<< November 2018 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 >>
<< 日本音楽コンクール バイオリン部門本選を聴いて | main | 目も眩むような清澄な音響:東京藝大シンフォニー・オーケストラ定期演奏会 >>
ボストン〜東京

Boston Symphony Hallでボストン交響楽団(Boston Symphony Orchestra・BSO)の定期演奏会を聴いてきた。指揮はアンドリス・ネルソンス(Andris Nelsons)。

https://www.bso.org/Performance/Detail/96114/

急遽ボストンに出張することになり、タイミングが合えばBSOを聴きたいと思っていたのだが、幸いにもチャイコフスキーとショスタコーヴィチを中心としたロシア・プログラムを満喫することができた。
MITに隣接する宿から、散歩がてらHarvard Bridgeを渡って会場まで歩いたのだが、酷寒の中、結局1時間程も歩くことになってしまった。「もうボストンは真冬ですよ」と同僚から警告を受けていたのだが、それを真に受けず、「東京より少し寒いくらいなのだろう」と甘くみていたのが災いした。結局、こちらで防寒具を買うはめになった。
ボックス・オフィスに辿りついて、券を求めると、何と1階席後方の席(DD3)が$10で購入できた。いわゆる「rush券」というそうなのだが、演奏会の当日に売れ残っている券を安値で売りだしているようなのだ。$50〜60くらいは覚悟していたので、これには助かった。日本でも真似をすればいいのに…… と思う。
それにしても、Boston Symphony Hallは――いい意味でも悪い意味でも――歴史を感じさせる演奏会場である。大編成のオーケストラを収容するにはあまりにも舞台は狭く、また、音響効果(残響)も実に素気ない。音響特性に優れた東京の銘会場と比べるまでもない。
また、聴衆(定期会員)の年齢層が非常に高いことに驚かされた。印象としては、平均年齢は75歳くらい。周囲を見渡すと、歩行に難儀している老人ばかりで、若い世代の聴衆がほとんどみあたらない。日本の聴衆が高齢化していることに関して、あちこちで危機が叫ばれているが、それとは別次元の過酷な現実を前にして、言葉を失った。
さらには聴衆の何とにぎやかなこと。会場の席が革張りであるために、少し姿勢を変えるだけでゴソゴソと音がするのだが、それ以外の音があちこちで絶え間なくしてくる。演奏中であるにもかかわらず、連れと話をしたり、鞄から物をとりだしたり、携帯電話の電子音がしたり……と実ににぎやかである。東京の演奏会では、これほどの騒音に曝されることはほとんどないので、まあ、新鮮といえば新鮮である。「大らか」ともいえるかもしれない。
また、面白いことに、オーケストラの団員の舞台上の振舞いも和やかである。演奏が終わり、聴衆が拍手をはじめると、あまり聴衆の方を見ずに互いにおしゃべりをはじめる。ネルソンスも、それほど生真面目に礼をしない。
何とも大らかだなあと思う。
また、休憩時間には、隣の席の客が話しかけてくる。「妻が死んで定期公演に脚を運びはじめて、もうかれこれ19年にもなるんだ」という老人が左にいる。右には、オウストラリアから移住してきたという女性の方がいて、「ほんとうはバレイが好きなのだけど、BSOも素晴らしいわ」と話しかけてくる。後方には、アジア系の若い「クラシック・オタク」の青年が座っているのだが、定期会員の老人が「若者の隣に座れるというのは何とも幸運だなあ〜」と言いながら着席している。また、もう少し後ろでは、高齢の女性が係の女性に「あの騒音を立てていた人に注意をしたら、逆に意地悪をされたの。許せない。思い知らせてやるわ」と意気込んでいる。
いやはや……。
ところで、演奏であるが、アンドリス・ネルソンスという指揮者の特性を少し理解できた気がした。Shawn Murphyの優秀録音に支えられて、このところBSOのCDは非常に好評で、それらはひととおり耳にしているのだが、こうして実際に会場で耳にしても、その印象は変わらない。
ネルソンスの指揮は、奏者を厳格に統制しようとするタイプのものではなく、むしろ、それぞれの奏者が楽器の魅力を最大限に表現できるように、構えの大きな場造りをする。そのために、それぞれの楽器は決して痩せることなく、オーケストラは全体として骨太の音響を生み出すことになる。その迫力は、在京の団体からは聞けない類のものである。
ネルソンスの音楽に寂寥感のようなものは希薄ではあるが、それと引き換えに、肉汁の滴るような充実した響きが実現されるのである。
その指揮振りは決して流麗なものではないが、聴衆に演奏者が音楽をすることの歓びを満喫していることが伝わってくる気持ちのいいものである。指揮法云々の前に、ネルソンスという指揮者が自己の音楽性に正直であることがみてとれるために、それが今後どう深化していくのかということに関して自然と期待をいだかせるのである。それは若くして交通整理術に長けてしまい、それで評価されてしまった指揮者には無い魅力である。
冒頭のAndris Dzenitisの“Mara”という作品は、1970〜1980年代にJerry Goldsmithが書いていた諸作品(例:Capricorn OneやOutland)を想起させる作品で、比較的に耳に心地のいい響きがサスペンス映画用の音楽のように続いていく。実際、何の情報もなしに、「これはJerry Goldsmithが演奏会用に書いた作品なのです」と紹介されたら、ほとんど人が素直に信じてしまうのではないだろうか……。
ショスタコーヴィチの交響曲第1番を生で聴くのは初めてのことだが、10代後半の青年が既に達人の域の達していたことを立証する恐るべき作品だと思った。対極的ともいえる様々な感情が作品の中に包含されているのはショスタコーヴィチの特徴であるが、何よりも作品に力みがなく、常に軽みが息づいていることに、ひたすら感服する。生真面目になろうとする自己を常に達観してみつめている眼差しとそこから生みだされてくる「諧謔」(ゆるみ)に世界との向き合い方そのものをおしえられる思いである。
チャイコフスキーの「くるみ割り人形」の第2幕は、ただひたすらに美しい旋律が続く、銘旋律の宝庫である。そんな耳の御馳走をいただきながら、同時に、こうした人間離れした作曲を成し遂げたチャイコフスキーという作曲家の凄さを思い知らされた。

