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「飢餓感」を忘れた時代

「音楽」
小澤 征爾&武満 徹
https://www.shinchosha.co.jp/book/122803/

 

しばらくまえにパラパラと眺めたのだが、今でも記憶しているのは、この二人の音楽家が共に音楽を真に理解するための条件として「飢餓感」を挙げていることだ。
二人は、終戦後の混乱期に芸術に対する渇望感を抱えながら、劣悪な条件下で必死になって音楽に触れるための機会を求めていたことを思い出しながら語っているのだが、これは真に本質を衝いた意見だと思う。
確かにこの数箇月の間は例外的な状態が続いているが、基本的には現代は芸術が巷に溢れている状態にあるといえる。
少なくとも、ある程度、資金と時間に余裕があれば、一級の芸術に触れる機会は豊富にあたえられている(特に東京では)。
しかし、正にそうであるからこそ、われわれは「飢餓感」を忘れてしまっているのではないだろうか……。
たとえば、いわゆる「批評家」や「評論家」といわれる人達のスケジュールを聞くと、年間に数百回の演奏会を聴いているというが、こうなると、「飢餓感」を覚えることは不可能であろうし、また、その感性は常に飽和し鈍化した状態に陥っているはずである。
端的に言えば、毎日のように豪勢な高級料理を食べている者はその素晴らしさは判らないのである。
そうなると、余程自身の感性を保つための実践を有しているのでない限り、一般の鑑賞者との感性的な乖離は甚だしいものとなり、その心を打つ文章は書けなくなる。
その意味では、今日の飽和状況の中で真に優れた感性を維持しながらプロの「批評家」や「評論家」と活動していくのは恐ろしく難しいことなのではないかと思うのである。
また、実際のところ、そうした「批評家」や「評論家」は実質的に絶滅状態にあるといえる。
もちろん、そうしたことを認識してのことであろう、あたらしい世代の執筆者の多くは「批評」や「評論」を書くことに早々と見切りをつけて、「情報」や「分析」を読者に提供することを自らの役目と割り切って活動をしているようにも見える。
しかし、たくさんの情報に裏づけられた「客観的」な文章というのは、窮極的には、検索をすればウエブ上に見つけることができるようなものに限りなく近づいていくことになる。
往々にして、執筆者が「勉強熱心」になればなるほど、その文章は匿名的なものになり、異論は唱えられにくくはなるが、存在価値は希薄なものになるのである(例えば、商品の広告文や解説文は、執筆者の署名を必要としないが、そういう文章になり果てるのである)。
結局のところ、こうした趨勢の先にあるのは、自己の存在意義を消失することでしかないのではない。

われわれが、「この人の文章は読むに値する」と思うときに、そこで何を直感的に把握しているのかと言えば、それは、そこに書かれている文章の背景に著者の独自の価値観や世界観が存在していることなのである。
読者の中には、自らの価値観や世界観そのものを深化させたいという欲求があるので、そこに書かれている個々の主張の「善し悪し」だけでなく(例:それに賛同できるか否か)、それを生み出している著者の中に継続的につきあい理解を深めるに値する独自の価値観や世界観が存在しているのかどうかを判定しようとする感性が常に働いている。
しかし、執筆者が自分は積極的に情報の紹介者に過ぎないと割り切ってしまい、 自らの価値観や世界観にもとづいて敢えて「独善的」な言葉を吐くのを止めてしまえば、そうした読者の欲求には全く応えられなくなる。
実際、そうした意味に於いては、今、われわれ一般読者は非常に寂しい状況の中に置かれている。

今日、優秀な人は、たくさん勉強をして、たくさん情報を収集し、また、それを整理して紹介するところまではできるのだが、そのプロセスの中で自己の「声」を育てるということを忘れたり、「声」そのものを捨てたりしているのではないだろうか……
あるいは、情報を集め尽くしたその先に「声」が生まれるという幻想に憑かれているのかもしれない。
いずれにしても、今われわれが「飢餓感」を覚えにくい時代を生きていることと表現者が自己の「声」を見つけることに非常に苦労していることのあいだには密接な関係があるような気がする。