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雑感

3月26日

「成人発達理論」で云うところの、いわゆる「オレンジ」を超えて、「グリーン」や「ティール」といわれる意識を開拓しようとするのであれば、現在の世界の状況を心理学的な視点を通して眺めてみるのは、非常にいい訓練になると思う。
「ウィルスの蔓延」という小さな刺激が社会というシステムに加わるだけで、その状態は大きく変わり、ほんの数十時間前までに「現実」や「常識」としてみなされていた諸々のことが、瞬時に雲散するこの状況。
そこでは人の意識も行動も大きく影響され変わることになるが、そこで自らの意識や行動が半ば自動反応的にどう変化しているのかを克明に意識することが、重要な訓練となると思う。
ある意味では、「オレンジ」は同時代の「虚構」を半ば無自覚に信奉する段階と言えるが、それは、即ち、「日常」というものがいとも簡単に消失しえることを意識せずに、目の前の日常を永続的な真実と信じて、日々の生活を営むことしかできないということだ。
今日の日常が大きく揺らぐ体験は、「オレンジ」の呪縛から自由になるための重要な契機となりえるのである。
その意味では、このように「日常」に亀裂が入るときに、われわれが着目すべきは、他者が何を前提にして言葉を紡いでいるのかを見極めることである。
日常の本質的な虚構性を踏まえて言葉を紡いでいるのか、あるいは、失われた「日常」の枠内で言葉を紡いでいるのかを見極めるということだ。
東日本大震災における福島原子力発電所の過去事故が発生したときに、「想定外」という言葉が連発され、安全対策の「不備」の免罪符とされたが、端的に言えば、それは、安逸の日常が永続することを前提として「安全対策」が考えられていたことを示していたのである。

 

3月27日
現代社会を生きていくうえで、たとえば英語がある程度理解できるの同じくらいに――あるいは、それよりもずっと――重要なのが、悪に対する感性を涵養することである。
心理学の「業界」そのものがある種の集合的な催眠に罹患しているのかもしれないが、大学院で研究していても、こうした問題について探求するように鼓舞されることはあまりない。
また、教授も生徒もこういう話題についてはあまりとりあげたくないようで、結果として、人間の成長や治癒について光を当てるばかりで、人間存在の根源に息づくこうした抜きがたい問題についてまともに思索しないまま卒業ということになってしまう。
もちろん、こうした悪の拒絶という傾向は、心理学者だけでなく、集合的な規模で人類を呪縛する心理的な病理といえるものである。
それがこれほどまでに蔓延すると、結果として、そうして無意識化された人間の本質的な条件が無制限に膨張・暴走することになる。
今日、いわゆる「大人」といわれる人達のほとんどが、悪を見抜く感性と勇気を喪失しているのは、ある意味では、われわれが酷く退化していることの証左だと思う。
同時に、ものごとを合理的に思考する能力は高まっているわけだが、少し冷静に考えてみると、それは非常に怖ろしいことである。
自己の内に息づく悪について意識することができない人間が高度の「思考能力」を駆使すれば、そこには倫理的な視点を欠いた暴走が起こるのは必然的なことである。
少し極端な言い方をすれば、現代社会は、そうした自己との対決という訓練を完全にバイパスすることで、倫理的な感性を涵養するのを忘れた「疑似サイコパス」が、その優秀な知性を暴走させて、社会を席巻している状態にあるといえるのである。

 

4月1日

『ティール組織』等に触れて成人発達理論に興味をもった方々は、現在の社会状況を良く観察すると、「グリーン」や「ティール」といわれる「後慣習段階」(post-conventional stage)について洞察を深めることができるのではないだろうか……
今、われわれは僅か数箇月前には想像もしなかった状況を生きている。
この「騒動」が発生するまえに、われわれの日々の生活を支えていたroutineはほぼ完全に溶解してしまい、今、人々は全く異なる生活を送っている。
また、興味や関心の的も大きく異なり、極端な場合には、価値観や世界観も――個人差はあれ――それなりに揺さぶられていることだろう。
「後慣習段階」の特徴のひとつとは、今の自分自身の意識を支えている「感覚」や「常識」や「物語」や「枠組」がいとも簡単に溶解することを常に認識しているということだ。
即ち、それらが「虚構」(fiction)であることを意識しながら生きることができるのである。
たとえば、今回はウィルスの流行というイベントによりそうした溶解が惹起されたわけだが、同じようなことは、先日の東日本大震災の例にあるように、いかなる天変地異でも起こりえる。
地球という星に生きている限り、そして、死という宿命を背負う者として生きている限り、どの瞬間にも起こりえるのである。
「成人発達理論」において「オレンジ」という言葉で紹介されている慣習的段階にいる人々は、平穏な日常を規定する「感覚」や「常識」や「物語」や「枠組」を「現実」(reality)と錯覚してしまい、それにもとづいて人生設計をしてしまう傾向にある。
それが「現実」(reality)ではなく、「虚構」(fiction)であることに気づかないのである。
その虚構の中で「夢」を見ながら生きているのである。
しかし、「オレンジ」の呪縛を超克しはじめると、そうした「夢」に醒めることができる。
白けることができる。
絶望することができる。

