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上昇と下降

今日の成人教育において――とりわけ、企業を舞台にした成人教育において――関係者は、人間の成長というものを上昇的な文脈の中でとらえることを常に求められることになる。
そこでは、成長というものが生老病死に象徴される衰退の現実を受容する中で進展することが忘れられ――正確には拒否・拒絶されというほうがいいだろう――さらなる高みをめざして上昇していくための能力を高めていくプロセスとして理解されるのである。
端的に言えば、そこでは、人間の知識や能力というものが、世界を操作するための技術的・科学的なものに矮小化されてしまい、人間の全体性の中に包含されている倫理意識や美意識といった質的なものが排除されてしまう。
たとえば、そこでは優しいことよりも、生産的であることが評価されるのである。
この瞬間、人間は機能的な存在に矮小化され、深みを剥奪されることになる。
実際、今日、「リーダー」として崇められている人達の大多数がこうした機能的な存在としての性能や機能をそなえているだけで、そこに「深み」を全く感じさせないのは、正にこうした時代の倒錯がそこに反映されているからである。
下降することが重要な能力として認められ、上昇のみに邁進するのではなく、それを体現している人間こそが真に成熟した人間であるという感覚が失われていることの貧困を日々痛感するが、こうした問題は時代を支配する「大きな物語」(meta-narrative)そのものが内包する倒錯に起因するものであるために、大多数の人達にはそもそも問題として認識されにくい。
とりわけ、大きな物語に呪縛されることなく、自由に生きることができているという確信を抱いている人間ほど、大きな物語が脱構築された空間に静かに別の大きな物語が侵入して、自己の意識と存在を深く呪縛していることに気づかない。
また、今日、至るところで「内省」の重要性が叫ばれるが、こうした「物語」は単に目を閉じて自己の内を覗き込むことで認識されるものではなく、それを対象化するための思考上の方法を用いなければ、認識されないものである。
たとえば、巷では“double-loop learning”や“triple-loop learning”等の言葉で内省の方法が伝授されているが、それは必ずしも時代や社会を批判的に検証するための視座の確立に至らないのである。
それらはあくまでも「上昇」の文脈の中でより優れた方法を見出すための行為に過ぎないのである。
確かに、インテグラル理論は、批判的な検証にも複数の方法があることを認め、それらを並行して実践することを求めるので(異なる象限に立脚した検証)、こうした限定的な内省に依存する思考を克服するための機会はあたえてくれる。
しかし、われわれはまたこの理論が必ずしも常にそのように用いられるわけではないこともたびたび目撃している。
その意味では、インテグラル理論に限らず、「この理論や枠組を用いれば、それで全てはうまくいくはずだ」というようなものは無いのかもしれない。
そうしたメタ的な視座を得ようとするためには、意識や存在の深いところでそれを真に希求する力が働く必要があるのだろう。

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