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『インテグラル理論』出版に寄せて

先日、ケン・ウィルバー(Ken Wilber)の“Theory of Everything”が大幅な改翻訳のうえ、『インテグラル理論』として日本能率協会マネジメントセンターより出版された。

 


https://pub.jmam.co.jp/book/b454124.html

 

先日、本書を担当された編集者の方と御会いしたときに御聞きしたところでは、売り上げも順調ということで、何よりである。
2005年代初頭に、ウィルバーの思想やロバート・キーガン(Robert Kegan)等の発達理論を紹介しようとしたときには、極々少数の人を除いて、全く受け容れられなかったが、この15年程のあいだに市場の状況が確実に変化したということなのだろう。
欧米でウィルバーの思想にたいする関心が高まったのは、
Sex, Ecology, Spiritualityが出版された1995年頃のことだが、それとは異なる形態であるとはいえ、こういう類の思想にたいする興味・関心が日本でもある程度の醸成されてきているのである。
これは素朴に非常に嬉しいことである。
今回の再翻訳にさいしては少しだけ支援をさせていただいたこともあり、翻訳者の門林さんと監修者の加藤さんだけでなく、担当編集者の方とも意見交換をさせていただのだが、共通した認識は、まだそれほど顕著なものとはいえないが、社会の中にこうした思想にたいする感受性が芽吹きはじめているということである。
端的に言えば、いわゆる「合理性段階」(“Orange”)の枠組を脱出して、それとは質的に異なるものを希求しようとする欲求が集合規模で芽生えはじめているのである。
もちろん、そうした欲求は、基本的には、Orange的な価値観・世界観の中で設定された目的・目標を実現するために(例:経済的な成長)役に立つ「知識」や「情報」を得ようとするactionとして発露するわけだが、少なくともそこには自己の生きる文脈の中には存在しない質的に異なる世界を垣間見させてくれるものにたいする「予感」が息づいているのであり、それを次の段階にいかにつなげていくのかということが重要になる。
即ち、質的に異なる世界にたいする憧憬を、それに関する知識・情報に触れることをとおして、心の中に映像として思い描いたあとに、それを実現するための具体的な実践に定着させる必要があるのである。
実際、編集者の御話しでは、読者の中には、単に書籍を読了するところで終わりにするのではなく、その次の段階に進むための道を模索している方々が多数いるというということなので、正に読者層の中に合理性段階を特徴づける「責任能力」(agency)がひろく定着しているということなのだろう(こうした条件が整っていないと、知識や情報は熱心に消費されるだけで終わってしまう)。

いっぽう、今後のインテグラル思想に関する理解を深めていくうえで、読者が注意をしなければならないのは、そこで言われているのは、そこで示されていることが本質的に変容(transformation)を不可欠の要素とするものであるということだ。
現在設定している目的・目標を実現・達成するためにあたらしい知識や情報を収集して工夫を重ねることが合理性段階の行動論理であるとするならば(single-loop learning)、前期システム思考(“Green”)、及び、後期システム思考(“Teal”)段階に意識を深めていくことは、とりもなおさず、現在、心の中に描いている目的・目標そのものを再検討する思考を獲得するということである(double-loop learning・triple-loop learning)。
それは、そうした目的・目標を設定した自己の思考や発想そのものに疑問を投げかけることであり、また、目的・目標を設定してそれに向けて効果的・効率的に努力をしていくという合理的な精神そのものに批判的になれるということである。
即ち、現代社会において「生産的」であるための条件としてひろく推奨される行動論理そのものが実は特定の時代的・社会的な文脈の中で真実として信奉されている「虚構」に過ぎないことに気づくことができるようになるのである。
深い内省を恒常的に行いながら、自己の思考や行動の背後に存在する「前提」や「物語」や「枠組」を問う姿勢こそは、正に自己変容型のものといえるが、当然のことながら、それは生活にたしかな方向性をあたえてくれた基盤を積極的に崩そうとする「破壊性」を内包したものであるために、往々にして、精神的な危機を伴うことになる。
システム思考段階(“Green”〜“Teal”)が実存的段階と形容される所以は正にここにあるのである。
また、こうした段階について研究を重ねたエイブラハム・マズロー(Abraham Maslow)は、こうした意識を自己実現欲求に支えられた段階と説明しているが、ここで注意すべきは、そこでいう「自己実現」とは、同時代に流布している価値観・世界観を前提として、その枠組の中で設定した目的・目標ではなく、そうした時代的な呪縛をこえるための拠所を自己の存在の内に求め探求した末に「発見」された価値や構想や直感を実現化しようとする営みであるということだ。
また、こうした自己探求に長期的にとりくんだ者であれば認識しているように、そうした価値や構想や直感は実は当事者が自由に選べるものではなく、往々にして、「宿命」のように自己の存在に刻印されているものなのである。
「自己実現」という言葉で意味されているのは、実は「世界」や「宇宙」が自己の存在の中に既に付与しているものを受容して、それに声をあたえることなのである。
それは合理性段階の目的や目標の設定とは大きく異なり、「この時代や社会の中でどのように評価されるのか」「この時代や社会の中でどのような利益をもたらすのか」等の「実利的」な関心を脇に置いて、自己の宿命を生きることを決意するということである(実際、それは同時代に生きる人々が真実として信奉する価値や物語に反旗を翻すことを当事者に強いることになる)。
正に「自己実現とは自己中心性が小さくなることである」というウィルバーの至言が示唆するように、それは自己の実存的条件の前に首を下げることなのである。
正にそうであるから、自己実現は危険を伴うのであり、それゆえにマズローは「自己実現段階に到達している人達は、しばしば、周囲の攻撃の対象にならないように注意をして慎重に振る舞う術を有している」という旨の発言をしているのである。