 

4月3日

先日、JMAMより『入門 インテグラル理論』を仲間達と上梓したのだが、あらためて思うのは「インテグラル理論」というのは「虎の巻」的な性格が強い理論であるということだ。
数十年前であれば、一般には紹介されないような内容が惜しげもなく紹介されている。
ただし、同時にその内容は非常に抽象的である。
具体的なスキルをそれまでの実践活動の中で蓄積してきている人達を対象として、それらの豊富な経験や知識を整理・統合するための方法を紹介しているので、おのずとその語り口は抽象的なものになるのだ。
そのために、具体的な道具の紹介や説明はあまりしない。
そういうものに熟達したうえで、触れるべきものなのである。
いうまでも、現実の現場というものは、理論通りに行くことなどほとんどない。
しかし、正にそれゆえに、実践者はその複雑な現実を整理して見通せるようになりたいと思うものである。
理論や枠組が求められるのはそのためである。
もちろん、理論や枠組は現実そのものではない。
しかし、それらは同時に現実を深く見通させてくれる。
即ち、抽象的な理論は、そのまま現場の実務の中で適用できるものではないが、現場の実務に通じている実践者には、それを対象化してメタ的に俯瞰する視座を与えてくれ貴重なものなのである。
その意味では、非常に「実用的」なものともいえるが、ここでの「実用的」という言葉の意味は非常に特異なものであるといえる。

ところで、今回の著作では、「入門書」として、その抽象的な内容を最大限に噛み砕いて言葉にしてみた。
あるインタビューの中でケン・ウィルバーは「自分はストーリー・テラーである」と述べているが、結局のところ、胆となるのは、理論的な解説をしているときにも、最大限にそれを「物語」として読者に供することなのである。
物語というものは、たとえば音楽がそうであるように、表現者の生理的な感覚に根差したものとして表現されることになる。
そこで問われるのは、言葉をみずからの存在の中でどれくらい身体知化できているかということだ。
徹底的に抽象的な内容の文章であっても、それが身体に錨を降ろしていることができていれば、それは意外と解りやすくなるものである。
果たしてそれがどれほど達成されているか……

 

4月3日

このところ、巷では「成人発達理論」に関して興味・関心を抱く方々が確実に増えてきている。
ありがたいことだ。
概論に触れた後、数多くの方々から「もう少し踏み込んだ勉強をしたいのだが、この後には何を勉強すればいいのか?」という質問をいただく。
いくつか重要なことがあるが、それらの中でも最もたいせつだと思うのは……:
・心理学全般についてある程度網羅的に勉強すること
発達理論というのは、心理学全般の中の一要素に過ぎないという認識が非常に重要だと思う。
人間にはそれだけでは把握できない領域や要素が無数にあることを真に理解することで、発達理論に対する冷静さを確保できるようになるのではないか……。

・倫理的に責任について理解すること
人間を対象化して測定・識別するという行為は、その仕方を間違えれば、他者に対する暴力となる。
それは倫理的な運用をするための基盤が担保されるときにのみ許されることだともいえる。
その意味では、臨床の基礎に触れて、理論の倫理的運用のための勉強をすることは必須条件だと思う。

・目的を明確にすること
「発達理論」は他者を測定したり、識別したりするためにあるのではなく、他者の治癒や成長や学習を支援するための道具として存在する。
いかなる目的を達成するために、その「道具」を用いようとしているのかに関して内省することは非常に重要となる。

・複数の発達理論に触れること
世界には様々な発達理論が存在するので、たまたま目にした理論だけを勉強するのではなく、その領域をある程度網羅的に勉強する必要がある。
そうすると、ある特定の理論の中で「現実」や「真実」として紹介されていたことが、実は「虚構」(construct)であることが認識されてくる(もちろんそれは有用な虚構であるかもしれないが)。

