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「Green」と「Teal」の違いについて


現在、ひろく注目を集めている成人発達理論であるが、そうした文脈の中で高次の発達段階(post-conventional stages)として位置づけられる「Green」、及び、「Teal」といわれる段階の違いは非常に理解しにくいものである。
関連論文を紐解くと、共にシステム思考をその特徴とする段階であると説明されているが(前者はEarly Systems Thinking、そして、後者がAdvanced Systems Thinking)、同じ範疇にはいるものであるために、それらがどのように質的に異なるのかを問われたときに明確な回答が示されることは非常に稀である。
また、過去40年程にわたり、成人発達理論を参照して一般向けに紹介をしてきたケン・ウィルバー(Ken Wilber)の著書を見ても、両者の微妙な差異は――特に1990年代後半以降の著作に顕著であるが――過度に戯画化(単純化)されて紹介をしているために、大きな誤解を生んでいるように思われる。
共にVision Logic段階の範疇に含まれる非常に高度な認知能力を有する段階と紹介しつつも、同時にGreenの本質を歪めてその価値をあからさまに蔑む説明を繰り返すために、結果として読者にこれらの段階の本質を見失わせることになってしまっている。
ここではあらためてこれらの段階の差異を理解するためのヒントを示したいと思う。

Green:
Green段階の思考の特性を理解するためには、「弁証法」(dialectic)を思い浮かべるといいだろう。
Aという視点とBという視点が対極的なものとして存在している。そして、それぞれが独自のレンズをとおしてものごとを眺めている。それらは共に独自の角度から真実をとらえているが、同時に独自の盲点を内包している――こういう状況である。
Greenの段階においては、それぞれのレンズに意識を重ね合わせて、それが開示する真実を共感的に理解をしようとする。くわえて、それらの視点間の対話や交流を促すための仕組をデザインして、また、実際にその対話や交流を支援することで、複数の異なる真実がひとつ高いところで融合されるようにプロセスを牽引する。
Green段階においては、視点というものが「構築」されたものであることを認識できているので――しかし、そうは言っても、それぞれの関係者には自身の視点に固執せざるをえない事情があることを認識できているので――諸々の視点の中でどれが正しいのかと問うのではなく、それらの視点がどのように相補的に共存することができるのかと問うことができるのである。
Green段階においては、このような統合に向けた対話を牽引するために、関係者が対話の起点として合意することのできる構想や戦略を明示して、その文脈の中でそれぞれの視点の正当性を明確化する。そして、その上で関係者が納得性をもって他者の視点を理解して、相互理解と視点の融合に向けて主体的に前進できるように支援をしていくのである。

