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「大きな物語」の復権に対して警戒すること(II)

もちろん、こうした違和感は、部分的には、そうした解説をしている人々の性格に対するものである可能性もある。
解説そのものが、それを呈示している人々の性格を不可避的に反映せざるをえないからである。
たとえば、インテグラル・コミュニティに関わる人達にはいくつかの特徴があるが、そのひとつは間違いなく「大きな物語」に対する「執着」であるといえる。
1995年のSex, Ecology, Spiritualityの刊行後、それに寄せられた諸々の批判に対して、ウィルバーは非常に防衛的になり、それらの批判者に対して「Mean Green Meme」というラベル付けをして攻撃的に逆批判をしたことは記憶に新しい。
そうした反応の中にも、ケン・ウィルバーという思想家を――そして、その思想を基盤に形成されている共同体を――特徴づけている心性が露見していると思う。
もちろん、こうした愚かしい「ラベル付け合戦」がいつまでも続くわけでもなく、ウィルバーに続く第2世代はそうしたものに殆ど関心を示さなくなっているが、それでも、Integral Instituteの発足後、10年近くにわたり続いたこの一連の騒動の中で、関係者の思考がイデオロギー化して、冷静な探求が停滞してしまったのは紛れもない事実だと思う。
実際、そのあたりの「リハビリテイション」が漸く進んできたのは、この5年程のことなのではないだろうか……
そこではとりわけ発達心理学者の(Zachary Stein)等の貢献が大きいと思うが、発達というものを善に向かうプロセスとして規定する発想(growth-to-goodness assumptions)(http://www.zakstein.org/human-development-1-higher-levels-not-always-better-sorry-everyone/)に対して批判のまなざしを投げ掛ける意見が発せられるようになったことは、非常に大きなことだと思う。
こうした視点が欠けていると、人間とは発達すべき存在として無条件に見做されてしまい、「発達」することが全ての人に義務づけられてしまうことになる。
即ち、その義務に従わない――あるいは、従えない――人に対して「制裁」がくわえられることを「善」として受け容れてしまう空気が醸成されてしまうのである。
そうした発想が優生学的な発想をもたらすのは半ば不可避的であろう。
また、より発達したとされる人々の「物語」に人々を従属させることを「善」とする発想が強要されてしまうのである。
特に、先述のように、そうした物語を編みだしている人々が、そうした物語が虚構であることを冷静に自己批判する精神を有していなければ、そこには途轍もない悲劇がもたらされることになる。
ウィルバーに対する批判のひとつは、それが実質的に大きな物語を安易に復権することで、その支配の下に世界を従属させていく流れを生み出すのではないかというものである。
個人的には、少なくともウィルバーの思想・理論そのものに関しては、必ずしもそうした批判はあたらないと思う。
しかし、同時に、意図的にポップ化された後のインテグラル理論に関しては、そうした批判はそれなりに的を射たものであると思っている。
たとえば、これは先日のウエブ・セミナーに於いてもSusanne Cook-Greuterにより指摘されていたが、インテグラル理論に精通したコンサルタントが、途上国を訪問して、「発達の法則」なるものを示して、それにもとづいて共同体の「開発」に従事するように教授するその姿勢はあまりにも暴力的である。
そのことにあまりにも無自覚であることは、グロテスクであるとさえいえる。
「成長」や「発達」という夢を見て、その実現に熱心に貢献しようとするそのあまりに素朴に楽観的な姿勢が、こうした無自覚の暴力を肯定してしまうのである。
そして、少なくとも、ポップ化された後のインテグラル・コミュニティに於いては、こうした問題意識は非常に希薄である(ウィルバーの著書の中で指摘されているそうした問題意識が一貫して後退させられている)。
しかし、もし「Teal」といわれる発達段階の認知能力そのものが自己の「物語」に安易に呪縛されてしまうのであるとすれば――特に「Teal」という概念がひろく流通しはじめている今だからこそ――この問題に対して非常に意識的なる必要がある。
人間は「誰か」により妄想された物語や構想にもとづいて「成長」させられたり「発達」させられたりする存在ではないというシンプルなことを思い出す必要があるのであるのである。