・自分自身が測定を受けること
発達理論を勉強して、知識を蓄積しても、基本的には自身の「発達段階」は判らないものである。
また、測定を受けて、優れたフィードバックを受けると、そこには非常に深い自己認識が生まれるものである。
そうした謙虚になる体験無しに、この理論を扱うべきではないと思う。

そして、最も重要なことは……

・「発達」を無条件に礼賛しないこと
「発達段階が高いことは必ずしも善いことではない」(Higher is not better)ということを認識することが重要である。
歴史的には――例えば中世ヨーロッパでは――「高い」人達は共同体の中で十字架に架けられて処刑されてきている。
「発達は幸福を保証しない」というのはある発達神学者の名言だし、また、マズローは「自己実現を遂げた人達は、そのことを巧妙に隠蔽して、仮面を着けて生きる術を身に着けている」という意のことを述べているくらいだ。
また、さらに重要なことは、高次の発達段階を確立すれば、日々の経済活動の中で高い「生産性」や「創造性」を発揮できるようになるという発想が「神話」であることを見抜く必要がある。
今いろいろな神話が独り歩きをしているが、それらを安易に受け容れるのではなく、もう少し現実を冷静に眺めることができるようにならないと、単なる神話の語り部になってしまう。
いずれにしても、求められるカリキュラムというのは、発達理論だけでなく、その盲点や限界を補完する他の要素を最低限とりそろえているものなのだと思う。

 

4月5日
時として「そのウィスキーは苦過ぎるので、子供用のものはありませんか?」というような意味のリクエストをいただくことがあるのだが、果たしてどう回答したらいいものやら……

 

4月6日
今年にはいり、10年前に翻訳・出版した書籍を再翻訳している。
「スピリチュアリティ」(霊性)が重要なトピックのひとつであるために、ある意味では、非常に宗教色が強い著作なのだが、そうした箇所には最も苦労させられる。
可能な限り平易な言葉で翻訳しようと試みてはいるのだが、そもそも現在の日本語空間そのものが極度に世俗化しており、いわゆる「霊的」(宗教的)な言葉が日常的に全く発せられなくなっている。
そうなると、そうした概念をとりあげるために必要な単語や論理展開のための言い回しが容易に見つからない。
非常に高次の「スピリチュアリティ」(霊性)について語るときにも、その基本的な素材となるのは、神話的な世界観に根差した概念であり、表現である。
そうしたものが、日常の言語空間にあまりにも欠乏していることを、こうした書籍を翻訳していると痛感させられる。
若い頃に米国で暮らしていたときには、社会の隅々に辟易とするくらいにキリスト教の言葉や価値観や世界観が浸透していることに驚愕して、それに適応するのに随分と苦労させられたものだが(もちろん、修道院が経営する大学に在籍していたので、それは致し方ないのだが)、それと対極に位置するのが日本社会といえるのではないだろうか……。
もちろん、合衆国もそれほど暮らしやすいところだとは思わないが、ただ、その真逆にあるこの日本の状況も非常に危険なのではないかと思う。
これほどまでに「神聖なもの」や「超越的なもの」について語る言語的な素材そのものが欠如していると、そうした現実について視野や感性を開くための機会そのものが欠如してしまう。
そうなると、結果として、一般的にひろく流通しているこの世俗世界について語るための言語に絡めとられ、それについて語ることしかできなくなる。
今日のあまりにも平板な日本社会の原因のひとつはここにあるのではないだろうか……
その意味では、日本は、ケン・ウィルバーの言う「フラットランド」(Flatland)が最も進行していると思うのである。
人々の思考の全てが合理的な論理や金銭的な論理に還元されてしまう。

すべての判断の拠り所が、「それが合理的であるかどうか」「それが得になるかどうか」になってしまうのである。

 

4月6日
多くの人々が、政権の批判をするときに、その「無能」を批判するが、そのように見える諸々の行為が実は意図的なものである可能性については、あまり検討しないように思える。
その意味では、対象の能力を低く見積もりすぎだし、それに現実に存在する悪に対してあまりにも鈍感だと思う。
自らがカキストクラシーの下で生きていることに気づいていないのだと思う(もちろん、そういう発想をすることがないように、これまでの教育を通して刷り込まれてきているので、そうなるのも当然のことなのだが……)。

 

