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「陰謀論」に関して

「陰謀」(conspiracy)という言葉の正確な定義は下記のようなものだという:

 

An agreement between two or more persons to engage jointly in an unlawful or criminal act
https://legal-dictionary.thefreedictionary.com/conspiracy

意訳:二人以上の人間が共同して違法・犯罪的な行為をしようと合意をすること

 

この定義にもとづけば、何等かの事件が発生したときに、複数の人間が事前に相談をして、それを実施したはずだと想定する者は誰もが陰謀論者となるということだ。
たとえば詐欺事件や銀行強盗事件が発生したときに、そこに複数の関係者が介在していて、それらの人間が合意のもとに共同してその犯罪行為を行ったはずだと想像をした時点でその人は陰謀論者となるのである。
いうまでもなく、警察等の公的機関の捜査員は、犯罪捜査を行うにあたり、多くの場合、陰謀が存在していた可能性を念頭に置いて捜査に従事することになる。
あきらかに単独者の犯罪行為である場合を除いて、複数の人間が介在していたのではないか……と想像をすることは実に自然なことであり、また、そうした可能性をあたまから排除して、全く操作をしないことは完全な怠慢とさえいえるだろう。
こうしたことを考えると、巷では「陰謀論者」という言葉が中傷的な意味合いで用いられているのは、言葉の正確な定義を蔑ろにした完全な誤用であるといえる。
結局のところ、これはあらゆる調査をするときにいえることだが、捜査をするときには、捜査員はなんらかの仮説を設定して、それにもとづいて――また、あらたな情報が得られる中でそれを適宜修正しながら――活動を進めていくことになる。
犯罪捜査に従事する人達にたいして、そうした仮説を設定するなというのは、科学者に仮説を設定するなと命じているようなもので、調査という行為そのものを不可能にしてしまう全く馬鹿げたことである。
しかし、非常に不思議なことに、今日、「陰謀」、及び、「陰謀論者」という言葉は――なんの躊躇もなく――中傷的な意味で用いられてしまっている。
そこには、基本的に人々が言葉の定義にたいして無関心であるということもあるのだろう。
しかし、そこには、また、別の重要な要因があるようにも思う。
即ち、そうした「誤用」が、往々にして、社会の中枢機関にある権力者達による共同謀議の可能性を探求しようとする人々――及び、そうした発想や論調――にたいする攻撃をするときに用いられることを踏まえると、そこにはそうした権力を象徴する存在にたいする根深い依存心があるように思えてならない。
端的に言えば、そうした権力者がそのようなことをするわけがない――あるいは、そのような可能性を想像することさえしたくない――という無防備な憧憬のようなものが存在しているように思えるのである。
もちろん、それは、正に心理学者のフロイトが指摘したように、絶対的存在にたいする畏怖の念のあらわれであり、また、そうした存在を前にしたときに意識される自身の圧倒的な矮小さと脆弱さ(powerlessness)にたいする防衛反応なのだろう。
現代社会がたとえどれほど純朴に民主主義を謳ってはいても、そこには厳然とした支配構造が存在しており、言及してはならない真実が存在していることを認識する大人の感覚が芽生えてくると、そうした防衛反応はいっそうの攻撃性を伴って表現されることになる。
「たとえそれが事実であるとしても、そのようなことには言及してはならないのだ……」という訳知り顔の主張が臆面もなく為されるのである。
「陰謀論」という言葉の誤用の問題が、単純に言葉の定義を明確化するだけでは解決できないのは、ひとつにはこのあたりの心理的な要因があるのだろう。
もちろん、それだけではなく、そうした「陰謀論」を主張する人々の中に精神的な障害を患い支離滅裂な妄想にもとづいたことを言うケースが散見されることも、こうした状況をいっそう複雑にしている(たとえば、自身の主張を論理的に説明することができないとか、あるいは、基本的な対話そのものができないとか、正にあたりまえのことができないケースがあるのである)。

ところで、今巷で「陰謀論」という言葉にたいする反応が敏感化している背景には、インターネットの登場という時代的な要因が存在している。
即ち、これまでの言論空間の中で排除されていた視点や発想がひろく流通するようになり、もはやその存在を社会が無視することができなくなったということである。
これまで、「保守 vs. 革新」等に代表される単純な枠組の中で言論活動が秩序的に展開されていた構造が崩れて、それらの文脈の中で排除されていた言説がインターネットを通して容易にアクセスできるようになる中で、過去に「事実」・「真実」として受容されていた言説――及び、その発信者達――が一気にその権威を失いはじめているのである。
インテグラル理論の枠組にもとづいて説明すれば、これは即ち社会の中で確立された構造を前提として、その中であてがわれた役割に忠実に準じて、それぞれの関係者が発言をするという、合理性段階の構造そのものがその正当性を急速に喪失しているということである。
こうした合理性段階の構造の中では、たとえば反体制的な立場で非常に批判的な発言をしているはずの関係者も、実はそうした構造そのものを批判することはあまりない。
また、あてがわれた役割上言及することが禁じられている話題にあえて言及するようなこともない。
そうした行動をすることが、同時代の言論空間において自身の居場所を無くしてしまうことになりかねないことを無意識の内に認識しているからである。
むしろ、彼等は自身の食い扶持を維持するために、そうした固定的な構造を根本的に動揺させかねない現実に関しては一致協力して言及しないようにしているようにさえ思える。
表面上たとえどれほど果敢な調査報道を展開しているように見える関係者でも、ある特定の領域には絶対に近づいてはならないという「認識」を共有して、見事に協調して口を噤んでいるという風に見受けられるのである。
むしろ、彼等の関心は、既存の構造を前提として、その中で育まれてきた消費者に向けて、その感性や欲求に合致した言説を商品として提供することに集中しているのである。
保守論壇は保守の消費者にたいして、また、革新論壇は革新の消費者にたいして、その価値観や世界観を追認する情報を的確に包装して届けることに腐心しているのである。