 

 

BSOの演奏会の翌日は、ボストン美術館(Boston Museum of Fine Arts)で半日ほど過ごしてきた。
$25であれだけの規模の施設に入れるのは妥当な価格設定だと思う。
また、ロンドンの美術館は入館料を徴収しないので、会場が荒れ気味になるが、これくらい「しっかり」と徴収するのはいいことだと思う。
「美術館」という名称ではあるが、実際は、日本で言うところの「博物館」と「美術館」を合わせたもので、純粋な西洋美術作品の所蔵量はそれほど膨大なものではない(もちろん、日本の美術館とくらべると桁外れだが)。
個人的には、期待していた現代美術(Contemporary Artの2階、及び、Art of Americasの3階に所蔵)があまり面白くないことが印象的だった。
「芸術というのは、これほどまでに解釈する努力を鑑賞者に要求するものなのか……?」という素朴な疑問が沸くのである。
作品と出逢う瞬間、その作品そのものが発してくる「存在感」のようなものが希薄であると、そうした解釈をしようとする意志そのものが沸いてこないのだが、大多数の作品は、そうしたことを棚にあげて、鑑賞者に努力を求めてくるように思う。
たとえば、Stuart DavisのHot Still-Scape for Six Colors-7th Avenue Styleという作品がハイライトとして展示されていて、係の女性が作品の前で講義をしていたが、その説明があまりにも「ひとりよがり」なものに思える。
端的に言えば、作品の芸術性が問われるのではなく、それを意味づける鑑賞者のエクササイズが中心に置かれてしまっているように思うのである。
Pablo Picasso・Jackson Pollock・Georgia O'Keeffe等、有名な作家の作品が陳列されていたが、Picassoの作品を除けば、作品の圧倒的な存在感に打たれるという感覚は得られなかった。
ただし、今回はフランスの印象派の傑作が数多く展示されていて、それらには心を動かされた。
それらの作品に描かれた人間は、「個」としての個性を剥ぎとられ、純粋な人間として抽象化されていくのだが、そこには鑑賞者が共感できる普遍性が息づいている。
鑑賞者はそこに自己の人生を投影できるために、自然といろいろな情緒を味わうことができるのである。
こうした作品を眺めたあとに、現代美術の会場で、特に写真をはじめとする人物描写を眺めていると不思議なことに気づかされる。
生きている人物の写真の場合には、確かにそこに被写体の個性が刻印されているのだが、同時にそれらの個性が虚構の個性であることを実感させられる。
今日において、「個性的であること」は実質的に全ての者を呪縛する強迫観念である。
そして、人々は、好むと好まざるとにかかわらず、エネルギーを傾注して「個性的」であろうと懸命の努力を重ねる。
しかし、それらの努力は、正に外的な操作のもとに行われているのであるために、「虚ろ」なものを茫漠と伴うことになる。
それぞれの個性を並べて眺めてみると、それらがいずれも虚構性を内包していることが照明されるのである。
具体の中に息づく普遍性を暴きだすという、こうした洞察力には感心する。

 

 

