた。
個人的には、東京音楽コンクールの覇者の荒井 里桜さんと関 朋岳さんの激突となると予想して、楽しみにしていたのだが、結果は、4人の参加者の中で荒井 里桜さんがあらゆる意味で別次元の名演を展開し優勝した。
東京文化会館で聴いた荒井さんのチャイコフスキー、そして、関さんのシベリウスは共に途轍もない名演で、この二人の演奏家の存在を強烈に心に焼きつけられたものだが、いまあらためて振り返ると、あのときの演奏は彼等の演奏家としての素のままの姿を表現したものだといえると思う。
生まれながらにあたえられた彼等の存在そのものに息づく魅力が表現された演奏とでもいえるだろうか……。
また、あのときにとりあげられた作品は彼等の音楽性を直截的に表現するには打ってつけの作品でもあった。
しかし、今回とりあげられたブラームスのVn協奏曲は一筋縄ではいかない作品である。
演奏者が自己の精神を極度に高めて臨まないと作品の高い品格に届かない――そんな作品である。
実際、関さんは、作品を自己にひきよせて演奏したが、結局、作品とのあいだに齟齬を起こしてしまい、あきらかな失敗に終わってしまった。
逆に、荒井さんは、この作品の高みを仰ぎ見て、そこに自己の表現を高めていこうとする内熱する意志と情熱を漲らせて、この作品の魅力を十全にひきだすことに成功した。
また、荒井さんは、東京音楽コンクールの時とは比較にならないほどに深化を遂げていて、表現の幅を格段にひろげていた。
もともとこの演奏家には、会場の空気を一瞬にして清澄なものに変えてしまうような高音域の清冽な美音がそなわっているが、今回の演奏会では、それにくわえて、この作品に必須となる渋みのある中音域の表現力が深まり、結果として、総合的な表現力が劇的に高まっていた。
ここぞというときに繰り出される高音域の美音は、それまでの中音域の充実した音楽があるからこそ、唖然とするような喜びをあたえてくれるのである。
また、第1楽章のカデンツァ等を聴いていると、この演奏家の中に単に清潔な美しさを志向するだけではなく、逸脱を厭わずに音楽の本質を表現しようとする熾烈な意志が息づいていることが痛感された。
舞台姿も実に堂々としており、舞台人としての風格を漂わせている。
昨日の演奏を聴いている限りでは、まだまだいろいろと思考錯誤の中にあるという印象も抱かされたが、そうした精進が進み熟してくると、いっそう優れた演奏家に変貌することだろう。
いずれにしても、荒井さんが、自己の「才能」の豊かさに溺れることなく、強靭な意志をもって探求にとりくんでいける演奏者であることが確認でき、これから必ず大成していくだろうという安心感と信頼感を得られたことは、昨日の演奏会の大きな収穫であった。
逆に、関さんに関しては、自己の「音楽性」に拘泥してしまっているのだろう、作品との相性が悪いと、昨日のようにどこか齟齬を覚えさせる演奏をしてしまうところがあるようで、先行きが少々心配である。
あのシベリウスの名演で魅せた「ラプソディック」な音楽性は、全ての作品に適用できるものではないはずである(少なくとも、ブラームスはそれだけではどうにもならない)。
稀有の個性をそなえている演奏家なので、あらためて古典を演奏するということの意味を熟考するべきなのではないだろうか……素人ながら、そんな心配を覚えてしまった。

福田 麻子さん(バルトーク)と佐々木 つくしさん(チャイコフスキー)も優れた演奏をくりひろげたが(技巧的には完璧といえる)、結局、この段階ではまだ表現が一本調子のところがあり、30分をこえる大曲において聴衆を魅了するまでには至らなかった。
たとえば、バルトークは、作品の構成が独特であり、優れたプロが演奏しても散漫な印象をあたえてしまう難曲である。
福田さんは抜群の技巧と美音をそなえているので、しばらくのあいだはその魅力で聴衆を感心させるのだが、この大曲はそれだけではのりきれない。
確かに、高関 健の指揮する東京シティ・フィルハーモ二―の伴奏が驚異的に充実しているので、それを聴いているだけでじゅうぶんに愉しいのだが、聴衆としては、それに拮抗するくらいの充実をソリストに求めたくなってしまう。
また、チャイコフスキーを演奏した佐々木さんは、技術的には完全無比な演奏をくりひろげたが――また、聴衆はそれに大きな喝采を送ったが――少々厳しい言い方をすれば、それだけの演奏で終わってしまったように思う(個人的には、こういう類の「完璧な演奏」を聴いていると、寂しくなる)。
高校3年生にしてこれだけの技術を獲得していることは驚異的ではあるが、そろそろ異なる方向に探求のベクトルを向けていくべきなのではないだろうか……と思う。
技巧的な優秀さが辿りつくところは、窮極的には曲芸的な刺激でしかない。
そのようなものに才能を捧げるのは何とももったいないことで、そんなものは早いところで卒業してしまえばいい。

ところで、高関 健指揮の東京シティ・フィルの伴奏が驚異的なまでに充実していたことを記しておかなければならない。
いわゆる「コンクール」向けの無難なものではなく、芸術表現として深く突きつめようとする指揮者とオケの意志と気迫がこちらにも明確に伝わってきた。
実際、第1演奏者のブラームス作品の導入部の心の籠った「溜め」を聴いたときには思わず涙ぐんでしまうほどだった。
これほどまでに真摯な想いに支えられて演奏できたソリストの方々は何と幸せなことだろう!!
いつものことながら、次世代の演奏者にたいする在京のオーケストラの方々の溢れるような愛情にはただただ感謝の気持ちしかない。

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