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「適応主義」の危険性:「ティール」の「病理」?

「Teal」という概念が紹介され、ひろく知られるようになる中で、その背景にある「成人発達理論」に対する関心が高まりをみせている。
個人的には、これは非常に歓迎すべきことだと思っているのだが、同時に、こうした理論や概念が実際に社会の中でどのように解釈され、運用されているのかを眺めると、非常に懸念させられるところもある。
いうまでもなく、ここ20年程のあいだ、こうした概念の一般化に中心的な役割を果たしたのは、ケン・ウィルバーを中心とした合衆国のインテグラル・コミュニティの関係者であるが、正直なところ、発達という概念に関して、総じて慎重さを欠くところが散見されるように思えてならない。
個人的にとりわけ心配するのは、そこに「発達」や「成長」を無条件に善なるものとして位置づける態度がぬきがたく息づいていることだ。
そうした態度は、また、人間をとりまく生存環境が変化すれば、それに応じて変化をできることを無条件に肯定する適応主義的な発想としても顕在化している。
「人間の生存環境は刻々と変化しており、われわれはそれに適応しつづけることを求められる」という発想は、そのまま「真に生存する権利をあたえられているのは、そうした生存環境の変化に機敏に適応しつづけることができる者だけである」という発想に繋がる(換言すれば、そうした能力を持たない者達は滅びても仕方がないという発想である)。
もちろん、こうした適応主義的な発想は、ケン・ウィルバーの著作に於いては、右下象限の価値観である「機能的適応」(functional fit)の絶対化として糾弾されているのだが、実際の実務領域に於ける応用時には、そうした警鐘は半ば完全に等閑にされ、「発達」や「成長」を美化し奨励する風潮を醸成している。
以前にも紹介したが、発達心理学者のZachary Steinは、Blog記事の中で、現在巷で「レジリエンス」(resilience)という言葉が注目を集め、多くの人達がそうした「資質」や「能力」を測定したり、鍛錬したりすることに夢中になっていることに警鐘を鳴らしている。
そこでは、「そのような能力を涵養することを万人に要求する社会が果たして健全な社会といえるのか?」という問いが完全に忘れ去られ、ただひたすらに「生き残るために」「勝ち残るために」要求される能力を獲得することに我を忘れる「大人達」の姿が露わにされているのである。
そこでは、そうした風潮そのものが、真に受容されるべきものなのか?、また、それがいかなる意図や力学にもとづいて生み出されているのか? ということに対する問題意識が欠けているし、また、自らがそうした風潮に順応して前向きに努力をすることの結果として、将来世代にどのような社会を遺していくことになるのかということに関する内省が完全に欠如している。
「Green」や「Teal」といわれる高次の発達段階はいわゆる「システム思考能力」を発揮する段階といわれる。
成人発達理論に触発【インスパイア】された多くの人々は、これらの段階をめざそうと決意をするが、そこで先ず冷静に考える必要があるのは、現代を生きるわれわれが「レジリエンス」をはじめとする能力を獲得しようと懸命に努力をすることで、それがどのような社会を生み出すことにつながるのかということだ。
実際のところ、そうした問いを発することこそが、われわれが獲得しようとしている「思考能力」を発揮することそのものでもある。
自己の行動そのものが世界にあたえる影響に留意して思考・行動するのが、後慣習的な段階の特徴である。
それを真に獲得しようとするのであれば、こうした倫理的な問いを発することを回避することはできないはずなのである。
また、もう少し踏み込んで考えるならば、現在、集合規模で展開していると喧伝される諸々の生存環境の変化に関しても、それを所与の条件としてとらえ、それに適応するに夢中になるのではなく、先ずはその性質について批判的に検討すべきであろう。
たとえば、つい先日まで世界中で「常識」として人々により受容されてきた「グローバリゼーション」(Globalization)という概念でさえ、その信頼性そのものが揺らぎはじめている。
少なくとも、それが多国籍企業をはじめとする超国家的な勢力による惑星規模の収奪を正当化する「イデオロギー」としての側面を内包していたことは――よほど洗脳されているのでなければ――明々白々である。
そうした概念が、どのような意図や思惑にもとづいて、どのような利害関係者により用意され、拡散されているのかということについて深く考えることなく、単にその影響下で醸成された「空気」に適応することに腐心するだけでは、そこにある機械の歯車のひとつに堕すだけである。
あたえられた状況に前向きに適応することをとおして、知らず知らずのうちに自分自身がいかなる社会の創造に貢献することになっているのかという問いを不問に付してしまうのである。
全く同じことが、今、巷で口にされはじめている「ポスト・コロナ社会」("post-COVID 19")という言葉に関しても言えるだろう。

