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雑感 - 4月11日〜21日

4月11日
もしあなたの心の内に素朴な疑問が沸いたならば、たとえ周りの誰もそれを共有してくれなくても、あなたにはその疑問を追求しつづける責任が生まれる。それは贈り物であり、それについてあなたが責任をとらなければ、そこに潜んでいる可能性はこの世界にもたらされないまま失われてしまう。

 

4月12日
「インテグラル段階」(ティール段階)の思考は「advanced systems thinking」(ASS)と形容されるが、その特質を明らかにするためには、もしかしたら「影」(the Shadow)に着目する必要があるのかもしれない。
ASSは、ある課題・問題・話題に関してそこに成立している議論を眺めて、そこにある対立軸を認識すると共にその両方が共に言及していない現実や領域について探求をする。
その対立軸を成立させている構造そのものに目を向け、また、その深層的な構造が維持されることにより、どのような意図や目的や利益が実現されたり、確保されたりしているのかを問うのだ。
こうした構造は往々にして同時代の中で集合的な無意識と化しているものであり、それに言及することは、社会の集合的なタブーに触れることでもあるので、非常に危険なことだといえる。
即ち、同時代を呪縛する集合的な「影」(the Shadow)の存在を直感して、それに積極的・創造的に言葉をあたえ、光を当てるのである。
ILP(Integral Life Practice)の中でも、ある意味では、「影の探求」(Shadow work)は最も苦しいものであるが、いわゆる「後慣習的段階」の思考を習得するためには避けられないものなのだろう。

 

4月12日
思想家のケン・ウィルバー(Ken Wilber)は、後慣習的段階(post-conventional stages)(「グリーン」段階以降)を「trans-law」と形容して、その発想が「法」を逸脱することにならざるをえないことを指摘しているが、ASSを習得している人が非常に稀であるのは、そうした在り方が本質的に内在させる危険性に基因するのではないか……。
非常に優れた知性をそなえており、驚異的に高度な思考をするのだが、どういうわけか同時代の影を直視し、それと対決することから逃げようとしている場合には、その深層には深い「恐怖」が息づいている可能性がある。
その恐怖はしばしば影に対する恐怖と密接に関連している。
「インテグラル段階」(ティール段階)に至るために、「影」の領域の「実践」が必要とされるのは、そういうことなのだろう。
単に思考を精緻にしていくだけでなく、感情的な探求と修練が必要になるのだ。
昔、読んだ記事の中でケン・ウィルバー(Ken Wilber)が「統合的であるとは“political”であるということだ」と書いていた。
非常に印象的な言葉で、今でも鮮明に記憶していて、その云わんとしていることを考えることがある。
思うに、これは、「個人」について考えるときにも、常に「社会」という集合領域に目を向け、そうした包括的な文脈の中で思考することができるようになる必要があるということであり、また、しばしば「大人の会話」の中では忌避されてしまう「政治」に関して、深く鋭い問題意識にもとづいて話題にとりあげることができるようになる必要があるということだと理解している。

 

4月13日
「フラットランド」(Flatland)の影響の下、現代人は常に「損得」で物を考えるように動機づけられているので、必ずしも「得」にならない政治のような話題について考えようとも、言及しようともしない。
「消費者」としての思考はするのだが、「市民」としての思考はしないのだ。
ただ、少し冷静に考えてみると、そうした重要な思考が蔑ろにされている文脈そのものが異常なわけである(即ち、それは集合的な「影」や「無意識」や「発達の阻害」を生み出す文脈であるということだ)。
必然的に、そうした文脈そのものを変容させるためにいかなる行動がとれるのかということが、「統合的」(integral)に思考をしようとする人達に課されてくることになる。

 

4月14日
国民から徴収した税金のことを、彼等は「みかじめ料」として認識しているはずだ。
それはあくまでも支配層の中で山分けにするべきもので、「それを国民のために使え」という声を聞いても、「何を馬鹿なことを言うのか」としか思わないだろう。
カキストクラシーの下で生きるとはそういうことだ。

 

4月16日
その人のことを理解するためには、その人が「語るに価すること」を話題に採りあげているかどうかに着目するといいだろう。
もちろん、見るアングルは千差万別だが、少なくても「何」を語るに価すると認識しているかを眺めれば、その人の世界との対峙の仕方が視えてくるものだ。

 