こうしたことをみるだけでも、実際にシステム思考段階(“Green”〜“Teal”)の意識を獲得することが――それに関する知識や情報を得るだけではなく――いかに難易度の高いものであるかということが窺い知れるだろう。
但し、ここで思い出すべきは、個人の意識が発達段階的な変容をひとつ実現するために、たとえどれほどの好条件が整ったとしても、少なくとも5年程の時間が必要となるというキーガンの発言である。
また、ウィルバーはその著作の中で人類が歴史的に経験した意識の進化の過程について俯瞰的な解説をこころみているが、高次の意識が集合規模で共有されるようになるためには数世紀という時間が必要となるものである。
たとえば、もし人類がシステム思考段階(“Green”〜“Teal”)の意識を集合規模で確立することができるとすれば――もしそれだけの時間が残されていればということだが――それは数百年後のことだろう。
今日の人類社会は、表面的には合理性の衣を纏ってはいるが、その本質は極々少数の特権階級が地球の富の大半を簒奪・占有する「衝動型段階」(Red)〜「順応型段階」(Blue)の行動論理の支配下で営まれているというものである。
そうした状況を的確に理解することなく、“Green”〜“Teal”の確立をめざしても、それはあまりにも夢想的な発想といえる。
それは知的遊戯としては面白いものかもしれないが、所詮はそれだけのものでしかない。

われわれが必要としているのは、システム思考段階(“Green”〜“Teal”)の意識を集合規模で確立することではない。
もちろん、個人的にそうした意識を自己の内に涵養するための「努力」や「修行」を積むことは奨励されるべきではあるが、
同時代の社会構造が整わない中でそうしたとりくみに励むことは、他者との疎外と苦悩を生むことになり、生きることそのものを苦行に転じてしまう危険性を内包していることを心すべきであろう。
また、そうした意識をとおしてとらえた自己の真実を日常の社会生活の中で実践しようとしても、ほとんどの場合において、それは徒労に終わることになるだろう。
むしろ、われわれが必要としているのは、「衝動型段階」(Red)〜「順応型段階」(Blue)の行動論理に支配された今日の社会の中に少しでも合理的段階の精神を注入することであり、また、同時に、「フラットランド」(“flatland”)の影響下で極度に病理化をした「合理性段階」(Orange)の中に「前期システム思考段階」(Green)の知識や情報を導入することで、その治療にとりくむことである。
こうした「発達理論」にもとづいた理論に触れると、初心者は短絡的に構造的な変化を実現しようと思い込んでしまうものだが、それは社会や組織というものを操作可能な対象として単純化して見做してしまう発想にもとづいていることに注意をすべきであろう。
構造的な変容はあくまでも最終的な手段であり、そこに至るまでに、われわれは、高次の段階の発想を知識や情報として導入する等、実にたくさんのことができるのである。

 

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