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「見る」ということについて

先日、シカゴに出張した折、業務の合間にArt Institute of Chicagoに出かけてきた。
Metraという二階建ての電車でUnion Stationまで行き、そこから10分程歩いたところにある大型美術館である。
日本には存在しない大規模の施設で、所蔵作品をじっくりと味わおうとすると、当然のことながら、1回の訪問では足りない。
時間が足りないだけでなく、集中力が続かないのである。
1日に吸収できる芸術作品の数には限りがあり、2時間程もすると、あきらかにこころが動かなくなることに気づく。
ただし、そうはいっても、その所蔵量に圧倒されるような美術館が国内に全く無いというのは何とも寂しいものだ(たとえば、先日、しばらくぶりに再開した東京都現代美術館に足を運んだのだが、展示作品のあまりの少なさにひどく落胆させられた)。

個人的には、今回、最も記憶に残ったのは印象派の所蔵作品の数々である。
優れた作品を眺めていると、そこには作者が経験したであろう風や熱が感じられる。
たとえば、真夏の中に描かれた作品の中には倦怠感や眩暈や疲労感が絵画の中に封じ込められている。
即ち、そのときの意識の状態が追体験できるのである。
そこにあるのは、対象物をいかに客観的に正確に描写するかということではなく、それを眺めている観察主体である自己そのものに意識を凝らし、その質感を作品の中に豊かに反映しようとする意図である。
視覚だけでなく、他の諸々の感覚器官をとおして人間は世界を経験をすることになる。
そして、それらの感覚が統合されて醸成される意識状態と不可分のものとして瞬間瞬間の経験が構成されることになる。
その意味では、「見る」という行為の中には常に他の感覚の存在が色濃く息づいているのである。
とりわけ、今回は触覚(肌感覚・体感覚)が視覚に及ぼす影響がいかに大きなものであるかということを痛感させられた。
真夏の海岸で岡の上から海を見渡しているとき、われわれの肌には海風があたり、また、強烈な陽の光のもと、われわれは微かな眩暈に襲われる。
そんな意識と身体の状態が作品を眺めているとありありと想像される。
「見る」という行為は常に生物的・心理的な存在をとおして行われるものであるということ――そのことをあらためて再認識させてくれた。

いっぽう、現代芸術(modern/contemporary art)に至ると、有名な作品が数多く展示されてはいるのだが、途端に展示作品の魅力が失せてしまい、完全に退屈させられてしまった。
帰国後に京都に出張した折に懇意にしている作曲家の知人と食事をしたときに、いわゆる「contemporary art」に関して議論をしたのだが、彼は興味深いことを語っていた。
「どれほど“難解”な語法を用いていたとしても、結局のところ、最も重要となるのは、その作品を創造したときに作家のこころが真に動いていたかどうかということなのです。」
確かにそのとおりだと思う。
そして、そうした評価基準に立脚すると、もしかしたら現代芸術は、全体的な傾向として、表現者が自己の意識そのものにたいする内省を極度に深めた結果、正に瞑想の実践者が経験するように、自己の内に生起する経験を十全に満喫することができない状態に陥っているのかもしれない……。
表現者が自己の「意識」や「認識」の仕組みそのものに着目して、それを徹底的に把握しようとすればするほど、そこに生まれる諸々の心の動きは対象化されてしまい、単なる現象としてしかとらえられなくなる。
彼等の関心は、むしろ、それらの現象を生起させている認識という「行為」のメカニズムを解明することに移行してしまうのである。
端的に言えば、芸術という枠組の中に留まりつつも、実質的には現象学的な探求をすることになってしまうのである。
もちろん、それは悪いことではない。
むしろ、絵画芸術の歴史的な進化の過程を表現者の内面そのものに焦点を移行させてきたプロセスとしてとらえるならば、それはむしろ当然のこととして理解することもできる。
しかし、それにしても……である。
このつまらなさは何なのだろう。
往々にして、作品に籠められている熱量があまりにも少なく、そのために作品としての存在感が決定的に希薄である。
また、多くの場合、そこにはとるにたらない作為性が表現されているだけで、「表現」の基礎にあるべき高度な技術性が欠如している。
確かに、あえて稚拙なものや醜悪なものを示すことで、芸術にたいする鑑賞者の期待や前提を揺さぶろうとするとする「表現」もありえるのだとは思うが、結局のところ、それは恐怖映画において突然暗闇から襲撃者が出てきてドキリとさせられるというような類のもので、瞬く間に飽きられてしまうものである。
正直なところ、そうした作品が真に芸術作品として成立しているようには思えないのである。

 

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