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演奏会雑感

東京都交響楽団 第880回 定期演奏会
日時:2019年6月25日
場所:サントリーホール
〜作曲家ペンデレツキによる自作自演〜
https://www.tmso.or.jp/j/concert/detail/detail.php?id=3232

 

サントリーホールでクシシュトフ・ペンデレツキ&東京都交響楽団の演奏を聴いた。
今期、東京都交響楽団の定期会員券を購入した大きな理由のひとつが、この演奏会だった。
今から15年程前にペンデレツキの交響曲を店頭で耳にして、その魅力に憑りつかれて以来、いつか生で聴きたいと願っていたのだが、今回、バイオリン協奏曲を生で聴けたことがとても嬉しい。
庄司 紗矢香のソロも絶品で、この40分に及ぶ救いの無い音楽に身を浸すことができた。
庄司の演奏を生で聴くのは初めてだが、何よりも共感したのは、聴衆の喝采をもらうために演奏をしようという姿勢が全く感じられないことだ。
それよりもたいせつなことに意識を向けていることが、その演奏姿からヒシヒシと伝わってくるのだ。
それは、簡単に言えば、作品の本質に迫ることを最優先する姿勢といえるだろうか……。
結局、聴衆の反応というものがそれほどあてになるものではないことを理解しているのだろう。
そんなものよりも重要なことがあるということを理解しているのだろう。
実際、耳の肥えた聴衆は、単に興奮させてくれたり、熱狂させてくれたりする演奏を求めているのではなく、その表現の奥深さや崇高さに畏怖の念を抱かせてくれるような圧倒的な高みを湛えた演奏と出会えることを期待している。
その意味では、庄司の表現者としての在り方は正にそうした聴衆が求めるものだと思う。
後半のベートーヴェンも実にコクがある内容のギッシリ詰まった演奏だった。
ペンデレツキの指揮振りは実に素人臭いもので、実質的に都響に全面的に下駄を預けていたようにも思えたが、しかし、実際に生みだされた音は実に充実したものだった。
オーケストラのアンサンブルの強靭さも特筆すべきもので、全ての声部が常に充実して鳴り響く様に圧倒されたが、この作品を聴いて、これほどまでに凄まじい音塊を体に浴びたのは初めてのことだ。
あの片腕をほとんど同じように振るだけの指揮者の動作から演奏者が何を受けとめていたのかは検討がつかないが――何となく映像で見たマタチッチの指揮を思い出した――その「不器用」で恣意性の無い指揮からあれほどまでに感動的な音楽が生まれてくるのは何とも不思議である。
こういう演奏を聴くと、「指揮技術」を云々することの無意味さを痛感させられる。

ところで、ペンデレツキのバイオリン協奏曲だが、これは「20世紀のファシズムの記憶」の音楽などではなく、21世紀の社会のありのままの本質に霊感を得た作品である。
実際、作品を聴きながら、現代人の内面に恒常的に流れる――たとえそれが意識の閾値下にあるものだとしても――絶望感と無力感を素朴に表現しているものであることは、少し敏感な聴衆であれば、容易に察知できるだろう。
それは人間が物化され、巨大なシステムの中で資源として消費されていく狂気の世界において、その途轍もない暴力に声を上げて抗い、そして、その奔流に押し流されていく人間に襲い掛かる宿命を描いたものである。
ある意味では、ルドルフ・シュタイナーが言う「アーリマン」に支配された世界の中で高貴な人間の精神が発する悲しみと喘ぎを音楽にした作品だと思う。

 

新日本フィルハーモニー管弦楽団
#607 ジェイド
日時:2019年7月4日
場所:サントリーホール
https://www.njp.or.jp/concerts/4156

 

ブラームスの傑出した合唱曲を3つ並べた重量級プログラムで、この作曲家のファンが数多く会場に集まっていることが会場の雰囲気に触れると肌で感じられた。
また、栗友会合唱団の合唱も格別に素晴らしいもので、新日本フィルの上質な響きに支えられて鳴り響くその清聴な歌声は極上のものだった。
但し、指揮者のベルトラン・ド・ビリーは、こうした演奏者の素晴らしさを台無しにする無内容なもので、その無味無臭の解釈は、「ドイツ・レクイエム」のような傑作をもムード音楽のように響かせるものだった。
感覚としては、清涼飲料のそれを想起させるもので、まるでツルツルとした表面の上をスイスイと滑っていくよう。
音響的には極上だが、この作品に籠められた「意味」を感じさせてくれる瞬間がまるで無く、1時間以上の演奏時間中少しも心を揺さぶられることがなかった。
確かに、この作曲家の合唱作品の魅力は、今回のように、純度の高い清冽な響きをとおしてこそ開示されると思うが、これほどまでに空疎ではどうにもならない。
どんな演奏会を聴いても、ほんの少しは感動を覚えるものだが、これほどまでの無感動をあじわうのはほんとうに珍しいことだ。
舞台上のその存在感に全くオーラが無いことも気になった。「情念に曇らされないブラームス」といえば格好はいいが、わたしには単に深みを欠いた演奏でしかない。