Teal:
Tealの段階においては、上記の弁証法的な対話を支援するだけでなく、そもそもAとBという視点が対極的なものとして設定されている状況そのものを問題視する。
たとえば、政治の領域においては、保守と革新という対立軸が設定されていて、それらの陣営が議論をする中で最終的に何等かの解決策が創出されるということになっているが、Teal段階においては、それらの立場を調停することの根本的な限界を認識することができるようになる。即ち、それらを対極的な立場として生み出している構造そのものを問題視するようになるのである(例:たとえ大変な調停作業をとおして発生している問題を解決できたとしても、そうした対極的な立場を生みだしている構造そのものが維持されている限り、同じような問題が次々と再生産されることになる)。換言すれば、Teal段階においては、問題を弁証法的な対話をとおして問題を解決しようとするのではなく、そこで対立軸そのものを生み出している「構造」や「条件」や「意図」そのものに問題意識を向けるのである。
こうした思考とは、それらの対極的な立場の関係者がどれほど対話を重ねても、いつまでも言及されずに放置される課題や問題にたいする意識を向けたり、あるいは、その対立軸を支えている構造に意識を向けたりする思考である。
実際、われわれの身近なところを見渡しても、対立軸が生じるときというのは、その共同体(組織)に何等かのストレスが掛かったときである(例:あたらしい戦略や施策を採用して、組織内で制度や方針の変更が求められる状況)。
そうしたとき、そこには関係者間の対立が生じるわけだが、Teal段階の思考を体得している者が発揮するのは、そうした状況を所与の条件として状況を解決する思考ではなく、そもそもそうした状況を生み出している原因そのものに批判的な眼差しを向けるのである。
たとえば、その原因とは、あたらしい戦略や施策が採用されたことであり、また、それが採用されるまでプロセスの在り方をあげることができるだろう。
そこで採用されている戦略や施策が真に理に適ったものでなければ、結局、そこで関係者がどれほど誠実に対話をして解決策を導きだそうとしても、それは究極的には無駄な努力となるだろう。
また、たとえそこで採用されている戦略や施策が真に理に適ったものであるとしても、それを構築する一連のプロセスが共同体(組織)の関係者の納得を得られるものでなければ、それにつづく関係者間の対話は常に不全感を内包したものとなるだろう。
往々にして、共同体(組織)の関係者は、自身がとりくんでいる対話の前提となる条件を疑うことなく、対話の中に生じる葛藤や衝突を解決しようとするが、それは実は必ずしも得策ではないのである。
もしあたられた条件そのものが非常に理不尽なもので、そこでどう足掻こうとも最終的に真に満足のいく解決策に辿り着こうないという場合には、その条件そのものを批判の対象とする必要があるのである。
それは、たとえば業界や組織の構造であり、また、少し視野を拡大して眺めてみれば、社会を支配する諸々の構造であろう(例:資本主義という構造・貨幣発行権の構造に関する洞察)。
Teal段階の意識は、同時代の中で「常識」としてひろく受容・信奉されている世界観や価値観(“pre-analytic vision”)そのものを対象化して、それがいかに人々の意識と行動を呪縛しているかということについて透徹した分析をするのである。
もし「そうしたものは、巨大な権力構造や利権構造に支えられているものであり、いかなる批判をしても変えようのないものだ……」と諦めて、そうした思索をすることを辞めているとすれば、それはTealとはいえないのである。
そうした精神的な営みを諦めた途端、人間はあたえられた価値観・世界観の檻の中で思考することしかできなくなるのである。
但し、そうした構造にたいする問題意識を抱くことができるためには、目の前に「あたりまえ」に存在する現実を相対化する――その妥当性に批判的な眼差しを向けることができる――「感覚」「思想」「構想」を有している必要があるといえる。
たとえば、発達心理学者のZachary Steinは、正にTeal段階の支視点から、著書の中で現在の教育システムにたいする批判を展開している。
具体的には、今日の教育システムを支える価値観を「human capital theory」として洞察して(人間を経済システムの中で機能を果たす資源としてとらえ、その資源の機能的能力を高めるための制度として教育を位置づける発想)、その支配の下に全ての教育的な施策が構想・実施されていることを批判的に分析しているのである。
端的に言えば、Steinは、こうした価値観が意識化され超克されなければ、その支配下でいかなる多様な施策が検討されようとも――また、それらが融合されようとも――結局のところ、それらはそうした価値観の実現に寄与するだけで終わってしまう――と指摘しているのである。
いうまでもなく、目の前の現実を支配する価値観を対象化するためには、それとは異なる価値観に支えられた社会が存在しえることを想像できる必要がある。
そして、そのためには、人間というものが同時代を支配する価値観や世界観に支配されて生きざるをえないことを認識して、そして、異なる価値観や世界観を創造的に構想する訓練を積む必要がある。
必然的にそうしたオルタナティヴな価値観や世界観を提唱する思想家の著作に触れて、それらを咀嚼して、自身の思索活動の武器とする必要があるのである。
実際のところ、Teal段階の思考ができるためには、その領域において博士課程を修了するに必要とされる水準の訓練を積んでいる必要があるといわれるのは、そうした施策をするためにどうしてもそれくらいの知的訓練が必要とされるということなのである。
くわえて、同時に重要となるのは、あたえられた価値観・世界観の中で生きる中で自己の内に芽生えた素朴な感覚をとらえ尊重することであろう。
それがいかに合理的なものとして正当化されているとしても、もし違和感が生じたとすれば、そこには何等かの形態で人間性を冒涜したり、抑圧をしたりする構造が内包されている可能性がある。
ケン・ウィルバーは、Teal段階の意識を体と心が統合される意識として説明しているが(“Centaur”)が、これは即ち思考に惑わされずに体の率直な声に耳を澄ませることができる感性の必要性を強調しているのである。

 

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