帰国の前日、同僚と一緒にHarvard Squareに近くにあるジャズ・バーでライヴを聴いた。

http://www.getshowtix.com/regattabar/moreinfo.cgi?id=4008

同僚は昔ハーヴァード大学に留学していたときに、しばしばここに通って来ていたという。
東京でアマチュアのジャズのライヴは聴いたことはあるのだが、こうした本格的なプロのアーティストによるライヴを聴くのは実は初めて。
そのあまりの愉しさに圧倒された。
Gunhild Carlingはスウェーデンのアーティストで、歌だけでなく、トロンボーン、トランペット、リコーダー、バグパイプ等の楽器を次々に持ち替え、舞台の上を縦横無尽に舞いながら(ときにはタップ・ダンスをしながら)、古典作品と自作品を織り交ぜて演奏する。
その演奏を至近距離で聴く迫力は途轍もないものだ。
また、「次は何が聴きたい?」と聴衆に訊きながら、舞台を構成していくというのも、実に面白い。
90分程というそれなりに長い舞台だが、これほどまでに躍動的なパフォーマンスを、1〜2回の短い休憩を挿入するだけで、こなすパワーは凄いものである。
ところで、個人的にとりわけ印象的に感じたのは、演奏家の立ち位置が、クラシック音楽におけるそれとくらべて、大きく異なるということである。
クラシックの場合には、演奏者はまずは作品の前に謙虚になり、それに尽くすことが求められるが、ジャズの場合には、演奏行為の中心にあるのは演奏者そのものである。
そこには演奏者の徹底した自己肯定があり、それを曝け出すことが求められるように思う。
もちろん、ジャズの素人なので、全てのジャズ・アーティストがそうだと言うことはできないのだが、少なくともクラシックの世界でここまでの自己肯定・自己表現が許されるとは到底思えないのである。
そこには音楽というものにたいする質的に全く異なるアプローチがある。
そして、もうひとつ新鮮に感じたのは、ジャズという音楽の中に息づく「下降衝動」の治癒的効果である。
クラシック音楽には多かれ少なかれ超越性(上昇衝動)が息づいており、また、演奏者も自己の存在を高めてそれを表現しようとする克己のダイナミクスが働くものだが、ジャズの世界には、むしろ、積極的に下降していこうとする頽廃的な背徳的な衝動が息づいている。
いうまでもなく、上昇衝動は、ときとして、自己の人間としての「ありのまま」拒否しようとする抑圧を伴うことになるものだ。
クラシック音楽を堅苦しいものにしている要因は、ひとつにはそのあたりにありそうだが、こうした下降を積極的に受容する音楽には、そうした音楽には欠けている癒しがあることが実感される。
少なくとも、Gunhild Carlingのパフォーマンスには、その傑出した愉悦の中に諦念や自暴自棄や寂寥を潜ませるもので、個人的にはあたらしい音楽の楽しみ方をおしえてもらったような気さえしている。

 

 

ボストン出発の日は東部が嵐に見舞われて、飛行機の運航に混乱が生じ、経路や到着地が変更されたが、何とか無事に帰国できた。
24時間以上も移動をするというのは大変である。
帰国の翌日に新日本フィルハーモニーの定期公演券を買ってあったので、脚を運んだ。

 

 

すみだトリフォニーで新日本フィルハーモニーの演奏会を聴いた。

https://www.njp.or.jp/concerts/3358

演目はブラームスの協奏曲と交響曲(共に第2番)である。指揮はローレンス・フォスター(Lawrence Foster)。数多くの協奏曲の伴奏録音でしられる指揮者である。率直な印象は、実に箱庭的な音楽造りをする無個性の音楽家だな――というものである。音楽に訴求力が無く、前半はまだしも、後半は完全に退屈してしまった。もちろん、新日本フィルの上質な美音は健在で、指揮者の個性が希薄であるがゆえに、そうした美質が素のままで聞こえてくるのだが、ただ、40分に及ぶ交響曲をそれだけで聞かせるのは無理がある。終演後、団員はこの老指揮者を和気藹々に讃えていたが、果たしてこうした演奏家と共演することでオーケストラの能力が高まるのか? という疑問が沸いてくる。少なくとも、それまでになかった表現力を授けてくれる指揮者には到底思えないのである。このオーケストラのファンとして、こうした定期公演でオーケストラが自己の表現力を少しでも高めようと格闘している姿を観たいものである。音楽監督の上岡 敏之氏の音楽性があまりにも優れているので、こうして招聘される指揮者が見劣りしてしまうのは致し方ないのかもしれないが、今日の演奏会を聴いて、もう少し事務局には奮闘をしてもらいたいと思った。この素晴らしい会場でこの素晴らしいオーケストラを聴いて、こういう空虚な想いをしたのは初めてのことである。
尚、協奏曲のソリストのヨーゼフ・モーグ(Joseph Moog)は中性的な音楽を奏でるピアニストで、はじめのうちはその清潔な美音に魅惑されるが、作品の魅力を深く掘り下げてくれるものでもないので、これだけの傑作であっても、徐々に飽きてくる。
ブラームスは本質的に超越性が希薄な作曲家だと思うが、今日の演奏会のように、演奏家の個性的な魅力により、そこにあらたな価値を付与しようとする意志が弱いと、途端に凡庸な作曲家に思えてくる。

 

Trackback URL
http://norio001.integraljapan.net/trackback/291
TRACKBACK