 

国立音楽大学ブラスオルケスター 第60回定期演奏会
日時:2019年7月10日
場所:東京オペラ・シティ
https://www.kunitachi.ac.jp/event/concert/college/20190710_01.html

 

何といっても最後のバーンズの『パガニーニの主題による幻想変奏曲』に魅了された。
流石に吹奏楽の表現の可能性を知り尽くした作曲家によるもので、この日とりあげられた他の作品を圧倒していた。
正直なところ、「なぜあえて吹奏楽で演奏する必要があるのだろう?」と思わせられる作品もあり、前半は少々当惑したのだが、演奏者も尻上がりに調子を上げていき、後半はチャイコフスキーも含めて非常に充実していた。
また、随所の個人技もレベルが高く、特にバーンズの作品ではその魅力を完璧に聴衆に届けてくれた。
フランソワ・ブーランジェの指揮は基本に忠実なもので、それほど特徴のあるものではないが、若い演奏者達の力をストレイトに引き出していたように思う。
静かな喜びをあたえてくれるいい演奏会だった。

 

読売日本交響楽団 第590回定期演奏会
日時:2019年7月11日
場所:サントリーホール
https://yomikyo.or.jp/concert/2018/10/590-1.php

 

ヘンリク・ナナシという指揮者の演奏は初めて聴いたが、それなりにあじのある解釈をする音楽家という印象をあたえられた。
同郷の作曲家であるコダーイの『ガランタ舞曲』でも、全体的に整理整頓された演奏運びをしながらも、聴衆が期待する郷愁を演奏の中にしっかりと息づかせてくれる。
個人的にはもっともっと濃厚なあじつけを求めたいところだが、少なくとも、作品の魅力は十分に満喫させてくれる。
ところで、この日の最大の驚きは、リュカ・ドゥバルグをソリストに迎えて演奏されたサン=サーンスのピアノ協奏曲第5番だった。
何の期待もなしに聴きはじめたのだが、この作品がこれほどまでの魅力を秘めた作品であるとは想像もしなかった。
口ずさめるような旋律があるわけではないが、湖面を揺蕩うように美しい旋律が煌めいては消えていくその旋律に波に身を浸していると、徐々に全身が浮遊しているかのような感覚にとらわれる。
情念に深く沈潜することなく、また、深い思想や哲学を籠めているわけでもないのだが、それでいて意識の襞に優しく浸み込んでくる不思議な魅力を湛えた音楽である。
後半はバルトークの『管弦楽のための協奏曲』だが、この作品を聴くと、来るべき時代にたいする恐怖の叫びが聞こえてくる。
人間が機械に押し潰され、そして、人々は絢爛とした社会の狂騒に捕らえられ正気を失っていく……――そんな様が天才作曲家の筆で描きだされていく。
最後の盛り上がりは、狂気を歓喜と錯覚してしまい、もはやそのことも認識できなくなった「精神」のあられもない姿を見せつけられるようだ。
それは、たとえばショスタコーヴィチが交響曲第8番の最後にどれほど生々しい悲劇の記憶でさえ易々と忘却し、その「忘却」を癒しと錯覚してしまう人間の性を嘆いたのと同じ心を聞くような気がする。
但し、これはあくまでも勝手な想像ではあるが、ショスタコーヴィチが大衆を冷徹に見詰めていたのにたいして、バルトークは、そんな大衆の心情を自己の中に見出して、みずからも時代の享楽の中に身を投じてしまいたくなる誘惑に駆られていたようにも思えるのである。
この日の演奏は全体としては「可もなく不可もなく」という印象だが、第3楽章(悲歌)は作品に籠められた慟哭を実に見事に表現していて、思わず身を乗り出してしまった。

 

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