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ピエタリ・インキネン&プラハ交響楽団@サントリー・ホール

サントリー・ホールで、ピエタリ・インキネン(Pietari Inkinen)が指揮するプラハ交響楽団の演奏会を聴いてきた。
初めて生で聴くが、率直に非常にいい指揮者だと思う。
チャイコフスキーの交響曲第5番を聴いたのだが、この作品の場合、往々にして、主旋律の影に全ての声部が埋もれてしまうのだが、インキネンの指揮のもとでは、全ての声部が全体を構成する自律的な要素として光彩感と立体感を伴い鮮やかに聴こえてくる。
もしかしたら人間の人体を表面の皮膚を剥がして眺めることができたら、個々の筋肉が相互に連携しながら動くのを観察することができるのかもしれないが、今日の演奏はそんな印象をあたえられた。
こういうチャイコフスキーは初めて聴く。
どれほど音楽が沸騰しても、指揮者は常に冷静であり、われわれがこの交響曲に期待する熱く暗い情念はない。
その意味では、「今風」の音造りなのだと思うが、それでも演奏が実に魅力的に聞こえてくるのは、それが確固たる美学にもとづいて創造されていることが実感されるからであり、また、実際に生み出された音そのものに、作曲者がそこに籠めたであろう意味が素のままに息づいているからである。
渦巻く情念の代わりに、そこには精緻に設計された音響があり、それが、この聴き慣れた作品にあらたな表情をあたえ、類い稀な新鮮さを付与する。
実は、昔、大学の音楽の先生が、チャイコフスキーの管弦楽法が優れていることを強調していたのを聞いて、あまりピンとこなかったのだか、今日の素晴らしい演奏を聴いて、ようやくその意図が理解できたような気がする。
もしインキネンにその演奏にたいする思想を尋ねたら、「作曲家が楽譜に書き留めた音符の全てが聴衆に聞こえるように務めるのが、演奏家の責任だ」とあたりまえのように答えるのかもしれない。
全ての要素がオーケストラという有機体の要素として自律的に音を奏でながら、また、それらが相互に対話と協奏をしながら、全体的な音楽を立体的に構成する――もしかしたら、これこそがオーケストラを聴く醍醐味なのかもしれないが、インキネンの演奏にはそうした思想が徹底されているのである。
こういう演奏は録音で聴いても全く魅力が伝わらないのではないだろうか……。

インキネンの音楽に幽かな不満があるとすれば、それは彼の音楽が芯から燃えあがらないということである。
その眼差しは結局のところ音響として音楽に向けられているために、どうしても「作曲者の“spirit”に触れたい」という、われわれ聴衆の欲求が充たされないままに終わってしまうのである。
もちろん、そこには、それを補って余りある感覚的な悦びがあるわけだが……

プラハ交響楽団も実に充実している。
前半の協奏曲の伴奏では、インキネンは自己の個性を封印して伴奏に徹していたが、後半の交響曲では、その優れた機能性を存分に発揮させていた。
日本ではあまり知られていない団体だが、揺るぎない実力集団だと思う。
アンコールのドヴォルジャークのスラブ舞曲も感動的で、何だか涙が溢れてしまった。
人生に破れたチャイコフスキーの作品のあとに、悠久の人間の営みに根差したこうした作品を聞かせてもらうと、ほんとうに救われた気持ちになる。
満員の聴衆の喝采も凄いものだった。

尚、樫本 大進をソリストにむかえた前半のブラームスのバイオリン協奏曲だが、サントリー・ホールの1階中央席(16列の中央)には、バイオリンが単なる蚊細い音としてしか届いてこないために、全く楽しめなかった。
樫本氏の演奏を頻繁に聴いている知人も、あまりにも音に迫力が無いために首を傾げていた。
また、少し厳しい言い方をすれば、この日のソリストの演奏は、こうした音響上のハンディを補うだけの訴求力を欠いていたようにも思う。
たとえば、昨年暮れに東京オペラ・シティで聴いた、日本音楽コンクールの荒井 里桜さんの演奏とくらべても、あきらかに聴き劣りしていた(もちろん、樫本氏の解釈にくらべて、荒井氏のそれは未完成なものではあったが、ソリストとしての華の有無は如何ともしがたい)。
むしろ、樫本氏の美質が発揮されたのは、アンコールで演奏されたバッハの協奏曲で、大協奏曲のソリストとして舞台の中央にいるのではなく、室内楽的に仲間と和気藹々とアンサンブルを奏でるのが向いているように思う。
その意味では、ベルリン・フィルハーモニーのコンサート・マスターという立場は正に絶妙のものなのだろう。

 

(1月7日)

 

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