4月17日

https://toyokeizai.net/articles/-/231743

山口 周氏による素晴らしい文章。
また、「成人発達理論」に興味を抱いている人には必読の文章である。
発達心理学者のロバート・キーガンの書籍を読むと、人間が真の意味の「自律的な思考」をできるようになるのは、合理性段階(「オレンジ」)からだと説明している。
即ち、自己の思想や価値観や哲学に基づいて、あたえられた「現実」に対して主体的に働きかけることができるようになるということだ。
ただ、現代社会においては、こうした能力は非常に文脈限定的に発揮されるに留まっている。
即ち、経済活動の文脈の中では、こうした能力の発揮が求められ、また、実際にある程度はできるのだが、ひとりの市民(社会人)としては、そうした能力を発揮することができない。
洗練された発達理論はこうした文脈依存性に着目するが、いわゆる「人材育成」に携わる方々は、「そもそもなぜこの文脈では能力を発揮することは奨励され、なぜ他の文脈ではそうでないのか?」ということについて真剣に考える必要があると思う。
というのも、そうした「アンバランス」が大きな悲劇をもたらすことになるからである。
個人に高い能力を発揮することを奨励しようとしない文脈は、結局、社会の「影」となり、それが社会を揺るがすことになる。
「人材育成」の関係者は、複数の異なる文脈に於いて人々の高い能力が発揮されるように、能力の横展開を支援する必要があるし、また、より統合的な観点にもとづいて、そもそもある特定の文脈を無意識化しようとする社会のダイナミクスに注目して、それそのものを変革するための働きかけをしなければならない。
その責任を怠ると、結局は、社会のアンバランスを増長することになってしまう。
このあたりに「発達理論」を巡る倫理の問題があるように思う。

 

4月18日
自身が思考をしているときに――あるいは、しはじめようとしているとき――その活動に影響をあたえている条件や要素を意識化・対象化すること――これは成人発達理論でいうところの「後慣習的段階」の思考を体得するための重要な訓練となるのではないか……。
たとえば、成人発達理論に興味を持ち、それについて勉強をはじめようとしている自己そのものを対象化して、その「Why」を深く掘り下げていくことは素晴らしい訓練となると思う。
そうすると、「……のためになるから」という自身の動機(motivation)に辿りつくが、そのときに、そのような動機を自身に抱かせている文化的・社会的な文脈を探求するのだ。
そうすると、実は自己の内から溢れ出ていたものと思われていた「動機」がしばしばあたえられた動機であることに思い当たる。
たとえば、あたえられた物語や価値観や思想である。

 

4月18日
簡単に言えば、「あたえられた」文脈の中で思考し行動するのが「慣習的段階」ということになるだろう。
その呪縛を超克しようとするのであれば、まずは果たしてそのあたえられた文脈が真に信頼に足るものであるのかについて徹底的に考える必要がある。
ひとつひとつ心の襞を剥がすようにして、自己の価値観や世界観を構成しているものを徹底的に検証していくのだ。
それはまるでタマネギを剥いていくような作業で、作業を進めると、徐々に自身の確固たる基盤と思われていたものが、本質的に空虚であることが認識されてくる。
そして、その空虚の中で自己の芯や軸となるものを再構築するのである。
今流行りの言葉で言えば「グリーン」や「ティール」といわれる段階の意識とは、人類の歴史の中で無数の人達が、こうした精神的に過酷な修行の中で会得したものを指しているのだと思う。

 

4月18日
教育について批判的に考えようとするときにわれわれが留意すべきは、そこで伝達される情報の質だけでなく、そこで用いられている伝達の方法にも目を向けるということである。
現代の教育に関して思うのは、伝達される情報の質にしばしば問題があることだけでなく、それが基本的に思考停止を促進する方法を通して伝達されるということだ。
教室の前に「真実」を所有する権威的存在(教師)がいて、そこから生徒に情報が基本的に一方通行で提供される。
また、たとえそこで双方向の対話が生まれるとしも、最終的には、その生徒の理解が正しいか否かは、採点という行為を通じて、その権威的存在(教師)が決定することになる。
そして、最大の問題は、真実を記載した資料として教科書が生徒に提供され、基本的にそれを無批判に受容することが奨励されることだ。
人格形成期に15年程もそうした環境の中で「教育」されてしまえば、自律的な思考ができるようになると思う方が無理なのではないか……と思う。

 

