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発達段階の流動性について

しばらくまえにLectica, Incの講義を受けていたときに、講師の発達心理学者が非常に興味深いことを説明していた。
曰く……

ある時点に於いて、高次の発達段階の特徴として位置づけられていた特性の中には、その後、さらなる調査や研究が進む中でそれよりも低い段階の特徴として再認識されることがある。

この指摘を聞いたとき、個人的にはいろいろな疑問が氷解する感覚に襲われたものである。
とりわけ、高次の後慣習的段階に関しては、基本的には、そのサンプル数は少なく――正にそうであるからこそ「後慣習的段階」と言われるのである――その特性に関しては常に憶測がつきまとうものである。
また、当初は非常に稀有のものとして位置づけられていた特性も、時代の流れの中で社会が文化的に成熟し、その発想や思考がある程度理解されるようになると、一般的に発揮可能な能力としてひろく共有されるようになるものである。
それまではその稀少性ゆえに高次の特性として認識されていた能力が、それがある程度ひろく習得されてみると、実はそれほど「高次」の能力ではないことが明らかになるということがあるのである。
こうした事情のために――これは今回10年振りに過去の著書を改稿しながら実感したことでもあるが――一昔前には「稀有」の能力として紹介したものを「一般的」なものとして格下げして紹介するということがたまにあるのである。
そのひとつが、「成人発達理論」で「Green」といわれる段階である。
これは、一般的には複眼的な視座を獲得する段階として紹介されるが(Susanne Cook-Greuterはこの段階を「Relativist」とよんでいる)、そこでは、自己の思考や発想を支えている枠組を対象化して、その「構築性」や「虚構性」に気づくことができるようになる。
しかし、こうした発想そのものは、いわゆる「多様性尊重」の大義の下、ひろく奨励されるようになり、半ば常識的な能力として認識されはじめている。
それは、そのひとつまえの段階である「合理性段階」(Orange)を構造的に凌駕する段階というよりは、むしろ、それは僅か半歩超えたところに発現する移行的な段階として位置づけられる方が相応しいと思うのである。
その意味では、高次の発達段階というものは、それが発現してしばらく時間が経過して、その思考や発想や洞察がある程度翻訳・紹介されたあときに、明確に定義できるものになるという特性があるのではないだろうか……。

こうしたことを考慮すると、合理性段階以上の諸段階に関して過剰に断定的なことを言うことには慎重である必要があると思う。
たとえば、インテグラル・コミュニティに於いては、いわゆる「Green」を巡る「Mean Green Meme」論争があったが、それなどは、Greenといわれる「段階」の特性を過剰に決めつけてしまうものであったといえるだろう。
そのために、インテグラル・コミュニティの関係者は、今日に至るまで、Green以降の段階を随分と歪曲して理解しているように思う(そういう自分自身もそうで、このあたりの問題に関して意識的に再検討するようになったのは、ここ数年間のことで、Lectica, Incの長期的な講座と測定を受けて、専門のセラピストと対話をできたゆえである)。
また、こうしたことを踏まえると、われわれはあらためて「理解している」と思っている諸々の段階に関して慎重に再検証しておくべきだろうと思うのである。
先日、あるところで耳にした情報では、悪名高いBill & Melinda Gates Foundationも発達理論に興味を示しているということなので、こうした理論がイデオロギーとして悪用されないためにも、多くの方々が目効きになっておくことは非常に重要である。
特に、こうした理論が容易に優生学的に解釈され悪用されてしまうことを鑑みれば、尚更のことである。