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「享楽」という叡智――不思議な演奏会


シャブリエ:狂詩曲「スペイン」 Chabrier: España, Rhapsody for Orchestra
ピアソラ:バンドネオン協奏曲* Piazzolla : Bandoneon Concerto*
ベルリオーズ:幻想交響曲 op. 14 Berlioz : Symphonie fantastique: épisode de la vie d’un artiste, op. 14

指揮:ミシェル・プラッソン(Michel Plasson)
バンドネオン:小松亮太*

https://www.njp.or.jp/concerts/8667

 

ミシェル・プラッソン(Michel Plasson)&新日本フィルハーモニー(NJP)の演奏会を墨田トリフォニーで聴いてきた。
周知のようにプラッソンには膨大な数の録音があるが、生で聴くのは初めてである。
その音楽の特徴を一言でいえば、徹底して垂直性の希薄な音楽といえるだろうか……。
総じて深刻さとは無縁の音楽で、意味を追及しようという姿勢が全く感じられないことに、個人的には、演奏中に戸惑いと退屈を覚えた。
いわゆる高い精神性のようなものを求めると肩透かしにあうことになるが、それでは、それに替わる魅力があるのかというと、実はそうでもない。
確かに、いわゆる老匠の枯れたあじわいのようなものはあるのだが、果たしてそれがこの指揮者の円熟の徴なのかというと、それほどの深いものでもないような気がする。
たとえば、後半の「幻想交響曲」の冒頭では、実に落ち着いたテンポで音楽をはじめていくが、それが単に遅いだけで、この作品のあらたな魅力を開示してくれるというところには至らない。
また、そこには作曲者の狂気に迫ろうとする姿勢があるわけでもなく、85歳の老指揮者があえてこの作品をとりあげた意図は果たしてどこにあるのだろう……と聴衆を困惑させる。
もちろん、NJPの非常に献身的な演奏に支えられて、
演奏そのものは大きな違和感を感じさせることなく壮麗に展開していくのだが、結局のところ、指揮者の中にこの作品を演奏することの必然性が無いためなのだろう、どうしても細部の詰めが甘くなり、それが演奏に雑な印象をあたえてしまう。
個人的には、3月に川崎で聴いた東京音楽大学フェスティバル・オーケストラ(指揮は小林 研一郎)の演奏の方が数段優れていたと思う。
彼等の演奏には「幻想交響曲」という作品の本質に迫ろうとする姿勢が息づいていたし、また、その作品を演奏することの必然性(意味づけ)が十全にできていたと思う。
前半のシャブリエの「スペイン」とピアソラの「バンドネオン協奏曲」に関しては、作品そのものが純粋な娯楽性で聴衆を魅了するものであるために、プラッソンの音楽性に合致していたように思う。
ただ、協奏曲のソリストを務めた小松 亮太のバンドネオンには、この作品に必要とされる哀愁や倦怠感や焦燥のようなものが希薄で、少し厳しい言い方をすれば、無菌室で純粋培養された優等生の音楽という印象が拭えなかった。
第2楽章のバンドネオンの内省や楽章の末尾にハープが奏でる祈りなどは実に素晴らしく、それなりにたのしませてはくれるのだが、作品そのものの弱さを忘れさせてくれるまでには至らなかったように思う。

今日の演奏会で最も感動したのは、アンコールとして演奏された「カルメン」の前奏曲であった。
「幻想交響曲」を演奏したあとの会場の喝采を浴びる最中、突如演奏がはじめられたこの底抜けにあかるい音楽を聴きながら、不思議なことに、思わず泪が流れてきてしまったのだが、そこでこちらの心に届いてきたのは、「そんな生真面目なことはどうでもいいのだよ……」とでも言うように全てを笑いと喜びの中に包摂していく叡智であった。
こいい意味で享楽的な音楽性こそがミシェル・プラッソンという指揮者の個性であり、そして、それがひとつの境地として表現されたのが、あのカルメンの演奏だったのだろう。

 

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