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ある発達神学者との対話

先日、カート・フィッシャー(Kurt Fischer)の発達理論(dynamic skill theory)にもとづいて発達測定を提供しているLectica, Inc.の創設者シオ・ドウソン(Theo Dawson)博士と1時間程話しをすることができた。
Dynamic Skill Theoryに触れたのは10年程前のことであるが、修士・博士課程在学中はRobert KeganやSusanne Cook-Greuterの理論を中心に勉強していたこともあり、Dynamic Skill Theoryの革新性には深い感動を覚えたものである。
その後、仕事の関連でLectica, Incの提供する講座や測定を受けることができ、その中で多くの刺激や洞察をあたえてもらってきたのだが、実はface-to-faceでDawson博士と話しをするのは初めてのことである。
短い会話ではあったが、話題は多岐にわたり、今日の発達理論の研究をとりまく状況、発達理論を実務領域にどうように紹介・導入していくのか、また、発達理論を重要な要素として位置づけているインテグル・コミュニティの状況に関しても興味深い会話をすることができた。
個人的に特に新鮮だったのは、博士が発達という概念を非常に慎重に取り扱っていることである。
周知のように、『進化の構造』(Sex, Ecology, Spirituality)の発刊後に刊行された「入門書」の中で(Ken Wilber)は発達理論を簡略化して紹介しはじめたが、その結果として、本来であれば慎重に扱われるべきこの理論が過剰なまでに短絡的に活用されるようになったのは紛れもない事実である。
また、それと並行して、これらの理論が実用書の中で紹介されるようになる中で――たとえば、Spiral Dynamicsの発想に象徴されるように――インテグラル・コミュニティの関係者の間では安易に人間を「色」で識別することが流行してしまい、発達を巡る対話の質が劇的に落ちてしまった。
特に心理学の基礎的な訓練を受けていない者にたいして、こうした概念が不用意に紹介されることで、発達理論が「暴力的」に用いられるようになったことは非常に深刻な問題である。
くわえて、人間の「発達段階」がその行動を観察すれば――あるいは、多肢選択式の質問票に回答することで――特定できるというような発想が幅を効かせ、そうした発想にもとづいた測定がひろく販売されるようになる中で「発達段階」というものがあたかもそうした「方法」をとおして把握できるものであるかのような誤解が蔓延してしまい、また、その結果として、理論そのものにたいする信頼が著しく貶められることになった。
Dawson博士の最大の問題意識はまずはこうした状況にたいするものであるといえる。
即ち、本来であれば非常に慎重にアプローチされるべきものが、測定としての条件を満たしていない方法が流通することにより、「発達」という言葉で意味されている「現象」にたいする理解そのものが歪められてしまったのである。

こうした状況が生み出した典型的な問題のひとつが、発達を遂げることで驚異的な人間になれるかのような幻想が流布しているということだろう。
あたらしい概念が流通するときにはしばしばあることだが、多数の人々が、このなにやらあたらしい概念が人間を救済してくれるという幻想をそこに投影してしまっているのである。
極端な場合には、こうした発想に囚われてしまうと、人間がこの世界の中で生身の存在として生活をしていかなければならないことを等閑にして、発達をするということがあたかも「神」のような存在になることであるかのような幻影の中に落ち込んでしまう。
Dawson博士とこうした会話をしながら思ったのは、結局のところ、われわれが目撃しているのは、トランスヒューマニズムに代表されるように、肉体と機械を融合することで人間の進化を実現しようとする外面的なアプローチを志向する者達と人間の心理的な深化を促進することで人間の進化を実現しようとする内面的なアプローチを志向する者達がいるに過ぎないということだ。
アングルは異なるが、その「進化」を遂げると、そこには楽園が生まれる――あるいは、急速に変化をする市場に適応し成功を収めつづけるためにはそうした進化をしていかなければならない――という物語に立脚して発想しているという点ではそれほど変わらないのである。
そこにあるのは、人間というものを資源としてとらえ、その存在に意図的に介入し操作をくわえることにより、その「性能」を高めることが「楽園」につながると信じて疑わない発想である。
また、そこには、そうした進化の過程に積極的に参加をする者達だけがこの世界の中で生きていく権利を得るのだという価値観が息づいている。
当然のことながら、そうした努力をしようとしない――あるいは、そうした努力をできない――者達は実質的に生きる権利を放棄していると見なされることになる(例えば、こうした文脈においては、心身の疾患により社会の中で「生産的」に活動ができない者は生きるに価しない者と見なされることになる)。
そこには、機能的な存在として生存環境に適応することを絶対的な価値として信奉する、インテグラル理論でいうところの、典型的な「フラットランド」の病状が顕在化しているのである(具体的には、右下象限の絶対化)。
もし真に意識の進化・深化というものがあるとすれば、そうした幻影を追いかけている同時代の人類の姿を客観視できるようになるということだと思うのだが、そういう視点は全く希薄である。
非常に皮肉なことに、インテグラル理論においては、正に人間の尊厳を尊重するための概念として位置づけられている「発達」が、実際には、それと真逆の方向で用いられているのである。
もちろん、この時代に生きている以上、われわれはこうしたフラットランドの桎梏を逃れることはできない。
そこで生きていくためには、フラットランドと折り合いをつけていくことを求められるのである。
但し、そこで問題となるのは、発達に関してある程度勉強を積んできた者達までもが、「発達をすれば仕事ができるようになるのです」等と不用意に発言してしまうことである。
実際には、それは必ずしも事実ではないし、また、過去の発達心理学者達が警鐘を鳴らしてきたように、発達をするということそのものが人間の精神に大きな負担を掛けることであるし、また、その結果として、たとえ「高度」な認知構造を獲得することができたとしても、それが同時代の社会的な文脈の中で成功をもたらすとは限らない。
発達は幸福を保証するものではないのである。

このように発達理論を巡る状況は正に憂慮すべきものだといえる。
Dawson博士は、こうした状況を鑑みて、関係者が留意すべきいくつかのポイントをあげていた。

ひとつは、こうした知識を紹介すべき対象層を的確に見極めることである。
非常にあたりまえのことのように思えるが、実は非常に重要な留意点である。
垂直的な発達を扱う発達理論は、心理的な防衛を惹起しやすく、いったんそうした防衛反応が起動してしまうと、それにつづく対話はどうあがいても不毛なものにならざるをえない。
真の目的が他者の成長を支援するということにあるのならば、垂直的な発達という概念を持ち出す必要はないのである。
必要とされるのは、むしろ、あいての中に成長欲求があるのかを確認することであり、また、もしそれが確認できたのであれば、その充足を支援することである(Lecica, Inc.のVCOLはその方法論である)。
いうまでもなく、人間とは、他者が恣意的に介入して成長・発達させるべき存在ではないのである(少し想像してみれば、全ての人間に成長や発達が強制される社会は異常な社会であることが判るだろう)。

 

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