<< December 2019 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>
<< 二つのマーラー演奏会 | main |
表現意欲の欠如


11月21日
第60回 東京藝術大学シンフォニー・オーケストラ 定期演奏会 @ 奏楽堂
ベートーヴェン:三重協奏曲
ベルリオーズ:幻想交響曲
指揮:迫昭 嘉

いつものことながら、東京藝術大学の在学生のレベルの高さに感心させられる。
技術的に優秀であるだけでなく、他の音楽大学の演奏にはないどくじの品格の高さがある。
前半のベートーヴェンの三重協奏曲では伴奏の響きの充実度に驚かされたし、また、後半のベルリオーズの幻想交響曲では、冒頭の弦合奏の清澄な響きを耳にしたときには、この作品がまぎれもなく若い青年のいじらしい音楽であることを思いださせてくれた。また、交響曲の後半では、どれほど大きな音響が鳴り響いても、音楽を構成する要素が磨り潰されることなく、明確な輪郭を維持して響いてくる。その見通しの良さに感服した。

但し、「三重協奏曲」は、この作曲家としては内容的に乏しい作品であることはあきらかで、3人のソリストの部分も比較的に大人しく書かれているために、われわれが協奏曲に期待するような丁々発止としたオーケストラとのやりとりを聞くこともできない。また、3人のソリストもいわゆる「攻め」の演奏をする人達ではないので、古典的な拡張は維持されているのだが、そうした作品の弱点を補うものではなかった。

「幻想交響曲」に関しては、個人的には、特に中間の第3楽章が難しいと思っている。ここを面白く聴かせることができないと、演奏全体が弛緩してしまう。そこは指揮者の腕の魅せどころである。
そうした意味では、今日の演奏の課題は、正にここにあったと思う。指揮者の迫氏は、正攻法の解釈をする人だが、これだけ狂気を秘めた作品でありながら、臨界を超えたところに演奏者を誘おうとする表現意欲が乏しく、聴いていて、迫氏がこの作品をとおして果たして何を表現したいのかということが伝わらずに終わった。

先日のブラームスの交響曲第1番を指揮したジョルト・ナジの過剰なまでに作為的な指揮にも大いに不満を覚えたのだが、このところ指導教員達の指揮者としての不甲斐無さが目につく。
これだけたくさんの聴衆を前にして演奏する貴重な機会なのだから、舞台芸術の醍醐味を体験させてあげる「魔術」を指導者が発揮しなければ、教育をしたことにはならないのではないか……。

 

11月22日
新日本フィルハーモニー
指揮者:キンボー・イシイ
チェロ:山崎 伸子
@ 墨田トリフォニーホール

シューベルト:交響曲第1番 ニ長調 D82
チャイコフスキー:ロココ風の主題による変奏曲 op. 33
ベートーヴェン:交響曲第5番 ハ短調 op. 67 「運命」

恐ろしく熱量の低い「運命」を聴いた。
演奏会本番直前の指揮者交代もあり(当初は太田 弦が予定されていた)、少し嫌な予感がしていたのだが、これほどまでに圭角が無く、表現欲求の希薄な「運命」を初めて聴く。
この団体の上質な響きを素材にして、この傑作をどう料理するかということが、指揮者には問われるはずだが、これほどまでに問題意識が希薄だと、もう「ムード音楽」にしか聞こえない。
しばらくまえに晴海のトリトン・スクエアで東京ユヴェントス・フィルハーモニーによる同局の超絶的な名演を聴いているので、余計にそう感じるのかもしれないが、このしばらくのあいだNJPの演奏会に通いつづけて、最もつまらない演奏会だった。
前半の「ロココ風の主題による変奏曲」でソロを務めた山崎 伸子の演奏は、初めて生で聴くが、端正ではあるが、技巧的に安定性を欠き、また、全体的に響きが小ぢんまりとしていて、聴衆の心を揺さぶってくれない。
端的に言えば、音楽が舞台の上に留まってしまい、訴求力をもって客席に届いてこないのである。
たまたま昨日も奏楽堂で同じ東京芸術大学の教員をソロに迎えた「三重協奏曲」を聴いたのだが、彼等の演奏にも同じような印象を抱かされた。
少し意地悪く言えば、先生には誉められはするのだが、舞台人として要求される圧倒的な表現意欲を生々しく息づかせているかといえば、甚だ疑問があるのである。
まあ、彼等はそれでいいとしても、彼等の下で修行をしている生徒さんのことは心配になる。
但し、山崎氏がアンコールで弾いた「鳥の歌」は素晴らしいものだった。
その掠れ勝ちな音の中から、切々とした祈りの歌が確実に聞こえてきた。
いずれにしても、今日の演奏会で問題に思ったのは、21世紀の日本に生きるわれわれ聴衆にあえてこれらの作品を届けることの意味づけが演奏者達によりまともに為されているようには感じられないということだ。
そうした問いかけが無ければ、シューベルトもチャイコフスキーもベートーヴェンも途端に埃を被った古臭い作品に堕してしまう。
あちこちの楽団では「アニヴァーサリー・イヤー」ということで、シューベルトやベートーヴェンの作品を積極的にとりあげているが、そうしたことよりも、むしろ、演奏者がそれらの作品をとりあげる内的な意味づけを徹底的にしてくれていることの方がもっともっと重要である。
キンボー・イシイの音楽からはそうしたものは全く聞こえてこなかった。

 

Trackback URL
http://norio001.integraljapan.net/trackback/347
TRACKBACK