4月20日
「構造は状態の中に成立する」――こんなことを昔ケン・ウィルバーが述べていた(何等かの著書か記事の中だったと思う)。
例えば、「成人発達理論」で「意識構造」と呼ばれているものは、あくまでも日常の覚醒状態の中に成立するものである(睡眠状態の中にはそういうものは成立しない)。
ここでウィルバーが云わんとしているのは、「意識の状態」(state of consciousness)に着目することが非常に重要だということ――もう少し詳しく言えば、「意識の構造」(structure of consciousness)だけをとりだして考えるのではなく、前者との関係の中で後者について考える必要があるということだ。
言われてみれば、あたりまえのことだが、実はそうした複眼的な発想をしている人というのは、実はなかなかいないものだ。
例えば、有名なところでは、ジャーナリストのナオミ・クラインが著した『ショック・ドクトリン』という名著があるが、これは、社会と個人をショック状態に陥れることにより、その思考と行動を操作するための戦略と技術について解説したものである。
どれほど人格的に成熟した人でも、社会の集合的な状態の影響を受けて、その文脈の中で思考をするので、実はこの著書の中で詳述されているような集合的な状態の操作との関係性の中で個人の意識を語ることは途轍もなく重要なのだが、そうした視座からの解説がどこにも見当たらないのである。
その意味では、今、何よりも必要とされているのは、こうした政治の領域の著書との関係の中で「成人発達理論」を読み解くことだと思う。
特に「意識状態」という概念は、意外と難易度の高い概念である。
そのリアリティを明瞭に実感するためには、ある程度は意識状態に関わる訓練を積んで、そのための感性を涵養することが必要となる。
状態が変わることにより、人間の思考や認識の質が斯くも変化するものかということを実感をもって理解できる必要があるのだ。
自分自身が「異常」な状態にあることを自覚しないままに、高度な思考能力を発揮してしまえば、それは思いもしない暴力や被害を生んでしまう恐れがある。
社会が異常な状態に陥ったときに、そこに無批判に適応してしまい、あたえられた仕組や文脈の中で自らに備わる高度の思考力を発揮してしまった結果、途轍もない悲劇を生んでしまったという事例は歴史的に数多くある。
例えば、犯罪心理学者のロバート・ジェイ・リフトン(Robert Jay Lifton)の著書には、そうした事例が豊富に紹介されているので、是非熟読してほしい。
名著『The Nazi Doctors』には強制収容所で大量殺戮に加担した医者の事例が掲載されているが、発達心理学者のザッカリー・スタイン(Zachary Stein)は、こうした大量殺戮に加担した人々が非常に高い認知能力を発揮していたことを指摘している(例:システム思考)。
自己と社会がどのような状態に投げ込まれているのかを認識し、それを踏まえて、自身の行動に責任を持つための深い示唆をあたえてくれるのが、発達理論なのだと思う。
あたえられた文脈が異常なものであり、そこで自己の能力を発揮することが大きな悲劇を生んでしまえることに気づいたときに、われわれはどうするのか?
極端な場合、状況が病的なものであるならば、個人は自己の能力をあえて封じるという選択肢も持たなければならないのである。
こうしたことについて明らかにするのも、発達理論に課された倫理的な責任なのではないのだろうか……

 

4月21日
少し時間ができたので、「Fargo」というTVシリーズの第3シーズンを観たのだが、非常に素晴らしかった。

https://imdb.com/title/tt2802850/

これまでのシーズンも非常に素晴らしかったが、今回は、ミネソタの片田舎に突如訪れる途轍もない悪に翻弄される素朴な人々の姿が実に見事に際立たされている。
人間は基本的に世界を信頼するように本能付けられている生物だと思うが、正にそれゆえに純粋な悪に遭遇したときに、それにどのように対処していいのか判らなくなってしまう。
そして、往々にして、そうした純粋な悪と出遭うことで、自己の存在の中に潜む陳腐な悪な発動されてしまい、運命を狂わせてしまうことになる。
今回のシーズンでは、悪役を演じるDavid Thewlis(名演!! 怪演!!)が「問題は、この世界に悪が存在することではなく、善が存在することなのだ。それさえなければ、悪が問題にされることはないのだ」と呟くが、正にそうした純粋な悪が存在することに、人間は気づいていないし、また、たとえ気づいていても、実際にそれと遭遇したときには全くの麻痺状態に陥ってしまう。
物語が後半に進むと、それまで殺人とは縁の無かった場所に、膨大な数の死体が積み上げられていくが、実はこうした悪に免疫を持たない社会の姿とは、ミネソタの片田舎だけでなく、われわれ人類社会の姿そのものなのだと思う。