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2018年を回顧して

年末〜年始は都内は人が減り静かになるが、そのためか、空間に漂う情念の密度も希薄になり、街を歩いていても気持ちがいい。
普段、都会は「勝ち組」になるための「成功哲学」を喧伝する宣伝に汚染され、人々の意識も自然と枯渇感と渇望感に支配されることになるが、単純に物理的にそうしたものに接触する機会が少なくなるためか、心持ち人々の意識も落ち着くようだ。
時間の流れる速度が確実に早まり、正にあっという間に2018年が過ぎたが、それなりに貴重な体験とまなびを得ることができた充実した年であった。
とりわけLectica, inc.のオンライン・トレイニングを数箇月に渡り受講できたことは、非常に貴重経験であった。
周知のように、Lectica, inc.は、Harvard Graduate School of EducationのKurt Fischer門下の研究者により創設された組織であるが、ここしばらくのあいだ、dynamic skill theoryに関するFischerの論文を読んできて、あらためてLectica, inc.の測定を受けてみると共にそれまでに仕入れた知識を整理してみたいと思っていたので、このタイミングで発達理論研究の前線にいる研究者・実践者と直接に意見交換ができたことは、非常に有益であった。
実に価値ある洞察を獲得することのできたという実感がある。
現在、日本では、ようやく本格的にロバート・キーガン(Robert Kegan)の著書が翻訳・紹介されるようになり、また、『ティール組織』(Reinventing Organization)が注目されることで、いわゆる「発達理論」にたいする関心が高まりはじめているが、実際には、そうした関心はあくまでもビジネスの領域において個人や組織の能力(生産性)を向上するための効果的な方法を求める欲求を起点としたものであるために、「発達」というものに関するとらえかたにはどうしてもバイアスが掛ることになる。
結局のところ、それは経済活動という文脈の中で人間と組織の機能(performance)を高めることに寄与する概念に堕してしまうのである(また、残念なことに、KeganやWilberも無防備に「発達すると仕事ができるようになるのです」等のそれほど根拠の無いことを言ってしまうので、そうした「誤解」を深刻化させている)。
こうした状況に少々もどかしさを覚えていたので、現在、紹介されている(Keganの理論に代表される)constructive developmental psychologyの「進化形」ともいえるdynamic skill theoryがどのように人間の発達をとらえているのかということに関して、少し勉強をしてみたいと思っていたのだ。
とりわけ、いわゆる「高次」の発達段階というものが(Keganの理論体系の中ではforth order以降の段階)どのようにとらえられているのかということに関して、あらためて「神話」と「事実」を整理しておきたいと思ったのである。
「発達」という概念を目の前に示されると、人間はどうしても「高次」の発達段階にたいしていろいろな願望を投影してしまうものである。
即ち、「高次の発達段階」に到達すると素晴らしい救済や成就が得られると夢想して、自己の内にある願望や欲望を投影するのである。
たとえば、「少しでも高次の発達段階に向けて上昇をすることができれば、経済的成功を得ることができるのだ」という「物語」を信じようとするのである。
しかし、高次の視座に立脚して発想するとは、そうした自己の姿勢や行動そのものを対象化することができるということである。
「発達」という概念を紹介されたとき、半ば自動的に「それを探求すれば、日常の経済活動の中で成功を収めていくための示唆が得られるはずだ」と発想してしまう自己の習性そのものに気づき、そうした自動反応を惹起している構造や要因について思いを馳せることができるようになるということである。
実際、今回Lectica, inc.のオンライン・トレイニングを受けて、“advanced systems thinking”といわれる比較的に高次の認知構造についてまなびを深めることができたのだが(これはKeganのfifth order、WilberのVision Logic、Frederic LalouxのTealに相当する)、それが、個人や組織の行動を無意識の内に呪縛しているこうした意識化されにくい構造を積極的に意識化しようとする思考に特徴づけられることをあらためて確認できた(そして、また、それが実際にはいかに難易度の高いものであるかも……)。
また、少し冷静に考えてみると、そうした思考をすることが、単に非常に高度の思考力を必要とするだけでなく、それを支える環境条件が必要とすることは明らかになるだろう。