しかし、非常に残念なことに、極々少数の関係者をのぞき、現在のインテグラル・コミュニティの関係者は、こうした適応主義的な発想に深刻なまでに絡めとられているように思われる。
また、非常に悪いことに、「こうした劇的な生存環境の変化に迅速に適応できることこそがGreenやTealの特徴である」という「物語」を不用意に口にしている。
そこには、正にSteinが批判するように、「自らが適応しようとしている生存環境がいかなるものなのか?」(「それは真に適応に値するものなのか?」「また、そうでないなら、現在、喧伝される構想に対していかなる批判をくわえ、また、いかなる対案を示すべきなのか?」)ということに対する問いかけが完全に欠落しているのである。

こうした状況を眺めると、われわれはあらためて「発達理論」なるものについて勉強をすることが、果たしてわれわれの成長を促進してくれるのかどうかということについて考え直さなくてはならないと思う。
また、長年にわたりインテグラル理論を学んできた人々がこれほどまでに無防備にあたえられた「現実」に呑みこまれていること――それに迅速に適応することこそが成熟の証であると信じていること――を鑑みると、この理論の根本的なところに重大な問題が隠れていることを疑わなければならないのではないかと思う。

少なくとも、現在の状況が示しているのは、インテグラル・コミュニティの中で「インテグラル」(Teal)的であることを標榜していて活動を展開している人々が悉くそれに失敗しているということだ。
「インテグラル」(Teal)であるとは……ができることである――と訓えられてしまうと、逆にそれに囚われ「斯くあらねば」と思い込んでしまい、自由な思考を妨げられてしまうのである。
それはある意味では「型」の罠といえるが、少なくともわたしが理解している範囲では、そもそも発達理論とはそのような「型」として利用されるべきものではない。
「型」として機能するためには、その枠組はあまりにも抽象的であり、また、粗雑である。
また、そもそも「段階」という概念は「規範的」(normative)なものとして「処方」されるものではないと思う。
何よりも重要なことは、個人の能力(可能性)が最も自然な形態で発揮されることであり、そのようにして発揮された結果を客観的に把握するための道具として、こうした理論があるのだと思う。
また、もし処方的な立場から活用するのであれば、たとえばLectica, Inc.がVirtuous Cycle of Learningという概念で示しているように、具体的な「スキル」に焦点を絞る必要があるだろう。
少なくとも、それは――あたかも道徳教育の中で示されるように――「斯くあるべき」という状態を示す理論ではないはずである。
現在のインテグラル・コミュニティの関係者の言動を眺めていると、あまりにも生真面目に「インテグラル」(Teal)的であることに固執するあまり――少し冷静に考えれば、発達理論に準拠して「斯くあろう」とすることそのものが可笑しいのだが――自身が目標として掲げている「像」に含まれていない資質や特徴を無意識の内に排除してしまっているのではないかと思う。
しかし、後慣習的段階に関しては、「この段階の人はこのように思考・行動する」と確定的に言えることなど微々たるものであろうし、そのように拙速に決めつけることで、人間の可能性を恣意的に狭めてしまうことになってしまうのではないか……

非常に皮肉なことに、もし「インテグラル」(Teal)的であることについて真剣に学ぼうとするのであれば、そうした「言葉」を用いずに――また、そうしたことに関して変に勉強をして自己を雁字搦めにしてしまうことなく――今日の現実と厳然と対峙している――そして、そうした対峙を通して得られた真実を抑制することなく表現している――人を探し出す必要があるのである。