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「大きな物語」は失われたのか?

Zachary SteinのEducation in a Time between worldsを読み進めている。
Introductionは、思想家ケン・ウィルバーのインテグラル理論の概要と意義を紹介しながら、同時に、現代においてなぜこうしたメタ理論が求められているのかということについて解説をしている。
個人的に「なるほど」と納得したのは下記の分析である:

 

いわゆるポスト・モダンの世界においては、「大きな物語」(meta-narrative)が失われてしまったと言われるが、それでは果たして人々はそうした物語無しに生きているのか? というと必ずしもそうではない。
実情は、大きな物語を構築しようとする社会の意図的な営みが失われた結果、defaultとして誰もが容易に合意できる大きな物語が信奉されるようになっているのである。
即ち、知的な努力無しに簡単に理解できる物語が信奉されるようになっているのである。
いうまでもなく、それは「質」よりも「量」に注目する物語である。
「質」(例:何を真として、何を善として、何を美として追い求めるのか?)について考えるためには知性が必要になるが、「量」に関して考えるためには、事の大小を図ることができればいい。
100円よりも10000円の方がいいという判断ができさえすればいいのである。
正にこれこそウィルバーのいう「フラットランド」(Flatland)的な価値観に支配された思考ということになるが、思考をすることに怠惰になった途端、こうした最大公約数の人々が容易に理解できる低劣な物語が静かに「大きな物語」としての市民権を得て、社会を支配するようになるのである。
妥当性を喪失した既存の物語を否定(脱構築)することは必要なことであるが、それが結果として生み出す「価値の欠如」が、こうした最も低劣な物語に強奪されてしまうことになるというメカニズムについて、脱構築という行為に夢中になりすぎた現代人は気づくべきであろう。

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