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マーティン・スコセッシ監督の作品

このところ、時間を見つけてマーティン・スコセッシ(Martin Scorsese)監督の作品を観ている。

 

https://www.imdb.com/title/tt1130884/

 

公開されてからもう10年が経過しているのだが、ようやく観ることができた。
一般的には、同監督の作品群の中では「失敗作」の中に位置づけられているようだが、個人的には、これは深読みをすればするほど面白い作品だと思う。
単なるスリラーとして観てしまうと、結末は少々「ありきたり」だが、主人公の「妄想」として退けられている諸々の情報は、たとえばナオミ・クラインが『ショック・ドクトリン』の中で膨大な調査にもとづいて裏付けているところでもあるので、そのことを考慮すると、むしろ、結末の「どんでんがえし」は、そうした危険は情報にアクセスをした人間を「狂人」として葬り去る「手法」を開示していると解釈することもできるように思う。

この作品に触発されて、個人的に大好きな同監督の『ケイプ・フィア』(Cape Fear)をあらためて観てみたのだが、20年程前に同様の主題をとりあげていることを発見して、少々驚いた。


https://www.imdb.com/title/tt0101540/?ref_=ttfc_fc_tt

 

即ち、その主題とは「意識の蹂躙」(Mind Rape)である。
Cape Fearでは、蹂躙の対象となるのは、ジュリエット・ルイス(Juliette Lewis)演じる(名演!!)主人公の娘だが、ソウル・バス(Saul Bass)とエレイン・バス(Elaine Bass)による冒頭のタイトルからして、その血生臭い倒錯的な映像は、正にこの作品の本質である悪魔的な特性を象徴していると思う。
また、『ケイプ・フィア』の場合には、心理学的な視点を通して鑑賞しても面白く、「悪役」として登場するロバート・デニーロ(Robert De Niro)の存在は、正に主人公の「影」(the Shadow)そのものが顕在化したものとしてとらえることができるだろう。
意識から排斥され、膨張して凶暴化したものが、「平和」な日常を恐怖のどん底に突き落とすのである。
また、この作品のもうひとつの着目点は、「悪魔的なもの」の襲撃に遭い、完全に混乱状態に陥り、その関係に修復しがたい亀裂を生じさせていく両親の姿を目のあたりした娘の心の動揺と変容である。
最終的には両親はこの事件について口をつぐむことを「決意」することになるが、それは、それまでに自己を庇護してくれた者達が実は現実の凶暴性の前では無力であることに子供が気づく契機でもある。
日々の平穏に裂けて、そこから現実(reality)が侵入してきたときに、それから目を背けようとする庇護者の姿に晒されることで幼い心は目覚めていくのである。
その意味では、庇護者の「敗北」が若い魂の目覚めを促すのだといえるかもしれない。
そこには悪魔の関与が必須となるのである。

 

https://www.imdb.com/title/tt0993846/

 

この作品は2013年に公開されたので、既に6〜7前の作品ということになるが、ようやく観ることができた。
これは素晴らしい作品だ。また、レオナード・ディカプリオ(Leonardo DiCaprio)の最高の演技が記録された映画だと思う。
実は個人的にはこれまでどの作品を観てもこの俳優の演技にあまり共感を覚えることができなかったのだが、この外連味ある演技には実に感心した。
内向的な雰囲気を湛え、また、頭のいい俳優なので、むしろ、それとは対極にあるこうした人物を描く方が、俳優としての魅力が「隠し味」として際立つのではないだろうか……
スコセッシの演出も見事で、特に主人公が正に「自己啓発講座」のカリスマ的なスピーカーのような物言いをはじめ、従業員を催眠に掛けていくシーンなどは、そうした催眠に呑まれていくことの倒錯的な快感を見事に描いていると思う。
金と富の幻想に耽ることを通して全能感を一気に肥大化させることができたときの熱狂と陶酔がありありと伝わってくる。
また、最後の「エピローグ」的な場面では、セミナーの発表者として登壇した主人公の視界に写る聴衆の姿は、そうした幻影に憑かれて、現実感覚を喪失した夢遊病者としての現代人の姿そのものであるようにも思われる。
そうした聴衆を眺める主人公の視点は、激動のドラマを生き、そこで「墜落」(fall)を経験した者に典型的な醒めたものであるが、ひとつの部屋の中に集うた主人公と聴衆を隔てる心理的な隔たりがあまりにも大きなものであることに愕然とする。
作品を通して、主人公は一貫して「略奪者」として自己を完成させていくが、「夢」にとり憑かれた聴衆の純粋なまなざしは、そうした者に変容するための「参入の儀式」(initiation)を控えた「信者」であり、「生贄」でもある人間の姿に見えてくる。
ここにも意識を蹂躙された変貌を遂げた者達の姿が活写されている。