4月6日
現在のように、これまでの「日常」が突然に消失してしまうと、人はいろいろと深い内省をするものである。
ただ、「成人発達理論」においていわゆる「グリーン」(Green)といわれる段階--及び、それ以降の段階--にいる人達は、基本的に、そうした内省を恒常的にしている人が多いと思う(それが第二の本能になっている)。
というのも、彼等は、それまでの人生を通して、「日常」として存在するものが、実は簡単に崩れ得る「虚構」であることを骨の髄まで認識しているからである。
もちろん、慣習的な段階においても、外部の状況が劇的に変化すれば、そうした内省はできるわけだが、後慣習的な段階が確立されると、そのように外部に依存することなく、自己の力で自然にそうした内省ができるようになるのである。
その意味では、一口に「できる」と言っても、それが自己の能力を自律的に発揮することで「できている」のか、外部の条件が整うことで「できている」のかにより、それらは質的に大きく異なるということだ。
それゆえ、今のこうした状況の中で「グリーン」以降の人達に所感を訊くと、実はこの「異常」な状況を必ずしもそのようにはとらえていないことに気づかされるのではないだろうか……
むしろ、彼らは「自分はいつもこうした不安と不確実性に満ちた日常を生きている。そもそも自分の命が明日もあると思って生きていない」と何事もなく言うのではないだろうか……
いわゆる「グリーン」以降の段階が「実存的段階」であるというのは、そういうことなのだ。
確かに「普通」ではないのも事実である。

 

4月6日
ここ数年のあいだ、日本でも、心理学者ロバート・キーガン(Robert Kegan)の「免疫マップ」がひろく知られるようになったが、ああいうものは、現在の政権の行動を分析するのに活用してもいいのではないか……。
口当たりのいいことを言うが、悉くそれを裏切る行動をしている状況を眺めて、「裏の目標は何なのか……?」と問えばいいのである。
ああいう道具は、いろいろな領域に応用できて、はじめて深く修得できるのだから……

 

4月11日
インテグラル理論について紹介すると、しばしば、自身の「発達段階」がどのあたりにあるのかを見極めるためには、どうすればいいのか? という質問をいただく。
もちろん、これは優れた測定を受ける以外にはないのだが、ただ、各発達段階を特徴づける思考法を調べて、それらを自身が具体的な課題や問題に対処するときに、実際にどれくらい発揮できているかを確認してみることは、ひとつの有効な方法ではあると思う。
参考までに、最も理解の難しい「インテグラル段階」(ティール段階)の思考法を簡単に整理してみた:

 

・目の前の状況を眺めて、そこに存在する対立軸を特定する。
・特に社会的・政治的な話題を巡り、そこで共に「正義感」に溢れた人々が熱心に批判や議論を闘わせている場合には、そこに存在する対立軸を整理する。
・そして、その上で、その両者が共に言及していない話題や領域について探求をする。
・あるいは、そのそもそれらの対立軸をわれわれに用意してくれている構造そのものに対して批判的な目を向ける(それは、その構図の中に受動的に立脚して思考してしまっている自己の姿を批判的に眺めるということでもある)。
・また、往々にして、「この状況でその話題に言及してはいけない」と大多数の人々が直感的に認識している話題や領域や構造がどのようなものであるのかを探求する。
・また、そのような暗黙の認識のもと、その話題や領域について誰もが言及しないことにより、誰のどのような目的や利益が実現されたり、確保されたりすることになるのかを探求する。

 

既存の対立軸に立脚して思考をすれば、簡単に正義感に浸れるので、心理的にも満たされるが、それで充足してしまうと、結局は真に重要な問題について探求することなく、時間を無駄にしてしまうことになる。
「インテグラル段階」(ティール段階)の思考法は、そうした罠を回避するものであるといえる。
誰もが言及してはいけないと朧気に認識していることを話題にとりあげるので、ある意味では危険な発想でもあるが、しかし、それはまた最大の社会貢献でもある。
実は、インテグラル段階に関するこうした理解は、数年前にLecticaの測定をしばらくぶりに受けて、あらためて気づかされたことである。
Lecticaが提供するLDMAをはじめとする発達測定は、現存する測定の中でも最も精緻なもののひとつだと思うが、正にそれゆえに、被測定者に対して自己の思考の習性に関する厳しく鋭い洞察を提供してくれる。
個人的には、「これは逃げも隠れもできないなぁ〜」という思いを抱かされたものである。
そして、また、「発達理論を勉強すること」と「実際に自己の認知を発達させること」が非常に異なるものであることを実感させてくれるいい機会でもあった。