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雑感:2月14〜21日


2月21日
USの大学に在学していたときのこと。
一般教養課程の必須授業のひとつに「政治科学」(political science)という授業があり、その101を受けたのだが、そこで紹介された教科書のひとつが、有名なマイケル・パレンティ(Michael Parenti)の著書だった。
今でも覚えているのは、「あなたは政治に興味無いないかもしれないが、政治はあなたに興味をもつだろう」という言葉。
換言すれば、「あなたは政治に関心は無いかもしれないが、政治はあなたを統治の対象としてみなして、いろいろとあなたの人生に介入をしようとするだろう」ということだ。
そうした「介入」にいかに対峙するのか?――という問題について探求をするように大学は学生に求めたのである。
ケン・ウィルバーがインテグラル理論の中で「フラットランド」という概念を用いて批判をしているのは、ひとつには、実利的に「得になる」ことにしか興味・関心を示さず、こうした社会的・政治的な問題と格闘しようとしない態度のことである。
それは、今流行りの言葉で言うと、「教養の欠如」のあらわれと言えるかもしれない。
そして、もう少し端的に言えば、「愛の欠如」に起因する症状ともいえるだろう。
愛する人達にどのような世界を遺していくのかということを少しでも考えようとするならば、こうした問題に無関心であるわけにはいかなくなる。
しかし、それが無ければ、そんなことはどうでもよくなるのである。

 

2月20日
東京藝術大学の奏楽堂で開催されたモーニング・コンサートを聴いた。
後半のブラームスのヴァイオリン協奏曲を聴きながら、あらためて「ブラームスの音楽が、行き場を失ったエロスの懊悩」を描く作品であることを実感した。
ソリストの野口 わかなさんの音は、華麗に歌うものではなく、中域に留まる渋めのものだが、これはこれで作品に合致していたと思う。
ただし、作品には、時として迸るような想いの表出をする瞬間があり、そうしたところではソリストにも一線を超える表現を求めたくなる。
野口さんは、そうした箇所においても、みずからの表現の可能性の限界に迫ろうとするところがなく、そこには欲求不満が残った。
それにしても、この作曲家の緩徐楽章は美しい。
こういう音楽を書けたことで、彼も随分と救われたことだろうし、また、聴いているわれわれも慰められる。

 

2月19日
先日、出版社で開催されたイベントに参加したのだが、講演者間の議論の中で非常に興味深い主題が繰り返し出てきた。
即ち「真に成熟した人はみずからが立脚する物語を脇に置いて、現実そのものを謙虚に見つめようとする」ということだ。
登壇者曰く――たとえそれがどれほど優れた物語であろうとも、現実と相対するときには、それを留保して「ありのまま」に現実を見つめようとする。そして、彼らはみずからの物語が現実の前に揺さぶられたり、否定されたりする中に生まれる自由と解放に喜びを感じることができる。
これは、発達理論的には、「オレンジ」から「グリーン」への移行をはじめるときの認知の深まりを描いたものといえるが、その何と難しいことか……

 

2月18日
インテグラル理論の「フラットランド」という概念だが、それが考案された理由のひとつは、「適応主義」を批判することにある。
「時代や社会がどうであれ、とりあえずそこに適応しておこう、あるいは、とりあえずそこで繰りひろげられているゲームに参加して、成功や勝利をすることが大事である」という「適応主義」に対する批判である。
それゆえ、フラットランドという概念を真に理解している人は、必ずそうした時代の趨勢に抗おうとする姿勢を示すものである。
即ち、「勝つ」ことを無条件に善とする価値観が蔓延することで、そこからはじきだされる人々の感性に注意をしようとするのである。

 

2月17日
今回のパンデミックに関しては――東日本大震災時の福島原子力発電所の過酷事故のときもそうだったが――政権の危機管理能力の弱さが指摘されている。
しかし、この状況をひとつの社会実験として眺めると、全く異なる景色が見えてくる。
こうした状況に大衆がどう反応するのかを観察するためには、素晴らしい「実験場」なのではないか……。
日本人は自らが「被験者」であることを意識せずに、あたえられた「ゲーム」の中であたえられた情報と物語を無批判に受容して、その枠内で反応をしてくれる……。
権力者に対して懐疑の眼差しを向けることを基本的な「常識」として心得ている国では、そうはいかない。
こんなにいい実験場はないのではないか……

