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「シュタイナー × インテグラル理論〜新時代の教育対話〜」に参加させていただいて

今日の午後は「シュタイナー × インテグラル理論〜新時代の教育対話〜」と題された今井 重孝さんと後藤 友洋さんが登壇したイベントに参加させていただいた。
優れた教育者の方々が指摘されるポイントというのは、その基盤となる思想的・理論的な背景に拘わらず、しばしば共通している。
それは、一言で言えば、人間が自然に付与されている成長・発達のリズムやペイスを尊重することの重要性である。
端的に言えば、効率性を半ば盲目的に追求する今日の時代精神がいかに愚かしく、また、危険なものであるのかということを厳しく指摘するのである。
「発達はゆっくりであるべきだ」と主張したのは、発達心理学者のジァン・ピアジェであるが、その警告を無視し、大量の人口肥料を投下して――また、同時に、深刻な害悪をもたらす大量の食品添加物を混ぜ込んで――成長や発達を効率化させるために全力を投じているのが現代社会といえるかもしれない。
今日の登壇者の話を伺って非常に納得したのは、われわれの社会が、ルドルフ・シュタイナーの「7年周期説」の第2期(7〜14歳)の重要性に関する理解を徹底的に欠いているということだ。
この期間は権威に対する純粋な尊敬の念を育む期間と解説されるが、換言すれば、それは、自己の存在を超えた「高いもの」「深いもの」の存在と出逢い、それに対する憧憬や畏敬を覚えることができるようになると共にそれを体現する存在を尊敬するための能力を涵養する期間ということができよう。
そして、こうした鍛錬をしっかりとすることで、人間ははじめて他者を独自の内的な世界を有した未知なる存在として認識し、その世界に敬意をはらい、また、その世界を傾聴することができるようになるのである。
今、巷では「傾聴」の重要性が訴えられているが、それは単なる「スキル」に還元できるものではなく、こうした人格形成のプロセスの初期に確立された感覚や感性に根差すものといえる。
たとえば、味覚の無い人は砂糖を舐めてもその甘さを感じることができないように、こうした感覚を欠いている人は、他者を尊敬や尊重や傾聴の対象として感じることができない可能性があるのである(もちろん、何等かの治癒的な活動を通して、ある程度の是正はできるだろうが……)。
それでは、こうした感覚の開発を阻害する要因は何であろうか……?
今日、講師の方に訊いたところでは、早すぎる議論(debate)がそれにあたるという。
即ち、意見交換というものを、真に相互理解の機会として活用・満喫できるようになるための準備が整わない段階でそうした活動をさせられると、意見交換というものを単なる「勝つ」ためのゲームとして認識してしまうことになる危険性があるということだ。
自己の意見を確立するというのは、実は一般的に考えられているよりもずっとずっと難しいことだ。
そのことを理解せずにあまりにも早い段階で他者と議論をさせられると、結局は、借りてきた意見や情報を自分のものと勘違いして主張することになってしまう。
また、単純に議論に勝つことが求められるときには、そうした偽りの意見を強引に主張することを覚えてしまうことになる(それが会話の本質であると錯覚してしまうことになる)。
会話が単なる「technique」を駆使する場所に成り果ててしまうのである。
しばらくまえに「東大話法」という概念が注目を集めたが、そこで分析されている「エリート」といわれる人々の話法の特徴とは正にこうしたものだといえる。
結局のところ、その口から出る全ての言葉が借りものであり、また、言葉は「勝つ」ために利用されるべき道具に過ぎないために、言葉は徹底的に愚弄される。
そのサイコパス的な振る舞いは正に第2期を健全に送ることを阻まれた人々の歪みを端的に示しているのであろう。
もちろん、彼等はあくまでも氷山の一角に過ぎない。
今日の教育制度は、彼等のような少数の東大話法の「熟練者」だけでなく、二流・三流の習得者を膨大に生み出している。
自己の存在を超えた「高いもの」「深いもの」の存在と出逢い、それに対する憧憬や畏敬を覚えることができると共にそれを体現する存在を尊敬する能力をそなえていること――こうした条件を欠落させている人間を大量に再生産する社会は正に狂気の社会といえるだろう。
また、そうした「高いもの」「深いもの」を隣人の中に見出すことができない人間が多数派となる社会に於いては、同胞意識は消失し、格差は――たとえそれがいかに苛烈なものになろうとも――所与の条件として受容され、虐げられた人々に対する慈悲は根絶やしにされるであろう。