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雑感・商品としての感情と人格

5月31日
『管理される心:感情が商品になるとき』
A. R. ホックシールド 著
https://sekaishisosha.jp/book/b354579.html

先日、紹介してもらい、ピンと来たので、早速近所の図書館でとりよせてみた。
パラパラと眺めてみただけではあるが、非常にいい内容で、同じような問題意識を発達心理学者のZachary Steinが著書の中で表明していたことを思い出した。
現代という社会は、個人の心を商品化する社会であるといえる。
経済活動に於いて、われわれは単に時間や能力だけではなく、われわれの心を自己の商品価値を支える重要な要素として位置づけて、それを「売る」ことを求められる。
しかし、そのように「売り物」として見做された瞬間、それは自己の中で「分離」してしまい、「自己の一部であるにも拘らず、自己の一部ではないもの」として道具化されてしまうことになる。
端的に言えば、顧客に対して向けられる「配慮」や「笑顔」は、経済的な取引を円滑に行うための道具と化してしまうのである。
もちろん、そうしたサービスをあたえる方も受ける方もそのことを認識している。
しかし、たとえそうではあっても、それは「とりひき」に於いて求められつづけるし、また、社会が「進化」する中で個人に対して衝きつけられるこうした心理的な要求の度合いは高まることになる。
今日に於いては、単に感情的な犠牲を払うだけでなく、自己の人材として商品価値を高めるために、能力を高め、また、さらには「価値観」や「世界観」や「人間力」といわれる人格の基盤にあるものそのものを鍛錬するように求められる。
端的に言えば、人間の全存在が経済的な活動の中で価値を生み出すための道具として見做されるようになっているのである。
先述のSteinは、こうした文脈の中で発達理論をはじめとする心理学が利用されることの危険に対して警鐘を鳴らしているのであるが、Arlie Hochschildは社会学者として異なる視座からこうした問題を探求している。
また、現代社会のこうした病理に批判的な眼差しは、思想家のケン・ウィルバーが「フラットランド」(flatland)という概念で示しているところでもあるが、いわゆる「後慣習的段階」の認知にもとづいているといわれる諸々の思想や理論には、こうした問題意識が必ず息づいているし、また、その有無が一種の試金石になると思う。

 

6月2日
昨日、久しぶりに書店(誠品生活日本橋)を訪れたのだが、あらためて書店というのは贅沢な空間なのだなぁ〜と思った。そして、また、雑誌や書籍というものの存在価値について考えさせられた。
単純に情報を得るという意味では、こうした紙媒体はWEBに太刀打ちできない。リアルタイムに「検閲」されない生情報にアクセスできるこの時代において、その存在価値はどこにあるのか……? 充実した書店の棚を眺めながら考えてしまう。
もう少し具体的に言えば、これだけ「情報」に対するアクセスがしやすくなった時代に於いて、消費者が金を払いたいと思う価値が雑誌や書籍に籠められているのかということだ。
たとえば、雑誌の棚を眺めていると(特に政治関連の雑誌)、実に綺麗に「右」と「左」の雑誌が棲み分けをして並べられているが、こうした構造の中でそのどちらも言及しようとしないことが膨大に存在することに気づいてしまうと、その光景があまりにも退屈なものであることを思い知らされる。
その意味では、現在の出版界そのものがあらかじめ用意された棚の欄に大人しく納まる形態で整理・包装されたものばかりを商品として送り出しているのではないだろうか……と思わざるをえないのである。

 

6月2日
ドイツのバンドTangerine Dreamのメンバーが一新されたとは聞いていたのだが、たまたま年明けに新体制で制作されたアルバムを視聴して、一瞬でファンになってしまつた。
1980年代に彼等がPrivate Labelに移籍した頃にその音楽を聴きはじめたのだが、初期の作品も含めて、正直なところ、創設メンバーの音響にあまり馴染めずにいた。
特に音響の中に常に鉛の固まりのような「重さ」が漂っていて、それが音楽を過剰に濁らせているような感覚がしたのである。
しかし、新メンバーの奏でる音楽にはそうしたものがなく、爽やかな透明性が息づいている。
ということで、今は新メンバーとして加わったUlrich Schnaussのアルバムを買い求めて聴いている。
いわゆる「エレクトロニカ」といわれるジャンルの作品になるのだが、この世代の作曲家の音楽を聴いていると、ほんとうに「クラシック」と「ポップス」の境界が希薄になっていることを実感する。
同世代のMax RichterやJohann Johannsson等の作品を聴いていても感じることだが、「現代」の作品が、ある意味では、これまでのクラシックの伝統がいったん終焉したところに生み出されているものであることを痛感する。
音楽としてのベクトルがこれまでの伝統的なものと変わっているように思われるのだ。
演奏会で耳をそばだて集中して聴く音楽というよりは、他の作業をする中でそこに環境音楽として鳴るような音楽であることを積極的に受容している音楽という気がする。
これまでの音楽を支えていた「深み」とは決別しているので、そこにどれほどの価値があるのか……とも思うが、しかし、正にそれこそが現代の価値でもあるのだろう。