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優秀な人材が飛躍するために必要となるもの

4月19日に奏楽堂で開催された東京藝術大学新卒業生紹介演奏会を聴いてきた。
毎年、非常にたのしみにしている演奏会なのだが、今年は総じて低調な印象を受けた。
もちろん、ソリストの演奏は惚れ惚れとする美音に彩られた見事なものなのだが、普段、国内のコンクールの本選等で同世代の優秀な演奏者の壮絶な演奏に触れていると、「美しい」だけに留まらないものを求めたくなる(あるいは、少なくともそうしたものを志向する気迫を求めたくなる)。
そうした意味では、今年の演奏会は残念ながら優等生的な演奏で占めていたように思う。
もちろん、そうはいっても、聴くべきものがあったのも間違いないところで、たとえば、マルティヌーのオーボエ協奏曲を吹いた山田 涼子さんの演奏には、深く熱い追及があり、大きな感動をあたえられた。
また、プロコフィエフのピアノ協奏曲を弾いた京増 修史さんの美音にも非常に耳を奪われた。ただし、この作品の場合には、どれほどの美音を奏でたとしても、それだけでは御しきれない奇怪性(グロテスクさ)があり、演奏が作品のそうした側面に光をあてようとしないために、徐々に飽きを生じさせてしまう。
チャイコフスキーの協奏曲を演奏した栗原 壱成さんは、積極的に個性的な表現を希求していたようにみえたが、どういうわけか心(存在)の深いところで制限を掛かっているように感じられ、それがそうした意図を阻害しているように思われた。
そのために、たとえば、本来であれは居ても立ってもいられないほどの興奮をもたらすはずの第3楽章が、全くのりきれないものに終わってしまう。
端的に言えば、自己の中の根源的(それは「動物的」と言ってもいいと思う)なものにつながり、それを素直に表現してもいいのではないかと思うのだ。
指揮者として登場した神成 大輝さんは、シベリウスの交響曲第7番という難曲をとりあげたが、正直、この選曲には無理があったように思う。
しばらくまえにハンヌ・リントゥ & 新日本フィルハーモニーの超絶的な名演奏を聴いており、そのときの記憶が生々しく残っているので、酷なのではあるが、藝大フィルハーモニアの非常に献身的な演奏を得ても、この作品に籠められた深い叡智や洞察は全く届いてこなかった。
自作を発表した小野田 健太さんの作品に関しては、美しい旋律を奏でるピアノとそれと対比するように実験的な響きを生み出す管弦楽の対話が興味深く、比較的に好感を抱いたが、それよりも、この作品をとおしていわゆる「現代音楽」の混迷ぶりが透けて観えてしまい、こういう作品を優秀な若者に創るように指導をする今日の作曲科の価値観・世界観そのものに白けてしまった。
そもそもどういう人達を聴衆として設定して創作活動にとりくんでいるのだろう……?

というわけで、この日は、苦労して日程調整をしてまでして聴きに来たのだが、少々期待外れに終わった。
ここで云わんとしているのは、出演者の個性が乏しいということではない。
そもそも個人的には「個性」という概念を信じていないし、もしそういうものがあるとしても、それは意図的に発揮しようとして発揮されるものではなく、その演奏者の自然な演奏姿の中に他者が見出すものに過ぎない。
むしろ、ここで云わんとしているのは、本質的に自己の存在に付与されている「資産」に繋がれていないがゆえに、どれほど強靭な意志と優秀な能力を発揮して自己陶冶しても、表現が十全なものになりきれないのではないかということだ。
とりわけ、理知の対極にあるもの――それは「根源的」・「動物的」・「感覚的」等の言葉で示されるが、決して浅薄なものではなく、深い叡智を息づかせているものである――に繋がれることは、とりわけ重要になるはずなのだが、果たしてそうした観点での教育が行われているのだろうか……? という疑念が沸いてくるのだ。
思想家ケン・ウィルバー(Ken Wilber)の言葉を借りれば、それは「心と身を統合する」(body-mind integration)を実現するということになるのだろうが、そうしたプロセスを進めることができれば、これまでに蓄積してきたものが豊饒であるがゆえに、類稀な成果をもたらすはずである。
しかし、そのためには、これまでに追求してきた探求の方向性の中には――換言すれば、これまでの探求を規定した枠組の中には――真に求める「解」が無いことを認識する必要がある。
優秀な人材と出逢うときにしばしば思うのは、それまでにとりくんできた精進が正しいものであるがゆえに――今、享受している優秀さはそのことを証明している――次の次元に飛躍するために必要となる「幻滅」を経験するための「機会」と「能力」が非常に重要となるということである。
外野からの勝手な意見に過ぎないが、彼等の輝くような才能をみると、そうした幸運にひとりでも多くが見舞われることを願ってやまない。

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