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成人発達と日本の同調圧力

最も重要なことは、「頭がいい」ことではなく、そもそも考えるに値する問題に気づけるかどうかということなのではないか……?
このところ、そんな気がしている。
いかに優秀な知性を有していたとしても、それを活用して真剣に考えるに値する問題を発見できなければ、それは無駄になるか、あるいは、それほど重要ではない問題にとりくむのに無駄に浪費されることになる。
日本にも非常に優秀な人はたくさんいるはずなのだが、実は、彼らは自らの優れた知性を真に重要な問題について検討するためにあまり発動していないのではないかという気がする。
むしろ、そうした「優秀」な人達ほど、早くから既存の教育制度の中にとりこまれて、外部からあたらえられた問題について考えるように「訓練」されてしまうのかもしれない。
優秀な知性の持主は、社会にとって貴重な存在であるが、社会はまた社会を支える諸々の文化的装置(「規範」「慣習」「常識」「価値観」「世界観」)が覆されないように、そうした人達を早期に発見して、既存の社会構造の維持に専心するようにその意識を巧妙に操作する。
規範の範囲内では批判的であったり、創造的であったりすることを奨励するが、それを超えて――それを対象化するかたちで――批判的であったり、創造的であったりすることは厳しく禁じる。
今日、われわれは、常に忙しく頭脳を働かせているのだが、こうした文脈の中の長く暮らしていると、特定の領域の話題や問題には意識を向けて積極的に思考をしないことがあたりまえになってしまう(あるいは、そうした領域があることそのものに気づけなくなる)。
思考という行為をはじめるまえの段階で、実はわれわれの思考は、ある特定の領域に向けて方向づけされており、その領域の中にある課題や問題だけを探求するように誘導されているのである。
インテグラル理論においては、21世紀を生きるわれわれの意識を呪縛するこうした集合的なエトスを「フラットランド」と形容している。
簡潔に説明すれば、それは人々に「得になる」ことだけについて思考をするように誘導をするものといえるだろう。
この概念を提唱したケン・ウィルバーが指摘するように、全く「得」にもならない「美」や「善」のために思考をすることについては、一顧だにしないのである(そうしたことについて検討がされるのは、それにより何らかの実利的な得が見込まれるときくらいである)。
成人発達理論的には、人間の思考というものが、文化的な諸条件に呪縛されて営まれるものであることを認識できるようになるのは、「後慣習的段階」(post-conventional stage)に到達してからだといわれる。
インテグラル理論では、いわゆる「グリーン」(Green)といわれる段階がそれに相当するが、正に「後慣習的段階」という名称が示唆するように、これは慣習や常識を逸脱した非常に珍しく、また、会得するのが困難なものである。
われわれは基本的に完全な自由意志にもとづいて思考をしていると思い込んでいるが、実際には同時代の中で「奨励」される形態で思考をしているに過ぎないのである。
そのことを認識して、社会の中で思考や探求の光に照らし出されていない領域にある課題や問題を積極的に探求しようとするのが、「グリーン」(Green)や「ティール」(Teal)といわれる段階である。
発達心理学者のザッカリー・スタイン(Zachary Stein)は、今日の社会の頽廃の根本的な原因を共同体の意思決定を司る「エリート」の腐敗に見出している。
優秀な知性を与えられた人々が徹底して既存の「価値観」や「世界観」の中で「自身の得になる」ことのためだけにしか、あたえられた「才能」を遣おうとしないという現状を告発しているのである。
それは、換言すれば、素晴らしい才能が、ひたすらに慣習的段階の枠組の中で運用されているということであろう。
発達心理学者のSusanne Cook-Greuterは、「ある程度のIQは、高次の発達段階を確立するための必要条件ではあるが、十分条件ではない」と述べていたが、即ち、それは、IQを補完する他の条件がそろわないために、数多くの「優秀」な人達が停滞を強いられているということだ。
共同体というものは、基本的には、現状の均衡を維持するために後慣習的段階の創発を阻害しようとするものであるが、ただ、いっぽうでは、成熟した共同体というものは、そうした在り方が長期的には衰退を招くことを認識しているために、自らの中に「逸脱」を許容する仕組や空間を包含しているものである。
日本の場合には、もしかしたら同質性を志向する同調圧力が高いために、そうしたものをほとんど設けることができていないのだろう。
実際、こうした社会のダイナミクスが個人の発達に大きな影響を与える可能性があることはウィルバーも著書の中で明確に指摘しているところで、そうした洞察は特に日本のような文化には非常に関連性の高いものといえるだろう。