端的に言えば、それは、advanced systems thinkingを実践しよういう意志があれば発揮されるものではなく、そうした思考を育成・許容・奨励する環境的な条件があるときに、はじめて可能となるものなのである。
つまり、「発達」とは、単純に特定の個人や組織を主語にして語れるものではなく、その個人や組織がある状態になるのを可能とする条件がそろうときに立ち上がる状態なのである。
それに、社会がみずからの「正統性」(legitimacy)を動揺させかねない強烈な批判精神をそなえたadvanced systems thinkingのような思考形態をそこに暮らす人々が習得することを奨励するようになるとは考えにくい。
こうしたこともあり、今日、ひろい範囲で俯瞰的な視座から社会や組織を眺め、その変化や変容を志向する発想が市民権を獲得しはじめているという意見にはにわかには信じられないのである。
むしろ、そうした概念までをも既存の制度や構造の枠組の中に吸収してしまい、結果として、その温存や強化につなげてしまうそのメカニズムそのものに注意が喚起されていないという点においては、実質的には何も変化していないのではないかと思うのである。
もしこれまでと異なることがあるとすれば、それは、そこで流通している概念が洗練されたものになっているということであり、また、その批判精神を除去して既存の制度に合うものに「再包装」する社会のスキルが向上しているということではないだろうか……。
くわえて、消費者も、しらずしらずのうちに実利主義と適応主義に深く洗脳されてしまい、そうした思想の消費の仕方にたいして違和感を抱くことができなくなっている。
非常に皮肉なことに、こうした思想がひろく受容されるようになるほど、それを受容するわれわれの「退化」が際立つことになるのである。
もちろん、全てのひとがこのような実利的な発想にもとづいて発達理論を消費しているわけではないのも事実である。
しかし、そうした人達は、往々にして、「悪とはシステムを無批判に受け容れること」を認識しており、人間の発達を社会的な成功を獲得したり、あるいは、社会的な適応を実現したりするための方法として矮小化することに違和感を覚えることができるだけの素養をそなえているように思う。
換言すれば、目の前に存在する社会を絶対化するのではなく、それを相対化して眺めるための視座を涵養してきているのである。
もちろん、そうした人達は少数派であるが、じっくりと話をすると確実に一定数存在しているのである。
先日、Integral JapanのHPにその代表的論文の翻訳を掲載したが、Susanne Cook-Greuterは、言葉遣いは異なるが、こうしたadvanced systems thinkingの俯瞰的な発想について、「ひとつひとつの具体的な事象を歴史的な視座をとおして把握する能力」として説明している。
即ち、われわれが常識として受け留めている価値観や世界観が、実は長い歴史の中では束の間のあいだ人々に信奉され、いずれは脱却・忘却されていく宿命にある「虚構」や「幻影」に過ぎないことを認識する視座をそなえている意識のありかたと説明しているのである。
今、われわれが地球規模でそうした長期的な視座を欠乏させていることは明らかであろう(そうであればこそ、「経済成長のためには原子力発電が必要なのだ」という意見が真面目に発せされるのである)。
そして、そうした虚構や幻影を現実と錯覚した群衆が多数派を占める社会においては、個人も組織も同時代の中で「常識」として流布される物語の囚人に貶められ、実質的に「飼育状態」に置かれることになる(こうした文脈の中では「支配層」と「被支配層」は収容所内の異なる役割に過ぎなくなる)。
いったんそうした物語に感染してしまえば、われわれは、社会の至るところに設置された情念や欲望を喚起する装置(例:宣伝・報道・娯楽・教育をはじめとするプロパガンダ)に安々と従属させられてしまうことになる。
それらは、われわれを絶え間の無い渇望状態や不安状態に陥らせ、われわれは情念を従属の証として差しだすことになるのである。
また、歴史を決定づけるような大きなイベント(“deep event”)においては、われわれの集合意識は瞬時に狂騒状態に陥れられ、そのエネルギーは「改革」を「戦争」はじめとする大規模な「公共事業」に動員されていくことになる。
少し醒めて同時代を眺めると、確かにわれわれは高学歴を得て幾ばくか知識を得たかもしれないが、われわれは恒常的に精神を操作される実質的な隷属状態に置かれて生きており、今も尚自らの実存的な条件については洞察を欠いたままにあるのである。
「発達」や「霊性」といわれるものは、こうした檻の中から脱出するためのものであるはずだが、実際には、それさえも人間を檻に押し込めるためのものに歪曲され、隷属状態を温存するためのもの転用にされてしまう。
この病理の根は恐ろしく深いものだ。

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