「パニック」は治世者にとり最高の機会である。
大衆の意識が正常に機能しているときには実現できない施策を実現するには絶好の機会なのである。
Social Engineeringの要諦は、大衆の意識状態を操作すること。
批判的な思考ができる状態そのものをいかに破壊するかということが肝となる。
そうした能力が発動されない状態を生み出すこと、あるいは、思考能力がプロパガンダの正当化のために運用される状態をつくること――それこそが追求されているのだ。
それゆえ、ひたすらに政府の「無能」を指摘するだけでは、論点を外す可能性がある。
角度を変えれば、状況を放置し悪化させることこそがそもそもの計画なのではないかという視点が必要なのだ。
カキストクラシーを現実として理解することができると、こうした発想は常識となる。
(予想通り、この混乱に乗じて、途轍もない法案が国会に提出されるようである:https://38news.jp/politics/15398

 

2月15日
ニコライ・アレクセーエフ&新日本フィルハーモニー@サントリーホール。
まず「スラヴ行進曲」にやられた。
これほどまでに重い情念と憂愁を背負った曲だったとは……。
冒頭の仄暗い歩みに耳を傾けているだけで、泪が流れてくる。
それでいて、音楽には常に詩情に息づいている。
指揮者の音楽性の高さとNJPの品性をそなえたアンサンブルが相乗効果を生みだしている。
いわゆる名曲コンサートで聴く「スラヴ行進曲」とは全く別次元の音楽だ。
そして、ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲であるが、ほんとうに何という作品だろう!!
狂気の時代に正気を保って生きる者が、その心の内で経験する苦悩と懊悩をそのまま音楽にしたような作品だ。
崔 文洙のソロも素晴らしく、あえて歌わずに、まるで薄明の中に漂う声のように、ひたすらに魂の声を奏でる。
NJPの伴奏も充実していて、打楽器群(ハープを含む)の発する暗い音が、そこに無限の悲劇と死の香りを漂わせる。
凄まじい音楽……。
あの時代の中でこういう作品を書くことの危険を鑑みれば、この音楽が正に命を懸けた表現であることが判る。
交響曲第6番は、はじめて生で聴いたが、傑作だと思う。
特に第1楽章は、もう天才だけが見ることのできる世界を垣間見させてくれるような感覚に襲われる。
NJPとの相性も最高で、これは長くつきあう中で少しづつその魅力を明らかにしてくれる作品である。
逆に、第2・3楽章は、音楽に派手な盛り上がりを期待せざるをえない聴衆のグロテスクな感性を嘲笑するような毒を秘めていて、それなりにおもしろいとは思うが、深い感銘はあたえられなかった。
傑作は第1楽章である。
会場はガラガラで、あまりにももったいないと思うが、このような屍臭の漂う音楽が響く大ホールが聴衆で一杯になるというのもおかしなことなので、これはこれでよかったのかもしれない(ただし、NJPの事務局の広報力の弱さはどうにかならないものだろうか……)。
この演奏会を聴きながら思ったのは、その時代の真実というのは、そこに生きた個人の内奥に生まれる真実の感情の中に刻印されるのだなということだった。
社会を覆い尽くすに喧騒はしばらくのあいだは人々の注目を集めるが、それらは忘却されていく。
しかし、個人の心の中に切実に感じられた深い感情は、非常に個人的なものでありながら、集合的な真実をとらえたものとして遺されていく。

 

2月14日
その発言者が信頼に足るか否かを見極めるためには、まずどの話題に着目しているかを診ればいい。
その時代的な文脈の中でとりあげるに価する話題に注目しているのかどうか……ということだ。
そこに注目すると、その人が同時代を規定する「物語」とどのような関係を営んでいるかが視えてくる。