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ヤン・パスカル・トルトゥリエ指揮・新日本フィルハーモニー定期演奏会@サントリー・ホール

新日本フィルハーモニーの定期演奏会をサントリー・ホールで聴いてきた。
指揮はヤン・パスカル・トルトゥリエ(Yan Pascal Tortelier)。
Chandosに録音したCDで認識はしていたが、生で聴くのは初めてである。
曲目は、前半はショパンのピアノ協奏曲第2番、そして、後半はチャイコフスキーの交響曲第1番という実に地味なものである。
また、共に作曲者の初期の作品であるために、内容的にも随分と物足りないところがあるため、正直なところを言わせてもらえば、これを半日を割いて会場まで聴きに来るというのは、あまり気乗りのするものではない。
こうした事情を反映してか、客の入りは60%というところだろうか……。
実際、わたしも定期会員であるから来てはいるが、この曲目を見せられて、この演奏会単体に聴きに来ることはないだろう。
普段、あまり日の当たらない作品をとりあげるという姿勢はいいのだが、もうひと工夫あるといいのに……と思う。
たとえば、これに20世紀の作品を併せれば、演奏会としての印象も随分と変わってくるのではないだろうか。

ともあれ、まずあらためて新日本フィルの音の肌理の細かさに感動した。
また、客演演奏家の能力をひきだすオーケストラとしての能力が一級のものであることを確認した。
ベルリン・フィルハーモニー等のオーケストラは、客演する指揮者にたいして凄いプレッシャーを掛けて萎縮させてしまうこともしばしばあるそうだが、個人的には、オーケストラの能力のひとつには、指揮者であれ、独奏者であれ、客演演奏家を歓迎してその能力を最大限にひきだすことにあるのではないかという気がする。
結局のところ、演奏者の使命とは、その日の演奏会の聴衆に感動をあたえることであり、演奏者間の軋轢を見せつけることではないはずである(また、もしそれほど受け容れ難い演奏者であれば、そもそも招聘しなければいいのである)。
そうした意味では、そうした変なプライドに感染した団体とくらべて、新日本フィルは音楽家としての使命に忠実であるように思う。
定期演奏会で客演演奏家がなんとも嬉しそうに演奏している姿を目にすると、そのことを実感する。
個々のセクションも充実しており、ショパンの協奏曲の冒頭のニュアンスに溢れた弦合奏を聴くだけで、自然と涙が流れてきたし、また、後半の交響曲の終楽章において発揮された金管を中心にした高貴でありながら力強い合奏力には感銘を受けた。

ショパンのピアノ協奏曲は好んで聴く作品ではなく、また、それほど期待をしていなかったのだが、正直これほどの感動をあたえられるとは思わなかった。
今回、非常に強く印象づけられたのは、それがまるで葬送の音楽のように聴こえてくるということであった。
作品解説を読むと、この作品は作曲家がこれから世に出ていこうとしていた時期に書かれたものだということだが――少し穿った発想かもしれないが――結局のところ、それは、作曲者が自己の才能を受け留めて生きていこうとする決意の時期に書かれた作品ということができるのではないかと思う。
しかし、才能とは祝福であると共にその個人の終焉(demise)そのものに連なる宿命を宿してもいる。
才能はその人間の存在を呪縛し「自由」を奪う「呪い」ともいえる。
そして、それは個人の存在を最期の瞬間に向けて消耗(consume)していくことになるのである。
それを受容するときに人間は自己を鎖に繋ぐことになるのだと思う。
この作品の仄暗いロマンティシズムの中には幽かな死臭が漂うのを感じながら、こんなことを考えていた。
尚、ソリストとして登場したクシシュトフ・ヤブウォンスキ(Krzysztof Jablonski)の演奏も申し分のないものだった。
今日流行している粒のそろった清澄なショパンではなく、まさにこうした作品の本質に寄り添った誠実な演奏だと思った。

後半のチャイコフスキーの交響曲第1番は、作曲家20代半ばの作品であるが、「胡桃割人形」をはじめとする後年の作品を特徴づける色彩的なファンタジーに溢れた佳作である。
ただし、全体としては訴求力が弱く、非常に豪華な管弦楽法が駆使されるが、45分という時間を集中して聴くのは骨が折れる。
演奏がいかに優れていても、作品そのもの内容的な弱さを克服することは難しい。
ただ、この少々躁鬱的ではあるが、総じて幸福感に溢れた作品に耳を傾けながら、後年、この作曲家が『悲愴』のような交響曲を書かなければならなかったことを思い、何とも可哀想に思えてきた。

ところで、後半は、同列の男性客が指揮をはじめてしまい、その少々病的な仕草が気になり、演奏に集中しきれなかった。
何とも迷惑なので、サントリー・ホールに御願いして、「近隣の客の迷惑になりますので、演奏中は指揮はしないでください。誰もあなたの指揮を観にきているわけではありません」というアナウンスをしてもらおうかと思う(笑)。

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