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ひとりひとりの心に向けて奏でられる音楽

 

先日、遠山 一行の著作集をパラパラと捲っていたのだが、非常に心に響く箇所があったので、メモしておきたい。
著者は、海外の有名指揮者の来日時の演奏会を聴いて、全く心に響かなかったと述べているのだが、その理由として、演奏が「マス」に対して奏でられていて、そこにいるひとりひとりに向けて奏でられるものではないと感じたからと説明している。
思うに、これは、その演奏が大会場に於いてそこに集まった聴衆に向けて「スペクタクル」として奏でられたものであることが明瞭に見えてしまい、寒々とした気持ちに襲われたということなのだろう。
音楽は作曲者という一人の人間の心から溢れでたものであるという意味に於いては、本質的に非常にプライベートなものであるが、演奏家は、そのことを忘れて、壮麗な大音響の展覧物にもしてしまえる。
もちろん、そういう演奏は娯楽としてはそれなりにたのしいものではあるが、今日、これほどまでにオーケストラの技量が高まると、そうした絢爛豪華な音楽がひどくありふれた演奏に聞こえてしまうのも事実である。
そのときにはそれなりにたのしいが、翌日には忘れてしまうような演奏である。
遠山氏が求めているのは――そして、多くの聴衆が求めているのは――そういう演奏ではなく、そこに耳を澄まして聴いているひとりひとりの心に語り掛けてくれる演奏である。
それは、誰に消費されても必ず満足を保証するようなものではなく、いわば不特定多数に向けた音楽ではなく、その空間を共有するひとりひとりに向けた奏でられる表現者の心情に裏付けられた音楽である。
大量消費の時代に於いては、そういう音楽はもはや望めなくなっていると遠山氏は述べているが、それでも、そういう演奏は――非常に稀ではあるが――存在するし、また、聴衆はそういう演奏を求めつづけるように思う。
端的に言えば、その日にその音楽を演奏する必然性を演奏家が心から実感していることを感じさせる演奏ということになるだろう。
そうした演奏と出逢うとき、われわれ聴衆は、その演奏家がその日にその舞台の上でひとりの人間として根源的な選択をして演奏をしてくれていることを直感する。
そして、そこに感動が生まれるのである。
もちろん、必ずしも全員ではないだろうが、聴衆は、その日にあえて会場に足を運び、そこで人生の貴重な時間を過ごす選択をしている。
演奏家がそのことに対する基本的な認識と尊重を欠いてしまえば、その音楽は瞬時に陳腐化するのである。