しかし、インターネットの登場は、こうした構造そのものを集合規模で「意識化」させてしまった。
人々は、これまで自身を啓蒙してくれるものとして信頼してきた社会の言論装置が実は膨大な事実や真実を排除するシステムとしても機能していたことに気づきはじめている。
それは人々を解放する装置ではなく、ある意味では、拘束する装置であることを認識しはじめているのである。
「事実」や「真実」といわれるものが本質的に構築されるものであるということを、そして、たとえそれがどれほど誠実な良心にもとづいて構築されたものであるとしても、社会全体を覆うタブーの感覚の前には無力であり、正にそれらの言説が善意にもとづいているがゆえに、それらのタブーを強固なものにしてしまっていることを薄々と認識しはじめているのである(高邁な精神に支えられたものとして人々に信奉される言説は、しばしば、無批判に受容されてしまうために、それが内包する「影」――例:特定の領域の事実や真実の排除や抑圧――も併せて受容されてしまうことになる)。
もちろん、こうした状況下では、あらたに市民権を得始めた言説を「フェイク・ニュース」(fake news)とラベリングして排除しようとする動きが生まれてくる。
しかし、そもそも「情報」というものが人間により創造されるものであることを人々は気づきはじめているし、また、そうした批判を展開している既存の言論装置の関係者そのものが実はこれまでにそうした虚偽の言説を振り撒いていたことが認識されているために、あまり説得力を持ち得ない(もしそれが説得力を持つ層が存在するとすれば、それは同時代の社会に適応をして、その構造の中で食い扶持を得る方途を確立した人々であるか、あるいは、先述の心理的な防衛反応を過剰に発動している人々であろう)。
「陰謀論」という言葉を駆使して、社会の“sensitive”な話題に関して大衆の思考が「危険」な方向に向かないように操作をしようという風潮も正に同じように既存の言論空間の構造を維持しようとする意図に支えられているように思える。
また、現在、一部のメディアで報じられているように、GoogleやYouTube上では、検索エンジンのアルゴリズムに修正をくわえることで、こうした危険な情報へのアクセスに歯止を掛ける施策が積極的に展開されているようである。
くわえて、いわゆる「ヘイト・スピーチ」を巡る社会的動向に象徴されるように、右・左を問わず、あらゆるところで言論活動の自主規制が強化されている。
既存の秩序が揺らぎ、その裂け目から流れ出した言論をいかに封じ込めるかということに社会の関心が過剰に向いているように思えるのである。
言論(批判的思考)には本質的に既存の秩序を動揺させる途轍もない破壊力が秘められているわけで、特定の人々の気持ちが傷付けられるからという理由でそうした自主規制が強引に推し進められれば、結局は、社会の変革力そのものを封殺することにしかならないだろう。

結局のところ、合理性段階の意識はペルソナに呪縛された意識である(合理性段階においては、ペルソナに排除・封殺された「影」を意識化して統合するためには、基本的に、診療心理士等の他者の支援が不可欠になる)。
また、今日のフラットランド(“flatland”)思想に支配された世界においては、合理性段階に重心を置く人々は、社会に適応して、そこで成功することを至上の関心事とするために、もし特定の思考や発想にアクセスすることが「社会的な信頼性」(credibility)を失わせるリスクを伴うことを認識した場合には、実利的な感性にもとづいて瞬時に思考停止するはずである。
それを検討することが実利的に意味を持つかどうかということだけが判断基準となるのである。

こうした状況を考慮すると、人類社会の言論空間が果たして合理性段階を超えたところに到達するのかという問いにたいしては、必ずしも確証は無いといえる。
「革新的」な言説は、そのためにあてがわれた箱の中で忠実に役割を果たしている範囲においては許容・奨励されるが、その法を踰えた途端に際物扱いされ「市民権」を剥奪されてしまう。
「革新的」な言説は正に既存の秩序の維持に貢献してこそ、許容されるのである。

“Post-Truth World”が到来したといわれてはいるが、実際には、人類社会の言論空間はいまだに合理性段階の枠組の中に基盤を置いており、そこに流通する物語に準じて社会の意思決定は為されている。

ある外務省幹部は言っていた。

 

「日本人の実質識字率は、5パーセントだから新聞は影響力を持たない。ワイドショーと週刊誌の中吊り広告で物事は動いていく。残念ながらそういったところだね」

 

これは、佐藤 優氏の『国家の罠:外務省のラスプーチンと呼ばれて』の中にあるくだりだが、情報の多様性が謳われている現代においても、こうした事情はそれほど変化していないのである。
インテグラル理論の枠組を引用すれば、現在、われわれは合理性段階(Orange)の呪縛を超克していくための機会を前にして、共調してその可能性に抗おうとしているのである。

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